鉄卓のブログ「きままに」

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暑い中、西南戦争の熊本城を歩く。【熊本の話題】

2016-09-07 | 熊本城
2016年9月5日(月)

この夏、熊本は猛暑続きで運動不足になった。
台風が通過したので、少しは涼しくなるかなと、歩いて体を動かそうと出かけた。

熊本市電熊本駅前から一つ目の電停「祗園橋」からスタート。
「祗園橋」は熊本城の南にあたり、細工町を北へ向かって進む。

城下町は路が複雑に作られるのが普通だが、ここ一帯は加藤清正によって呉服町、米屋町、魚屋町、紺屋町など商人の街として碁盤の目の町割りがされている。一つの区画の真ん中にはお寺があり非常時にはお寺に武士が集まり、路地から攻撃できるようになっている。NHK「ブラタモリ」の「熊本城編」でも紹介されたのでご存知の方も多いと思う。


(1.五福小学校前の案内板)


(2.この建物の中に消防車は待機している)


(3.紺屋町にあるお店)


(4.西唐人町にある路地)


(5.路地の中はお寺)


(6.寺は被災して)

熊本市は古い町並みを積極的には残してこなかったが、地元の人たちの熱意で残ってきた建物がここ一帯にある。それらの建物は4月の熊本地震で大きな被害を受けた。再建には莫大な費用がかかるが文化財に指定されてはいないので公的な資金は望み薄である。再建を諦めるところもあるかも知れない。

(7.西唐人町にある古民家)


(8.紺屋町にある古民家)


(9.西唐人町にある古民家)

薩摩街道である唐人町の通りから坪井川に架かっている「明八橋」を渡ると「新町」に出る。「明八橋」は、矢部の「通潤橋」を造った橋本勘五郎が、東京の「日本橋」や「江戸橋」、皇居の「二重橋」を架設したのち、帰郷して手がけた石橋のうちの一つで、明治8年に架けられた。「明八橋」も薩摩街道の橋である。明治10年の西南戦争では、薩摩の兵士がこの橋を渡って熊本城へ進撃した。
平成2年までは、バスもこの橋を通っていたが、西側に新たな道が出来て歩行者専用になっている。バスでこの橋を何度も通ったことがある。昔のバスは重かったし、ぎゅうぎゅう詰めで走ることも多かったのに、よく耐えたものだと思う。
江戸時代、橋の袂には「新三丁目御門」が設けられ、厳しい取り調べが行われていた。

(10.明八橋)


(11.明八橋)

橋を渡って少し歩いたところに「森からし蓮根」のお店がある。からし蓮根は肥後細川の初代藩主忠利が体が弱く滋養強壮の蓮根をたべさせるために工夫されたもので、名字帯刀を許された先祖が藩のお料理番として代々仕え、製造法は口伝されてきた。明治10年、西南戦争後に創業して一般の人も食べられるようになった。正真正銘の「元祖」である。


(12.森からし蓮根)


(13.森からし蓮根)

「新町」の交差点に出ると、熊本市電B系統上熊本線が走っている。写真左手の古い建物は明治7年創業の「長崎次郎書店」である。一時閉まっていたようだが、再開されている。再開と同時に2階は喫茶室として営業している。
この夏は暑くてコーヒーチェーン店で読書することも多かったが、こういうお店でゆっくりと静かに読書してみたいと思う。窓の下には路面電車も走っている。


(14.新町交差点。左の建物は長崎次郎書店。)


(15.長崎次郎書店喫茶室)


(16.長崎次郎書店喫茶室)


(17.長崎次郎書店喫茶室)


(18.長崎次郎書店喫茶室)

電車の線路を渡って少し歩いて、明治6年創業の蕎麦屋「政木屋」でお昼。
「政木屋」と電車軌道の反対側にある諸毒消丸の「吉田松花堂」がある。吉田松花堂の初代はシーボルトに弟子入りし、シーボルトが追放された後、熊本で町医者になり、腹痛に効く薬「諸毒消丸」を創り、今日も販売されている。西南戦争で焼けた後に建てられた塀は無事のようである。


(19.政木屋)


(20.政木屋)


(21.吉田松花堂)

「長崎次郎書店」も「政木屋」も、おそらく西南戦争では焼けてしまったでしょうね。

「政木屋」の角を曲がると、一新地域コミュニテイセンターと一新幼稚園がある。ここには「御客屋・会輔堂」があった。「御客屋」は熊本藩の迎賓館で幕末には勝海舟・坂本龍馬も滞在した。明治4年には学校「会輔堂」となったが、明治5年に明治天皇・西郷隆盛が滞在した。


(22.御客屋・会輔堂があった一新幼稚園)

ここから北へ進むとYMCAの建物があり、右へ曲がると「清爽園」がある。
明治11年、熊本鎮台の侍兵は、明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、明治9年の神風連の乱、明治10年の西南戦争という四戦役の戦没者を祭る記念碑をこの地に建立し、明治12年に記念碑周辺の敷地を広げて庭園となった。さらに明治19年には、乃木希典細川藩主の旧花畑屋敷の庭石の払い下げを受けて庭園を完成させた。その後、次第に荒廃したが、昭和4年地元の青年壮年団の奉仕により美観が取り戻され、「清爽園」と命名され今日に至っている。


(23.清爽園。石橋は花畑屋敷から移築した。)


(24.四戦役の戦没者を祭る記念碑)

熊本城は西向きが正面にあたり、ここが正面登城口で、「新一丁目御門跡」が設けられていた。その門の前は藩から種々の通知を掲示する「札の辻」と呼ばれる広場になっていた。
また、「里程元標跡」で、この場所を起点として、豊前・豊後・薩摩・日向街道の里数が測られていた。唐人町からここまで歩いてきた薩摩街道の終点にあたる。薩摩へ向かうときは始点となる。豊前・豊後への街道の始点でもある。


(25.新一丁目御門・札の辻碑)


(26.里程元標跡碑)

江戸時代は、ここ「清爽園」の場所が最も重要な地点であった。

熊本城は文化庁から「特別史跡熊本城址」の指定を受けているが、ここからはその範囲で、公園へ一歩入れば、熊本城へ一歩入ったことになる。
「新一丁目御門」を無事に通過して、「清爽園」の横の法華坂を少し上り左に曲がると二の丸公園のへと続く道がある。里程元標から出発した「豊前街道」であるが、地震の影響で通行止めになっている。この道は高級武家屋敷の間を通る道で、庶民が通るには息苦しい。


(27.二の丸公園への豊前街道)

「豊前街道」は「新一丁目御門」を通過しないもう一本の道があった。里程元標へ戻り、曲がったYMCAの所へ戻って右へ曲がって進む。「西南の役激戦地跡」の碑がある。西南戦争は熊本城の西側で最も激しい戦いがあった。


(28.西南の役激戦地跡の碑)

電車通りを西に進むと右手に「薬研坂」がある。左手、電車の軌道向かい側には肥後象眼の「光助」が見える。里程元標から出発して、この薬研坂を上っていくのがもう一つの「豊前街道」になる。この道は保育園があって通れない。少し外れて藤崎台球場へ上って球場沿いを歩いて行けるが、地震の影響で通行止めになっている。


(29.もう一つの豊前街道、薬研坂)


(30.道は行き止まりで、藤崎台球場へ上る坂は通行禁止)

道を戻って、「西南の役激戦地跡」碑を通り、「熊本市子ども文化会館」の所に出て、藤崎台球場へと上る。ここも熊本城内である。


(31.左の坂を上る)


(32.推定年齢1000年~400年のクスノキ群。西南戦争でも生き延びた。)

藤崎台球場の北側に三の丸広場がある。江戸時代には三の丸という呼称は無かったようで、後に呼ばれるようになったようだ。
「薬研坂」を上ったところに保育園が無かったとして歩いて行けば、この広場のところに出る。この広場に来れば「豊前街道」へ出たことになる。
春、4月、熊本城内ソメイヨシノの桜が満開になった一週間後、公園は「御衣黄」の花が咲き乱れる。


(33.三の丸広場)


(34.三の丸広場に保存してある石垣)

広場の北側にはテニスコートがあって、その奥は「森本儀太夫預り櫓跡」。熊本城の北西地で、加藤清正の重臣森本儀太夫が三階櫓を自ら築き防備にあたったといわれている。火事で焼失し、再建はされなかった。森本儀太夫は熊本城おもてなし武将隊の一員なので若い女性の人たち方が名前を知っているかもしれない。


(35.森本儀太夫預り櫓跡)

こここからはJR九州の在来線、新幹線が見れるが、しばらく待っていたけど新幹線が来ないので、石垣を見るべく下へおりて行ったら、九州新幹線のつばめ車両が通過して行った。


(36.九州新幹線)

熊本城の石垣はほとんど直線で築かれているが、森本櫓の石垣は地形に合わせて築かれているので少し丸みがある。


(37.森本櫓付近石垣)

三の丸広場を下りて、お城沿いに段山の電停の所まで歩いた。写真の上の方が通れなくなっている「豊前街道」になる。
西南戦争ではこのあたり一帯でもっとも熾烈な戦いがあった。
眺めていると、熊本城の戦いは「豊前街道」という当時の幹線道路を巡る戦いであったことが実感できる。


(38.段山方面からの入口)


(39.土手の上が豊前街道。ここも熊本城内)

藤崎台球場の北側の広場に戻り、三の丸駐車場の方へ向かう。熊本市子ども文化会館の所から左の坂を藤崎台球場へ上ったが、ここは右の坂を上ったところ。駐車場は閉鎖されていて石垣が保存されている。


(40.三の丸駐車場)

旧細川刑部邸も立ち入り禁止になっている。
細川刑部邸は東子飼町で下屋敷として使用していたものを平成2年から4ヶ年かけて移築したもので、熊本県の重要文化財指定されている。


(41.旧細川刑部邸の塀)

東へ進むと、右手には「二の丸御門跡」がある。ここの石垣は無残な状態になっている。「新一丁目御門」を通過した「豊前街道」は二の丸の高級武家屋敷の間を通って、この「二の丸御門」に出る。「新一丁目御門」を通過せずに回り道をした「豊前街道」とここで合流する。


(42.二の丸御門跡)

これまで「豊前街道」としてきたが、正確には「豊前街道・豊後街道」である。道は百間石垣のところを通り、新堀橋を渡って、県教育会館のところで京町の方を行く「豊前街道」と坪井の方へ行く「豊後街道」に分かれる。

西南戦争の熊本城の攻防は、豊前街道を薩摩軍本隊が通過するのを阻止する闘いであった。その時政府軍の作戦が豊前街道に接する熊本城籠城だった。

薩摩軍の本隊は戦いに敗れ、ここ百間石垣から京町方面へと向かい北上する事を諦め、後退して行った。
そのことを想いながらこの道を歩くと、感慨深いものがある。


(43.百間石垣。道は豊前街道・豊後街道)


(44.新堀橋を渡って京町方面へ豊前街道・豊後街道。)

百閒石垣のところから右に曲がって二の丸広場の方へ行くことにする。左手には城壁の石垣の間に埋め込むようにして造られている「埋門」がある。熊本城北側の家臣の出入り口であった。


(45.埋門)

今、熊本城の撮影スポットとして人気があるのが、戌亥櫓とその後ろに熊本城天守閣、宇土櫓がそびえる風景だそうだ。


(46.戌亥櫓。右は宇土櫓、左は天守閣)


(47.西南戦争時家族の避難場所碑)


(48.二の丸公園には藩校時習館もあった。)

加藤神社でお決まりの写真を撮る。


(49.加藤神社入口のところから宇土櫓)


(50.加藤神社境内から天守閣)

棒庵坂を下りたところにも石垣が保存展示してある。棒庵坂の名は下津棒庵の屋敷が坂の下、今のKKRホテル熊本あたりにあったことからつけられている。

(51.石垣置き場と棒庵坂)

石垣沿いを歩いて、地震で神殿が崩壊した「熊本大神宮」へ。復旧工事が始まっていた。「熊本大神宮」の道を挟んだところが旧専売公社で、その横が「高橋公園」になる。ここも「特別史跡熊本城」である。
「高橋公園」は、第7代熊本市長高橋守雄の業績を記念して作られ、旧熊本市庁舎の玄関と高橋守雄の銅像がある。また、西南戦争時の政府軍の指揮者熊本鎮代司令長官谷干城の銅像、横井小楠と明治維新の偉人達像がある。


(52.崩れた石垣)


(53.熊本大神宮)


(54.旧熊本市庁舎と高橋守雄像)


(55.谷干城の銅像)


(56.横井小楠と明治維新の偉人達像 後方は熊本大神宮の社殿を崩した石垣
上段、写真左から 坂本龍馬・勝海舟・横井小楠・松平春嶽・細川護久
下段、写真左から 竹崎健次郎・内藤泰吉・嘉悦氏房・徳富一敬・長野濱平・山田武甫)

厩橋を渡って、坪井川沿いを歩く。長塀の倒れたところには白いビニールシートが張られていた。


(57.坪井川沿いの長塀。奥に見えるのは花岡山。薩摩軍はここから熊本城へ大砲を撃った。)

市民会館の所から少しだけ見える飯田丸五階櫓は一本の足で支えられるようになっていたが、鉄骨で支えるように工事がされ、その鉄骨も少しだけ見える。


(58.加藤清正銅像。後方右は天守閣、左は飯田丸五階櫓)

さて、今日の熊本城歩きの最後は花畑公園になる。
花畑公園は細川藩主の花畑屋敷の一部が公園として残ったもので、広大な屋敷の南西の一部である。
この屋敷の庭にあった石橋(絵図では中央少し下)などが、「清爽園」に移され、今も現存している。(写真23)


(59.花畑公園にある花畑屋敷絵図)


(60.花畑公園。絵図の左下にある木がこのクスノキと思われる。)

暑かった。コーヒーチェーン店で涼む。

地図は歩いた道と写真を撮った場所。この地域が熊本の中心地の時代があった。



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