2013.2.15
{韓国 ソウル}
韓国の歴史と共に歩んできた鐘楼
普信閣が初めて建築されたのは、朝鮮時代が始まってすぐの1395年。場所は現在の位置とは異なり、タプコル公園の西側、仁寺洞(インサドン)通りの入口付近にありました。平穏に時を告げ続けるかと思われた普信閣でしたが、その歴史は波乱の連続でした。4度もの火災に見舞われたうえ、日本の植民地時代には現在の位置に移転。さらに1950年代初頭の朝鮮戦争でも大きく破損し、幾度となく再建工事が繰り返されてきました。現在目にすることができる普信閣は、1979年8月にソウル市によって復元されたもので、正面5間、側面4間、2階建ての楼閣となっています。
普信閣という名の由来
普信閣の最寄り駅は地下鉄1号線鐘閣(チョンガッ)駅ですが、この「鐘閣」という名称は普信閣の元々の名前です。人々が「鐘閣」ではなく「普信閣」と呼び始めるようになったのは、朝鮮時代後期の1895年になってからのこと。第26代王の高宗(コジョン)が「普信閣」と書かれた扁額(門などに掲げられる額)を下賜したことにより普信閣と呼ばれるようになりました。現在、普信閣に掲げられているのは、李承晩(イ・スンマン)初代大統領の直筆による扁額です。
普信閣という名前には、「信じる心が広く行き渡るように」という意味が込められています。「興仁之門(フンインジムン、通称東大門)」や「崇礼門(スンネムン、通称南大門)」など、ソウルの四大門は儒教五常の徳である「仁義礼智信」の文字をとって名付けられていますが、そのうち「信」の字は城門ではないものの、門の開閉において重要な役割を担っていた普信閣に与えられているというのは興味深いところです。