県立石見美術館が7日、浜田市の寺にあった仏像の頭部が奈良時代に建てられ消失した「石見国分寺」の本尊、薬師如来座像だったとみられることが分かり発表した。
頭部は高さ69cm、幅26cmで、全体が黒く焦げており火災で焼け残ったものらしい。復元すると120cmになるとみられる。
科学的な年代測定は行われていないが、制作時期は、一本の木を彫り抜いた土台に粘土などで肉付けする「木心塑像」であり、目鼻立ちがはっきりしていない特徴から、8世紀後半とみられるという。確認されれば全国各地にあった国分寺の本尊としては最古という。
江戸時代の文献によると、仏像は荒廃した国分寺から農民の手に渡り、同時代に別の寺に移されていたが、仏像があった建物が火災に遭ったという。
2005年に国分寺の跡地近くの寺に保管されているのが見つかり、同美術館が学術調査を進めていた。
仏像は18日から11月16日まで同美術館で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]
石見国分寺跡
石見国分寺跡は現在の浄土真宗金蔵寺(こんぞうじ)境内にあたり、塔跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていない。
昭和60年(1985)に塔跡が一部発掘調査され、調査の結果、塔跡の縁に並んだ磚列(せんれつ)が確認された。12~14mの基壇の上に約8m四方の塔が建っていたと考えられている。
その後も周辺が発掘調査が行われ、真北方向に延びる溝状遺構が見つかり、炭化物、火を受けた銅造誕生釈迦仏立像(市指定)が出土した。国分寺が平安時代後半に火災にあった可能性も考えられている。
石見国分寺は瓦・土器などから当初からこの地に造られており、国府地区が古代石見国の中心であったことを示している。
[参考:浜田市HP]
頭部は高さ69cm、幅26cmで、全体が黒く焦げており火災で焼け残ったものらしい。復元すると120cmになるとみられる。
科学的な年代測定は行われていないが、制作時期は、一本の木を彫り抜いた土台に粘土などで肉付けする「木心塑像」であり、目鼻立ちがはっきりしていない特徴から、8世紀後半とみられるという。確認されれば全国各地にあった国分寺の本尊としては最古という。
江戸時代の文献によると、仏像は荒廃した国分寺から農民の手に渡り、同時代に別の寺に移されていたが、仏像があった建物が火災に遭ったという。
2005年に国分寺の跡地近くの寺に保管されているのが見つかり、同美術館が学術調査を進めていた。
仏像は18日から11月16日まで同美術館で展示される。
[参考:共同通信、読売新聞]
石見国分寺跡
石見国分寺跡は現在の浄土真宗金蔵寺(こんぞうじ)境内にあたり、塔跡と礎石が一部残っているのみで、全体像は明らかになっていない。
昭和60年(1985)に塔跡が一部発掘調査され、調査の結果、塔跡の縁に並んだ磚列(せんれつ)が確認された。12~14mの基壇の上に約8m四方の塔が建っていたと考えられている。
その後も周辺が発掘調査が行われ、真北方向に延びる溝状遺構が見つかり、炭化物、火を受けた銅造誕生釈迦仏立像(市指定)が出土した。国分寺が平安時代後半に火災にあった可能性も考えられている。
石見国分寺は瓦・土器などから当初からこの地に造られており、国府地区が古代石見国の中心であったことを示している。
[参考:浜田市HP]
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