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たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

コノテガシワ(児の手柏)

2023年12月29日 16時30分10秒 | 爺さんの備忘録的花図鑑

これまで、散歩・ウオーキングの途中や山歩き、畑地や我が家の猫額庭等で、やたら、コンデジで、カシャ、カシャ撮ってきた花の写真が、外付けHDに大量に溜まっており、時々、その気になって、不要、無用写真を大胆に削除しながら、散歩、旅行、山行・・・等のファイルに仕訳分類整理をしているところだが、懐かしい写真を見掛けると手が止まってしまったりもする。そんな古い花の写真の中から目に止まった花の写真を引っ張り出して、ブログ・カテゴリー「爺さんの備忘録的花図鑑」に、書き留め置くことにしている。草花に詳しい人からは、「なーんだ、そんな花も知らなかったの?」と笑われそうだが、爺さんにとっては、新情報、新知識、後日、また忘れてしまった時等に、確認したりするのに役に立つ存在になっている。花名を調べたり、知ったところで、ナンボになる分けでも無しだが、脳トレ、ボケ防止の一助になるかも知れない等と、勝手に思い込みながら・・・。


ふっと、思い浮かんだ「コノテガシワ」
「ブログ内検索」してみると、12年前、「OCNブログ人」で初めてブログを開設して間もない頃の2011年8月21日に、散歩・ウオーキングの途中、変わった実を付けた街路樹を見掛けて、コンデジで撮っていたことが分かった。
「へー!、そうだったかな?」
草木花に超疎い爺さん、多分、その時は、「君の名は?」だったはずで、後日、調べて、初めて、「コノテガシワ」という名を知ったのだと思う。
ブログをやってなかったら、写真も撮らなかったろうし、それ以前に、まったく気付かないまま、通り過ぎていたのではないかと思う。

2011年8月21日、散歩・ウオーキングの途中で撮っていた「コノテガシワ」の実。

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2016年9月26日、散歩・ウオーキングの途中で見掛け、撮っていた「コノテガシワ」、

2023年6月5日、散歩・ウオーキングの途中で見掛け、撮っていた「コノテガシワ」の実


コノテガシワ(児の手柏)

ヒノキ科、コノテガシワ属、常緑針葉樹、高木(小低木)
    別名 「センジュ(千手)」
    和名「児の手柏」は、小枝がよく分岐して、子供の手のひらに似ていることに
    由来している。
原産地 中国、
    日本には、江戸時代に渡来した。
樹高 1m~20m
   中国では、墓地や寺院に植樹され、樹高20m程になるが、
   日本では、公園樹、街路樹、庭木として、小低木の園芸品種が多い。
花色 雌雄同株で雄花は黄褐色、雌花は、淡紫緑色
   小花を沢山付ける。
開花時期 4月頃~5月頃
     花後、1cm~2.5cmの球状で角(つの)が有る独特の実を付ける。
     青緑色から、熟すと褐色に変わり、裂開して種子を落とす。
花言葉 「一生変わらない友愛」


因みに、
「コノテガシワ」の花は
こんな感じのようだ。
👇
(ネットから拝借画像)

コノテガシワの花

まだ、実際に、見掛けて撮ったことは無く、
来年の春、しっかり見て見ようと思っているところだ。


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ジイチャとバアチャ その3(再)

2023年12月29日 09時55分17秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

その3
「ジイチャの下駄」

昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出かけていたような、孤高の?年寄りだったと思っているが、断片的には、あることに一生懸命になっている姿を見せていたことも有った。
その一つが、「下駄(げた)作り」だ。
どこで技術を習得したのかは不明だったが、木工、工作が得意だったようで、天気の良い日等、玄関先に莚(むしろ)を敷き 専用の作業台、治具まで自分で作ってしまって、黙々と下駄作りをしていた。
当時の農村では、まだまだ、下駄を履いている人が多かったが、凸凹の道路事情もあり、よく割れてしまったり、歯が磨り減ったりしたものだ。
下駄は、隣り町の下駄屋(「靴屋」のことを、そう呼んでいた)で、買える時代ではあったが、子供が多かったりする、大家族の家では、おいそれと新調出来る訳ではなかったのだと思う。
そんな時代、「ジイチャ」は、せっせと下駄を作っては、親戚や近所隣りに、プレゼントし、大いに喜ばれ、感謝されていたようだ。
おそらく、近所の家から、倒れたか切り倒されたかの桐の木を譲り受けたり、村落に有った製材工場から不要な木片を貰ってきて、それを材料に、下駄作りをしていたのだと思う。
電動工具等一切無い時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で切り刻み、鉋(かんな)、鑿(のみ)を 器用に使いこなし、下駄に仕上げていく工程を、M男は、遠巻きに眺め、感心していたものだった。
当然、M男の家族は、「ジイチャ」の作った下駄を履くことになり、家計的には、大いに助かったはずであるが、M男自身は、下駄屋で買う下駄と比べ、やはり、見た目余り良くないため、出来れば履きたくない等と思ったことも有った気がする。その都度、家族から、「贅沢言っちゃいかん」と叱られ、しぶしぶ履いていたような記憶も有る。
それに、鼻緒(はなお)は、藁(わら)を捩って、端切れ(はぎれ)を巻きつけて作ってようなもので、雨水に濡れる等すると、直ぐにも破れたり、千切れてしまい、その都度、修復する手間も掛かった。
記憶は曖昧になっているが、「ジイチャ」が、そんな下駄作りをしていたのも、もしかしたら、ほんの2~3年間だったのかも知れない。
M男が小学生高学年になる頃には、当時、短靴(たんぐつ)と呼ばれたゴム製の靴が普及してきて、子供達の主な履物は、下駄から短靴に変わっていったからだ。

さらに、「ジイチャ」が下駄を作っていた時期とは少しずれたかも知れないが、M男は、中学生になり、詰襟の学生服と学生帽を身につけるようになった頃のこと、ある日から 男子学生は、足駄(あしだ、高下駄)を履いて通学するようになった。おそらく、クラスの誰かが履いて、得意気にしていたのを見て、我も我もと、一気に流行ってしまったんだと思う。M男も、親にせがみ倒して買ってもらったような気がする。
荷車、リヤカーが通る農道は有っても、自動車を所有している家等無かった山村のこと、「通学路」等という決められたルートも無く、山沿いの道であろうが、用水の土手であろうが、畦道であろうが、自由に通学していたが、学校から最も遠い集落のM男達は、自転車通学を認められ、一番しっかりした田んぼの中を真っ直ぐ突っ切る、やや広い農道を通学するようになっていった。
しかし、その農道とて、舗装もなく凸凹で、雨が降れば、たちまち水溜りが出来、泥んこになる道路、足駄(高下駄)を履き、片手に傘では、何度、つんのめったり、横倒しになったことか 知れない。
でも、多少の打撲やすり傷を負っても、大騒ぎする風でもなく、赤チンメンソレを塗っておしまいという具合だった。
当時は、学校も、地域も、家族も、そんなことは 日常茶飯事、大騒ぎするでも無し、当たり前だという風潮だったような気がする

(つづく)

(ネットから拝借画像)

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