J's日誌

中小企業診断士、経営管理修士(MBA)、事業再生士補、AFP。某NPO法人フットサル連盟副理事長。

私の履歴書(30)これからの自分?

2007-06-30 05:40:58 | Autobiography
さて、ここまで来て、これから自分はどうするのか。

いろいろ考えていることや野望はあるのだが、
それはまだ明かすつもりはない。。。(+_+)\バキッ



ただ、今回書きながら自分の半生を振り返ってみて、
自分は生まれ育った場所や小さい頃に形成された
価値観など、自分のルーツを大切にして生きている、
そういう人間なんだと改めて思う。

北海道に生まれて北海道に育った道民の友人が
北海道を大切に思うのと同じように、自分は
東京で生まれて東京に育った、そのルーツをとても
大切にしている。それはこっちに来て再認識した。



最近、団塊の世代に北海道への移住を推進して、
経済効果があるとかないとかの話が出ているが、
そんな簡単なものではないだろう、と言いたい。

個人のルーツ、生まれ育った環境との関係性に配慮
することなく、移住などという大事を、他人が安易に
勧誘するようなことは、少なくとも自分はしたくない。

ただ、自分が実際に来て住んでみたら案外悪くない、
それでも自分にとってのルーツはあくまでも故郷の
東京に残した上で、ということだけは言えるだろう。



「ずっと北海道に住むのか?」ということを
時々聞かれるけど、それだって実際分からない。
人生は一度だけ、やりたいようにやるだけだ。

今までの人生と同じように、その時々の環境で、
自分が自分の責任において判断するだけだし、
北海道にずっと住まなければいけない、と
何かに縛られているわけでもないので。。。

ま、その辺は今後のJ's日誌にご期待くださいm(_ _)m
1ヶ月に渡り、ご愛読ありがとうございました。

(とりあえず完・明日から通常の日誌に戻ります)
Comments (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(29)北海道に来て思うこと

2007-06-29 06:00:03 | Autobiography
さて、北海道に来て3年ちょっとが経過した。

期待通りだった部分も期待外れだった部分もある。
ただ、全体としてはまあ悪くないんじゃない
というのが自分の正直な感想だろうか。



期待通りだった部分。

<夏は涼しくて過ごしやすい>

当たり前のことなのだが、住んでいる地域の気候までは
さすがにどんな人でも変えられない。東京は大好きだが
あの夏の暑さの中で毎日スーツを着て通勤する生活は、
東京にいる限り避けられないし耐え難い。そういう意味で
住む場所を変えてでも、この気候を得られたのは良かった。

#アメリカに野球を観に行った時、内野に張られた天然芝の
 ボールパーク以上に感動したのが、カラッと乾いた気候だった。
 あの気候だからこそ、お日様の下で美しいゲームが展開される。

<冬だって何とかなる>

少なくとも札幌にいた3年間でいえば、冬の寒さとか
雪で困ったことはほとんどなかった。まあそれは
近年の暖冬傾向によるものなのかもしれないし、
ここ留萌では横から雪が飛んでくるというくらい
風も強いそうなので、また今年の冬を経験してみないと
何ともいえないのだが。。。今のところは問題なし。

<食べ物は何でも旨い>

これは今さら説明する必要もないだろう。
魚も野菜もそこそこ安く新鮮でどれも旨い。
毎日口にするものだから、これは重要だ。

ワイン地酒もいいのがあるし、ニッカの
シングルカスクなんてのもなかなかだ。
最近で言えば、留萌の米もかなり美味い。

<スポーツ、フットサルも安く楽しめる>

札幌市内学校開放の体育館は1時間600円。
職場の講堂だったらタダでフロアを使える。

そして安く出来るからこそ、週に何回も練習できる。
これは自分の選手人生を考えた時、決定的に重要だ。
もちろん、フットサルはフロアでやるものだと思っている。



期待と違っていた部分は書かない方がいいかなぁ。。。

ちょっと書いてみるが、気に障った方にはスイマセン。
それは皮肉なことに、人の気質に関する部分なのだ。

<自ら引っ張っていける人が少ない>

皮肉なことだが、一緒に仕事をしていて
確かにやりやすいことはやりやすいのだが、
自ら新しいことをやって引っ張っていこう、
という野望とかリーダーシップのある人には
なかなかお目にかかれない。

というより、むしろ何かと他人任せというか
大きなものに依存して、自分自身の判断とか、
決断で物事を決められない人が多いように思う。

#これに歴史的な背景があるのは、後で知ったこと

一番ショックだったのは、辞めた会社の先輩で
現在は北海道大学教授になっている人からの一言。

「基本的に、アンビシャスを持っている若者は
 大学進学の時点で道外に出るし、北大生だって
 卒業の時点で道外に就職を求めるでしょう。
 地方で就職している若者にそんな自立心を
 求めること自体に、無理があるのではないか。」


これをクラーク博士が聞いたらどう思うだろうか?



<グローバルな視野を持っている人が少ない>

何と言うんだろう、物事を考えたり議論するときに
北海道視点より大きな視点を持てない人が多いと思う。

日本経済を、世界経済を自分達がどう牽引するか、と
いう議論を毎日していたK大のゼミ仲間を思い出すと、
せいぜい北海道の利害しか考えられない人が多い。

#北海道を出た経験のない人が多いからだろうか?

※余談だが、ミスター水曜どうでしょう、鈴井貴之氏の
 この文(最後の2ページにある)を、特に道産子の方は
 読んでみてほしい。「北海道の中にいる人間はもっと北海道
 を客観視しなければいけない時代に突入してきている」
 「一度出て客観視して、いろんなことを感じて戻ってきた
 方がいい、北海道の中だけでは井の中の蛙になってしまう」

 という意見には全く同感である。



要は、自分は今現在札幌や留萌に住んでいたとしても、
札幌や留萌をどうする、北海道をどうする、だけでは
なくて、日本を、世界を自分がどうしていきたいのか。

そして社会に対して自分は何が出来るのか、ということを
意識の中に置いて発言するから、地方に行けば行くほど
周囲の人との間でギャップを感じてしまうような気がする。
これは、東京にいたときは全く感じなかったことだ。

#もちろん、全員がそうだというわけではない



それでも、今の自分の立ち位置というか、
スタンスみたいなものは悪くないと思っている。

一見、北海道にべったり暮らしているようだけど
いつでもフットワーク軽く東京にも関西にも行くし、
フットサルの世界選手権では台湾にも気軽に飛んだ。

そう、たまたま、今仕事の関係でここに住み
ここに働いているだけなんだ、と思う。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(28)フットサルのこと

2007-06-28 05:26:58 | Autobiography
プーの3ヶ月間、いったい何をしていたのか。

答えは、標題のとおりフットサルである。
2000年頃から始めていたこのスポーツに、
いい年をしてどっぷりとハマっていたのである。

#あの頃、フットサルで日本リーグプロチーム
 が出来るなんて、全く想像出来なかったな...
 話は飛ぶが、山戸さんのコラムは的を得ている。



当時、関東リーグのGALO☆FC TOKYOの監督兼選手、
横田年雄さんが主宰する横田塾に週2で通い、
その他にも大田区体育館などのフロアコートで
行われる個人参加型フットサルに参加していた。
もちろん自分のチームの活動とは別に、だ。

この3ヶ月間、週3~4回は練習していたかも。
それ以外にもジムでのトレーニングなどもやり、
ほぼ毎日のように身体を鍛え直していたはず。



何故、フロアコートを選んで活動していたのか?

それはもちろん、北海道でのフットサルコートが
人工芝中心の関東とは異なり、体育館中心だからだ。

北海道でフットサルが盛んなのはもちろん事前に
リサーチ済だったし、どこに行っても冬場は外で
ボールが蹴れないのだからフットサルしかないことも
分かっていた。だから体育館の床に慣れるため、そして
競技志向の練習メニューを会得するために通い続けた。

結果としてこの経験は、札幌に来てからのチーム練習の
基本になっているし、競技系の人脈形成にもつながっている。



ただ、仕事をしないということは収入が全く入らずに
支出ばかりが増えるわけで、この3ヶ月間では貯金が
結構減ったのを覚えている。

ある日の夜中のこと。夢の中で貯金通帳の残額が

「 ¥25 」

となっていて、脂汗をかいて飛び起きたことがある。
やっぱりちょっとはバイトでもすれば良かっただろうか?

いやまああんな経験はなかなか出来ないし、人生の中で
ああいう時期があったのは良かったんじゃないかな。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(27)転職して北海道へ

2007-06-27 05:18:07 | Autobiography
こうして、前年にトルコ-セネガルを見ていた
同じ時期、前年に受けるはずだった試験を受けた。

採用枠は1人、応募者は5人で自分以外はUターン
就職ぽい人ばかりだったが、自分としても試験前
には土日と大学の図書館で勉強したり、それなりに
準備をして臨んだので、正直言って自信はあった。

まあ、自分の命がかかっているので必死だった。



筆記試験で5人から3人に絞り込まれた。ここでも
自分以外の2人はUターン組という感じがありあり。

最終面接で、「他社にいるあなたの目から見て、
当社に何が足りないと思いますか」
という質問が
あり、事前に準備していた決め台詞をガツンと発した。

「危機感が足りないと思います」

この答えが効いたのかどうかは分からないが、
結局Uターン組2人は落ち、自分が採用された。



10月に無事採用が決まって、今度は退職手続き。

会社を辞めます、と上司に言ったときは
全てがクリアになったような清々しさを感じた。

それなりには慰留されたが、もうこの会社で第一線で
活躍し続けられるとも思えなかったし、何よりも
ここ数年の社内の雰囲気には耐えられなかったのだ。



その年末に退職して、翌年4月1日に配属される
までのちょうど3ヶ月間、プー生活を送っていた。

何故年末なの?とは言われたが、年度末の忙しさは
嫌というほど知っていたので、収入がなくなっても
その繁忙期に入る前に逃げ出したかったのだ。

実際には年が明けてから「バイトしないか」とか
つまらないオファーがあったが、これまたバイトが
ボロ雑巾のように使われている実態を見ていたので
絶対に目先の小銭には釣られまい、と断り続けた。

#大体、辞める人間には辞めるだけの理由があるのに、
 その気持ちも推し量れずに目先のノルマとか作業しか
 見ることが出来ないから、そんな無神経かつ非常識な
 オファーを出してくるのだ、と同僚を哀れにすら思った。



不思議と、北海道へ行くことの不安とか
そういうものは全く感じなかったし、
そもそも北海道が遠いという感覚もなかった。

だって、飛行機に乗れば1時間半で着く。
新幹線でいえば名古屋だ。大阪より近い。

そういう、時間距離で物事を考える習慣が
ついたのも、出張で全国を飛び回った経験
からなのかな、と思う。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(26)辞めよう、今年こそ

2007-06-26 05:51:47 | Autobiography
というわけで2002年はW杯のおかげで乗り切ったのだが、
2003年春には再び辞めたいモードが襲いかかってきた。

症状はほぼ同じ。ノルマに追われてやる気が出ず、
作業も山ほど残って、深夜2時とかに帰ってからも
酒を飲まないと眠れない。ワインや焼酎を1本空け、
睡眠3時間くらいでまた始発で朝7時前には出社する。

おまけに、営業ノルマはあと数年で主任に昇格したら
間違いなく今の倍になる。いったいクリアできるのか?

そんな状況で気分も落ちそうになり、再び会社が提携
するカウンセリングサービスを使ってみることにした。



確か、社会経済生産性本部のメンタルヘルス研究所
というところだったと思う。渋谷駅から徒歩数分。

今度のカウンセラーは、精神科の女医だった。
#結構美人だったような気がする(+_+)\バキッ

一通り、自分の症状を伝えた後、事前にやってみた
簡易テストでは鬱病の症状にかなり当てはまるような
気がしたので、「ぶっちゃけどうすか?」と聞いた。



女医は自分に向かって微笑みながらこう言った。

「それだけ自分の状況をきちんと客観的に
 語れる人は鬱病ではありません。あなたは
 鬱病にはならないタイプだと思いますよ。
 ただ、」


 ただ?

「あなたのお話が事実だとすれば、飲酒量がちょっと
 多い気がします。ほぼ毎日その量を飲んでいるなら、
 軽い依存症になりつつある可能性はありますね」


 そっちかぁ。。。(┰_┰) ま、そうかも知れない。

「あなたならいくらでも転職先はあると思いますよ。
 今の時代、仕事と生活のバランスを取れるような
 環境に自ら変えることも必要だと思います」


 へい。

「くれぐれもお酒は控えめに(微笑)」

 #だんだん何の相談だか分からなくなってきた。。。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(25)6月の勝利の歌を忘れない

2007-06-25 05:41:46 | Autobiography
2002年6月に、いったい何があったのか?

標題を見なくても日本国民なら誰でも知っている。
そう、2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPANである。



話はその年の5月くらいに遡る。

日本で行われるワールドカップだ。
チケットなんて取れるわけがない。
ましてや、日本戦なんて。。。

もちろんそんなことは分かっていた。
それでもあきらめたらそこで試合終了だ。

申し込むことの出来る、いくつかの方法で
正規チケットの抽選に申し込んでいた。



ある日、FIFAから突然メールが届いた。

文面はよく覚えていないのだが、自分の
拙い英語力で読んでみると、どうやら
申し込んだチケットが当たったように読める。
そのチケットというのは。。。

 TST-7F JAPAN

これは、日本という特定チームの試合を7試合、
つまり1次ラウンド3試合と決勝トーナメント
4試合、決勝まで全てをパックにしたものである。

日本が途中で負けた場合、負けた相手が勝ち進む
試合をそのまま見ることが出来る、7試合完全保証

カテゴリー1、値段は日本円換算で35万円くらい
だったと思う。安いと思うか高いと思うかは人による
だろうが、自分としては特に高いとも思わなかった。



そして、ついに自国開催のW杯が始まった。

もう、それまでの落ち込んだ気持ちは吹っ飛んだ。
毎日の試合結果とこれからの試合を考えていると、
仕事のことなんて正直どうでもよくなったのだ。

平日の試合はフレックス退社でスタジアムへ直行。
最小限の有休を使いながら決勝まで全試合見れそうだ。

ふと、準々決勝の日程を見ていて気がついた。
6/22の20:30から大阪・長居スタジアムでやるらしい。。。
ホテルを予約するときになって、手帳に何か書いてある。

6/23 試験

何だっけこれ?(+_+)\バキッ



もちろんそれが何を意味するかは分かったのだが、
もう試験どころではない。ワールドカップなのだ!

こうして、自分は転職の試験よりも日本がベスト4
をかけて戦う準々決勝を選んだ、はずだったのだが。。。



6/22大阪。長居スタジアムでは何故か日本戦ではなく、
トルコ対セネガルという渋いカードが行われていた。

おかしい。何で自分はこんなところにいるんだろう?
ま、タコ焼き旨かったからいっかぁ(+_+)\バキッ 

#ちなみに延長Vゴールを決めたのはイルハンでした(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(24)本気で転職しようと思った夜

2007-06-24 08:02:46 | Autobiography
それは2002年の4月だったと思う。

社内の様々な変化に戸惑いつつ、年度末からの
締切と戦っていて、どうにもやる気が落ちてきた。

毎朝仕事には行くのだが、PCに向かってもなかなか
やる気が出ない。前向きに物事に取り組むことができない。



同じような症状の人間が結構いたのかも知れないが、
会社はメンタルヘルス相談、のようなカウンセリングを
外部の機関と提携していて、会社にも全く知られずに
無料で相談を受けることが出来る仕組みになっていた。

予約を取って、仕事帰りの夜にカウンセラーを訪ねた。
確か、飯田橋あたりにあるクリニックだったと思う。



自分の置かれている状況、悩んでいること、などを
30分くらいまくしたてただろうか。黙ってじっと
聞いていた心理カウンセラーなる女性は、こう言った。

「ちょっとつらそうですね。そうやってご自分で話されて
 今の職場が合わないと思ったのであれば、それはきっと
 職場を変えるいいきっかけなのではないでしょうか。
 転職を考えてみるのも決して悪くないと思いますよ。」




なるほど、真面目に転職を考えるか。。。

その頃、ネットでいろいろ調べていたら、まさに
今いる会社の、中途採用の試験案内を見つけた。

こういうのがあるんだ?と思い、とりあえず
申し込むだけは申し込んでみた。気になる
試験日は今でも覚えている、6月23日だった。

しかし、自分はその日、試験を受けなかった。
それは何故か?いったい何があったのか?(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(23)ヘッドハンター

2007-06-23 07:41:58 | Autobiography
時期を前後して、いわゆるヘッドハンターから
転職に関する誘いが勝手に入るようになった。

どうやって調べてくるのか分からないが、その
時点で著書が(共著とはいえ)5冊くらいあったし
自分の成果は業界団体のサイトなどにも登録して
あったので、探せないということもないのだろう。



しかし、ヘッドハンターの持ってくる案件は
どうも自分の志向には合わないことが多かった。

というのも、自分の伝え方が良くなかったのかも
知れないが、同業他社の求人ばかり持ってくるのだ。

新興の同業他社で今と同じような仕事をして、今より
良い条件を得られるなんてことがあるのだろうか?



まあ、それでも紹介された2社で最終面接までいった。
年収ベースで言えば、ちょっと多く出してくれる感じ。

しかし今より高い待遇を得ようとすれば、今よりも
さらに厳しいノルマを果たさなければならないだろう。

知名度が今より低い新しい会社で、そんなことが長く
続けられるだろうか?と考え、最終的にどちらもお断りした。



ヘッドハンターというのは、求人と求職の
マッチングをして生活している人たちである。
そこには、ヘッドハンターなりの意思も働く。

例えは変だが、松坂大輔の代理人が条件を
つり上げようとして契約が破綻しかかった、
そんな話も代理人の思惑を考えればよくわかる。

要は、完全に自分の代理人として自分の意思どおり
に動いてくれるハンターに出会えればラッキーだが、
現実にはそうではないケースも多いということだ。(続く)

注:加えて、自分がどういう転職をしたいのか、を
  ヘッドハンターときちんと話し合っておかなかった
  ことも、ミスマッチの原因だったのだろう、と思う。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(22)成果主義と長期休暇

2007-06-22 05:18:26 | Autobiography
新シャチョーになって、給与体系についても
成果主義がかなり徹底されるようになった。

年収ベースで言えば、同期でもトップとビリでは
だいたい2倍くらいの差がつくようになっていたし、
ボーナスなどはもっと極端で、平均を100とすると
トップは約300。ビリは0、一銭ももらえなかったはず。

それも、諸手当を極力なくし、成果に応じて配分しよう
ということになっていったので、家族手当などもボーナス
の原資に組み込まれて300から0の間で配分されたはず。

つまり、家族が何人いたとしても、家族手当含めて0
というケースも(成績がビリになるほど悪ければ)あった。



ただ、成果主義が強調されればされるほど、逆に
自分の中で気持ちが冷めていったのも事実である。

確かにトップを取ればビリの倍の年収がもらえる。
しかし、そのためには、ただでさえ過労死しそうな
くらいの忙しさの中、どれだけ努力すれば良いのか?
売り上げトップを目指すためにこの会社に入ったのか?


つまり、追加的にもらえる所得と、そのために追加的に
求められる労力とが、自分の中ではバランスされない
ように感じ始めてしまったのだ。

逆にいうと、ビリであってもそれなりの年収にはなる。
しかし、ビリでもいいと思っている人間がいる組織は、
明らかに全体のモラルを下げるだろうし、そう考えると
自分なんかはもうこの組織にいない方が組織のためにも
良いのかも知れない。。。と思うようにすらなってきた。



もうひとつ。

この会社では、毎年の有給休暇の他に、2週間連続で
長期休暇を取ることが出来た。いわば、他社でいう
リフレッシュ休暇を、毎年取ることが出来たのである。


それは、バブル期に同業他社が新規参入し、給与水準の良い
他社に引き抜かれた社員が多発したため、給与については
上げられないけど待遇面で改善しよう、どうせ年度末前後は
忙しいけど夏場は暇ができるから、ということで導入された
ものだったと聞いている。



この休暇制度については忙しい社員が取得できない、という
声があり、それは個々の運用の問題だという反論もあったが、
新シャチョー(※地方出身だったはず)が改革を決断した。
それは確か、こんな感じの変更だったと思う。

2週間連続の休暇制度を改め、お盆の時期に1週間を全社
休業にする。残りの1週間については従来通り、各自が
取得できる時期に取得する。ただし自己研鑽など、目的を
持った休暇に限定する。




これによって、サッカーW杯を2週間見に行くとか、
メジャーリーグのボールパーク巡りを2週間、という
ような休暇の使い方は出来なくなった。

また、東京出身の自分にとって、特に休みたくもない
お盆の時期、どこにも行くところがないし行くにしても
運賃も高い時期に、1週間休まなければならなくなった。



それまで、ヘッドハンターから転職の誘いがあっても
この会社にとどまっていよう、と思う最大の理由が
有給休暇以外に得られる2週間休暇の存在だった。

#こんな制度がある会社は、他ではちょっと知らない

どんなに年度末が忙しく、残業が月に200時間を超えて
会社に住んでいるような状況だったとしても、山場を
超えれば2週間休める、その思いだけで、毎年毎年
ツラい時期を頑張って自分は乗り越えてきたのだった。

その2週間が1週間ずつ分断され、しかも休みたくも
ない時期に全社で一斉に休まなければいけないという。
急速に、会社に対するロイヤリティが落ちていった。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(21)シャチョー交代

2007-06-21 05:17:57 | Autobiography
2000年か2001年くらいのことだったと思う。

シャチョーが交代し、会社の雰囲気が
明らかにそれまでとは変わった。

要は、それまでは割と自由でノルマさえ
こなしていれば、結果さえ出していれば
途中のプロセスについては問われない、
そんな感じだったのだが、結果はもちろん
仕事の進め方、プロセスについても厳しく
チェックされるようになっていったのだ。

特に、社内でISO9001を導入してから、
ルールは厳格に適用されるようになった。



多分、いろいろ社内に問題があったからこそ
そのような改革をすることになったのだろうが、
移行する過程では現場でもかなり混乱が起きた。

例えば。。(あくまでも当時の自分の記憶の範囲だが)
プロジェクトの契約に関する重要な打合せを行ったら
社内で情報共有するためのサーバに議事録のファイル
を残し、それについて電子決裁で上司の承認を得ないと
次のステップに進むことは出来ない。

#こう書いてしまうと当たり前のルールのようだが、
 それまでは口頭でその辺の権限が担当者に付与
 されたりもしていたのだ

こうしたルールを守らずに手続きを進めたということで
(大型の受注を獲得したとしても)担当者が社内処分
されたりするケースが増えたように記憶している。

かといってノルマが減るわけでもなく、結果はそれまで同様に
求められる中で、仕事の進め方についても細心の注意を払って
行わなければいけない。現場のストレスは確実に増えた。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(20)サッカー観戦のこと

2007-06-20 05:19:53 | Autobiography
トライアスロンは会社に入って数年でやめた。

やはり、レース前後で休暇を取れるのかとか、
きちんとしたトレーニング、コンディショニング
など出来そうになくなっていたのがその理由だ。

そして、自分でするスポーツはジムでの
マシントレーニング程度になっていった。。。



自分でスポーツをやらなくなると、テレビで
行われているスポーツにも興味が湧いてくる。

ドーハの悲劇などもテレビで見てはいたが、
心揺さぶられたのはアトランタ五輪の最終予選、
クアラルンプールでのサウジアラビア戦あたりか。

#忘れていたが、1996年3月24日のことらしい

テレビで見ながら自分もポロポロ泣いていて、
家族は不思議に思ったらしい。それくらい
久しぶりに、サッカーに気持ちが入っていった。

そして、やはり現場に行かなければいけない、と
思うようになったのはアトランタ、マイアミの奇跡。
会社の人が何人かで休暇を取って現地に行っていたのだ。



その後、2002年のW杯くらいまで、国内の代表戦は
ほとんど全て、現地で観戦した。(W杯本大会含む)

ソウルもジョホールバルもフランスW杯も3試合行ったし
2002年日韓は決勝まで、日本戦4試合を含む7試合生観戦。


1999年からは、生まれ育った東京にもJクラブが誕生し、
J2行脚、そしてJ1昇格という喜びを、ビッグスワンが
出来る前の新潟市営陸上競技場で味わうことが出来た。



2003年、King of TOKYOと呼ばれ、長きに渡ってチームを
牽引したアマラオが東京を退団、移籍することになった。

最後の試合になった、香川県丸亀での天皇杯の帰り便、
偶然同じ飛行機になって羽田でアマラオと写真を撮り、
長い間お疲れさまでした、と言おうとしたそのとき。

「オツカレサマデシタ」とアマラオが言うではないか。

それはこっちの台詞だよ、と言いそうになって
そのまま言葉が出ず、またちょっと涙が溢れてきた。


そのときの写真(羽田空港ロビーにて)

と同時に、これでサッカー観戦についての一つの時代が
終わった、北海道に行って東京の試合が見れなくなっても
もうあまり悔いは残らないかも知れない、と思った。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(19)1996年に降りかかったこと

2007-06-19 05:35:06 | Autobiography
最初の就職先において、自分の仕事は
必ずしも順調なときばかりではなかった。

特に、1996年には父親に突然胃癌が見つかり、
胃を全摘手術して長期に渡って入院・闘病生活。
いったん退院してからもまた悪化して再度入院。

さらに、その間に祖母が亡くなり、家族を取り巻く
もろもろの状況は大変厳しく、実際のところ仕事を
いつもどおりにこなせる精神状態ではなかった。



入院中の父の見舞いや、付きっ切りになっている
母の疲労なども気になり、たまっていた有休で
しばらく休むか、休職なども真剣に考えたほどだ。

思わず、「しばらく休ませてもらえませんか」
と当時の上司にお願いしたことがある。



しかし、そのときの上司は認めてくれなかった。
彼はしばらく考えた後、難しそうな顔をして言った。
「これは天が君に与えた試練だ。今は頑張れ」

このとき、自分は気づいてしまった。
この人もいっぱいいっぱいなのだ、と。

多分、この人は本心からそう言っているのではない。
この会社が、この人を取り巻く環境が、下世話な
言い方をすれば売り上げノルマとかそういうものが、
そういう発言しか許さないのだ。そういう会社なのだ。



結局、有休もほとんど使うことなく、
営業ノルマも何ら変わることなく、
いつもの年と同じように仕事をこなした。

この年を境に、自分の表情から喜怒哀楽の
感情が消えた、と言われるようになった。

この年に起きたこと、この時期にとった
上司の、そして会社の自分に対する対応は、
ずっと自分の心に棘のように刺さった。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(18)SCTBプロジェクト

2007-06-18 05:40:50 | Autobiography
実を言うと、就職してその出張で行くまで、
北海道には一度も行ったことがなかった。

それが大谷地にある某クライアントのおかげで
10年で100回、多い年は年に20回、月に6回も
札幌に行くことになった。確か20回行った翌年は
スターアライアンス系のエリート・ステイタス
獲得できたはずだ。



仕事の中味はここには書けないが、札幌にとって
非常に大きな影響を与えるプロジェクトだったのは
間違いないだろう。

その仕事に最初から最後まで、約10年間に渡って
関与できたことを誇りに思っているし、今の会社に
転職するに当たってもそのプロジェクトの成果が
評価されたのだろう、と勝手に思っている。



札幌に出張で来ていた頃の印象だが。。。

名古屋や大阪のクライアントは、東京から
打合せに来たというとすぐファイティング
ポーズを取るというか、構えたところがあった。

それに比べると、札幌のクライアントは穏やかで
仕事がしやすかったし、お互いにリスペクトして
長期的な関係を築くことが出来たと思っている。



札幌人、北海道人の全てがそうだとは思わないが、
そういう、仕事のやりやすさも転職にあたって
北海道を選んだ一つの理由であるのは間違いない。

転職して北海道に行くことになったとき、何でまた
そんな遠くへ?と言われたこともあるが、東京以外で
自分にとっては最も親しくなっていた地域だったし、
転職して東京を離れるとすれば、北海道以外の場所は
全く考えられなかったのだ。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(17)出張で全国を回る

2007-06-17 06:11:35 | Autobiography
最初の就職先では全国にクライアントがいた。

なので、入社して早々に地方出張の連続。
茨城、大阪、栃木、福島、新潟、和歌山、
そして札幌。。。札幌については次回触れる。



基本的に、入社1年目から一人前として、会社を
代表してクライアントに対峙しなければいけないし
そういう意味では全員が会社の看板を背負ったプロ。

だから、相手にナメられないよう、スーツや鞄、靴や
時計など身につけるものにも気を配ったし、資料の
作り方、見せ方もセンスを問われるので気を使う。

#スーツは給料の3分の1以上2分の1以下が相場。
 つまり、初任給20万の新人でも、最低7万程度のスーツ
 でなければクライアントにナメられる、というわけだ。



また、プレゼンテーションは何度も事前にリハーサルを
してから臨むし、どんな質問が出てもすぐに答えられる
よう、膨大な資料を収集・分析して常に準備しておく。

そう、この仕事は地味だがとにかく時間がかかる。

入社してから10年間、月の残業時間が100時間を切ることは
ほとんどなかったのではないか。とにかく忙しい会社だった。
もちろん、残業代はもらえたので貯金だけはたまったのだが。



そんな生活をしていると、出張時の移動時間は息抜き
というか、気を休めることのできる貴重な時間だった。

しかし出張先のホテルにも会社からFAXが容赦なしに
届く。携帯電話もインターネットも普及していない頃。

夜通し、出張先と会社とでFAXのやりとりをしていたら
結局はホテルで徹夜になったこともしばしばある。
いったいホテルに泊まった意味はあったんだろうか?



まあ、日本中を会社の金で回れるというのは役得だった。

多分、47都道府県のうち40くらいは出張で行ったはず。
そうして、各地の人と仕事をすると、水が合う地域、
合わない地域、というのも何となく見えてくるものだ。

次回は一番多く出張した(恐らく10年で100回は行った)
札幌について。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(16)高学歴な人達に囲まれて

2007-06-16 06:08:34 | Autobiography
無事に大学を卒業し、某社に入社した。

入社後の懇談会で分かったのだが、これが
実は強烈な高学歴社会の会社だったのだ。

総合職45人のうち、大学院修士課程修了が39人。
博士課程修了が1人。そして学部卒業ですぐ
入ったのは自分を含めてたったの5人だった。




実際、自分が大学院を出ていないことに対して
引け目を感じていたことは多々ある。

ただ、次のように考えるようになって、自分が
感じていたコンプレックスは何となく解消された。



野球でもサッカーでも、本当に優秀な選手は
早くプロになるものだ。18歳、高卒でプロから
ドラフトされる選手と24歳くらいで社会人から
プロ入りする選手ではどちらが有望だろうか?


そして自分達が生きる世界もまさにプロの世界。
学費を払って大学院まで行った連中と、同じ年齢で
プロとして給料をもらえるようになった自分と、
どちらが幸せかは分からないではないか。

ま、カラ元気かもしれないが、入社当初は
そんな風に開き直っていたのを覚えている。

#余談だが、今の会社では高卒で入ってきた人が
 結構な割合でいるのだが、彼らは彼らで非常に
 高いプライドを持って働いているのを感じる。
 きっと自分が最初の会社に入った時の気持ちと
 通じるものがあるのかも知れない。(続く)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする