起床の5時はまっ暗、雨天のせいか
坐禅会スタート10分前の禅堂も、まだうす暗い。
。
境内は融け残った残雪がなごりのよう。
昨年12月から2月迄「寒中休み」であったのと、
今年初の会となり緊張の時間。
参禅者は、女性3名と私と老師の5名と寂しい。
着座すると、すぐに老師の読経、何時もの様子とは異なり鐘と拍子木の鳴り物入り、
マスクをされての言葉は難解、「検単」のように後ろを3度もお回りになり
いつもと様子が違うひと時、
「自ら仏に帰依する衆生とも・・・・」禅堂にはお釈迦様涅槃の大型掛け軸
の設えがあり、そのことと合わせ、仲間の参禅者の死を痛まれてのお話等いろいろ、
読経が入り又難解、
「最後に願わくば、この功徳をH君(参禅仲間)とこの席に在する善男全女へ・・・」
と供養の様子。
約30分の無言が続き、久々の坐禅は、足の痛さを想い返す日でもありました。
そして、老師のお話。
(このころ、朝明けが窓から感じられ、薄暗さから明るく自然を感ずる厳かで
神秘的な唯一の季節です)
仏教では、仏の教えをどこの教えが一番かを知ることが大事。
人は生まれてくる、その前の世界がある、
生まれてしまうと現世、僅か70~100年の時間の営み、
この間「心・躯・意」の3つの働きは、ここから起こる業、
そこに五欲が働く、人よりも多く、偉く等その欲は計り知れない、
この期間が済み死を迎える、佛教では、死は無く、涅槃に入るという、
すなわち初七日の7回49日を経て、次の世代に生き続けていく。
すなわち肉体は無くなりますが、私というものの業は続くのです、
そして次の新しい世界へ、滅後49日の務めは、
その人の持っていた悪行を善業に変えていく期間、
そのことを信じなさいと。
それが仏教が作る世界です。
手を合わせる所作は、死体を拝むのでなく、
仏の教えへのお礼のため手合わせです。
平素は考えないことかもしれませんが、
お釈迦様涅槃図・お団子配布・仲間の死等思いはせらせ語ってみた、
縁あった人へお互いが祈りましょう。
ここで小鐘1つ、
長い1炷60分となりました。
坐後のお茶とお菓子を頂き、「涅槃だんご」を頂いて解散、
外はすっかり明け、雨もやみましたが寒い朝でした。
福井のコロナ194名、ただただビックリの数字。
勝山市も2日続で、感染なし。
このまま、このまま進んでほしい。
久々の坐禅会はいいものでした、4月ぶりに座り、足の痛さを感じたたのは、時間が長かったのか
治りかけている脊柱管警策症のせいか。
老師のお話もいつもと違い
、坐禅儀の解説でないお話でした。
坐後の茶会には、坊守様も同席され
いろいろと話題が飛び出します
。お二人ともお元気のご様子です。
来月からはいつも通り続きそうです。