歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

金峯山寺(吉野町)・釈迦如来坐像と兵庫県所蔵の天部立像 140年ぶりの対面

2009年01月16日 | Weblog
 金峯山寺(吉野町)が所蔵する釈迦如来坐像(高さ83.2cm)と、兵庫県所蔵の天部立像(高さ169.5cm)が、約140年前には同じ場所に安置されていた可能性が高いことが、奈良国立博物館・鈴木喜博・上席研究員(日本彫刻史)の研究でわかった。構造や表現が酷似しており、同じ作者が造ったと見られる。
 鈴木上席研究員(彫刻史)は「釈迦如来坐像はかつて吉野山にあった寺の本尊だったと考えられる。セットで作られ、一緒に安置されていたが、天部立像は明治時代初期の廃仏毀釈の時に流出した可能性が高い」としている。
 金峯山寺史によると、同寺には廃寺となった周囲の安禅寺や世尊寺などの本尊が安置され、釈迦如来坐像も実城寺の本尊だったとされる。
 昨年、天部立像は足元の腐った部分を同博物館の美術院(京都市)が修理した際、釈迦如来坐像に似ていることに鈴木上席研究員が気付き、下記の共通点が見られたことを確認した。
 目が切れ長で鼻やあごが小さく、目鼻立ちがよく似ている
 撫で肩で背中が反っている
 衣のしわの表現が同じ
 像の底に木を削る範囲を決めるために描いた墨の線がある
 左右にわずかに傾くなどの歪みがある
 一本の木からの丸彫り
 いずれも平安時代初期作

 同館の2体の仏像は5月17日まで、同館本館で展示されている。
[参考:毎日新聞、読売新聞]
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愛媛県・向山古墳 墳丘構築技法が判明 1月17日現地説明会

2009年01月16日 | Weblog
 四国中央市教委は14日、県指定史跡・向山(むかいやま)古墳(同市金生町下分)の第6次調査結果を発表し、墳丘の構築技法などが判明したとする。
 同古墳は古墳時代後期の7世紀前半の構築とされる長方形墳(東西70m、南北46m)。一つの墳丘の中に石室2基が並列に配置されており、同時代の古墳の中では四国最大規模だという。今回、石室横の掘削調査をし、盛り土が50cm前後の層単位になっており、石を積み上げて造られた石室の各段の石の高さと、墳丘の地層の境界がほぼ一致していることが判明し、盛り土で造った作業面に石を置き、石の高さ分だけ盛り土を足して次の石を載せていくという手法がわかったという。
 現地説明会は、明日17日午後1時半から行われる。問合せは同市考古資料館。
[参考:1/15朝日新聞、1/16毎日新聞、1/17読売新聞]
 
備考:
 2006年の発掘調査では、2号石室の全長が14.3m、高さが3.8mで、四国最長の横穴式石室とわかった。1号石室は全長11.4m、高さ2.4mでほぼ完全な形で残っていた。
 2号石室の天井部は20~30トンの大きな石(注1)を数個使用し、地表部で露出しているため「伊予の石舞台」として知られている。
(注1) 1号石室を含めて使用している大きな石は、5km離れた法皇山脈でしか採取できない結晶片岩であるという。
[参考:2006.12.6朝日新聞、2006.1.18愛媛新聞]
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安土町・観音寺城 防御に徹せず特異な構造 1月18日に現地説明会

2009年01月16日 | Weblog
 滋賀県教委は14日、中世最大の山城跡とされる史跡・観音寺城跡(安土町)の本丸跡東側の本丸に上る石段のすぐ下にあり、本丸を守る帯郭(おびくるわ)である三ノ丸跡とされる場所から、二つの石段が見つかり、2本の小道と一つは本丸跡に繋がるルートから枝分かれしていたことが分かったことを発表した。
 同城跡は県教委が本年度から4年計画で調査を始めた。本年度は、三ノ丸と伝わる帯郭の一部約500㎡を調査、うち約70㎡を発掘した。1969-70年度の前回調査結果から、伝本丸に通じる石段が曲がりながら伝三ノ丸を通り、敵の侵入を難しくする構造と推測されてきた。
 今回の調査の結果、伝本丸への石段と伝三ノ丸の間は石垣で、石段がつながっておらず、下から伝本丸へ石段が直接につながっていた可能性があることが分かった。さらに、下部から伝三ノ丸への入り口は2カ所もあることも確認され、防御性のない郭を有する特殊な構造だったことが分かった。
 また、現場が観音正寺との境にもなっていることから『三ノ丸』跡には観音正寺にかかわる遺構が建っていた可能性もあるとする。
 さらに、石段の石には赤色化した石が多数含まれ、大規模な火災に見舞われていたことも判明。観音寺城には、何度も炎上したという資料や伝承があるが、それを裏付ける資料だという。
 県教委は18日午後1時から現地説明会を開く。問合せは県教委文化財保護課城郭調査担当
備考:
 観音寺城は、繖山(きぬがさやま)(標高432m)の南側斜面一帯に広がる大城郭で、中世に守護大名として近江を支配した佐々木六角氏の居城で、「太平記」に建武二年(1335)に六角氏頼が城郭に立て龍もったという記述(注1)が初見である。1568年に織田信長に滅ぼされ開城した。1579年に安土城が完成したことで役割を終えた。
 安土城以前の城は土塁が中心だが、石垣を多用しているのが特徴で、今回は石垣の積み方や石の種類、加工技術なども調査する。
 1970年の本丸周辺の発掘調査では、茶碗や皿のほか茶器や香呂も見つかり、当時の武将たちが城内を拠点に文化的な生活を営んでいたことが知られる。
[参考:京都新聞、毎日新聞、BBCびわ湖放送]

(注1)「太平記」巻第十五・奥州勢著坂本事
「正月十二日、(略)、其日大館中務大輔、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を責落て、(略)。」
参考:
佐々木氏関連情報
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