「見仏」と「札所巡り」と「仏教少々」

仏像鑑賞と札所巡りと受け売りの仏教を少し

築地本願寺、法話2013.3.1

2013-03-01 23:11:29 | 仏教
今日は、奈良のほうの住職。
年齢が35歳前後。若い。

全般的に、話と話のつながりが見えてこないときも
ときどきあったような気もする。
苦労と苦悩の話、ベトナムの僧侶の話、孤独と孤立の話など、
つながりがよくわからないこともあった。
でも、まあ内容のある法話だったと思う。

イントネーション的には、さほど関西なまり
というわけではなく、標準語的に話されていたよう。


奈良のほうでは、門徒さんの家族の亡くなった
月命日に毎月、門徒さんの自宅に出向いて、
実質的には世間話(法話)をして回るというのが、
一般的という。

門徒さんとの話を通じて、
存在の根拠(自分はなぜいるの?)、
それは、縁起(つながり)。
自分が存在するのは、父母を含め先祖や、
いろんな人のお世話の上になりたっている。

このつながりの例として、ドラえもんの話。
独裁スイッチというものがあり、
自分が気に入らない人間をこの世から消滅することができる
というもの。
のびたが、ジャイアンやスネオにいじめられ、
いなくなればいいと、スイッチを押す。
ジャイアンやスネオは、その存在が自分の前からなくなる。
またあるとき、家族や周りの人たちと折り合いが悪くなって
いたとき、みんないなくなればいいのにと思い、
手をのばしたときに、たまたまスイッチに手がふれてしまう。
みんないなくなってしまう。
最初はお店に行ってすき放題していたが、
他の人と、かかわり、つながりがなくなってしまう。
一人さびしくなる。

この道具(スイッチ)は、独裁者をこらしめるための
ものとのこと。自分にそぐわない人がいてこそ、
張り合いがあるし、活力がでる。
結局、いやな思いをする人がいて、
一方では、自分に心地よい人がいて、それらを含めて
縁起であり、つながりである。

この僧侶の身の上話。いじめに近い話。
中学の頃、部活を何度かさぼったら、
部活仲間が冷たくなった。
部活だけでなく、クラスにも波及していやな思いを
したことがあったという。学校では、自分の居場所が
なくなっていった。
それでも、家族と接することで、自分の居場所を
感じることができていた。
居場所をあたえてくれるものがあるなら、受け入れて、
居場所にいさせてもらいましょう。
阿弥陀さんのご加護があるなら、
浄土に導いてくださるなら、それを信じましょう。

存在の意味についても、阿弥陀さんが教えて
くれるでしょう。



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