J's日誌

中小企業診断士、経営管理修士(MBA)、事業再生士補、AFP。某NPO法人フットサル連盟副理事長。

私の履歴書(3)ボールよ、飛んでくるな

2007-06-03 07:26:16 | Autobiography
自分は幼稚園の頃から、いやもっと言えば
幼稚園に入る前から、各種のスポーツ教室
のようなものに通わされていた記憶がある。

それは、母親が働いていたために習い事に
行かせて預けていたのかも知れないし、体力を
つけさせたかったからなのか、良く分からない。

器械体操、水泳、剣道、ついでに絵画教室にも
行っていたので、小学校低学年時は週に5日は
どこかで習い事をしていたのではないだろうか。



子供の頃は引っ込み思案で、そういうところに
行くのがとても嫌だった。理由をつけてはよく
休もうとしていたが、それでも辞めることは
なかった、というか母が辞めさせてくれなかった。

#そういう、人見知りな部分を少しでも改善しようと
 いうのも、親の意図としてはあったのかもしれない

それでも何だかんだで、水泳は学年トップを争うくらい
得意になったし、剣道もだんだん強くなっていった。
器用ではないが、徐々に実力が出てくるタイプらしい。

そんなとき、当時東京ではサッカーどころの一つと
言われていた小金井市から、ある先生が赴任してきた。
そして彼が、我が小学校にサッカー部を創設したのだ。



初めてその先生がサッカー部勧誘のパフォーマンス
としてボールを扱うのを見た時の衝撃は忘れられない。

彼はドリブルからいきなり、ヒールリフトをしたのである。
どこにでもいそうな、ただの小学校の先生が、である。

これで入部希望者殺到、皆すぐにヒールリフトを練習し
始めたのは言うまでもない。つかみはオッケーである。



実は、自分が小4になる時からサッカー部が活動開始した
のだが、その年は自分は入らなかった。多分、水泳や剣道
との練習日程の調整、折り合いがつかなかったのだろう。

小5になるとき、ジュニアオリンピックの予選に出るのか
出ないのか、という段になって結局水泳をやめることにした。
さすがに、そのレベルでやろうとしたら生活の全てを水泳に
振り向けなければならないし、自分にそれだけの才能があるとも
思えなかった。何より、練習での泳ぎこみの量も増えて辛かった。

で、サッカー部に入ったら1学年あたり50人以上もいて
何と1軍から4軍まであった。。。最初はもちろん4軍。
なかなか順番が回ってこないので、校庭の隅っこで練習した。



数ヵ月後にメンバー入れ替えを選考する紅白戦があり、4軍
対1軍の試合に出た。ポジションは左サイドハーフだったか?
何故かその頃は右足でも左足でも同じように蹴ることが出来た。

ゴール前、相手DFの右に持ち出し、切り返して左足で打った
シュートが1軍GKの手をかすめてサイドネットに突き刺さった!


このゴールが監督の印象に残ったのか、翌週から1軍昇格。
当時、最大のサプライズと言われた、いや言われてないか。



しかし、1軍の試合はいつもピリピリしていて嫌だった。

1軍はサッカーの実力だけで選ばれたメンバーなので、
ピッチの中には日常生活で威張っている奴もいれば、
どちらかというとおとなしいタイプのメンバーもいる。

で、試合に勝とうが勝つまいが、いつも威張っている奴は
自分のミスを棚に上げて、ミスした味方を責めるのだ。

そんなギスギスした雰囲気が蔓延し、もういっそのこと
試合中一度もボールが自分のところに来ないで、それで
試合に勝てばいい、という他力本願な選手になっていた。

チームの成績としては、区内で上に2つ全国レベルのチームが
いて、そこには勝てないのだがだいたい区の3位常連という感じ。
ただ、チームとしてのまとまりは最後まで感じられなかった。

全日本少年サッカー大会、都大会の2回戦だったか
3回戦まで行ったが、強豪のFC多摩に負けて自分の
少年サッカーは終わった。。。



サッカーをやっている間も、細々と剣道は続けていた。

中学に上がったら剣道部が思いのほか強いことを知り、
サッカー部ではなく剣道部に入ることにした。(続く)
Comments (2)
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