自分は幼稚園の頃から、いやもっと言えば
幼稚園に入る前から、各種のスポーツ教室
のようなものに通わされていた記憶がある。
それは、母親が働いていたために習い事に
行かせて預けていたのかも知れないし、体力を
つけさせたかったからなのか、良く分からない。
器械体操、水泳、剣道、ついでに絵画教室にも
行っていたので、小学校低学年時は週に5日は
どこかで習い事をしていたのではないだろうか。
●
子供の頃は引っ込み思案で、そういうところに
行くのがとても嫌だった。理由をつけてはよく
休もうとしていたが、それでも辞めることは
なかった、というか母が辞めさせてくれなかった。
#そういう、人見知りな部分を少しでも改善しようと
いうのも、親の意図としてはあったのかもしれない
それでも何だかんだで、水泳は学年トップを争うくらい
得意になったし、剣道もだんだん強くなっていった。
器用ではないが、徐々に実力が出てくるタイプらしい。
そんなとき、当時東京ではサッカーどころの一つと
言われていた小金井市から、ある先生が赴任してきた。
そして彼が、我が小学校にサッカー部を創設したのだ。
●
初めてその先生がサッカー部勧誘のパフォーマンス
としてボールを扱うのを見た時の衝撃は忘れられない。
彼はドリブルからいきなり、ヒールリフトをしたのである。
どこにでもいそうな、ただの小学校の先生が、である。
これで入部希望者殺到、皆すぐにヒールリフトを練習し
始めたのは言うまでもない。つかみはオッケーである。
●
実は、自分が小4になる時からサッカー部が活動開始した
のだが、その年は自分は入らなかった。多分、水泳や剣道
との練習日程の調整、折り合いがつかなかったのだろう。
小5になるとき、ジュニアオリンピックの予選に出るのか
出ないのか、という段になって結局水泳をやめることにした。
さすがに、そのレベルでやろうとしたら生活の全てを水泳に
振り向けなければならないし、自分にそれだけの才能があるとも
思えなかった。何より、練習での泳ぎこみの量も増えて辛かった。
で、サッカー部に入ったら1学年あたり50人以上もいて
何と1軍から4軍まであった。。。最初はもちろん4軍。
なかなか順番が回ってこないので、校庭の隅っこで練習した。
●
数ヵ月後にメンバー入れ替えを選考する紅白戦があり、4軍
対1軍の試合に出た。ポジションは左サイドハーフだったか?
何故かその頃は右足でも左足でも同じように蹴ることが出来た。
ゴール前、相手DFの右に持ち出し、切り返して左足で打った
シュートが1軍GKの手をかすめてサイドネットに突き刺さった!
このゴールが監督の印象に残ったのか、翌週から1軍昇格。
当時、最大のサプライズと言われた、いや言われてないか。
●
しかし、1軍の試合はいつもピリピリしていて嫌だった。
1軍はサッカーの実力だけで選ばれたメンバーなので、
ピッチの中には日常生活で威張っている奴もいれば、
どちらかというとおとなしいタイプのメンバーもいる。
で、試合に勝とうが勝つまいが、いつも威張っている奴は
自分のミスを棚に上げて、ミスした味方を責めるのだ。
そんなギスギスした雰囲気が蔓延し、もういっそのこと
試合中一度もボールが自分のところに来ないで、それで
試合に勝てばいい、という他力本願な選手になっていた。
チームの成績としては、区内で上に2つ全国レベルのチームが
いて、そこには勝てないのだがだいたい区の3位常連という感じ。
ただ、チームとしてのまとまりは最後まで感じられなかった。
全日本少年サッカー大会、都大会の2回戦だったか
3回戦まで行ったが、強豪のFC多摩に負けて自分の
少年サッカーは終わった。。。
●
サッカーをやっている間も、細々と剣道は続けていた。
中学に上がったら剣道部が思いのほか強いことを知り、
サッカー部ではなく剣道部に入ることにした。(続く)
幼稚園に入る前から、各種のスポーツ教室
のようなものに通わされていた記憶がある。
それは、母親が働いていたために習い事に
行かせて預けていたのかも知れないし、体力を
つけさせたかったからなのか、良く分からない。
器械体操、水泳、剣道、ついでに絵画教室にも
行っていたので、小学校低学年時は週に5日は
どこかで習い事をしていたのではないだろうか。
●
子供の頃は引っ込み思案で、そういうところに
行くのがとても嫌だった。理由をつけてはよく
休もうとしていたが、それでも辞めることは
なかった、というか母が辞めさせてくれなかった。
#そういう、人見知りな部分を少しでも改善しようと
いうのも、親の意図としてはあったのかもしれない
それでも何だかんだで、水泳は学年トップを争うくらい
得意になったし、剣道もだんだん強くなっていった。
器用ではないが、徐々に実力が出てくるタイプらしい。
そんなとき、当時東京ではサッカーどころの一つと
言われていた小金井市から、ある先生が赴任してきた。
そして彼が、我が小学校にサッカー部を創設したのだ。
●
初めてその先生がサッカー部勧誘のパフォーマンス
としてボールを扱うのを見た時の衝撃は忘れられない。
彼はドリブルからいきなり、ヒールリフトをしたのである。
どこにでもいそうな、ただの小学校の先生が、である。
これで入部希望者殺到、皆すぐにヒールリフトを練習し
始めたのは言うまでもない。つかみはオッケーである。
●
実は、自分が小4になる時からサッカー部が活動開始した
のだが、その年は自分は入らなかった。多分、水泳や剣道
との練習日程の調整、折り合いがつかなかったのだろう。
小5になるとき、ジュニアオリンピックの予選に出るのか
出ないのか、という段になって結局水泳をやめることにした。
さすがに、そのレベルでやろうとしたら生活の全てを水泳に
振り向けなければならないし、自分にそれだけの才能があるとも
思えなかった。何より、練習での泳ぎこみの量も増えて辛かった。
で、サッカー部に入ったら1学年あたり50人以上もいて
何と1軍から4軍まであった。。。最初はもちろん4軍。
なかなか順番が回ってこないので、校庭の隅っこで練習した。
●
数ヵ月後にメンバー入れ替えを選考する紅白戦があり、4軍
対1軍の試合に出た。ポジションは左サイドハーフだったか?
何故かその頃は右足でも左足でも同じように蹴ることが出来た。
ゴール前、相手DFの右に持ち出し、切り返して左足で打った
シュートが1軍GKの手をかすめてサイドネットに突き刺さった!
このゴールが監督の印象に残ったのか、翌週から1軍昇格。
当時、最大のサプライズと言われた、いや言われてないか。
●
しかし、1軍の試合はいつもピリピリしていて嫌だった。
1軍はサッカーの実力だけで選ばれたメンバーなので、
ピッチの中には日常生活で威張っている奴もいれば、
どちらかというとおとなしいタイプのメンバーもいる。
で、試合に勝とうが勝つまいが、いつも威張っている奴は
自分のミスを棚に上げて、ミスした味方を責めるのだ。
そんなギスギスした雰囲気が蔓延し、もういっそのこと
試合中一度もボールが自分のところに来ないで、それで
試合に勝てばいい、という他力本願な選手になっていた。
チームの成績としては、区内で上に2つ全国レベルのチームが
いて、そこには勝てないのだがだいたい区の3位常連という感じ。
ただ、チームとしてのまとまりは最後まで感じられなかった。
全日本少年サッカー大会、都大会の2回戦だったか
3回戦まで行ったが、強豪のFC多摩に負けて自分の
少年サッカーは終わった。。。
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サッカーをやっている間も、細々と剣道は続けていた。
中学に上がったら剣道部が思いのほか強いことを知り、
サッカー部ではなく剣道部に入ることにした。(続く)