歴歩

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高崎市・高崎城遺跡 本丸の堀の一部を発掘

2009年01月13日 | Weblog
高崎城遺跡 現地説明会1月12日開催
 1月12日に現地説明会が開かれ、400人が参加した。3人の説明員が分かれて各遺跡を案内し説明が行われた。
 本丸の南北では、中世に作られた溝状遺構が見つかり、素焼きの土器などが出土。高崎城の築城以前にあった和田城の遺構の可能性もあるというのに興味を引かれる。
[参考:読売新聞]

和田城
 井伊直政がここに入城するまでは、当地一帯は「和田」といい、城の名前は「和田城」であった。「和田城」があったことは天文から天正年間(1532~1591)に書かれた古絵図からもわかるし、古文書からも知られている。
 和田城は、15世紀前半に和田氏により築城されたとみられる。(1428和田義信築造説、1418義信の子義忠築造説がある。)
平成15~16年の和田橋付近の調査で、銃弾や堀跡が見つかった。武田信玄が弾搬入を命じた朱印状が残っており、これを裏付ける発見とする。


12月31日掲載分
 高崎城遺跡(同市高松町)から、本丸堀の一部が同市教育委員会の発掘調査で見つかった。同遺跡から本丸の遺構が確認されたのは初めてという。
 高崎城は1598年、徳川側近の一人で初代高崎藩主の井伊直政が築城した。歴代藩主の居城として使われたが、明治維新で廃城となり、その後、陸軍歩兵第15連隊が置かれ連隊の施設建設に伴い、堀は埋め立てられたという。
 遺跡は市役所がある市中心部の一角にある。市保健医療センターと図書館が建設されるのに伴い、市教委が8月から発掘調査をしていた。
 確認された本丸堀は城跡の北側にあり、江戸後期の1810年に描かれた城の絵図と場所が一致した。幅24m、深さが8mあり、規模の大きい堀だった。堀からは、江戸末期まで藩主を務めた松平氏の家紋が描かれた鬼瓦も見つかった。
 また、遺跡の北東部からは、幅2・7m、深さ50cmの溝も見つかったが、円墳(周溝墓)の一部の可能性があるという。
 現地説明会は1月12日午前10時~午後3時。
[参考:10/28朝日新聞、10/8東京新聞]
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