たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い写真から蘇る思い出の山旅・その24

2022年09月16日 15時17分34秒 | 山歩記

長男、次男がまだ保育園、小学生だった頃は、夫婦共働きで、時間的余裕も、精神的余裕も、経済的余裕も無い自営業を続けていた時代ではあったが、せめて子供達の思い出になれば・・・との思いが有って、春、秋の行楽シーズン等の休日には、忙中敢えて閑を作り、強引に?、家族で周辺の低山を、よく歩き回っていたものだった。その後、次男が小学生になった頃からは、「せめて毎年1回、夏休みには、家族で登山しよう」と決め込んで、尾瀬や八ヶ岳や白馬岳、乗鞍岳、木曽駒ケ岳、仙丈岳等に出掛けたものだったが、それまで、登山の経験等ほとんど無く、体力にも自信が無く、山の知識情報にも疎かった人間が、よくもまあ思い切って出掛けたものだと、後年になってからつくづく思ったものだった。息子達が巣立ってからも、その延長線で、夫婦で細々、山歩きを続けてはいたが、数年前に完全に仕事をやめてからは、時間が出来たものの、今度は気力体力が減退、あの山もこの山も、今や、遠い思い出の山となってしまっており、今となっては、あの頃、思い切って、登山を敢行していたことを、本当に良かったと思うようになっている。ブログを始めてからのこと、そんな山歩きの思い出を、備忘録、懐古録として、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んだり、古い写真は、「デジブック」にし、ブログに貼っていたものだが、その「デジブック」が終了したことで写真がブログから消えてしまったこともあり、改めて、古い写真を引っ張り出して、過去の記事をコピペ、リメイク(再編集)してみようと思っているところだ。昔のことを懐かしがるのは、老人の最も老人たるところだと自嘲しながら・・・・。


古い写真から蘇る思い出の山旅・その24
「初めての木曽駒ヶ岳」


かれこれ34年前1988年(昭和63年)7月31日に、妻と、長男(当時高校1年生)と、次男(当時小学5年生)と、家族4人で木曽駒ヶ岳を訪ねたことが有った。もちろん、初めての木曽駒ヶ岳で、不安と期待いっぱいの山旅だったと思うが、結果は、天候に恵まれ、絶景を堪能出来、最高の山旅の一つだったと思っている。「ブログ内検索」してみたら、5年前にも、ブログ・カテゴリー「山歩記」に書き込んでいたことが分かったが、なんとなく懐かしくなってしまい、改めて、コピペ・リメイクしてみた。
当時はまだ、バカチョンカメラ(小型フィルムカメラ)しか持っていなかった頃で、後年になって、アルバムに貼って有った紙焼き写真をスキャナーで取り込んだ写真が外付けHDに残っており、改めて引っ張り出してみた。記憶はどんどん曖昧になってきているが、写真や、当時の記録・メモ等を見ると、あの日、あの場所の情景までが蘇ってくるから不思議なことだと思う。それにしても、高山植物の写真が1枚も無く、当時はまだ、花を写真を撮る・・という意識がまるで無かったことが分かる。


深田久弥著 「日本百名山」
   「木曽駒ヶ岳」  
(一部抜粋)

同じ信州の木曽谷と伊那谷の間を仕切って、蜿々(えんえん)と連なった山脈、普通これを中央アルプスと呼んでいる。その主稜は、北の茶臼山から南の越百山までの長い間、二千五百メートル以下に下ることがない。全くの屏風(びょうぶ)である。その中の最高峰が駒ヶ岳で、それと相対して東のかた伊那谷を距てて(へだてて)真向かいにある南アルプスの駒ヶ岳と区別するため、前者を木曽駒(西駒)、後者を甲斐駒(東駒)と呼び慣わしている。
(中略)
木曽谷・伊那谷の両側から登山道がついているが、どちらが山の表か裏かは決めがたい。もし信仰登山を主とすれば木曽側であろう。登山口の上松から頂上まで、何々請中の建造物がやたらに立っている。そして最後の頂には、花崗岩の玉垣をめぐらした立派な祠がある。
天文元年(1532年)七月、木曽の徳原長太夫春安が頂上に保食(うけもち)大神をお祀りした。その後本社を山麓に移して、これが産土神(うぶすなかみ)となった。木曽は昔からよい農耕馬を産したので、駒ヶ岳は古い時代から崇められたのであろう。徳川時代に行者登山が盛んになって、この山は木曽谷をはさんで御岳(おんたけ)とともにますます栄えた。
(中略)
駒ヶ岳が多くの登山者を見るのは、伊那谷側にせよ、木曽側にせよ、里に近いからでも有る。近い代わりに登りが急である。両側とも里のある所は標高六、七百メートルくらいで、そこから三千メートルに近い高さまで登るのだから、急なのは当たり前である。
(中略)
私はこの山頂に二度立った。いずれも戦争前で、最初は伊那から登って木曽へ下り、その次は南の越百山から主稜を縦走してこの山頂に来た。その時はすばらしい天気に恵まれて、四周の眺望をほしいままにした。何よりも立派なのは西方に大きく裾を拡げて泰然とそびえた御岳で、東の方には南アルプスと八ヶ岳、南に眼を移すと、鋭い岩峰の宝剣岳の右に空木岳(うつぎだけ)と南駒ヶ岳の二つが背比べをするように並んで立っている。頂上(本岳と呼ぶ)と中岳の中間はお庭と称する広々した美しい原で、そこをブラブラさまよっていると、時のたつのも忘れた。


山行コース・歩程等

駒ヶ岳ロープウエイ千畳敷駅→(千畳敷)→乗越浄土→宝剣山荘→中岳山頂→
木曽駒ヶ岳山頂(標高2,956m)→(往路を戻る)→
中岳(巻き道)→乗越浄土→
(千畳敷)→駒ヶ岳ロープウエイ千畳敷駅 
(標準歩行所要時間=約3時間30分)

(朝日新聞社の「週刊・日本百名山」から拝借)

やはり、前日、早目に仕事を切り上げて仮眠し、自宅を真夜中に出発したものと思われる。詳しい記録やメモが残っておらず、駒ヶ根高原駐車場に何時頃到着したのか、何時頃のバスに乗車したのか等は、記憶も無く、不明だが、早朝に、駒ヶ岳ロープウエイ「しらび平駅」に到着したのは確かで、林の中で、朝食をとっている写真がある。

駒ヶ岳ロープウエイ「しらび平駅」で朝食

「しらび平駅」から、駒ヶ岳ロープウエイで、数分、
一気に、標高2,650mの「千畳敷駅」まで運んでくれる。

快晴の千畳敷山荘前で、パチリ、

千畳敷カールを横断、暑い、暑い、水分補給

いよいよ、乗越浄土への急登へ

乗越浄土

 

宝剣岳をバックに、パチリ、

中岳山頂(標高2,925m)

暑さで、バテバテ? 
だったような・・・、

木曽駒ヶ岳山頂(標高2,956m)に到着、

 

しばし、絶景を堪能した後、往路を戻る。
中岳は、山頂の南側の巻き道を通過。
乗越浄土から千畳敷へ。
この時期、千畳敷には、高山植物が咲き誇っていたはずだが、
花の写真が、1枚も無い。
当時はまだ、花に対して、まるで興味関心が無く、
花の写真を撮ろうという意識が全く無かったことが分かる。

 

千畳敷をぶらつき、駒ヶ岳ロープウエイ千畳敷駅に、何時に戻り着いたのかの記録、メモも残っていないが、その時間、地元の中学生の学校登山の大集団が下山してきていて、延々と並んでおり、ギョッとなってしまった。行列の後ろに付いたんでは、ロープウエイ乗車、何時間待ちになるのかも知れず、既に、夕刻も間近。思い切って、係員に、なんとかならないか交渉、意外とすんなり、団体とは別の行列に並ばされ、納得する待ち時間で、ロープウエイに乗車することが出来、ホッとしたことが思い出される。

その山旅から25年後の2013年8月には、親しい老いらく仲間2人と3人で、再び、同じコースを、ゆっくりのんびり辿ったことが有ったが、今となっては、木曽駒ヶ岳も、遠い思い出の山となってしまっている。


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