J's日誌

中小企業診断士、経営管理修士(MBA)、事業再生士補、AFP。某NPO法人フットサル連盟副理事長。

私の履歴書(15)大学時代の友人たち

2007-06-15 06:48:47 | Autobiography
大学の頃の馬鹿話をもう少し書いておきたい。

K大学といえばシャチョーの息子だとか、当時の
トーキョートチジの孫だとかいろんな連中がいた。

彼らに学んだことはいろいろあるのだが、
ひとつ挙げるとすれば上手い金の使い方、だろうか。



例えば大学に入ってすぐの頃、六本木で飲む
機会が多かったのだが、彼らは渋谷からなら
躊躇せずに数人で乗り合ってタクシーを使う。

どれくらいかかるか分からないとなかなか
学生の身分では乗れない気がするのだが、
乗ってみると確かに電車を乗り継ぐより
数人で割ればタクシーの方が安いのだ。

彼らはそれを身を持って知っているわけで、
恐らく高校の頃から乗り慣れているのだろう。

#先日、札幌の大通から札駅まで3人で地下鉄で
 移動しようとして、道外から来た友人にタクシー
 の方が安いことを指摘された。。。
 未だに自分は金の上手い使い方を分かっていない。



ゼミに入った大学3年の頃、それぞれ2ヶ月
ある夏休みと春休みにはバイト代を貯めて
数週間の海外旅行へ行くのが流行っていた。

あるゼミ生が、F1が好きだったのだが
春休みにモナコへ行ってきたという。

モンテカルロの公道グランプリコースを、現地で
レンタカーを借りて自ら走ってきたのだ、という。

いかにテレビで見て、通ぶって喋っていても、
現場を生で見てきた人間には絶対に敵わない。
ミラボーもロウズヘアピンも、走った奴しか分からない。

 超 う ら や ま し い 。

そうしてゼミのF1好きな面子はこぞって夏休みに
格安航空券とユーレイルパスを使ってモナコに
向かい始めた。こうなると誰も止められない。

#実は自分も次の春休みに行きました(+_+)\バキッ


ロウズヘアピン

結局卒業までにかなりの人数がモナコを訪れたらしい。
こういうの、いかにもK大生らしい話だと思う。



それはさておき、モナコにせよ他のヨーロッパにせよ
普通は直行便なりアジア経由などで行くものだろう。

ところが、あるゼミ生が「俺はアメリカ経由でヨーロッパに
行ってきた。その方がマイルがたまってアジア往復分のタダ券
がもらえるから」
と訳の分からないことを言い出したのだ。

#要は一度の旅行で20,000マイル以上搭乗するということ

JALもANAもマイレージサービスなど導入していない頃の
話である。そんな裏技があるなんてことは、ゼミの中でも
多分そいつしか知らなかったと思う。

が、知ってしまうと皆アメリカ経由のヨーロッパ行き、
アジア往復タダ券が欲しいがためにひたすら飛行機に
乗るだけの苦痛な旅行を選ぶから笑ってしまう。

ラスベガス経由モナコに行って無料でマカオへ行こう。
こんな馬鹿なことを教えてくれたのもK大の仲間だ。



もうひとつだけエピソードを。

K大では卒業式の後、新高輪プリンスホテル飛天の間という
1,500人くらい?入る会場で園遊会というパーティを開く。

会費がいくらだったかは忘れたが、会場でのくじ引きの
1等賞は日産サニー(本物)で、現物が展示されていた。

宴もたけなわ、1等の発表を聞いていたら聞き覚えのある
名前が呼ばれた。何と、同じゼミの面子が当たったのだ!

彼は一晩中みんなに祝福の一気飲みをさせられて潰れ、
新車サニーはギザジューでガリガリになったという噂。。。

徹夜で飲んだ翌朝、品川駅近くのコンビニへ向かいつつ
こんな馬鹿なことを出来るのも今日が最後だよなぁ、と
ゼミの仲間と話していたのをよく覚えている。(続く)
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私の履歴書(14)職業選択と就職活動

2007-06-14 07:08:46 | Autobiography
職業選択のきっかけになったのはこの本

高校時代の友人のが都市工学の分野で日本有数の
教授だった縁で、バブルの残る当時、地域計画など
地域に関わる仕事に漠然とした興味を持っていた。

ただ、地域への関わり方は職種的にも業種的にも様々。
その中で、シンクタンクとかコンサルタントという
仕事に興味を持ったのは、次のような理由からだ。



どうせ仕事をやるなら、喜びを感じられる仕事がいい。
まあ、簡単に言えばヤリガイってやつなのだが。。。

で、自分はどういう時に喜びを感じる人間なのか?
を真面目に考えてみたところ、どうやら、何かの
問題が起きているとき、自分が得られる情報網を
使っていろいろ調べたり、自分なりに解決策を
考えて、それを問題の当事者に教えてあげる。

それが良い結果につながれば、相手から感謝される。
相手に感謝された時、自分の満足も非常に高くなる。


自分はそういう人間なんじゃないか、と就職を
控えた学生の時点では自己分析していたのだった。



たまたまかもしれないが、その考えは就職活動を
進めていくうち、確信に近くなっていった。

まだ景気も良い頃だったが、500社近くに資料請求の
ハガキを出し(ネットなんてない頃だ)、70社以上の
OBと会って話をしたが、希望する業界のOBとは話が
弾むのだ。そしてその他の業界とは明らかに合わない。

多分、希望する業界こそ天職なのだろう、と思った。



しかし、それだけで決まるほど就職活動は甘くない。

何社かから内定をもらい、第2志望の会社からも
もうすぐ最終だ、と思っていたが連絡が途絶えた。

実は、しばらく待っているうちに同じゼミの学生が
先に内定を取ってしまい、同じゼミに2人も内定は
出せないということで自分の方はペンディングに
なってしまったのだ。

そうはいってもこちらも待ってられないので、
決断を急いたところ「残念ながら。。。」とのこと。



ただ、立ち止まっているわけにもいかないので、
第1志望に連絡してダメだったら別の道を探そう、
と電話をかけたところ、「明日来てくれ」と言う。

どうやら、最終面接のリストに残っていたらしい。
自分から駄目元で動いて、何とか内々定をもらった。

翌日、他人より早く内定をもらったメンバーで集まり、
リクルートスーツを脱ぎ捨ててTシャツと短パン、
サンダルで明るいうちから上野のビアガーデンで飲んだ。

そうして、3ヶ月弱の就職活動が終わったのだった。(続く)
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私の履歴書(13)ニンニク入れますか

2007-06-13 06:42:23 | Autobiography
今でも帰京時には必ずと言っていいほど行くラーメン二郎
一応、大学1年の頃から店の名前だけは知っていた。

噂には聞いていたし店の前を通ることもあったのだが、
いつも並んでいて非常に敷居が高く感じていたのである。

1年か2年の時、語学のクラスの友人と一緒に、
キャンパスも違うのにわざわざ食べに行った記憶もある。
ただただその時は量が多くてツラかったような。。。



3年になり、ゼミが始まると朝8時半に図書館へ行き、
開館と同時に席を確保して、夜9時の閉館時間まで
調べ物をしたりレポートを書いたり、という毎日だった。

#文系の学部生は研究室のスペースが狭いのでこうなる

そんな中で、毎日の楽しみといえば食事くらい。
昼に図書館を抜け出しては並び、ひたすら食べる。
多くのK大生同様、こうして自分もはまっていった。。。


最近食べた時の写真(小W野菜カラメニンニク・700円)



当時はご夫婦で経営していて、行列が曲がっていたり
食べながら喋っていたりすると奥さんに怒られた。
そうやってK大生は社会のルールを学ぶ(嘘)。

食べ終わると現金をカウンターに置き、おつりも
カウンターから勝手に取っていく牧歌的システム。

それでいながら店内には何とも言えない緊張感が
漂っていた。それは、ちゃんと食べ切れるかどうか、
残したら怒られるんじゃないか、という他の店では
まず感じることのない緊張感だったような気がする。

旧店舗のことは懐かしい思い出だが、オヤっさんは
今でも健在。いつまでも元気で頑張ってほしい。



大学3年にもなれば進路のことを考える。

進学もないわけではなかったが、基本的には
就職。希望する業界がほぼ固まったのは実際に
活動しながらだったが、就職した業界との
出会いは3年になった頃だったかも知れない。

それも1冊の本がきっかけだったように思う。(続く)
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私の履歴書(12)トライアスリート誕生

2007-06-12 06:03:02 | Autobiography
チーム・ターザンというのは、トライアスロン未経験の
社会人数名を集めてトレーナーが練習メニューを組み、
公式のレースに挑戦するという雑誌の企画である。

その活動の軌跡は書籍にもなっており、(ここ
実際に自分が読んだのは書籍の方だったかも知れない。

各自の得意不得意をどう調整するか、また社会人として
どうやって練習時間を捻出するか。参加者の悪戦苦闘を
記録した、まさにノンフィクション・ストーリーである。



ともかく、その企画を見て「自分にも出来る!」と
あっさり決め、自転車を購入してトレーニングを始めた。

もともと水泳はジュニアオリンピックの手前までは
やっていたので、陸上や自転車出身の選手よりは得意。

自転車は、これはやってみると分かるのだが、経験者が
少ないので練習すればするほど伸びるもののようだ。

走るのは嫌いだが、まあ最悪歩けばいいかな、と(+_+)\バキッ



その後、社会人のクラブチームにも所属して合同練習や
コンディショニングなどについても学ぶようになった。

何だろう、とにかく新しいことをやりたかったのだろう。
ちょっと閉塞感のあった大学生活で、トレーニングしている
時間だけは、全てを忘れて打ち込める貴重な時間だった。

毎年、何度かレースにも出たが、正直それほどいい成績を
残せたわけでもない。スイムはまあまあ、バイクでちょっと
抜かれて、ランで馬群に埋もれるのが毎回のパターンだった。

ただ、最後のランで「もう二度とこんなつらい思いをするのは
止めよう」と毎回の帰り道で思いながら、大会から数日経つと
「またあの舞台に立ちたい」と思うから不思議なものだ。

それはきっと、レースでしか経験できないこと、あの舞台でしか
体感できない世界があって、そこに立つことのできる幸せは
終わってからじわじわと感じられるものだから、なのだと思う。



で、1年の後半は大学に行った記憶がない(+_+)\バキッ
あれでよく進級できたものだと、今さらながら思う。
語学や体育など、出席を取るものには出ていたのだろう。

さすがに2年になると授業も難しくなってきたので、
そこそこは出席するようになったし、3年生からは
ゼミもあり、入ゼミの試験もあるので真面目に準備した。

そして3年になり、横浜から都心のキャンパスに出てきた。
ここで、人生を揺るがすほどのラーメンと出会うのである。(続く)
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私の履歴書(11)K大生になったものの

2007-06-11 06:20:25 | Autobiography
どうしても行きたかった大学というわけではないが
ここを蹴って1年浪人するほどの気合いもない、
そんな中途半端な気分で入学したのがK大だった。

ま、ここはカリキュラムもいわゆる楔形で
1年生からマクロ経済学等の専門科目もあり、
経済学を勉強するにはいいところではないか、
という程度の印象は入学前から持っていた。



しかしその期待はあっさりと消えた。

当然といえば当然だ。今まで1年半もかけて
マクロもミクロも大学教養レベルで自習してきた。

基礎から大教室で行われる講義を聴いても、
今さら新鮮味もなく眠くなるばかり(+_+)\バキッ

専門科目ですら面白くないのだ、いわゆる
語学や一般教養科目などが面白いわけがない。

少人数制で行われる人口経済学のゼミナールを
除くと大学で学んで面白いと思えるものはなかった。

#このゼミナールは後々の仕事においても役立った。
 理論よりも社会経済学の分野に関心が向いたのも、
 このY教授のおかげだと思っている。



それではサークルなどについてはどうだったか?

実はテニスサークルなんてものにも入ってはみた
のだが、1回だけ行ってアホくさくなり即やめた。

しばらくプラプラしていたのだが、夏休みに
自動車教習所の待ち時間にTarzanという雑誌を
読んでいて、自分の人生を変える記事に出会った。

その名は、チーム・ターザン。(続く)
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私の履歴書(10)人生の一大イベント、大学受験(後編)

2007-06-10 06:15:51 | Autobiography
★前回までのあらすじ★

(京大経済学部の足切りをくらい、それまでの
 論文対策中心の受験勉強がパーになった自分。
 併願対策はほとんどしてないが、どうする?)



京大を受けるためには京都に宿を取る必要がある。
当然ながら、一縷の望みを持って宿は取ってあった。
足切りのためにそれをキャンセルしに旅行代理店へ。

キャンセルをしに行ったのは、K大経済学部の
入試前々日くらいだったように記憶している。

気持ちを切り替えるため、翌日(K大入試前日)は
試験時間と同じ時間に試験会場まで行ってみることに。



実は、その日はちょうどK大商学部の入試があり、
横浜へ向かう某私鉄は受験生でごったがえしていた。
なるほどいいシミュレーションになる、と乗り込むと
同じ高校の同級生がまさに試験に向かうところだった。

車中では、本命である京大に足切りを受けたこと、
今日は受けないけど下見に来ていて明日が受験日で
あること、などを話し、「頑張れよ」と言って
友人を試験会場に送り出したように記憶している。

思うに、これで非常に気分転換になったというか
リラックスして翌日受験することが出来たと思う。

友人を励ましたつもりが、励まされたのはむしろ
足切りで落ち込んでいた自分の方だった気がする。
それくらい、同級生に会えたのはラッキーだった。



K大経済学部については、過去問を一通りやっていた
くらいだったが、どの科目も割とオーソドックスな
問題で、自分には合っていたような気がしていた。

加えて、前日の下見が良かったのだろうか、本番でも
自分の実力を落ち着いて発揮することが出来たように思う。

英語では「~経由で」というフレーズを含む英作文が
出て「by way of」を使ったこと、小論文は地球環境問題
が出て「かけがえのない地球」という必須キーワードを、
ポイントとなる文章で使ったことなどを今でも覚えている。

ま、傾向は違うがK大の小論文も現代社会や政治経済の要素を
強く含んだものだったので、京大対策を流用できたのだろう。



一方で、W大政治経済学部はとても、とても難しかった。

問題も細かいし、独特の準備をしていないと対応できない
ような難しさがあった。東大に受かってもここを落ちる
人が結構いる、と当時は言われていたくらいだ。。。

もちろん自分も、受かる自信は全くなかった。
試験会場も都立高校とは比べ物にならないほど広く、
マークシートとはいえ神風も吹きそうにない(+_+)\バキッ



その後、日程的にはK大合格発表→H橋大2次試験→
W大合格発表→H橋大合格発表、という順番だったはず。

そしてK大に合格し、H橋大の受験はやる気ナシナシ(+_+)\バキッ
W大、H橋大と不合格で、どうにかK大だけに引っかかった。


K大(2007年5月撮影)

高いと思われがちな学費だが、当時国立大が40万程度だったのに
対しK大は55万弱と意外に安く、あっさりと進学を決めた。(続く)
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私の履歴書(9)人生の一大イベント、大学受験(前編)

2007-06-09 06:39:35 | Autobiography
いよいよ大学受験の時期を迎えた。

どこを受けるかはいろいろ考えたのだが、
最終的に出願したのは以下の4校だった。
現役ということもあり、滑り止めはなし。

京都大学経済学部:1次+2次(論文のみ8時間!)
H橋大学経済学部:1次+2次(英・数・現・社)
W大学政治経済学部経済学科:英・数・国
K大学経済学部:英・数・小論文(政治経済系)




スケジュール的には、まず1次試験があった。

この年は自分の受けた科目(生物)の平均点が低く、
いわゆる得点調整が行われたりしたのだが、それでも
確か800点満点で680点くらいしか取れなかったはずだ。

そして予備校から足切りライン予測が発表される。

京都大学経済学部(論文):685点
H橋大学経済学部    :640点


∑(゜□゜;)ガーン(。□。;)ガーン(;゜□゜)ガーン!!



何故、こんな事態になったのか?

予想に過ぎないが、確かこの年、京大経済学部の
一般入試の方の足切りラインはもっと高かった。

#一般入試の方は1次試験の相対的ウェイトが高いため

そこで、一般入試では厳しいと考えた受験生が安易に、
そう、極めて安易に論文入試に流れてきた結果として、
論文入試の足切りラインも上がってしまった、らしい。

ただまあそんなのは言い訳であって、2次対策をやりすぎて
1次対策が疎かになっただけの話だ。足元をすくわれるとは
まさにこういうことなのだろう。。。



それでも一縷の望みを持ちつつ、併願対策もしながら
足切り発表を待っていたのだが、やはり京大は不合格

高2時代から高3・浪人生に混じって好成績を続けていた
論文模試も、結局はその実力をぶつけるべき本番の
試験会場に行く権利すら得ることができなかった。

加えて、1年半近く大学で読むような経済学の入門書ばかり
読んできた受験勉強までパーになった。。。号(┰◇┰)泣 (続く)
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私の履歴書(8)論文対策に没頭

2007-06-08 06:46:38 | Autobiography
そして高3になった。

高2にして経済学の面白さに目覚めてしまった自分は
福岡正夫『ゼミナール経済学入門』(日本経済新聞社)
を読み耽り、いわゆる受験勉強とどっちに力を
入れているのか分からない状態になりつつあった。

せいぜいやっていたのは、経済学の入門書を読んでは
要点をまとめて現代文の先生に添削してもらう、とか
基本的な専門用語をマーキングして、事典等で調べて
サブノートにまとめるとか、大学受験の受験勉強と
してはかなり特異なものだったのではないかと思う。



京大実戦模試(S)京大オープン(K)京大模試(Y)と
大手3大予備校の模擬試験ではほぼ毎回全国ベストテンに
入り、それなりに自信を持って2次試験への準備を進めていた。

ただし、国立大学受験生にとって肝心なハードルが当時も
今もある。いわゆる一次試験、現在のセンター試験である。
これへの対策は、経済学への関心から疎かになっていた。

また、併願への対策についても、準備としては甘かった。
経済学の薫り漂う京大経済学部の試験問題に比べると、
古文や日本史に力を入れるパワーは明らかに弱かった。。。



今思い返してみると、本当にリスクの高い受験だった。

現役だから本命に絞った対策をするのが効率的とはいえ、
他大学の入試にはほとんど潰しの効かない論文入試。

それでも怖いもの知らずだった当時、落ちたときのこと
など全く考えていなかったと思う。。。(続く)
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私の履歴書(7)経済学と出会った日曜日

2007-06-07 07:12:02 | Autobiography
高校2年生の秋頃のこと。

いわゆる、高3での文系・理系コース選択を
検討しなければいけない時期だったと思う。

物理や化学がさっぱりだった一方で、数学は
割と得意だったこと、そしてある本との出会い
があって、自分は経済学部を目指そう、という
気持ちが急速に高まっていったのだった。



その本は、篠原三代平『経済学入門』(日経文庫)
何故高校2年生の時にこんな本を読むことになったのか?

確か、高2の春からZ会の小論文コース(高3用)
趣味的に受講していた勢いで、京都大学経済学部
翌年から導入することにした、論文試験のみによる
別枠入試に興味が湧いていたのだ。(現在は数学と論文)

論文なら何とかなるだろう、と某Yゼミの京大模試
を高3、浪人生に混じって一人高2で受験したとき、
まさにこの本の記述が問題文として使われていたのだ。



そのYゼミ京大模試のことは強烈に印象が残っている。

生まれて初めて見る、古典派とかケインズ経済学とか
新古典派とかの専門用語に必死に食らいついていった。

そして経済学というのはこういうものなのか、と
思いながら答案を埋めることに没頭した約6時間。

問題文に出典が書いてあったので、忘れないうちにと
模試の帰りにその足で新宿の紀伊国屋に寄り、日経文庫の
上・下2冊を興奮しながら購入したことを覚えている。



確か、その模試の成績は確か約500人中で8位
だったはず(もちろんA判定)。漠然とであるが、
京大に行って経済学を学ぼう、というイメージが
自分の中に湧いてきた高2の秋だった。(続く)

注:当時、京大では天才浅田彰が脚光を浴びていたが、
  浅田に学びたいと思ったというよりは、単純に
  試験方式に魅かれた、というのが正しいと思う
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私の履歴書(6)この丘は自由の天地

2007-06-06 06:18:52 | Autobiography
高校は毎日毎日楽しくてたまらなかった。

多分、中学が結構管理的で煩かったから
余計そう思ったのだろう、制服もなくて
夏なんかタンクトップに短パンにサンダルで
毎日口笛吹きながら通っていたのを覚えている。



で、部活にも入らないから、授業が終われば
遊び放題。とはいっても先立つものがいるので
昼はカフェ、夜はバーという店でバイトを始めた。
確か、スタート時の時給が600円だったはずだ。


今でもその店は存在している

また、JAZZに詳しくなったのも、このバイト先のおかげだ。
初めて自分が店でかけたのはHerbieのMaiden Voyage
だったような。。。まさにJAZZの世界への処女航海。



そんな高校からは何を教えられたかと
いうと、何をするにも各自の自己責任
ということではなかったかと思う。

とにかく、進路指導というものが全くないし
何をしようが自分の責任でやる分にはほぼ自由。
その代わり、勉強しなければ浪人するだけだし
社会のルールに従わなければ捕まるだけだ。。。

これはこれである意味シビアだが、生徒を一人前の
大人として扱ってくれていたのではないか、と思う。

酒も煙草もやったが絶対見つからなかった。
そして、バイトをしながらもZ会の答案だけは
締切に間に合うよう、頑張って取り組んでいた。

#Z会の返信用封筒は白かったので、未提出の答案が
 たまっていくことは「白い悪魔」と呼ばれていた



3年時の担任のS先生(女性)とは今でも年賀状を
やりとりしているのだが、彼女にはこの学校の
雰囲気を象徴するかのようなエピソードがある。

卒業式の後のこと。式も終わって皆ホームルームに
戻ってくる。進学が決まった者、浪人が決まった者、
皆とりあえず今日は飲もうや、という話になる。
(ま、未成年とか何とかいう話はもう時効だろう)

居酒屋への予約をどうするとか集合場所をどうするとか
段取りを教室でばたばたとしていたその時、S先生が
自分のところへやってきた。

S「J君、今日これから飲み会やるんでしょ」
J「やりますよ~ 最後だし、先生も来ます?」
S「そうね、皆と一緒で1年間楽しかったし、行きたいん
  だけどね。やっぱり、私は立場上行けないから。。。」
J「そうすか、残念ですけど、まあしょうがないすね」
S「でも、気持ちだけ参加、ってことで。はいこれ(^_^)/」


と、先生は自分に何と餞別として2万円を渡してくれたのだ。

どこの高校に、飲み代を出してくれる担任の先生がいるだろうか。
この瞬間、もう一度入り直すとしてもこの学校だ、と感激した。

そんなわけで、最高の高校生活だった。(続く)

注:標題サブタイトルは、母校の校歌の一部
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私の履歴書(5)綱渡りだった高校受験

2007-06-05 06:21:33 | Autobiography
中学受験をせず、地元の公立中学校に進んだ
自分にとって、初めての受験が高校受験だった。

#今では信じられないことだが、自分が小6の頃、
 私立中を受験したのは学年でもごく数人だった

塾らしい塾には行かなかったが、夏期講習や
冬期講習みたいのに行ったりするうちに、
某W大など、私大の付属高校に進学したいと
思うようになっていた。出来れば大学受験を
避けたいという気持ちもあったのだと思う。



しかし、入試前日に父親がすごいことを言い出した。

「受けたいなら受けるだけは受けさせてやるが、
 私立高校に進学させるような金はないからな」


何じゃそりゃぁ( ̄□ ̄;) 急にやる気をなくす。
それでも受かれば親も気が変わるかも知れない、
と気を取り直して受験当日を迎えたのだった。

#後から考えたら、両親とも都立全盛の世代。
 都立高凋落の実態なんて知らなかったのだろう



結局、私立は4校も受けて1校しか受からなかった。

自分では滑り止めと思っていたところに落ちたときは
人生が終わったかのような絶望感を味わったが、近所の
私立に受かって、中学浪人だけは回避できると安堵した。

そして最後に、家から最も近い某都立高の受験を迎えた。



緊張しながら高校受験最後の会場へと向かう。

何だか机を押し詰めたような教室、やけに狭い。。。
そしてこの狭い試験会場が思わぬ神風を吹かせた。

隣の答案が普通に視界に入ってくるのだ(+_+)\バキッ!

倍率が1.5倍に満たないような試験である。
自信のない解答については(以下自粛)

こうして無事、某都立高校に合格し、学費も
年10万足らず、ということで都立進学が決まった。(続く)
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私の履歴書(4)部活をやるのは誰のため

2007-06-04 06:33:08 | Autobiography
小2から近所の道場で習い始めていた剣道。

中学の剣道部は区内で負けなし、近隣の区を
加えた学区の大会でも上位常連の強豪だった。

#進学したのはただの公立中学校だったので、
 多分、通学エリアに道場が多かったのだろう

さすがに1年からレギュラーとはいかないが、
1学年上の2年新人戦団体戦には補欠で入った。



2年になると都大会団体戦にも補欠登録された。
当日、大将が風邪で休み、いきなり補欠から大将に。

一学年上の試合、しかも大将戦を任されたのだが、
ここで開き直ったのが良かったのかもしれない。

200校以上が参加する都大会で勝ち上がり、
最終的にはベスト32まで残ることができた。


当然、3年になった時は周囲の期待がかかる。。。



しかし、主将として迎えた3年目のシーズンは
はっきり言って全てを忘れたいくらい最悪だった。

前年度優勝トロフィーを持って行ってはそのまま
返してくるだけで、何も持ち帰れない大会が続く。

当然、負けが込むとOBも現場介入してくる。
何で勝てないんだよ、と毎晩のように自宅に
OBからの電話がかかってくるようになり、
その言い訳を考えるのでうんざりしてくる。

あげくに仲間割れで試合後に3年生が仲間に
手を出してしまい、顧問もキレて一時休部状態に。

顧問は1週間で解除しようと思っていたらしいが、
自分自身のモチベーションが湧かなかったので
解除をさらに先延ばしにしたのを覚えている。



秋の区民体育大会でも優勝できず、遂に無冠で終了。
もう二度と竹刀は握るまい、学校やOBの名誉の
ためにスポーツをやるのはもううんざりだ
、と思った。

#松本大洋の名作『ピンポン』の中で、ライバルである
 卓球名門校、海王学園のドラゴンは試合前必ずトイレに
 籠り、「誰のために卓球をするのか」と自問自答する。
 種目もレベルも違うが、まさに中学時代の自分がそこにいた。



たまたま、高校に合格した後に進学先の高校が
出ている大会を見たのだが、これはこれで弱くて
とても入ろうという気は起きず、高校では部活に
入るまい、帰宅部でいいや、と決めたのだった。

しかし、高校の同級生には有力選手が多く、実は
いいチームが出来たことをしばらくしてから聞く。
後の祭りとはこのことだ。。。 (続く)
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私の履歴書(3)ボールよ、飛んでくるな

2007-06-03 07:26:16 | Autobiography
自分は幼稚園の頃から、いやもっと言えば
幼稚園に入る前から、各種のスポーツ教室
のようなものに通わされていた記憶がある。

それは、母親が働いていたために習い事に
行かせて預けていたのかも知れないし、体力を
つけさせたかったからなのか、良く分からない。

器械体操、水泳、剣道、ついでに絵画教室にも
行っていたので、小学校低学年時は週に5日は
どこかで習い事をしていたのではないだろうか。



子供の頃は引っ込み思案で、そういうところに
行くのがとても嫌だった。理由をつけてはよく
休もうとしていたが、それでも辞めることは
なかった、というか母が辞めさせてくれなかった。

#そういう、人見知りな部分を少しでも改善しようと
 いうのも、親の意図としてはあったのかもしれない

それでも何だかんだで、水泳は学年トップを争うくらい
得意になったし、剣道もだんだん強くなっていった。
器用ではないが、徐々に実力が出てくるタイプらしい。

そんなとき、当時東京ではサッカーどころの一つと
言われていた小金井市から、ある先生が赴任してきた。
そして彼が、我が小学校にサッカー部を創設したのだ。



初めてその先生がサッカー部勧誘のパフォーマンス
としてボールを扱うのを見た時の衝撃は忘れられない。

彼はドリブルからいきなり、ヒールリフトをしたのである。
どこにでもいそうな、ただの小学校の先生が、である。

これで入部希望者殺到、皆すぐにヒールリフトを練習し
始めたのは言うまでもない。つかみはオッケーである。



実は、自分が小4になる時からサッカー部が活動開始した
のだが、その年は自分は入らなかった。多分、水泳や剣道
との練習日程の調整、折り合いがつかなかったのだろう。

小5になるとき、ジュニアオリンピックの予選に出るのか
出ないのか、という段になって結局水泳をやめることにした。
さすがに、そのレベルでやろうとしたら生活の全てを水泳に
振り向けなければならないし、自分にそれだけの才能があるとも
思えなかった。何より、練習での泳ぎこみの量も増えて辛かった。

で、サッカー部に入ったら1学年あたり50人以上もいて
何と1軍から4軍まであった。。。最初はもちろん4軍。
なかなか順番が回ってこないので、校庭の隅っこで練習した。



数ヵ月後にメンバー入れ替えを選考する紅白戦があり、4軍
対1軍の試合に出た。ポジションは左サイドハーフだったか?
何故かその頃は右足でも左足でも同じように蹴ることが出来た。

ゴール前、相手DFの右に持ち出し、切り返して左足で打った
シュートが1軍GKの手をかすめてサイドネットに突き刺さった!


このゴールが監督の印象に残ったのか、翌週から1軍昇格。
当時、最大のサプライズと言われた、いや言われてないか。



しかし、1軍の試合はいつもピリピリしていて嫌だった。

1軍はサッカーの実力だけで選ばれたメンバーなので、
ピッチの中には日常生活で威張っている奴もいれば、
どちらかというとおとなしいタイプのメンバーもいる。

で、試合に勝とうが勝つまいが、いつも威張っている奴は
自分のミスを棚に上げて、ミスした味方を責めるのだ。

そんなギスギスした雰囲気が蔓延し、もういっそのこと
試合中一度もボールが自分のところに来ないで、それで
試合に勝てばいい、という他力本願な選手になっていた。

チームの成績としては、区内で上に2つ全国レベルのチームが
いて、そこには勝てないのだがだいたい区の3位常連という感じ。
ただ、チームとしてのまとまりは最後まで感じられなかった。

全日本少年サッカー大会、都大会の2回戦だったか
3回戦まで行ったが、強豪のFC多摩に負けて自分の
少年サッカーは終わった。。。



サッカーをやっている間も、細々と剣道は続けていた。

中学に上がったら剣道部が思いのほか強いことを知り、
サッカー部ではなく剣道部に入ることにした。(続く)
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私の履歴書(2)火の鳥に学んだ

2007-06-02 07:21:05 | Autobiography
幼稚園は近所にある仏教系のところだった。

何しろ歌の時間に「しろいべべきたののさまが」
とか歌ったり座禅も組んだりお墓の脇を走ったり。

まあ幼稚園自体は自分に何か影響を与えたとは
思わないのだが、今でも法事などでお寺に行き
住職のお話を聞いたりすると心に染み入る気がする。
それは幼少時の刷り込みが効いているのだろうか。



幼稚園から小学校低学年までは図書館に行くのが
好きでしょうがなかった。というのは、図書館に
行くといえば親は何も文句言わなかったのと、実は
図書館にも漫画が置いてあって、タダで読めたから。

しかし漫画と言っても少年ジャンプとかそういうのは
さすがに置いていない。では、何があったのか?

それは、手塚治虫先生のライフワーク、『火の鳥』である。

小学校に上がるか上がらないかという時期に、図書館で
火の鳥を全巻読み耽り、輪廻転生は本当にあるのか?
それともないのか?毎日そればかり真剣に考えていた。



で、自分なりに得た結論がある。

これは当時も今も変わらないし、自分にとっての
死生観というか人生観の基礎にもなっている。

輪廻転生は、実際にはあるのかも知れない。
ただし、それは人間の意識レベルには残らずに
死んだ時点で完全にリセットされてしまうはずだ。

何故なら、今の自分に前世の記憶が一切ないのだから!


だとすれば、輪廻転生があるかどうかを深く追求しても
あまり意味はなく、現世を一生懸命に生きることの方が遥かに
大切なはずだし、そういう意味で人生は一度しかないのと同じ。
今日という日は二度と返ってこない。今日を大切に生きるべきだ。

この結論に至った時、頭の中がクリアになった気がした。
多分、小学校1年生か2年生の頃だったと思う。(続く)
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私の履歴書(1)生まれた場所、育った場所

2007-06-01 06:28:21 | Autobiography
自分は東京都杉並区の某病院で生まれた。

生家はさほど大きくもないが日本家屋で、
家には小さな庭があり、池もあり子供用
のブランコもあった。さらには石灯籠や、
信じられないことだが添水まであったのだ。


生家(2007年元旦撮影)



生まれてから大学1年まで、この家で過ごした。

ちょっとした事情があってこの家を手放すことに
なったのだが、当時はバブルの絶頂期、何で売る
のだと父親に猛反発したのをよく覚えている。

しかし、今思えばあの時に売ることが出来たのは
すごくラッキーだったし、父の慧眼だったのだろう、
その後の人生にも大きな影響を与えることになった。



生家は今では他人のものだが、建物はそのままで、
正月の帰省時などに生家の近所を歩いたりしている。

小さかった頃に広く見えた家の前の通りは、車が
すれ違うことすら難しいくらい狭くなっていた。

いや、実際には道路が狭くなったのではない。
自分が大きくなっただけなのだ。。。(続く)
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