自己と他者 

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麻生首相誕生と民主主義の未熟

2009-03-01 00:58:39 | 日記・エッセイ・コラム・メモ

麻生は、すでに『職業としての政治』家=衆議院議員となってから20年以上経過している。

彼はその20年以上の月日の間に、何回選挙を行い、その都度、国会議員(衆議院議員)に、どんな目的(定性的)と目標(定量的)を掲げ、なりえたのだろう。

衆議院議員一期4年として二期8年やって、その掲げた目的と目標を達成できなかったのならば、自己認識で気が付き、「自分には才能がない、これ以上国民から税金を給与としてもらいまた会議などをして税金を費やすのは迷惑をかけるな」と、やめるべきではなかったか。

そして、もし達成したのなら、もう役目を終えたのだから、成果を引き下げて、身内の一企業に帰すべきだったはずだ(といっても親から譲り受けた相当でかい規模の企業のようだが)。

また、この間に何故、あたかも税金や国家権力をもった個人のライフワークのごとく、彼に二桁年も『職業としての政治』を許してきたのか。

これも明白なことで、有権者がおり、その中の彼に一票を投じた投票者がいるからである。さらにこれは明白なことではないが、その中には土建屋がいたり、彼の親族の関連する企業で働く社員がいたりしたかも知れない。

かくして、こうして、20年以上も職業として、いやいや、ライフワークとして、税金で生活し、権力をふるい、我々の未来を形成する・方向づける人間が生まれているのである。

このことは、衆議院議員・参議院議員(こちらは一期6年)合わせて700人以上いる内、9年以上議員を行っている議員(背後で後押しした投票者全員にも一責任、投票に行かなかった者全員にも責任がある)が何人・何割いるか正確な数字は知らないが全員にいえることである。

伊藤真著『伊藤真の憲法入門』、同著者『伊藤真の図解憲法のしくみがよくわかる本』を読みながら、こんなことも考えてみた。

裁判員制度を導入する前に、中学校で、岩波のモンテスキュー『法の精神』を教科書として配って輪読を義務化するべきではないか。それに新聞で、裁判後記者会見のお願いをするよりも、報道会社は裁判員制度から考える視点で、『法の精神』の解説連載をするべきではないか(読む人少ないのかな)。

~するべきのオンパレードだ。