皆さんは、身近に接するお坊さんを、本人に向かってどのように呼びますか?。
宗教には「ご縁はあれど、無関心」といっている私ですが・・・。
伝統仏教には、
現在13宗56派があるといわれています。
私がこの年にして、身近に接するのは、坐禅会に参加する「曹洞宗」、今の家は「浄土真宗」、
母の里は「浄土宗」、くらいです。
ところで、このお坊さんたちを、どのように呼ぶのが正しいのか、いつも迷います。
皆様はいかがですか。
顔をあわさないところでは、「お坊さん」・「坊主」などいろいろとありますが、
その方と、顔を合わせてのとき、
「方丈さん・お和尚さん・禅師・老師・おっさん・ごぜんさん・ごえんさん・(若さま)」等々。
こうした呼称は、その僧の宗派本山における、寺または個人の地位により異なるのです。
「住職さん」・「(寺名)寺さん」、「お和尚さん」あたりがさしつかえないのかも。
ご先祖さまへの、供養のひと時でした。
宗教には「ご縁はあれど、無関心」といっている私ですが・・・。
伝統仏教には、
現在13宗56派があるといわれています。
私がこの年にして、身近に接するのは、坐禅会に参加する「曹洞宗」、今の家は「浄土真宗」、
母の里は「浄土宗」、くらいです。
ところで、このお坊さんたちを、どのように呼ぶのが正しいのか、いつも迷います。
皆様はいかがですか。
顔をあわさないところでは、「お坊さん」・「坊主」などいろいろとありますが、
その方と、顔を合わせてのとき、
「方丈さん・お和尚さん・禅師・老師・おっさん・ごぜんさん・ごえんさん・(若さま)」等々。
こうした呼称は、その僧の宗派本山における、寺または個人の地位により異なるのです。
「住職さん」・「(寺名)寺さん」、「お和尚さん」あたりがさしつかえないのかも。
ご先祖さまへの、供養のひと時でした。
人間だ。
法事の時にね、おしょうさんが
あの世のことはわかりませんが
「わたくしもまだ死んだことがないので、
あの世とはどのような世なのかを知りませんが
こうして親族が集まりいろんな話をし
先祖のことを思い、今があることを知ることが大切なのです」と。
お説教に耳をかたむけました
当然!
子どもたちもちゃんと聞いていました。
さー それをわかり、これからを生きたい!
なむなむ
「わたくしもまだ死んだことがないので」
の法話は、笑いがでましたね。
昔は?法事などでお坊さんの法話などなく、お寺に集めての説教といわれるものがそれでした。
ところが最近の葬儀の後、
やりだす事をたくさん経験しています。
ちっとも頷ける話を聞いたことがありません。
もっと勉強して中身のあるものを伺いたいものです。
これって、檀宗徒のパイ広げの努力とかも。
本音で、そう思っています。
tarpinさんのお返事の中に、「ところが~そう思っています。」までのところ
言葉の意味がいちわかりませんっ
バカなyuka吉にもうすこしわかりやすく教えていただけませんでしょうか。
仏教寺院では、門前看板の案内には、説教会
(年寄り向けの講話や説話)があり
ひと昔は、必ずやっていました。
しかし、新興宗教の華やかな宣伝や勧誘と異なり、
いま、若い人は見向きもしません、したがって説教会に人も集まらない、檀家は減る、寄進は減る、
こうした危機感から
今まで独立していた説教会の内容を、
葬儀の中で実施するようになったと思います。
私の指摘は、導師や住職が、故人へのかかわりや
業績などの解説は聞けるとしても、
仏のありがたさ・あの世のこと・はては、
数珠の持ち方など、
ここのところ、出席した厳かな儀式の中での僧のこの事に、違和感を感じていたものです。
毎月参加する坐禅会の老師の例(上記と宗派が違うが)では、釈迦の誕生やその年代、取り巻く
世界情勢から、禅語の解説、軸の崩し字の読み方
など具体的な、そして知識になる話が多く、
その、ギヤップを文字にしたものでした、
言葉足らずに失礼しました。
足がしびれるのは嫌だもん あはは
でもね、「心」のどこかで
座禅と同じようなことをしているかもしれません。
昨日は、大津での一族の墓参会でした。
ところが明日再度大津へ、お盆の月は何かと
仏事でいそがしいものですね。
坐禅は、慣れば足の痛さも無いような
座り方もあるのです。
私は、さほど大層に思わず続けることに主点をおいているのですかね。
これを修行だとは思っていませんが、そのように位置付けると、yuka吉さんなど大変な仕事=修行なのではありませんか。
がんばり伝わり好感です、からだに気をつけて。