歴歩

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桑下城跡/瀬戸市 15世紀後半に造られた曲輪を発見 現地説明会1/24に開催

2009年01月22日 | Weblog
 桑下城跡の今年度の調査で、多くの曲輪や、曲輪からは番小屋や庭園を確認した。
 その発掘調査で見つかった遺構の説明と見学、出土遺物の展示が1月24日に現地説明会として開催される。
 今回調査した部分は、丘陵を切り込んで造成された曲輪、防御を基本とする曲輪で在地領主の元々の城であったらしいみられ、その後大規模に改修して巨大な堀と土塁で防御を固めた本丸部分を造成したものと考えられるとする。
 本丸周辺は永禄元年(1558)以前に造成されたらしい。
現地説明会
 日時:1月24日(土)午前10時40分より正午まで、場所:桑下城跡発掘調査現場(瀬戸市上品野町地内)
[参考:1/16中日新聞、愛知県埋蔵文化財センター、愛知県記者発表資料]

桑下城
 瀬戸市の北東部、水野川と蟹川に挟まれた標高210mの丘陵に立地する平山城。規模は東西約220m、南北100m。
 南東約700mに品野城があり、品野城が詰めの城(戦闘時の城)であるのに対して、桑下城は館城(平時の城)といわれる。
 応仁の乱(1466-67)の際、東軍に属して敗れた美濃国異安八郡今須城主長江利景(永井民部少輔)が尾張国春日井郡科(品)野の地に逃れて落合城(瀬戸市落合)に入り、後に築いた城とされている。
 文明14年(1482) 長江利景は今村城主松原広長と戦い勝利を収め、瀬戸市一帯を手中にする。
 享禄2年(1529) 松平清康(1511-1535、徳川家康の祖父)によって品野郷が支配される。叔父の松平信定(?-1538)に与える。松平信定は品野城主となり、桑下城主永井民部は松平信定に服属する。
 天文4年(1535) 松平清康死に伴い内紛が起きる。松平清定(信定の子)、品野から引き上げる。
 弘治3年(1557) 今川氏が品野城を管轄する。
 永禄元年(1558) 松平家次(?-1563、信定の孫)が派遣され、織田氏との間で戦いが行われる。
 永禄3年(1560) 桶狭間の戦いの前哨戦として、落合城や品野城とともに織田信長81534-1582)の攻撃を受けて焼失し、廃城となる。
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伊勢国分寺/鈴鹿市 七重の塔の鬼瓦?が出土 本年度発掘調査現場の現地説明会1/24に開催

2009年01月22日 | Weblog
 鈴鹿市考古博物館が進める国史跡「伊勢国分寺跡」(同市国分町字堂跡)の本年度の発掘調査現場(博物館隣接地)を、24日午前10時から一般公開し、担当者が説明する。
 昨年7月から、塔院の可能性があると想定される「小院」と呼ばれる塀で囲まれた場所で鬼瓦が見つかった。「これまでの調査で見つかっていなかった七重の塔の可能性もある」という。
 ほかに、講堂の基壇を調査し、台形塼からなる基壇化粧(外装)の基底や、階段の基礎部分が確認されている。
[参考:中日新聞、鈴鹿市考古博物館HP]
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薬師の森遺跡/大野城市・ 算盤玉形の陶製紡錘車出土

2009年01月22日 | Weblog
 大野城市教育委員会は21日、「薬師の森遺跡」(同市乙金)で見つかった古墳時代後期(6世紀中ごろ-7世紀初頭)の集落から、朝鮮半島の特徴をもつ国産の「算盤(そろばん)玉形陶製紡錘車」が出土したと発表した。
 紡錘車は、そろばん玉の形で、直径約3・5cm、厚さ約2cm。同形のものが朝鮮半島で出土しているが紡錘車に縦筋が多くみられることなどから、国内で作られた可能性が高いという。
[参考:産経新聞]
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奥州市・道上遺跡 「字(あざ)」を記した最古の木簡が出土

2009年01月21日 | Weblog
 岩手県埋蔵文化財センターが20日発表、地名を示す「字」を記した国内最古の木簡が10世紀(平安時代中期)の道上(どうのうえ)遺跡(奥州市前沢区白山)で発見されたと発表した。
 紙に記述した例も含め五指に入る古さ。「字」は、古代の土地制度である条里制から生まれたとされ、これまでに確認された使用例は近畿地方が大半だった。同時代、既に岩手県でも近畿周辺と同様の課税が行われていた可能性もあり、当時の統治状況などを考えるのに重要な資料になるという。
 同センターなどによると、「字」を記した木簡は江戸時代の例があるだけで珍しい。紙に記した例では、844年に現在の大阪府の寺に関する文書で用いたのが最古だが、多く見られるのは道上遺跡と同時期の10世紀以降だという。
 木簡は長さ約46cm、直径約4cmの棒状。2007年度8月に発掘され確認された120本の木柵の杭の1本で、転用され湿地だったため、保存状態がよく残存した。
 滑らかに削られた表面に、漢文体で40字以上の文字が縦書きに6列、「禁制田参段之事 字垂楊池」(3段=約30アールの水田に関する禁止事項。田は字垂楊(たれやなぎ)池の)などと記されていた。材質はかえでの木とみられる。
 禁止事項を記した「禁制木簡」は、兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)遺跡で出土した2点だけで3例目。腐食で後半は読み取れない文字が多いが、解読の結果、蝦夷の農民とみられる「公子廣守丸」が平安京の貴族に寄進した字垂楊池の水田だとして、無断で耕すことを禁じ、掲示していたとみられる。
 志波城や胆沢城が築城された9世紀から安倍氏が統治する11世紀までの間、資料がほとんど見つかっておらず、当時の統治状況は分かっていない。当時の課税状況を探る重要な資料になるという。
 木簡は24日に盛岡市内丸の県民会館で開かれる「第31回埋蔵文化財公開講座・第11回遺跡報告会」の会場に展示する。連絡先は県埋蔵文化財センター。
[参考:河北新報、岩手日報、毎日新聞、朝日新聞、共同通信]

木簡に地名に付ける「字」 岩手、平安中期で全国初(共同通信) - goo ニュース
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山口市・龍福寺本堂 大内氏邸宅の存在裏付ける出土品

2009年01月20日 | Weblog
〇背景
 山口市教育委員会は昨年1月に、山口市大殿大路の国指定史跡「大内氏館跡」について、第34次の発掘調査を本格的に開始した。
 同館跡に建つ国指定重要文化財「龍福寺本堂」が、文化庁などにより解体修理されるのを機に実施するもので、過去に手つかずの場所が掘り返される。大内氏館は、大内氏の当主が暮らした居館。江戸時代に描かれた「山口古図」には1360年(延文5年)に設置されたと記されているが、裏付ける遺構などは、見つかっていなかった。
 また、龍福寺は、大内氏が滅亡した1557年(弘治3年)、毛利隆元が大内義隆の菩提寺として大内氏館があった場所に建立。1881年(明治14年)の火災焼失後、大内氏の氏寺である興隆寺(山口市大内御堀)の釈迦堂を移築し、これが現存する本堂となっている。
〇発掘調査結果
 大内氏の邸宅があったとされる龍福寺本堂の発掘調査を進める山口市教委は15日、遺構から柱の跡とみられる穴や食器とみられる土器を発見したと発表した。16世紀半ばの大内氏滅亡まで約100年間、邸宅が存在したとする文献の史実を裏付けるものとする。
 市教委は老朽化した本堂の解体修理工事に合わせ、08年1月から発掘調査に着手。その結果、現在の地層から約60cm下に、直径15~30cmの穴が10個、約9mにわたり水平に並んでいるのが見つかった。形状から柱を打ち込んだ跡とみられる。また、同じ地層からは、16世紀のものとみられる土師器皿も見つかった。京都風の茶色がかった様式で、京文化に傾倒した大内義隆(1507-1551)が当主の時代ではないかとみる。また、深さ約50センチの地下から17世紀後半~末頃の陶磁器が新たに見つかった。
 旧本堂は、文献では1557年か1572年に建てられたとされており、大内氏が滅亡した1557年直後に建立されたと考えられていた。だが今回の発見で、焼失した旧本堂は江戸時代中期に建立された可能性が高いという。
 市教委は17日午前11時、午後1時、同2時に現地説明会をする。問合せは文化財保護課へ。
[参考:2009.1.16毎日新聞、朝日新聞、2008.1.20読売新聞]
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伊賀市・浅子谷古墳 3号墳と新たに4,5号墳を確認

2009年01月20日 | Weblog
 三重県県埋蔵文化財センターは19日、浅子谷(あさこだに)古墳群(伊賀市三田)で3基の古墳を発掘し、その調査結果を発表した。
 6世紀後半とみられる3号墳(円墳 直径14m)の横穴式石室が、石室に通じる羨道(東に向かって開口)や床に敷かれた石がほぼ完全に残るなど保存状態がよいことが分かった。石室の床には直径30cm前後の石が敷かれていた。
 同古墳群は円墳が3基とみられていたが、今回の調査で新たに7世紀前半の築造とみられる4号墳(直径7m)と5号墳(直径5m)の円墳を確認した。墳丘は失われ、石室の土台部分が残されている。
 3号墳 横穴式石室 右片袖? 長さ4.3m、幅2.2m、高さ2.2m 羨道全長4.7m、幅1.2m、高さ1.4m
   出土品 須恵器杯、ハソウ、土師器椀、高杯、壺、刀子、鉄鏃、ガラス製小玉、琥珀製臼玉など
 4号墳 横穴式石室 長さ3.2m、幅1.2m、高さ1.2m 須恵器杯、土師器が出土
 5号墳 横穴式石室 長さ2.4m、幅0.8m、高さ0.8m 須恵器杯、ハソウ、土師器椀が出土
 同古墳群は山中の分水嶺に位置し、古墳時代に水源を支配していた一族のものと、同教委はみている。
 これらの発掘について県教委は、約1キロ南側にあった古代寺院・三田廃寺(7世紀後半)との関連に注目している。
 24日午後1時半から現地説明会が開かれる。問合せは県埋蔵文化財センター。
[参考:中日新聞、毎日新聞、産経新聞、伊賀タウン情報YOU、三重県埋蔵文化財センター]
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木津川市・馬場南遺跡 現地説明会 1月17日

2009年01月19日 | Weblog
1月17日現地説明会を開催 1300人が参加
 現地説明会は当初3回の予定だったが、来場者が多っかったため5回に増やしたとのこと。
 出土遺物の中には、既報の物のほかに、通貨(満年通寶、和同開珎)それに碁石(黒)、下駄などがある。
[参考:京都新聞]

木津川市・馬場南遺跡 奈良期の未知の寺院跡・神雄寺?を発見
 京都府埋蔵文化財調査研究センターと同市教委が13日、全国3例目の万葉歌木簡が出土したJR木津駅の南約1km地点の木津川市木津の馬場南遺跡の発掘調査で、文献に登場しない奈良時代中期-後期の未知の寺院「神雄寺」の主要な建造物と池の跡が見つかったと発表した。建物の構造や配置はこれまで全く類例がなく、天皇や大臣クラスの人物が利用したとみられる。

 仏堂跡は、天神山(94m)南側の斜面で見つかった。柱跡や堂内の四隅からは等身大(高さ約160cm)とみられる四天王像の塑像片、信仰対象を置く須弥壇の周りに張り付けていた平瓦が出土した。遺物にはいずれも火災の痕跡があった。
 仏堂は、見つかった5基の礎石(直径約30~50cm)から東西約4・9m、南北約4・5mの規模で、「ロ」の字形に礎石や柱穴が17カ所見つかった。0・9~1・6mの間隔で柱が並んでいたらしい。本来なら、建物の周りの柱の内側に2重の柱で補強する建築様式が一般的だが、仏堂は外回り1周に配置した柱で全体を支えていた。また、背面と正面で柱間が異なっていた。国内では類例がない建築方式を採用していたとみられるが、中国・唐代のうち8~10世紀ごろの遺構によくみられる特徴という。
 その内側に多数の瓦が方形に積み重なっていたおり、中心に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(縦1m、横1・5m)があった。庇を南側に伸ばした入り母屋造りで、堂内の大半を須弥壇が占める特異な構造。須弥壇の地面は周囲より高く、中央に心柱の礎石の抜き取り跡とみられる穴(あるいは須弥山を安置する台座の跡)がある。仏教世界の神山「須弥山」をイメージした構造で、心柱などを囲んで築山状の須弥壇に、山や水を造形した奈良三彩陶器を並べ、周囲に四天王像を配したとみられる。本尊にあたる仏像は見つからず、木像など塑像と違う材質だったために焼失したか、別に移したか、あるいは最初からなかった可能性もある。
 塑像片は百数十点出土。髷、甲冑を着た胴体部、邪鬼の一部などがあり、そのうち目の部分の破片は出土位置から、須弥山の北東に配置される四天王像の一つの多聞天の一部とみられる。四天王は通常、本尊を守護する存在だが、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「須弥山を祭る小寺院だった可能性もある」とする。
 仏堂南側の谷では、約100mにわたり川を堰き止めた池跡が見つかった。池のほとりでは仏堂前に造成されたテラス状の平地(東西最大30m、南北25m)に掘っ立て柱の建物跡があった。中軸線や向きが仏堂と一致し、東西8・1m、南北4・2mの礼堂(らいどう)跡とみられる。
 池は760年ごろに一度は埋まり、直後に掘り直されて780年代まで存続した形跡がある。これまでに周囲で8000枚以上の灯明皿が出土し、大規模な法要の燃灯(ねんとう)供養が行われたとみられる。三彩陶器や、「神雄寺」と書かれた土器、天皇や大臣クラスの存在を表す「大殿」と記された墨書土器、万葉木簡も出土している。
 調査した木津川市教委は「大規模な燃灯供養を行う特殊な装置としての神雄寺の存在は、学問中心の平地寺院や修業を中心とした山岳寺院と異なる。儀式や法要専門の寺院だった可能性が高い。」とし、今までの古代寺院・仏教観を一変させるという。
 奈良時代中期に聖武天皇がたびたび延命供養を行っていた
 橘氏など当時の高級貴族の氏寺だった
 文献に記述がないことから天皇とは考えにくく、一時期に権勢を誇り、その後「反逆者」として処刑されたり失脚した人物の氏寺だった
   橘諸兄(もろえ)あるいは諸兄の長男、奈良麻呂などでは、
など専門家の間でも諸説入り交じる。
 市教委は国の史跡指定を目指す方針。
 発掘現場は17日午前10時から午後3時まで公開する。午前10時半、午後1時半、2時半に説明会がある。
出土遺物は同日、木津川市役所で展示される。問合せは市文化財保護室。
[参考:京都新聞、産経新聞、時事通信社、読売新聞、毎日新聞]
奈良中・後期の山林寺院=万葉木簡発見の馬場南遺跡-京都(時事通信) - goo ニュース
「幻の神雄寺」に手がかり?塑像片出土…京都・馬場南遺跡(読売新聞) - goo ニュース

2009.1.10掲載分
木津川市・馬場南遺跡 現地説明会 1月17日
昨年10月に出土した遺構・遺物に関しての現地説明会が開催されます。
 平成21年1月17日(土)午前10時30分~午後3時
 京都府木津川市木津糠田の発掘調査地 *小雨決行
 遺物展示会場:木津川市役所内ホール
[参考:京都府埋蔵文化財調査研究センター]

2008.10.22掲載分
木津川市・馬場南遺跡 万葉歌記された木簡が出土 奈良中・後期 3例目か
 京都府府埋蔵文化財調査研究センターが22日、万葉集に収録された歌が書かれた木簡の一部が木津川市の馬場南遺跡(旧・文廻池遺跡)から出土したと発表した。
 万葉歌が記された木簡は、滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡と奈良県明日香村の石神遺跡に続いて3例目となる。
 今回発見された木簡は奈良時代中・後期の750~780年のものとみられ、時代が新しい木簡となる。
 木簡の一部は、川の跡から土師器などの破片とともに見つかった。長さ23.4cm、幅2.4cm、厚さ1.5cmで、歌を記すための通常の木簡より一回り大きい「歌木簡」(全長推定60cm)とみられる。墨を使い万葉仮名で「阿支波支乃之多波毛美智」(あきはぎのしたばもみち)の11文字が縦書きされ、途中で折れていた。
 同センターによると、記されているのは万葉集巻第10にある、読み人知らずの歌「秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも」の一部という。
 8世紀半ば以降とされる万葉集の編纂後に書かれた可能性があり、大阪市立大の栄原永遠男教授(日本古代史)は「万葉集を写したとも考えられ、歌集がどのように広まったのか解明する糸口になるかもしれない」とする。
 三彩や緑釉で仏教世界の中心にある須弥山などを表現した陶器の破片約50点も出土。仏像の台座「須弥壇」の一部とみられ、直径が150cm、高さが10-15cmあったと推定される三彩陶器や「神雄(尾)寺」などと記した墨書土器、8千枚以上の灯明皿も出土。文献にない未知の寺が近くにあったとみられる。
 現地は奈良時代中~後期の寺院遺跡で、奈良の都の北郊にあたる。古代の木津の港から続く古道沿いで、平城宮や東大寺への分岐点に当たる交通の要衝にあり、専門家は「有力な貴族が関係する山寺では」と注目している。現地説明会は年内に行われる予定。
[参考:時事通信、共同通信、京都新聞、朝日新聞]
8世紀後半の万葉歌木簡 京都・木津川の馬場南遺跡(共同通信) - goo ニュース

万葉集 巻第十 秋雑歌 2205
 秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ゆけば 風をいたみかも
 秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
 [意] 秋萩の下葉が黄葉したことだ。あらたまの月が経過していくと、秋風も激しいからかなあ。

参考として、
万葉集 巻第八 1608 弓削皇子(?~699)御歌一首
 秋萩の 上に置きたる 白露の 消かも死なまし 恋ひつつあらずは
 秋芽子之 上尓置有 白露乃 消可毛思奈萬思 戀管不有者
 [意] 秋萩の上に置いた白露のように消えて死にもしようかなあ。 恋に苦しみつづけていないで。

万葉集 巻第八 1595 大伴宿祢像見(750~772頃活躍)歌一首
 秋萩の 枝もとををに 置く露の 消なば消ぬとも 色に出でめやも
 秋芽子乃 枝毛十尾二 降露乃 消者雖消 色出目八方
 [意] 秋萩の枝もたわわに置く露のように、消えるなら消えてもよい。消えこそすれ色に出すことなどどうしてあろうか。
[参考:「万葉集」中西進(全訳原文付)/講談社]

万葉集の中で、「秋萩」から始まる歌は、 1514,1550,1559,1595,1608,1617,1790,2120,2126,2145,2150,2152,2153,2155,2170,2205,2252,2258,2259,2262,2285,
2290,3656
と、23首ある。
作者が分かっているものは、1514穂積皇子(673?~715)、1550湯原王((志貴皇子?~716)の子)、1617山口女王(生没年未詳だが大伴家持(718~785)に贈れる歌とある)、1790(733遣唐使時)、その他詠み人知らず、但し3656は天平8年(736)の歌で原文は「安伎波疑」となっている。今回出土の秋萩は「阿支波支」をあてている。

[注意:前出・文廻池遺跡出土の奈良三彩そして「神尾寺」と書かれた墨書土器は、同じ場所の出土品で、馬場南遺跡と名称が変更された。
また、神尾寺と書かれた墨書土器は1点以上、神雄寺と書かれたものは3点以上見つかっており、近くに神雄(尾)寺と呼ばれた寺院があったと想像されるとする。]





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朝倉市・中世黒川院関連遺跡群 掘っ立て柱建物跡を確認

2009年01月17日 | Weblog
 朝倉市教育委員会は17日、中世黒川院関連遺跡群(同市黒川)で掘っ立て柱建物跡と木柱約10本が見つかったと発表した。
 同地域は中世の彦山の座主の居館があった地で、昨年は素焼きの犬形と猿形の土製品などが出土し、また居館があったとされる塀の基礎石列が見つかっている。今回はその外側の場所での発見となる。
 13~16世紀の青磁や白磁、土師器、古銭などもが出土した。
[参考:毎日新聞]
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大田市・庵寺遺跡 1号墳 八禽鏡が出土

2009年01月17日 | Weblog
 大田市仁摩町の庵寺(あんでら)遺跡1号墳(直径13mの円墳)は、眼下に潮川河口の小平野と日本海を眺望する丘陵頂部に位置し、庵寺遺跡の古墳群の中心的な存在である。今年度の調査で、横穴式石室(長さ5.5m、幅1.4m、残存高1.3m)を内部主体に持つ古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳であることがわかったが、同時にそれ以前に同所に造られていた古墳(埋葬施設は箱式石棺)を一部改変して造成していることも明らかになっている。
 新聞報道では、「庵寺遺跡で、8羽の鳥の文様が描かれた中国・前漢時代の青銅鏡「八禽鏡(はっきんきょう)」が出土した。八禽鏡は直径9.6cmの円形で、重さ約200g。紀元前1世紀後半に製作されたとみられる。4世紀のものと推定される石棺の中に、3つの破片に壊れた状態で副葬品として納められていた。・・・」などと、八禽鏡のことしか触れていないが、島根県(教育庁埋蔵文化財調査センター)の報道発表資料を見ると、もともと築造されていた古墳(4世紀代)を1-B号墳、それを一部改変して造成した古墳(6世紀後半から7世紀初頭)を1-A号墳と呼ぶようである。となると、この八禽鏡は1-B号墳(4世紀代)の箱式石棺から出土したものである。
 箱式石棺には埋葬された人の頭骨の痕が残っており、その右隅から3つの破片に分かれた(故意に割ったとみられる)鏡が出土した。この鏡は、中国の前漢時代(紀元前206年~紀元後8年)末期に製作されたものらしい。島根県では3面目の出土という。鏡以外には、管玉1点が出土している。
 出土した八禽鏡は『新発見!とっとりしまね発掘速報展』(主催:島根県埋蔵文化財調査センターほか)にて公開される。
  1月21日(水)~2月15日(日)鳥取県立図書館(鳥取市)
  2月21日(土)~3月15日(日)島根県立石見美術館(益田市)
[参考:中国新聞、島根県教育庁埋蔵文化財調査センター、毎日新聞]
[前出]
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金峯山寺(吉野町)・釈迦如来坐像と兵庫県所蔵の天部立像 140年ぶりの対面

2009年01月16日 | Weblog
 金峯山寺(吉野町)が所蔵する釈迦如来坐像(高さ83.2cm)と、兵庫県所蔵の天部立像(高さ169.5cm)が、約140年前には同じ場所に安置されていた可能性が高いことが、奈良国立博物館・鈴木喜博・上席研究員(日本彫刻史)の研究でわかった。構造や表現が酷似しており、同じ作者が造ったと見られる。
 鈴木上席研究員(彫刻史)は「釈迦如来坐像はかつて吉野山にあった寺の本尊だったと考えられる。セットで作られ、一緒に安置されていたが、天部立像は明治時代初期の廃仏毀釈の時に流出した可能性が高い」としている。
 金峯山寺史によると、同寺には廃寺となった周囲の安禅寺や世尊寺などの本尊が安置され、釈迦如来坐像も実城寺の本尊だったとされる。
 昨年、天部立像は足元の腐った部分を同博物館の美術院(京都市)が修理した際、釈迦如来坐像に似ていることに鈴木上席研究員が気付き、下記の共通点が見られたことを確認した。
 目が切れ長で鼻やあごが小さく、目鼻立ちがよく似ている
 撫で肩で背中が反っている
 衣のしわの表現が同じ
 像の底に木を削る範囲を決めるために描いた墨の線がある
 左右にわずかに傾くなどの歪みがある
 一本の木からの丸彫り
 いずれも平安時代初期作

 同館の2体の仏像は5月17日まで、同館本館で展示されている。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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愛媛県・向山古墳 墳丘構築技法が判明 1月17日現地説明会

2009年01月16日 | Weblog
 四国中央市教委は14日、県指定史跡・向山(むかいやま)古墳(同市金生町下分)の第6次調査結果を発表し、墳丘の構築技法などが判明したとする。
 同古墳は古墳時代後期の7世紀前半の構築とされる長方形墳(東西70m、南北46m)。一つの墳丘の中に石室2基が並列に配置されており、同時代の古墳の中では四国最大規模だという。今回、石室横の掘削調査をし、盛り土が50cm前後の層単位になっており、石を積み上げて造られた石室の各段の石の高さと、墳丘の地層の境界がほぼ一致していることが判明し、盛り土で造った作業面に石を置き、石の高さ分だけ盛り土を足して次の石を載せていくという手法がわかったという。
 現地説明会は、明日17日午後1時半から行われる。問合せは同市考古資料館。
[参考:1/15朝日新聞、1/16毎日新聞、1/17読売新聞]
 
備考:
 2006年の発掘調査では、2号石室の全長が14.3m、高さが3.8mで、四国最長の横穴式石室とわかった。1号石室は全長11.4m、高さ2.4mでほぼ完全な形で残っていた。
 2号石室の天井部は20~30トンの大きな石(注1)を数個使用し、地表部で露出しているため「伊予の石舞台」として知られている。
(注1) 1号石室を含めて使用している大きな石は、5km離れた法皇山脈でしか採取できない結晶片岩であるという。
[参考:2006.12.6朝日新聞、2006.1.18愛媛新聞]
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安土町・観音寺城 防御に徹せず特異な構造 1月18日に現地説明会

2009年01月16日 | Weblog
 滋賀県教委は14日、中世最大の山城跡とされる史跡・観音寺城跡(安土町)の本丸跡東側の本丸に上る石段のすぐ下にあり、本丸を守る帯郭(おびくるわ)である三ノ丸跡とされる場所から、二つの石段が見つかり、2本の小道と一つは本丸跡に繋がるルートから枝分かれしていたことが分かったことを発表した。
 同城跡は県教委が本年度から4年計画で調査を始めた。本年度は、三ノ丸と伝わる帯郭の一部約500㎡を調査、うち約70㎡を発掘した。1969-70年度の前回調査結果から、伝本丸に通じる石段が曲がりながら伝三ノ丸を通り、敵の侵入を難しくする構造と推測されてきた。
 今回の調査の結果、伝本丸への石段と伝三ノ丸の間は石垣で、石段がつながっておらず、下から伝本丸へ石段が直接につながっていた可能性があることが分かった。さらに、下部から伝三ノ丸への入り口は2カ所もあることも確認され、防御性のない郭を有する特殊な構造だったことが分かった。
 また、現場が観音正寺との境にもなっていることから『三ノ丸』跡には観音正寺にかかわる遺構が建っていた可能性もあるとする。
 さらに、石段の石には赤色化した石が多数含まれ、大規模な火災に見舞われていたことも判明。観音寺城には、何度も炎上したという資料や伝承があるが、それを裏付ける資料だという。
 県教委は18日午後1時から現地説明会を開く。問合せは県教委文化財保護課城郭調査担当
備考:
 観音寺城は、繖山(きぬがさやま)(標高432m)の南側斜面一帯に広がる大城郭で、中世に守護大名として近江を支配した佐々木六角氏の居城で、「太平記」に建武二年(1335)に六角氏頼が城郭に立て龍もったという記述(注1)が初見である。1568年に織田信長に滅ぼされ開城した。1579年に安土城が完成したことで役割を終えた。
 安土城以前の城は土塁が中心だが、石垣を多用しているのが特徴で、今回は石垣の積み方や石の種類、加工技術なども調査する。
 1970年の本丸周辺の発掘調査では、茶碗や皿のほか茶器や香呂も見つかり、当時の武将たちが城内を拠点に文化的な生活を営んでいたことが知られる。
[参考:京都新聞、毎日新聞、BBCびわ湖放送]

(注1)「太平記」巻第十五・奥州勢著坂本事
「正月十二日、(略)、其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、(略)。」
参考:
佐々木氏関連情報
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市川市・国府台遺跡 外郭柱列跡と溝跡か

2009年01月14日 | Weblog
 市川市国府台の「国府台遺跡」で、古代・下総国(千葉県北西部周辺)「国府」外郭の可能性のある柱列跡と溝跡が出土した。
 出土した柱列跡は東西約10mで、木柱を立てていた柱穴(直径60~70cm)が約1・5m間隔で並んでいた。木柱は、国府外郭の可能性があり、板塀、または萱葺きの塀などの支柱だったとみられる。柱列跡の南側約6mには平行して、幅約1m、深さ60~70cmの溝跡も出土した。木材などの出土物はないため、奈良・平安時代のどの時期かは不明。
 柱列跡の付近では、廃棄されたとみられる大量の軒丸瓦の破片が出土した。瓦の様式は、同遺跡北東にある下総国分寺跡周辺で出土した瓦と合致し、同じ所で焼かれ共有していた可能性がある。
 同国府はこれまで、遺構の出土例が少なく、全体像は謎に包まれたまま。
 今回の調査地点近くの北西では、以前の調査で同様の柱列跡が確認された。線をつなぐことで、わずかではあるが、国府の輪郭が浮かび上がり、国庁は出土遺構の北側にあった可能性が高くなったとする。
[参考: 読売新聞]
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松江市・西川津遺跡 弥生時代後期から古墳時代前期の卜骨が出土

2009年01月14日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは13日、松江市西川津町の西川津遺跡で弥生時代後期から古墳時代前期にかけてのものとみられる卜骨が出土したと発表した。 県内では松江市鹿島町古浦遺跡についで二番目、山陰では三番目の卜骨出土遺跡である。
 出土した卜骨はシカの肩甲骨を加工したもので、大きさは長さ15㎝、横6.5㎝、厚さ0.4㎝、重さは24.7g。
[参考:島根県HP]
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上野国新田郡庁跡 正殿跡と石敷き通路が発見

2009年01月14日 | Weblog
 太田市教育委員会は13日、国指定史跡「上野国新田郡庁跡」(同市天良町、約2・08ヘクタール)で正殿跡と石敷き通路が発見されたと発表した。
 同史跡は、奈良・平安時代の郡役所である新田郡衙の中心施設。2007年5~12月の発掘調査で、7世紀後半~9世紀前半のものとみられる一辺約50mの大規模な建物跡が敷地の東西南北で確認された。国内最大級の貴重な古代官庁遺跡として、08年7月に国史跡に指定された。
 同年11月から進められている第二期調査で、四方を長屋群に囲まれた中央部の建物跡に、礎石が据え付けられた跡が10カ所発見された。奈良文化財研究所にも見てもらったところ、柱の配置から、郡司が政務を行った正殿跡であることが分かったという。
 大きさは、横15m、奥行き7m程度で、ほぼ同じ場所に掘立柱建物の遺構も確認されたため、早い段階ではこの掘立柱の建物が正殿に使われ、後に礎石を使って正殿が建てられたとみられる。
 その南側で出土した石の遺構は、長さ10mにわたり、10~20cmの石が敷き詰められ、早い時点の正殿への通路と推定された。
掘立柱でなく、礎石の上に柱を立てる方式が使われており、このような正殿や石敷き通路の発見は、これまでに確認された全国の郡庁跡約40カ所ではいずれも初めての事例という。
 このほか、国指定区域の西側では、納税された米を蓄えるための「正倉」跡も4棟発見され、10m四方大の正倉10棟以上が2列で整然と並んでいた可能性が高いこともわかった。
 24日午前10時~午後3時に現地説明会が開かれる。問合せは市教委文化財課へ
[参考:読売新聞、東京新聞]
[関連] 上強戸遺跡群
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