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広く浅く

今後はhttps://taic02.hatenablog.jp/で更新します

浄土ヶ浜2004年

2020-03-13 00:06:29 | 昔のこと
東日本大震災から、もう9年も経った。
同じ東北でも、日本海岸の秋田から太平洋側へは距離があり交通の便も良くなく、訪れる機会は多くない。中でも、岩手県の沿岸へは2度しか行ったことがない。
2004年に岩手県宮古市へ行った時の古い旅行記をアップさせてもらいます。あまり調べずに書くので、記憶違いや間違いがあるかもしれません。

三連休真ん中の2004年7月18日、日帰り。
宮古を目的地にした理由は思い出せないが、未訪だった秋田市からほぼ真東の太平洋側へ行きたかったからか。
盛岡までこまち、盛岡からまだキハ58・52形だった山田線に乗り換え。冷房がないから窓を開けて、まとまった雨の後で、途中の川が増水していたのは覚えている。昼過ぎに宮古着。
ホームには大漁旗

宮古駅
1934年開業で、駅舎はその時からのものだろうか。
駅前
それにしても人が多い。夏休み直前の三連休中日に、鉄道で宮古に来る人ってそんなにいたのか。

宮古といえば浄土ヶ浜。ちょうど路線バスがあったので、乗った。車両のことなど機会があればまた。
バスの乗客もけっこう多かったが、座れた。
車窓。漁港をかすめて
いつの間にか、道路は海寄り高い位置になり、浄土ヶ浜へ。
道路より下の海辺に建つ浄土ヶ浜ターミナルビル
駅から20分ほどで終点「奥浄土ヶ浜」。近くなって木々の間から視界が開けた。
車窓
写真やテレビで見た浄土ヶ浜の風景だ。美しい。
近くの席に座っていた、欧米系外国人の若い女性2人連れが「Oh My God!」と小声をもらした。
バスは海辺まで下り、終点。
浄土ヶ浜
バスから見下ろした最初の眺めに感動してしまったので、下りてから見るとさほどでもなかった。でも「浄土ヶ浜」の命名に納得。
この日は写真のとおり天気はくもり。暑かった記憶はないが、アメダスのデータでは30度近かった(秋田市のほうが涼しい日だったらしい)から海水浴客もそこそこ多い。

海沿いに遊歩道があり、奥浄土ヶ浜からターミナルビル方向へ戻る形でたどった。
遊歩道から見下ろす。ボートも多い
小一時間ほどうろうろして、ターミナルビルからバスで宮古駅へ戻ったはずだけど、記憶がない。
盛岡への山田線はちょうどいい列車がなく、「106急行バス」を利用した。


その後、東日本大震災。宮古も津波で大きな被害を受けた。
ただ、宮古駅は被害は少なかったようだ。駅舎は今も建物自体は同じながら、震災後にリニューアル。2019年には釜石方面の山田線が三陸鉄道へ移管され、JR側の駅業務も三陸鉄道が行うようになったそうだ。

浄土ヶ浜は、浜も道路や施設も被災。
そして浄土ヶ浜ターミナルビルは2011年5月に倒産し、2014年に解体。(1974年オープンだったようだ)
復旧は進み、2013年に「三陸復興国立公園」として再編(上の写真の看板では「陸中海岸国立公園」だった)され、ビジターセンターも落成。
2019年には台風19号で被害を受けてしまったが、自然の景観としては、おおむね昔に戻っているのではないだろうか。
なかなか遠いし、常磐線沿線なども行きたいが、岩手沿岸もまた訪れたい。
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美心タバコ袋

2020-03-05 00:18:09 | 昔のこと
もらいものの紙袋
お店で品物を入れてくれる袋によくあるサイズ。使い古しで新品ではなさそう。
緑色で印刷されたデザインに興味をひかれた。裏表とマチそれぞれ違うイラストや文言が印刷されている。
「花と緑の街」「吸いがらの投げ捨てはやめましょう」

「「美心」いっぱいの秋田市でお待ちしています」「新幹線の走る街」「たばこは秋田市内で買いましょう」

イラスト。
1つは「市の花 サツキ」。塗りつぶしすぎているし、正面がちに描きすぎて花弁がつながっていることが伝わらず、葉っぱも光沢感がありすぎるようで、いまいちサツキらしくない。
もう1つは、秋田新幹線「こまち」の初代車両E3系電車。モデルは量産先行試作車(R1編成)ではない、量産後の編成だと思われる。こちらはうまく描かれている。
JR東日本系列の店舗でレジ袋にE3系が描かれていたのを紹介したが、この袋にも。
地元での秋田新幹線への期待と親しみを感じさせられる。今だったら、JR東日本の許諾が必要で、やりづらいかもしれない。


そもそも、この袋の用途は?
下に市章とともに「秋田市」、そしてキャッチフレーズの「吸いがら」「たばこ」。

タバコを買った時に入れる袋だ。
たばこ税は市町村にも入るから、かつてタバコに寛容だった時代は「たばこは市内(町内、村内)で買いましょう」と書かれた看板、パンフレット、ライターなどが全国的に見られたようだ。この袋もその一種だろう。
税金をもらう秋田市側が作ったのか、生産や小売の団体(今はなきたばこ会館)が作って、市は名前だけ貸したのか。


側面や文章も見ておこう。※画像を小さくしすぎました。
「あなたの街です。自然です。」「吸いがらの投げ捨てはやめましょう。」

「「美心」いっぱいの秋田市でお待ちしています。」

書体。側面の「あなたの街です。自然です。」だけ明朝体で、ほかは角ゴシック体。秋田新幹線開業直後だとすれば、写植からパソコンへの移行期間だろう。フォントを特定したいところ。
雰囲気としては、古臭さは感じないが、今風でもない。ワープロ専用機の文字も連想させる。
現行の主要メーカーのフォントと突き合わせると、同一の書体は見つけられなかった。写植メーカー「写研」でもなさそう。
明朝体もゴシック体も、リョービイマジクス(現在はモリサワに譲渡)やモトヤ(昔のワープロ専用機でよく採用された)の製品に似ているものの、微妙に違う。分からなかった。


最後はキャッチフレーズ。
「「美心」いっぱいの秋田市でお待ちしています。」が気になる。
秋田市内で使うはずの袋に「秋田市でお待ちしています」と書いても意味がなさそうなのもそうだけど、何より「美心」って何?

調べると、1998年3月策定「秋田市観光振興計画」が出どころ。「びごころ」と読む。
同計画の「メインテーマであり、美酒・美食・美林を彷彿させる「美」をコンセプトとしたもの」。
秋田県の「美の国あきた」も意識していたのかもしれない。
「美の国あきた」は1990年度「秋田県新総合発展計画に関する提案」で知事賞優秀賞となった「美の国あきたづくり」を活用したキャッチフレーズが初出で、その後広まった。現在も公式に使われるのは県のホームページ「美の国あきたネット」くらいかな。

その後、2001年の「第9次秋田市総合計画」にも出たり(上記の読みや意味は、ここで解説されていた)、2001年3月にリニューアルした秋田市観光案内所で「美心いっぱいの担当者が丁寧に秋田の魅力をご案内しています。」とされたり、ソウル便就航を受けて2002年度に「あいさつ言葉や習慣の違いなどをまとめた「美心ふれあいガイドブック」を作成」したりしていた。
でも、当時も「美心」を見聞きした記憶はないし、その後はとんと使われなくなって現在に至る。

秋田新幹線開業は1997年3月。その時点では「美心」は未登場だった可能性が高い。1998~2000年辺りで作られた袋ではないだろうか。あまり後になると、E3系のブームもさめただろうし…
袋をどのくらい作ったのかにもよるが、その後しばらく各店舗で使われ、タバコ屋さんによっては今も未使用で残っていたりするのかもしれない。

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壁のニッパー君

2019-10-31 00:43:26 | 昔のこと
蓄音機のラッパに向かっておすわりして首をかしげる犬のロゴマークの、「Victor」「ビクター」というブランドはどの程度認知されているだろうか。
このマーク
犬と蓄音機の下には「“HIS MASTER'S VOICE”」と書いている。元々は同名の絵画で、亡くなった飼い主の声の録音を聞いた時の状況を描いたもの(引き取った新たな飼い主は、元の飼い主の弟であり絵の作者。兄弟とも画家だった)。
犬の名は「ニッパー(Nipper)」で、テリア系の雑種だそうで、雌雄は明確には分からないが「His Master's Voice」だからオスなんだろう。日本では、知っている人は「ニッパーくん」と呼ぶことが多い。

ビクターは、元はアメリカの企業で、戦前から日本で展開しているが、事業内容や提携先がさまざまで、時代や世代によって、印象は違うかもしれない。
今なら、レコードレーベル・音楽ソフトブランドである「ビクターエンタテインメント」がよく知られているのかもしれない。
あと、恥ずかしながらつい先日まで知らなかったのだけど、レコード販売店「HMV」も関係があり、「His Master's Voice」の頭文字だったのか!(ただし、現在はビクターとの関係は薄いようで、ニッパーは使っていない。)

しかし、20世紀末もしくは昭和でビクターといえば、音響機器(AV機器)メーカー「日本ビクター」ではなかっただろうか。
最近、ニッパーくんの置き物が、例えば飲食店とか一般家庭とか、ビクターと関係ない所に飾られているのをたまに見かける。今は(小さいのとか)単品で販売されている【各種販売されている。末尾の追記参照】のかもしれないが、元は日本ビクターが、小売店(街の電気屋さんの一部でも扱い店があった)の装飾用に配布していたものだと思う。【11月4日追記・コメントで教えていただいたように、ステレオなど商品購入者におまけとして配っていたこともあったとのこと。】

日本ビクターは、昭和の初めに設立され、日産や東芝系列だったこともあるそうだが、戦後は永く松下電器産業(現・Panasonic)グループ。
高柳健次郎らがテレビの開発に力を入れ、さらに世界標準となったビデオテープの規格「VHS」を開発した(これは松下の力添えもあったかな)。
海外輸出時に「Victor」ブランドは使えなかったようで、そのために「Japan Victor Company」の略である「JVC」ブランドも併用(もっと昔は「NIVICO」も使っていたらしい)。国内向けでも広告ではVictorとJVCを併記していた。


個人的には、ビクターが松下系列というイメージはあまりなかった。小さい頃は、ビクターというブランド名すら知らなかった。
1980年代後半、家電量販店のチラシでビクターのラジカセ(外国工場製の安いダブルラジカセなど)を見かけるようになり、さらに小学校の体育館の放送機器がビクター製に更新された(マイクスタンドにも、ちゃんとニッパーくんがいた)ことで、認知したと思う。
小学校のウエストミンスターチャイムも、古い(1960年代製かも)ビクター製だった。棒を叩いて演奏するアコースティックなもので、文字のロゴが違って全部大文字の「VICTOR」だった。【31日補足・チャイムは、接続された時計からの指令により演奏し、接続されたアンプに出力して校内放送される仕組み。昭和末には電子音のものが登場し、現在はリアルな音色のデジタルシンセサイザー方式が多いが、当時の母校のものはお寺の鐘で演奏しているようなひときわ重厚な音色だったと記憶している。】
「victory」の英単語の綴りも、ビクターのおかげで覚えた。
やがて、VHSのビデオテープ、そしてビデオデッキも安くなってビクターが身近になった。VHS-Cの家庭用ビデオカメラも、シェアは高かったと思う。
1996年頃にたしか1万5千円で購入したVHSデッキの箱。左上にロゴ。「ビデオはビクター」が自信の現れ
ビクターはテレビ受像機も作っていた。
1990年代初めの中学校の社会科・公民分野の授業で、独占と寡占を習った時、先生が寡占の例としてテレビを挙げ、クラスの生徒の自宅のテレビのメーカーがどこか、手を挙げさせた。ナショナル/パナソニック(当時は過渡期)、東芝、シャープ、三菱、日立、サンヨー、ソニーなどと先生が示すのに応じて手が挙がったと思うが、手を挙げられない生徒が1人がいた。
それがビクター製で、先生は「おおっ。ビクターな…」と微妙な反応をされていた。
1990年代中頃になると、家電量販店で21インチのステレオテレビが3万円ほどで売られるようになる【2日補足・国内著名メーカーの海外工場製が多かったはずで、お得感が大きかった】。チラシに載るのはサンヨーと三菱が多かったが、たまにビクターのものもあったはず。

2000年代に入ると、家電業界全体の衰退もあるのだろうが、経営が悪化。テレビ受像機は2008年で撤退。【末尾リンク先の製品一例も参照】
ケンウッドとの提携が進み、2011年に「JVCケンウッド」が発足し、日本ビクターは消えてしまっていた。ニッパーくんも使われなくなった。


さて、秋田市八橋、秋田テレビの近所にある建物。
今年1月
企業名の表記は見当たらないのでよく分からないが、かつての日本ビクターを思わせる「ニッパー・Victor・JVC」が、建物の壁面にいまだに残っていた。冒頭のロゴマークもここのをズーム。
VictorとJVCの間は「・」
調べると、セキュリティシステム、音響・映像システムなどを扱う「株式会社JVCケンウッド・公共産業システム」という企業の「秋田営業所」と「北日本エンジニアリング部 秋田グループ」だった。営業部門と修理部門のようだ。
修理部門の所在地は「TMビル1F」となっている。そういう名前の建物なんだろうけれど、出入り口が1つだし、おそらく2階も使っていそうだけど。

ちなみに、この辺にはメーカーの営業所がちらほらある。お隣はノーリツだし、少し離れた所にクラリオン、昔はオリンパス(医療分野)もあった。

ケンウッドから引き継いだものもあるのだろうが、内容は多岐にわたり、それこそ学校の放送機器などもここが扱っていそう。
昔のビデオデッキなどを持っていっても、直してはくれないだろう(そもそも部品保有期限は過ぎている)。

本当なら、ニッパーロゴとビクターの名を消し、ケンウッドの名を加えないといけないはずなのに、8年経ってもそのままということになる。
Googleストリートビューで、近県の同社の営業所をざっと見てみた。
すると、JVCケンウッドの看板が出ているところもあれば、「KENWOOD」と「ニッパー・Victor・JVC」を並べているところもあった。大急ぎで変更しているわけでもないが、当然、いずれは変わることになると予想した。

秋田では、おそらく今年の初夏くらいまでは、変わらず。久しぶりに10月に通ると、
なくなっている
なんか外壁の色合いが変わったような気もするが、「ニッパー・Victor・JVC」はきれいになくなっていた。
代わりのロゴも看板も一切なく、引っ越したかと思いそうだが、営業はしているみたいだし、前に駐まっている車が以前と同じようなので、移転はしていない(ホームページも変わっていないし)。
業務用機器だから、持ちこんで修理に来る人とか来客はいないのだろうけど、いくらなんでも看板くらいあったほうがいいのではないでしょうか。

秋田のニッパーくんは、建物2階上の中央に、立体的にどっしりと構え、なかなか立派だった(他の営業所では、平屋に平面的な看板を掲げたものが多そう)。いなくなってしまったのが惜しい。【31日追記】そして、「日本ビクター」が消えてしまったのも惜しい。

【11月2日追記】
JVCケンウッドやビクターエンタテインメントの公式オンラインストアで、ニッパーくんの置き物、ぬいぐるみなどのグッズを売っていた。あれも公式商品だったのか。【11月4日補足・ただし、多くは蓄音機なしのニッパーだけの商品で、本来とは印象が違ってしまう。ただの犬の像だ。】
また、JVCケンウッドのヘッドホンなどの上位機種では、今もビクターブランドでニッパーロゴ入りで製造販売されていた。ニッパーとVictorロゴが完全に消滅したわけではなかった。昔のような高級感が戻ったような感じだろうか。
それから、ほとんどのメーカーのテレビや録画機器のリモコン信号をプリセットしてある、共通リモコン(汎用リモコン)を単独商品として発売したのは、日本ビクターが早かったと思う。1990年代中頃かそれ以前。今もJVCブランドで発売。

日本ビクター製品の一例
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修学旅行の峰道レストラン

2019-07-05 00:16:46 | 昔のこと
昔の思い出。
先日、ふと「みねみちレストラン」という言葉が頭に浮かんだ。
すぐに高校の修学旅行で立ち寄った、比叡山近くのレストランであることを連想できた。「みねみち」という地名の響きと比叡山との関連が分からないのが不思議で、記憶に刻まれていた。そしてそのメニューも…

修学旅行に行ったのは1993年秋。目的地は、当時の秋田の高校としては標準的な京都・奈良。
当時、秋田県立学校では、修学旅行に航空機を使うことが認められていなかった。東北~東海道新幹線を乗り継ぐ行程も、費用の都合か一般的ではなかったはず。
そこで、日本海側を列車でたどるしかなくなる。寝台列車を使う場合もあったが、我々は往復とも昼間の特急「白鳥」で1日がかり。僕は別に良かったけど、時間を持て余す生徒も多かった。

初日夜に奈良に着いて1泊。2日目は団体で奈良を見て、京都に入り清水寺。京都に3泊し、5日目朝に秋田へ向かう。4泊5日。
うち3・4日目は京都拠点。4日目がグループ別行動。大阪などへ行く班もあったようだ。
そして3日目は、企画したJTBの目玉だったらしい「クラス別行動」。

その名の通り、クラス単位でバスに乗ってほぼ1日観光する。昼食込み。
目的地やコースは、JTBがいくつか提示した中から、クラスで話し合って選んだはず。複数のクラスが同じコースを選ぶこともあった。クラス数からすれば、全コースに添乗員が付くことはできなそう。
実際のところ、昔からあって昨今また流行りのバスツアーとさほど違わないし、1学年1学級の小規模校の修学旅行とも違わない。
だけど、学年全体(実際には日程をずらして2回に分けたので半分)での団体行動でも、グループ別でもないという、絶妙なスケール感はちょっと斬新に感じられた。
全体で行くよりはゆったりと見学でき、グループでは交通機関の制約などで行くのが難しい場所に行くことができるというメリットはある。

提示されたコースは、京都周辺を回るものが多かったが、一部は府外に出るものもあった。
我々のクラスが選んだのがそれ。僕自身もそれがいいと思っていて、決まって良かったと思った。
他のクラスは選ばなかったので、帝産観光バスの三菱エアロバス(エアロクイーン?=モデルチェンジして1年後だったので新しい車だった)1台だけで回った。

コースは、大原三千院と比叡山延暦寺根本中堂。京都市街からは遠く、滋賀県に入るルート。他のコースと比べて移動距離が長くスケジュールがタイトだったようだ。
三千院の庭が少し紅葉していたのと、お寺の中のちょっとした雰囲気ぐらいしか記憶にない。
比叡山周辺では、道路から琵琶湖が見渡せたらしいが、当日は霧雨と濃霧。まったく見えなかった。
クラス別行動がなければいまだに行くことはない場所であっただろうから、まあ、選んで・行って良かったかな。

そのコースの昼食場所が、みねみちレストランだった。少人数のテーブル席がたくさん並ぶ、ドライブインのような店だったような。
出てきたのは当たり障りのない内容で「ここまで来てこんなメニューなの?!」と拍子抜けして、さらに見た目よりボリュームがあったのと、時間が押していたのか少し急いで食べ(させられ)た記憶があった。まずくはなかったはずだけど。

その名前を急に思い出し、今はどうなっているか知りたくなった。Googleで検索。

有料道路「奥比叡ドライブウェイ」の途中にある「比叡山峰道レストラン」で、現在も営業していた! 建物が新しくなったりリニューアルされた可能性はあるけれど。【7月7日補足】今年2019年3月に内外装がリニューアルされていた。以前の内部や外観・看板の写真を見ると、昔訪れた時と同じような気がしなくもない。
ドライブウェイもレストランも、京阪系列の企業の運営。

レストランは320席の「展望レストラン」、横に大きな駐車場があり、店からも駐車場からも、琵琶湖が見える。そう言えば、駐車場から“真っ白な景色”を眺めたような。

公式ホームページに写真付きのメニューが出ていて、眺めていると、はっとした。
これ食べた!
まさにこれ、茶色いソースがかかったハンバーグとエビフライとコロッケのようなものと千切りキャベツ・ポテトサラダが、白い丸皿に盛り付けられている。写真に偽りもなさそうで、見た目はこうだけど、食べるとそれ以上にボリュームがあるのだ。
25年前に食べたものと、おそらく変わっていない。今もあったとは!【7月7日補足】建物はリニューアルされても、メニューは変わっていないことになる。

ホームページをよく見ると、個人客と団体客によって、同じメニューながら名称と価格が違うようだ。
個人向けはご飯、みそ汁、柴漬け付きの「近江定食」で税込み1500円。
団体向けは「峰道ランチ」のごはん、みそ汁、ランチプレート部分が、近江定食と同一で1300円。それにプラスして陶板焼きや果物が付いて高いタイプもある。

そして、近江定食の説明書きには、「近江牛を使った手作りハンバーグがメインのスペシャルランチです。」などとある。
ネット上の情報によれば、コロッケには近江牛のすじ肉が入っているようだ。だから「近江定食」なのか(じゃあエビフライは?)。
当時は近江牛じゃなかった可能性もあるが、そんないわれなど聞いた覚えがない。知っていれば、心して味わえたのに。

当時は価格が少し安かったはずだけど、今、これで1500円でも1300円でも若干高い感じがしなくもない。
現在の個人向けメニューには、近江定食より少し安い値段で、湯葉やごま豆腐を使った精進料理風のセットや近江牛カレーがある。そういうのでも良かったな…(今さらですが)

ちなみに、我らが秋田中央交通の関連会社が運営する、寒風山回転展望台のレストラン。
団体向けには1080円から、秋田産フグの唐揚げ御膳や男鹿のB級グルメ定食がある。


で、結局「峰道」というのは何なんだろう。仏教用語とかではなさそうだし、検索しても峰道レストランのことばかり。地名なのかな。【コメント欄参照。比叡山での修業の道と関係するようだ】
この修学旅行では、奈良での昼食(全員いっしょ)で食べた柿の葉寿司も記憶にある。奈良公園の中の店だったと思う。これも急いで食べさせられたような。
奈良、京都、琵琶湖、滋賀、比叡山。京都は10年ほど前に新しい駅を見ただけで、ほかはいずれも25年ご無沙汰。いつかは再訪してみたい。

※この修学旅行の帰りの車内で食べた駅弁の思い出
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続・平成最初の思い出

2019-04-17 22:34:21 | 昔のこと
本題の前に。令和決定から半月。そして改元まであと半月。
業界によっては大忙しかもしれないけれど、世間一般ではとりあえずは落ち着いたかな。Google IMEは、まだ「令和」と変換できない。
平成が終わるという実感は、ないようなあるような、中途半端な気持ち。
「平成」まんじゅう?
「平成 ありがとう」の焼き印が押されているようだが、読みづらい。
上のまんじゅうは、青森県の工藤パンが3月から発売中の「ありがとう平成酒まんじゅう」。白と紅があるが、中はどちらもこしあん。
秋田県内のスーパーでも、1個130円くらいで売っていることがある。※詳細はこちら

前回の記事で触れた、令和発表時の官房長官の額の持ちかたのせいでわずかにフライングしてしまったこと、「令」の書きかたについては、マスコミやネットでもそれなりに取り上げられた。
最初に音だけを伝えた時、手話通訳(ここでは指文字ということか)が誤って「めいわ」としてしまったことも分かった。事前に知らされてなかったからやむを得ない。菅官房長官にしては、かなりはっきりと言えていたと思うけど。

個人的には、手話通訳よりも、返す返すも残念なのが「令」の書きかた。
令和発表後、各地の書道イベントや人文字等々で、「令和」を書くことが行われた。そのうち、おそらく少なくとも過半数の人が「卩」としていた。小学生でも、ゾウとかアシカの芸でも。
文化庁では「マ」でも「卩」でも正しいという見解だそうだが、それは文化庁。
(文化庁も文科省の外局だけど)文部科学省管轄の学校教育の現場では、これまで手書きの楷書では「マ」が原則で、それが定着していたのに。
実質的に発表時の額の文字の、「卩」の「令和」の“お手本”になってしまっている。「卩」にするよう強制するような事態には今後もならないだろうけど、混乱や誤解を呼ぶ。「マ」で発表してくれていれば、こんなことにならないのに。


ところで、あの額にはガラスが入っていないそうだ。
フジテレビによれば、実は「平成」の時も同様。ガラスがあると反射して撮影に困るという、報道関係者の意見を、政府担当者が事前に聞いていたとのことで、今回も踏襲。


「令和」を提案した学者が誰なのかは、すぐには(数十年は)明らかにされないと思っていた。平成の時がそうだったように。
しかし、発表の翌日だか数日後には、各マスコミが提案した人を報道。本人は否定しながらも、実質的にその人で決まりのようだ。
さらに、最後まで残った、残り5つの元号案まで明らかになった。
情報公開といえばそうだけど、元号へのリスペクトみたいなのはいいの? と思わずにはいられない。

あと、政治的意図がどうこうとかいうのも、なくはないと思うけど、考え過ぎのような気もする。(上記と矛盾するけれど)たかが漢字2文字、西暦だってあるのだから、素直に受け取ればいいのでは。


海外の反応も意外だった。
オーストラリアに「REIWA」と書いて「リーワ」と読む不動産団体があり、そのサイトに日本からのアクセスが急増。REIWA側も好意的な反応を寄せてくれたそうだけど、元号の仕組み自体知らなかっただろうから、驚いたことでしょう。
イタリアでは、元号決定の過程が、ローマ法王を決める会議「コンクラーベ」と通じるものがあるとして伝えたそうだ。言われてみればそうかも。
チベット語で「希望」を意味する語と音が似ているという話もあった。
外国のみなさんも、思ったよりも元号に理解を示してくれているようだ。


各所での元号予想では、愛知の居酒屋のキャンペーンで的中させた人が1人いたらしい。
秋田魁新報くらし面の投稿欄「えんぴつ四季」には、投稿者が(正月に帰省した?)孫たちと元号予想したところ、中学生だか高校生の孫が「“玲”和」を示したとの話もあった。

既に名称に「令和」を入れた企業が31社登場したとか、青森県では、統合で2020年開校予定の県立高校の名称候補が「黒石高校」と「令和黒石高校」になった(6月決定予定)という話も。今後、いろいろな令和なんとかが登場することだろう。
【6月6日追記】青森は結局「黒石高校」に決定。一方で、秋田市の私立の秋田和洋女子高校が、2020年度から移転・共学化の上「秋田令和高等学校」となることが発表された。秋田では県立平成高校もあり、2つの元号の高校がそろう。また、東京都では2020年度に中野区立の2小学校が統合して「令和小学校」ができる。

続きはこちら



ここから本題。途中だった、平成が始まった1989年1月の続き。
秋田の学校の冬休みは長い。
現在の秋田市立学校は2学期(前後期)制だが、当時は3学期制であり、夏の暑さがさほど厳しくなかったこともあり、今よりもさらに冬休みは長かった。

1989年は成人の日(当時は15日で固定)が日曜、16日が振替休日。17日・火曜日が最初の登校日=3学期始業式。※日付や曜日は忘れていたけど、当時の資料で確認しました。
昭和天皇崩御・平成改元後、1週間の「歌舞音曲の自粛」も終わって、ほぼ普通の暮らしになっていたのではないだろうか。記憶はないけれど。
秋田市は引き続き雪が少なく、少し降った程度でほとんど積もっていなかったようだ。気温は朝はマイナスにはなっていた。記憶はないけれど。

登校後、教室で学級担任の先生が「間もなく卒業するあなたたちは、『昭和最後の小学生』であるとともに、『平成最初の中学生』でもある」ということを話されたのを覚えている。そう言われると、自覚というか記念すべき巡り合わせだという感慨がこみ上げた。
体育館での始業式では、校長先生が、年明けの一連の出来事について、何らかの話をされたのは確かだが、内容は記憶していない。全員で黙祷みたいなのはしなかったはず。寒いから手短に済ませたかも??
教頭先生による開式・閉式の言葉で、「昭和63年度3学期始業式」と言ったことに対し、「平成じゃないの?」と疑問を示したクラスメイトがいたはず。前回の通り「平成元年度」は存在しなかった。(「令和元年度」は存在するらしいのが、いまだによく分からない。)

その後、3学期の学校生活も、卒業式も、崩御・改元の影響は特になかったのではないだろうか。「平成最初の○○」で何かやるということもなかったはず。卒業に向けて、いろいろなことに追われていたのかもしれない。
家庭科の調理実習でサンドイッチを作って、その時に生まれて初めてブルーベリージャムなるものを食べて、おいしさに感動したのがこの時期。それまではイチゴジャムとマーマレードしか知らなかった。

冬休み明けから学年末・卒業まで(=当時の3学期)は短い。
土曜日も学校があった当時、3学期に学校に来る日は50日と少し(52日とか54日とか?)しかないと、誰かが話していた。卒業する6年生はさらに短い。
そんな中、突如、休校日ができた。2月24日・金曜日。
昭和天皇の葬儀に当たる「大喪の礼(たいそうのれい)」が執り行われ、全国的に学校や仕事が休日になったのだった。
学校が休みになるのはうれしかったが、残り少ない小学校生活が減って少し惜しい気持ちもあった。当日は、テレビで厳かな儀式のようなものを見た記憶が少し。

あとは、恩赦や特赦というものを初めて知って、ヘンな制度があるんだなと思った。【2025年8月16日追記・半旗、弔旗もこの時に知った。】
今上天皇の「即位の礼」で、学校がまた休みになって、テレビで儀式を見た記憶もある。ただ、それは1990(平成2)年11月12日の「即位礼正殿の儀」と1年以上後。(この日は月曜日だったので、連休になったようだが、その記憶はない。)

昭和天皇崩御、平成への改元に関する、直接的・具体的な思い出はこんなところ。
同時期には、消費税導入とアメリカ大統領選挙・ブッシュ(父)就任という、大きな出来事があった。
100円のお菓子が103円(最初は税率3%)になる、レーガンさんしか知らなかったアメリカ大統領が代わると、出来事そのものは当時も意識していていた。でも、それが昭和天皇崩御・改元と同じ頃だったという結びつけた記憶は、あまりないのが不思議。
卒業・中学校入学と、自分自身の環境が大きく変わったことで手一杯だったのか。



その後の「平成」について。最初は違和感が大きかった「平成」も、すぐになじんでいった。
個人的には「成」の書き順を間違っていた(1画目で横棒を書いてしまっていた)ことに、平成になったおかげで気がついた。

当時、ワープロ専用機では平成を変換できず「平静」しか出てこなかったことを前回触れた。僕はそれまで「平静」という言葉を知らなかった。大人の世界でも、それまではあまり使わない言葉だったのではないだろうか。
しかし、平成に入ると、平静という言葉の使用頻度が上がったように感じられた。例えば、平成3年の湾岸戦争の現地レポートで「現在の街は平静を保っています」とか。
平成に便乗して「平静」のほうも知られるようになったかもしれない。

便乗といえば、上記の「令和」を入れた企業や学校名のような、元号を借用したものが、平成の時もあった。今は忘れ去られたか記憶だけに残ってしまっているものもあれば、定着しているものある。
改元3か月後の千秋公園の花見の屋台に「平成焼」なるものがあった(詳細不明)。
平成6年には、秋田県横手市(当時は平鹿町)に「県立平成高校」が統合により開校。
平鹿と平成の関係性が薄いと当時思ったし、今思えば平成になって6年も経ってからで遅い気もするが、全国で「平成」が付く小中学校や大学は多くあるものの、高校は、埼玉県の私立高校とここしかないようで、個性的ではあったかもしれない。

平成を名乗る作品やグループもいくつかあった。めぼしいものを挙げる。
・「平成天才バカボン」平成2年 フジテレビ(「天才バカボン」3度目のアニメ化。主題歌は嘉門達夫)
・「たけし・逸見の平成教育委員会」平成3年 フジテレビ
・「平成イヌ物語バウ」平成5年 テレビ朝日(漫画「バウ」のアニメ化)
・「平成狸合戦ぽんぽこ」平成6年 スタジオジブリ・高畑勲監督のアニメ映画

・「平成ノブシコブシ」平成12(2000)年結成の2人組芸人。有名になったのは2006年頃。
改元を控えて、メンバーの破天荒な吉村氏の発言によれば、平成になっても「昭和のいるこいる」であるように、自分たちもそのままでいくことにしたとのこと。言われてみればそうだ。【18日補足】平成ノブシコブシは、タカアンドトシが名付け親。昭和のいるこいるをヒントにしたとも言われているそうだ。
・「Hey! Say! JUMP」平成19(2007)年結成のジャニーズグループ。「メンバー全員が平成生まれ」という意味もあるそうだ。

平成改元時には、岐阜県に「平成」と書いて「へなり」と読む地名が、偶然存在した(調査しきれなかったようだ)のが唯一だったが、その後、新たに元号にちなんで「へいせい」と読む地名が、各地に複数登場。
企業もいくつもできたが、明治製菓、大正製薬みたいな超有名企業は、今のところなし。
・「平成」駅 平成4年開業。熊本市のJR九州豊肥本線。前年に命名された町名が由来。
・「平成筑豊鉄道」 平成元年4月設立、10月開業。福岡県の第3セクター。
もともと1989年1月7日が社名発表日で、公募の中から選ばれることになっていたのが、急きょ、新元号を使うことにしたそうだ。


最後に、文字を画像データでご覧いただこう。文面でなく書体(フォント)に注目。
上は明朝体、下はゴシック体
どちらの書体も、特にひらがなが、特徴的なデザイン。(意識せずに)日常で目にする機会も少なくないはず。
これが「平成明朝体」と「平成角ゴシック体」(画像はアドビの平成明朝W3と平成角ゴシックW5)。総称が「平成書体」。

平成の初めに、NECのワープロ専用機「文豪」のテレビCMで存在を知ったが、名前だけの認識。平成10年前後にパソコンが普及すると、MacintoshのOSや年賀状ソフト類にバンドルされたり、比較的安価で市販されたりして、ぐっと身近になった。
でも、複数のメーカーから平成書体が出ているようで、他のフォントとは扱いが違いそうで不思議だった。
調べてみると、その誕生やデザインには、昭和末から平成初期のコンピューターの発展と関わる、独特の経緯があるのだった。後日改めて。
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平成最初の思い出+新元号

2019-03-29 00:24:22 | 昔のこと
いよいよ次の月曜・4月1日に、5月からの新しい元号が発表される。
そこで、以前アップした「昭和最後の思い出」に続く、「平成最初の思い出」を。1989年の小学6年生の視点です。

1989(昭和64)年1月7日朝に、(後に昭和天皇と呼ばれる)当時の天皇陛下が崩御。
「昭和」が終わることになるが、次は「何」になるのか、それはいつなのか。
当時は「改元」に「天皇崩御」は切り離せない関係だけに、その話はデリケートというかタブー同然で、今上天皇への不敬とする考えもあったという。
大正とか昭和とかいうのを「元号」と呼ぶことも、当時は知らない人が多かったと思う。

さらに、大正から昭和に変わって以来、約62年ぶりの出来事。しかも、大正末はラジオ放送がごく一部で始まったばかりで、速報性のあるメディアなどなかった。1989年とは世の中がまったく違う。
大人の多くも初めての経験で、みんなが戸惑っていたかもしれない。

テレビ各チャンネルは朝からずっと特別ニュース。その中で、元号移行の流れが伝えられたはず(ネットもないし、それ以外に知るすべがない)。
今日(1月7日)午後に新元号が発表(実際には14時36分だったそうだ)され、翌8日から、その元号に変わると。
新元号など予想もつかないが、歴史的な場面であり、見るしかない。


午後のNHKは、斎藤季夫アナウンサーから梶原四郎アナウンサーに交代。
当時の梶原アナは、おそらく土日の正午のニュースを担当していた。平日同枠の斎藤アナより若いようだが【29日訂正・斎藤アナより梶原アナのほうが2つくらい年上らしい】、やっぱりNHKのお硬いおじさん。
子ども心には、雰囲気も声もいくぶんソフトな、斎藤アナのほうに親しみを持っていた。

改めて映像も見て、振り返っておく。
総理大臣官邸記者会見場の映像を背景に、画面いっぱいに「新元号/決まる」の白い手書き毛筆文字と、再びピンポンパンポンのチャイム。
チャイムは崩御時よりも若干音色が少ないような気もするが、やはり二重に鳴って(鳴らしてしまって?)いるようだ。

中央にメガネのおじさんが着席するも、横を向いて誰かとしゃべるなどして、なかなか始まらない。
このおじさんこそ、当時内閣官房長官で、この会見で一躍有名になって「平成おじさん」と呼ばれ、9年後に内閣総理大臣になって、在任中に亡くなった、(娘がはなまるマーケットAD→国会議員である)小渕恵三氏。
僕は「平成おじさん」の呼称にはなじみはないが、やはり平成といえばこの人、この人といえば平成。
当時の小学校6年生なら、内閣総理大臣が竹下登氏であることは、誰もが知っていただろう。だけど、少なくとも僕は、小渕氏も、「内閣官房長官」という役職も知らなかった。大人でもそうだったかもしれない。官房長官が、政府のスポークスマンとしてマスコミによく登場するのは、これがきっかけだったかもしれない。
最近は「『嵐』解散について、どう思われますか?」なんて、(政府首脳・政治家に対しては)しょうもない質問がされ、表面的な返答をすることもあり、なんでもかんでも官房長官だ。


司会者らしき別の人物の声で「じゃあ、お待たせしました。あーあ」。
当時、この「あーあ」がおかしかったのを思い出した。何か失敗やがっかりした時に言う言葉のように聞こえたが、実際にそうなのか、マイクのテストなのか。いまだに謎。

小渕氏の横に来た人が、箱から出した、四角くて平べったいものを渡す。
当時は、それが何なのか分からず、意識していなかったのか記憶にないが、それこそ「平成」の額だ。
小渕氏は見られないよう、慎重に机上に伏せて置いた。

1分ほどで、やっと小渕氏が話し始める。(今見ても、ドキドキする)
いきなり「新しい元号は」ではなく、これまでの経緯の前置き20秒ほどの後、おなじみの、「新しい元号は『へいせい』であります。」。
話し終えてから「平成」の額を掲げ、そのまましばらく静止。

それを前に、記者が騒がしくなり立ったり、配られた資料を回したり。
発表から30秒ほど経って、梶原アナが「新しい元号は平成と決まりました。平和の平、成功の成、平成です」とナレーション。
画面下には「新元号 平成(ふりがな付き)」のテロップも。

小渕氏は、掲げた額をいろいろな方向へ向けて写真撮影させ、発表から2分弱で「この新しい元号は…」と、1月8日から用いることや総理談話を読み上げていく。


小渕氏が亡くなった時もそうだったかもしれないし、最近の平成回顧・新元号関連のテレビ番組では必ずと言っていいほど、「新しい元号は」のシーンが使われ、当時を知らない人でもバーチャル体験しているようなもの。
上記の通り、実際には会見のごく一部分を抜き出しているに過ぎない。また、現在は音声と掲げる映像が同時に流れるように編集されていることが多いと思うが、実際には、読み上げた後に掲げているので、リアルタイムで見ていた人は、最初に「へいせい」の音を知って、その後に遅れて漢字を知ったことになる。そう思えば、当時、「へいせいってどんな漢字なんだろう」と一瞬、悩んだような気もする。


NHKの字幕は、手書きでなく白い活字。
当時NHKが、ニュースやそれ以外の番組でも標準で使っていた「NHK丸ゴシック体」。2006年頃まで使われていた【4月6日補足・2019年現在もごくまれに使われることがあるそうで、デジタル化されているらしい。】ので、見れば「あれか」と分かる方もおられるはず。写植メーカー「写研」がNHK向けに開発した書体のようだ。【2021年7月7日訂正・写研ではなくモリサワのはず。下記中丸ゴシックBDR1と酷似?】
【4月6日補足・NHKではモリサワの写植用書体(デジタル化されず)「中丸ゴシックBDR1」も使っていたそうで、もしかしたらそちらかもしれない。】
当時のテロップの仕組みは知らないが、今のようにパソコンから瞬時にデータを送出できるのではなかったはず。でも、額が掲げられてから30秒ほどで「平成へいせい」を表示できている。


会見を見ていた周りの大人が指摘して、なるほどと思ったのが2点。元号に対する敬意とも言えること。
・額を掲げる前に、上下逆さなどになっていないか、ちょっと持ち上げて確認してから、示したこと。
これはテレビのフリップとかでもよく見られるが、逆さだったら大変。

・「ヘイセイ」と発音していること。
ややもすれば「ヘーセー」と、「イ」をおろそかにしてしまいそうなものを、しっかり発音している。
今回分かったが、梶原アナは「ヘーセー」と言っている。


こうして、翌日から平成が始まることになった。
不思議な気持ちがした。
仮に平成でない元号でもそうだったかもしれないが、どこか「軽い」感じもした。
僕としては、それまで昭和しか知らなかったし、周りも(実質)62年間も昭和だったのだから、無理もない。

1989年1月7日は、天皇崩御という哀しみと、元号が変わることへの戸惑いと、平成という新しい元号への違和感(新時代への期待を抱くには、まだ早すぎたかも)が入り乱れた日で、とても長い1日だった。
平成発表後、夕方や夜はどう過ごしたかは記憶がない。
【30日追記】7日は土曜、8日は日曜だったが、その曜日感覚は当時も今もまったくない。正月明け・冬休み中ということもあるけれど、それだけ特別な日々だった。
【4月17日追記】NHKのテレビは、日付と元号が変わる7日夜は当時の定時ニュースとしては若手で平日19時を担当していた松平定知アナウンサーが、昭和最後の放送を行った。8日朝は、梶原アナウンサーと平日朝「モーニングワイド」の桜井洋子アナウンサーという、珍しいコンビだった(当時のモーニングワイドの男性は和田郁夫記者)。
30年前の思い出・平成最初期のちょっとしたことなどもあるけれど、とりあえずは、新元号への期待をこめて、ここまで。
続きはこの記事後半。



来週初めには、上記とだいたい同じことが行われるわけだが、生前退位のおかげで哀しさがないのがいい。発表から改元まで、1か月も猶予があるというのも、余裕があっていい。【31日補足】その一方、4月1日(もしくは2日)から新元号になると勘違いし、2019年3月31日が「平成最後の日」と勘違いしている人もいるそうだ。勘違いまでいかなくても、新元号発表がクライマックスで、1か月後にはその感動も落ち着いてしまうような気はしなくもない。
この30年間で元号を使う場面は減ったが、やっぱり日本にとって重要なものだし、国民としてドキドキするのは変わらない。

そんなわけで、改元はタブーでなくなった。その効果というか影響。
まず、上記の通り、知らない国民も多かったと思われる「元号」という言葉が定着した。これまでは、元号を指して「年号」という人も多く、個人的には微妙に違うような気もしていた。年号というのは「平成」だけでなく「平成31年」というような、数字の部分も含めるような…
いろいろ調べると、大化とか昭和とか平成という、年の数え方の基準(?)のことは、「元号」でも「年号」でもどちらも正しいらしい。
ただ、どちらかと言えば「元号」のほうがより正しいようだし、日本の法律は「元号法」。
今回の各マスコミは、より正しい使い方をしていて、それが正しく広まっていると言えよう。


そして、これまでは、おおっぴらにやったら批判されたに違いない「新元号の予想」。
テレビでは、バラエティー番組、ワイドショーの街頭インタビューのみならず、それなりの専門家・識者も、予想している。インターネット上では、人気ランキングなども。

それに、企業や施設が、客に元号を予想させ、当たった人に賞品を贈るキャンペーンを実施しているところも多い。
個人的には、生前退位と言えども、元号を予想させて金品を渡すとは、不謹慎とまでいかなくても、どこか違和感を覚える。
消費税が5%から8%に上がった時、「増税分還元セール」をやってはいけないとのお達しを出したくらいの国なのに、「元号予想で賞品贈呈」というのはいいのでしょうか。

イギリスには「ブックメーカー」というのがあって、様々なことを賭けの対象にしているという。アメリカ大統領選や各種受賞者など。
日本の元号はやらないのだろうか。やっぱり言葉のハードルが高いかな。


元号予想がズバリ当たったらすごいけど、ほとんどが外れるだろう。なぜなら、元号の大前提を忘れているから。
日本の元号は、古典に出典があるものでなければならない。今回の新元号で、それが撤廃されたという話は聞かないし、出典を示して予想している人がどれほどいただろうか(週刊誌などの専門家やネット上にはいた)。
【29日追記】29日になって、いよいよ元号公表大詰めの、より具体的な報道がされた。それによれば、「元号改定手続きの要領」で6つの留意事項ががあるそうで、それには出典うんぬんはない。一方、「民間の元号予想ランキングの上位はなるべく避ける」というのがあって、その上位の「安久」は除外という話も出ている。発表日がエイプリルフールなので、混乱しないかという不安の声もあるとか。

見かける予想は、その多くが「各人の好きな漢字2文字を組み合わせた」ものであり、それらが都合よく収まった古典が存在する可能性はとても低そう。
つまり、行われている元号予想は、「今年の漢字」的に「期待する新しい時代を漢字2文字で現してください」程度のもの。本気で元号を予想したいなら、まずは古典を当たらないといけないのに。
今のAIとかビッグデータを使えば、膨大な古典の中から候補を選んで、その他条件を加味して、新元号予想ができなくもなさそう。誰かやってないかな?
【31日補足】一部アンケートでは「新元号に入って(入れて)ほしい漢字」として、1文字単位で集計するものがあった。それならば、予想として成り立つし、当たる可能性が高まる。また、元号自体の予想でも、1文字が的中した人にも賞品贈呈というところもあった。



新元号は4月1日の昼頃、菅官房長官が行うようだ。
あの方、話し方に難あり。秋田出身のせいか、一部の単語に独特なアクセントがある(秋田の人が全員そうではありません)のもそうだけど、語尾がゴニョゴニョしたり、紙を読み上げる時に早口で雑に読んだりする傾向がある。聴力の悪い人、手話通訳、字幕作成、外国語通訳は大変ないのではないかと、心配になる。
広報担当者なのだから、この点は自覚するなり、誰かが忠告【31日補足・もしくは進言】してほしいと思っていたのだが… 元号発表ははっきりと明瞭に話していただきたい。
【30日追記】菅氏の出身地である湯沢市では、湯沢市役所で新元号発表のパブリックビューイングを行うとのこと。街頭テレビ的なものは各地でやるだろうけど、本件(というかスポーツ中継以外)でパブリックビューイングというのは、全国的にも珍しいのではないか。【31日追記】平成の時、以前から存在していてたまたま漢字表記が一致する、岐阜県の平成(へなり)が注目された。今はその近くに「道の駅平成(これは「へいせい」と読むそうだ)」があり、そこでもパブリックビューイングを実施。

当然、テレビ中継するはずだけど、今のところ、各局の番組表では明言はない。
NHK総合は、正午のニュースを0時45分まで拡大することになっている。この日からキャスターが代わるようだけど、いきなり大仕事だね。
例のチャイムは鳴るのか、字幕はいつ、どんなふうに(立体化した金色の毛筆体とか)出るか。
テレビ朝日は、「徹子の部屋」を休止し、前後の「大下容子ワイド!スクランブル」を拡大。この日から大下アナの冠番組になるそうだ。
日テレのニュースは扱わない生番組「ヒルナンデス!」はやるようだけど、どう扱うか。
【29日補足】29日になって、新元号は4月1日11時30分に発表(その後、正午から総理談話)されることになった。↑上記の段階では、時刻が未確定だったので、番組も固まっていなかったこともあるだろう。【31日追記】31日時点の番組表では、日テレは「news every.特別版」をすることになった(ヒルナンデスを12時55分に繰り下げ)。TBSも「JNN報道特番」で「ひるおび」を13時00分に繰り下げ、フジは通常通り11時55分から「バイキング」。フジも含めた各局の特別番組は、10時台から始まるところが多く、発表前に重きを置くようだ。

テレビの視聴率は? ツイッターは「祭り」になるのか? パソコンやスマホのかな漢字変換システム(IME)はいつ対応するか? 株価への影響は? 元号に名前が似ているとかで突如注目される場所や人物はいるのか? 興奮して渋谷で騒いだり道頓堀に飛びこんだりする者はいないか?
誰もが緊張する、いつもと違う、新年度初日の昼になりそう。※発表時の記事
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階段でソリ

2019-02-19 00:25:17 | 昔のこと
暖かくなって、18日15時には、秋田市の積雪は観測上ゼロになった。今後も多少は積もることはあるとは思うけれど、春が見えてきたかな。

まだ雪が多少あった、1月末の写真とともに昔の思い出。
千秋公園二の丸広場
↑東・秋田駅方向を背にした写真。左方向が市立図書館明徳館や県民会館(解体済)前へ下りる坂、右が胡月池方向。正面の建物が売店で、右上は本丸入口の久保田城表門(復元)。
売店の左から表門へ上る階段があるのが分かるかと思う。胡月池そばのツツジの斜面の階段とともに、本丸への主要ルート。両階段に名前はあるのかな?
この階段の思い出。
上の突き当りで右に曲がる
階段は一直線ではなく、二の丸からまっすぐ上ったあと、右に曲がって少し上り「御物頭御番所(千秋公園唯一の江戸時代からの建物)」、さらに左に曲がれば表門。
上から見下ろす
それなりに高さがあるものの、階段の坂としての角度は急ではなく、1段ごとは高くなく、段の奥行き(踏面)が深い階段であるため、そんなに“怖い階段”ではないと思う。手すり付近は除雪もされている。


ここから昔の話。1984年から1985年にかけての冬は、秋田市では比較的多く雪が積もった。
当時既に大人だった人たちは、それ以前のサンパチ豪雪・ヨンパチ豪雪が強烈で、あまり記憶していないが、小学校2年生の僕は物心ついて初めて「雪が多い」「大雪」というのを実感した。

当時の小学校では、冬は体育の時間などでグラウンドで雪遊びをしていた。道具を各自持参してソリ(※)やミニスキー、中学年以上はスキーも。
(再掲)ソリとはこういうもの
※木製の箱ぞりなどは過去のもの。当時~現在、雪国で子どもが遊ぶ「ソリ」というのは、上の写真のようなプラスチック製で、正式には「スノーボート」(スノーボー“ド”ではありません)。

1985年の今頃(=当時は3学期制だったので3学期)だったと思う。
学年全体(3クラス)で、千秋公園へ雪遊びに行ったことがあった。
おそらく本丸である程度の時間遊んだ後、この階段を下りて帰る時、大きなイベントがあった。

1人ずつ、階段をソリで滑り下りたのだ!
といっても、写真のような現在の階段では不可能。当時のこの階段は少し違った。
まず手すりがなかった。手すりがあったら、支柱にぶつかる危険が高い。
そして除雪はされていなかった気がする。当時は表門も御隅櫓もまだなく、雪の本丸へ上ろうとする人は今より少なかったかもしれない。だから、うまい具合に緩やかで長い斜面になっていた。

そり滑りは定番の雪遊びだけど、もっと小規模な坂が普通で、こんな坂を滑る機会は少ない。さらに、いつもは「階段」であるところを滑り下りるという非日常感もあった。小心者の僕でも、心が踊った。
順番が来て滑ってみればあっという間。下まで一気に下りたわけでなく、途中で止まってしまったはず。階段の段がわずかに露出していて、ガタガタと振動したのを覚えている。
【19日追記】でも3クラス約100名の児童が1人ずつ下りたのでは、かなり時間がかかり、それだけで終わってしまいそう。たしかに他クラスの担任の先生もいたし、滑った記憶はたしかにあるのだけど、どこかで記憶が間違っているか、思い出として美化されていそう。

秋田市内のソリ滑りスポットとしては、八橋運動公園の丘の斜面や、雄物川の秋田大橋茨島側上流の堤防斜面がある。僕が幼稚園の頃に八橋で滑ったことがある。
それらと比べると、この階段は角度は緩いものの、長い。また違ったおもしろさがある。実際に楽しかった。


この年より後には、この階段を滑り下りることはなかった。
1986年以降は、雪が少ない時期に入ってしまったことが大きい。平成に変わる頃まで極端に雪が少ないシーズンが続き、感覚としては近年よりも少なかった。
小学校では、3年生だか4年生以上が、バスで金足の南秋田カントリークラブへ行って、丸1日、スキーやソリを滑る行事があった。
大きくて広い坂をソリで滑ってとても楽しかった思い出はあるが、1987年とかその辺りは雪が少なくて、行事自体が中止されたはず。
千秋公園のほうは、いつの間にか階段に手すりが設置され、僕もソリ滑りするような歳でなくなり、1度きりの体験に終わった。
こんな視点で滑ったはず。手すりがなく雪がもっとあれば今でも??
条件が整ったとしても、今の学校ではこんな「階段を滑り下りる」ようなマネはさせないでしょうな。昭和末かつ雪が多い年ならではの、貴重な体験だった。

ソリ滑りは事故やケガの危険も少なく(※)、多くの人が楽しめる雪遊びだと思う。スキースノボスケートは、今後一生しなくていいと思っているけど、機会があればソリ滑りはしてもいい。
※現在の千秋公園の階段でソリ滑りをするのは危険ですので、やらないでください。他の場所でも、屋根や樹木からの落雪、隠れた穴や溝、人や車にぶつからないなど周囲の安全には注意して楽しみましょう。
翌シーズンの状況はこの記事中ほど。
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給食カレー かけるか入れるか?

2019-02-13 00:33:42 | 昔のこと
2012年の記事で、昭和末~平成初期にかけての、秋田市立学校(※)の学校給食の思い出を取り上げたところ、わりと反響をいただいた。
※当時の河辺町・雄和町は合併前なので違うはず。秋田市内でも、秋田大学附属学校や県立特別支援学校は別。
当時の秋田市立学校では、小学校はすべて、中学校も大部分の学校で、完全給食(主食、おかず、牛乳)を実施していた。基本的には各学校ごとに調理場(給食室)があったが、一部学校では他校で調理したものを輸送。献立そのものは各学校で共通であったようだが、材料調達に配慮したのか、学校間で日にちをずらしていた。


主食の「ごはん」について。
1989(平成元)年に、ごはんの回数が週に2回から3回に増えた。現在(2001年から順次)は、教室で茶碗に盛りつけているようだが、当時は、1人に1個ずつ、弁当箱に入ったごはんが配られた。以前の記事では、
「秋田米飯給食事業協同組合(たけや製パンの社長が理事長)」で製造された、暗赤色のフタ付きの弁当箱型容器にごはんが入っていた。(容器は厚手の樹脂製。使い捨てではなく、返却・洗浄して何度も使う)
フタの内側に水滴が付いたり、独特のニオイがしたものだ。
とした。

通常の白いごはんも、たまに出て熱狂的ファンがいた「ゆかりごはん」「わかめごはん」も、海苔が少なくて余ってしまう「手巻き寿司」の酢飯も、同じ方式だった。
ここまで以前の繰り返し。


最近、給食のごはんに関して、ふとよみがえった思い出が本題。
カレーの時のごはんについて。

以前紹介したように、ポークを中心にビーフ、シーフードといったカレーが月に1回は出ていた。
今のようにナンなんてしゃれたものは出ず、毎回、主食はごはん。

カレーの時も、弁当箱入りごはん。
カレーのルウは、給食室で作られたもので、食缶で教室に運ばれ、ステンレスのお椀(※)に盛りつけて出された。
※秋田市の食器は、当初はステンレス製だったようだが、後にポリカーボネート製も登場。1980年代中頃には両者が混在し、環境ホルモンが問題視された1990年代末にすべてステンレス製になった(戻った)ようだ。(現在は陶器?)学校や学年によって違いがあったみたいだが、僕は小中9年間ずっとステンレスだった。アルマイトではなくステンレス。


問題は、そのごはんとカレーをどう組み合わせて食べるかということ。
普通、カレーライスはごはんの上にルウをかける。レストランでは、ごはんが平皿、ルウが魔法のランプみたいなので出るように。
同じことを学校給食でやったら…

物理的な問題がある。
先割れスプーン(と各自の箸)しか道具がない児童が、お椀からごはんにルウをかけようとすれば、飛び散ったりこぼしたりしてしまうおそれがある。
それに弁当箱には、ほぼスレスレにごはんが入っているから、そこへルウをかけたら、あふれる(先にごはんを少し食べてすき間を作ればいいけど)。

僕は、上記の方法で食べたことはない。
小学校1・2年生の時の担任の先生の影響。ベテランの女性だったが、入学して最初のカレーの日だろうか「カレーのお椀に、ごはんを入れて食べなさい」と、指導というか指定されたのを、なんとなく覚えている。
上記の物理的問題でお盆や机を汚されると面倒なこともあるだろうが、たしか理由として「ごはんの入れ物(弁当箱)がカレーで汚れるから」と説明されたような気もする。

すなわち、弁当箱は、学校では洗わずに秋田米飯給食へ返却されるはず。つまり汚れた状態で、ある程度の時間放置される。しかも、米飯給食では普段ごはんの汚れしか処理していないはず。
そこにごはん以外のカレーが付着していたら、におうし、米飯給食での洗浄作業に迷惑をかけてしまうかもしれない。
子どもながらになんとなく納得したし、今考えても理屈としてはおかしくない。


3年生になり、初めてのクラス替え。担任も変わり、1・2年の時、同じ学年の別のクラスの担任だった、中堅の女性。
新クラスで初めてカレーが出た日、我々1・2年の時に同じクラスだった児童たち(3クラスあったので、新クラスの3分の1相当)は、なんのためらいもなく、お椀にごはんを投入。
すると、それを見た1・2年で違うクラスだった子が「カレーにごはんを入れるなんておかしい!」と言い出し、その当人は弁当箱にカレーをかけている。「カレーライスって、ごはんにカレーをかけるもんでしょ」的な理由を述べながら。
前の先生の教えではいけないことをしているのを目の当たりにしながら、それが当たり前のやり方だと言われれば、そうである。
新しい担任の先生は、別段、いいとも悪いとも、どうしろともおっしゃらなかった

その後、5年生のクラス替えでも、中学校でも、カレーの食べ方を指定された記憶はない。
飲んだ後の牛乳パックのストローをどうするかなんかは、給食委員が注意していたのに。
「カレーにごはんを入れる」のは、1・2年生の時の担任の先生の個人的な考えに基づく指導だったようだ。低学年児童では、こぼして汚す危険が高いという判断なのは分かる。

さらに中学校の時に1度、たしか中体連の関係で簡易給食的な扱いになった日、「カツ丼(カツ弁当)」が出た。
カツと卵とじの部分も、給食室でなく、秋田米飯給食で作ったもの。いつもの赤い弁当箱に入って出されて、驚いた。(米飯給食では、コンビニ・スーパー向けのカツ丼も作っていて、それと同じものを容器だけ変えた形)
ということは、別にごはん以外のカツ丼の残りが容器に付着しても、米飯給食での洗浄には問題はなさそう。

結局、弁当箱のごはんにカレーをかけて食べても良かったようだ。
でも僕は、カレーにごはんを入れて食べ続けた。
今でも、タッパー【13日補足・正しくは「電子レンジ対応食品保存容器」】に入れた残り物カレーを温めて食べる時、ごはんをそのタッパーに入れて食べる。洗うのが楽だもの。
あと、「ごはんをカレーに浸して食べる」ってのも、ちょっと食感が違って、また乙なものですよ。

給食カレー、ごはんにかけるか? ごはんを入れるか?
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昭和最後の思い出

2019-01-07 00:40:18 | 昔のこと
30年前、1989(昭和64)年1月7日に当時の天皇陛下が崩御され、昭和という時代が終わった。その思い出。
※「崩御(ほうぎょ)」とは天皇が死去すること。ちなみに一定範囲の皇族の場合は「薨去(こうきょ)」と呼ぶ。最近(2010年代)のマスコミは、そうした方々が亡くなっても「ご逝去」と伝えることが多い。一般人でも使う「逝去」のほうが分かりやすいという判断なのだろうが、敬意という点ではどうなんだろうか。
※「昭和天皇」は「追号」という、戒名のようなもので、崩御後の呼び名。「元号+天皇」の呼称を、在位(存命)中に用いるのは不適切。

その年、僕は小学校6年生。世の中が多少は分かってきて、興味も出てきた頃。その年度の秋にさかのぼる。
9月19日・月曜日の夜、天皇は大量吐血。療養と昭和の終わりが始まった。

翌日9月20日から、連日、天皇の病状が報道される。
ものすごくあいまいな記憶だけど、9月20日は、秋田市では先生たちの研修会で学校が休みだったような気がする。
【5月2日追記】平成最後の2019年4月30日にバスに乗っていると、小雨でワイパーが動く音が聞こえ、それによって昭和が終わるきっかけとなった1988年9月20日の記憶がよみがえった。
当日はやはり学校が休みだった。午前中に皮膚科医院へ通院。診察を終えて外に出たら、激しい雨。秋田市営バスに乗った(初代日野ブルーリボンである161・162号車のどちらかだった)ら、ワイパーが高速で動いていて、バスのワイパーってけっこう大きい音がするんだなと思った。
1988年9月20日の気象データを調べると、6時から18時(昼)の天気概況は「大雨」。10~12時にも、毎時4~5ミリ降っていて、記憶と一致する。(以上追記)

報道では、「何時現在の陛下の呼吸数は~、心拍数は~」とか「若干量の吐血」「何ccの下血」といったことまで伝えられた。

NHKのニュースでは、皇居前(二重橋かな)から社会部の記者のレポートが入ることが多かった。
よく出ていたのは、吉村記者(2000年定年退職した吉村秀實氏?)と池上記者。
池上記者とは、あの池上彰氏。この翌年からキャスターに転じ、ダジャレを言ったり、子どもニュースを立ち上げたりしていくことになる。

これを受けて、世の中では「自粛」ムードが広まる。
井上陽水が「お元気ですかぁ」と言う日産のテレビCMで、その音声が消されるとか、忘年会や年賀状を控える動きがあったそうだが、子ども心にはほとんど印象がない。バブル景気のさなかだったので、自粛の中でもどこか浮かれていたというか、極端な影響はなかったのかもしれない。
土地によっては学校行事にも自粛が及んだらしいが、秋田市ではそのようなことはなかったはず。秋の徒歩遠足や学習発表会(旧称・学芸会こと学芸発表会。母校では1985年度から改称)は、例年並みに実施された。学区内の児童館の増築が竣工して、そのささやかな記念行事に出たこともあった。
もちろん、秋田の小学生の日々の暮らしはこれまで通り。6年生だから社会科で、戦後の歴史や日本国憲法のことを習う時期だったかもしれない。この件についても何らかの説明があったと考えるのが自然だが、記憶にない。
家族で横手公園に「よこて菊まつり」を見に行ったのも、この時期のはず。

1988年といえばオリンピック。ソウルで開催され、鈴木大地(現・スポーツ庁長官)のバサロ泳法、カール・ルイスとベン・ジョンソンの対決などに沸いた。【3月19日追記】この10年後に若くして亡くなるフローレンス・ジョイナーの活躍も。
今まで、ソウル五輪はもっと早い時期、つまり(近年のように)8月とか夏の開催だったと思いこんでいたが、実際には1988年9月17日から10月2日開催。
つまり、開幕早々に倒れられたのだった。まだ、自粛が広がっていなかったのだろうか。【7日補足】感覚としては、「ソウル五輪が終わってひと段落してから、天皇が倒れられた」という時系列だった。

当時、フジテレビで月曜20時から「志村けんのだいじょうぶだぁ」という番組が放送されており、その中に「ウンジャラゲ」があった。みんなで並んで、歌に合わせて踊るという他愛のないもの。元は「ハナ肇とクレージーキャッツ」の歌と踊りをカバーしたものだそう。
おそらく9月19日(ちょうど月曜)より前に放送は始まっていたと思われるが、そのシングル発売(CDもレコードもカセットテープも出たそうだ)が、1988年11月2日。
歌のあっけらかんとした雰囲気は、自粛ムードにそぐわない気もするが、当時はそうとらえなかったのか。ある種の寛容さを感じる。

そして冬。
この年、というより1985~1990年代初めは、雪の量が少ない時期だった。
1988~1989年のシーズンの秋田市は、ほとんど積もらなかった気がするが、気象データによれば積もっては融けを何度か繰り返していた。
そんな12月、秋田市営バスには、大型車から遅れること数年、中型車にも新塗装の車両が導入され、学校帰りに見かけて(雪は積もってなかったはず)心を躍らされた。

年が明けて、1989年。
秋田市は1月1日は積雪ゼロで最高気温5度。4日・5日に15センチほど積もって、6日以降はまた暖かくなって急に融けていく。初詣など特に記憶はない。

秋田市は冬休みは1月中旬まで続く。当時の僕は早起きだったようで、休み中なのに7日・土曜日も7時前には起きてテレビをつけた。
すると「天皇陛下危篤」といった臨時ニュースを伝えている。
当時は、身近な身内の死は未経験で、「危篤」状態をよく知らなかったが、ことの重大さは分かった。
【7日補足】6日以前では、「9月以降、病状が良くはないことは理解していたが、どういう結論になるのか、つまり回復されるのか、亡くなるのか、だとすればそれはいつなのか」が子どもにはまったく予想がつかなかった。7日朝の危篤の報道は、唐突なもので、急に悪い方向に進んだように感じられた。(あくまで子ども心には)

NHKでは斎藤季夫(すえお)アナウンサーが、落ち着いて淡々と、しっかりと伝えていた。
当時53歳で、平日正午のニュースを担当していた。今は30歳代のアナウンサーが担当しているが、昔はもっとベテランがやっていたのだ。
【7日追記】当時の斎藤アナウンサーは額が広いほぼ白髪で、(当時の人はたいていそうだけど)今の53歳より老けて見える。でも、落ち着いた雰囲気の人で、声も読み方も聞きやすく、重大ニュースを伝えるには最適の人だったと思う。通常なら、土曜日の早朝に出勤していないと思われるが、来るべき時に備えて特別シフトだったのかもしれない。
なお、当時の19時のニュースは松平定知アナウンサー。もし、彼が7日朝の担当だったら…、そして最近のまだ若くて斎藤アナと比べると上手くないアナウンサーたちが担当していたら… そう想像すると、斎藤季夫さんで良かった。

そして7時55分。
宮内庁長官が記者会見で「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において、崩御あらせられました。」と発表。
切り替わって真っ黒い背景に、白い手書き毛筆文字で「天皇陛下(改行)崩御」と映し出され、♪ピンポンパンポンポンポン…というチャイムが鳴った後、斎藤アナウンサーが映り繰り返して読み上げた。【7日補足】毛筆文字の画面は、当然、事前に用意されていたのだろう。
※この辺り映像は、著作権的にはどうかとは思うけれど、動画サイトで視聴できます。(斎藤アナの服装も分かり、明るめの青いスーツとネクタイだったのが意外。)
【9日追記】宮内庁長官は、上記のカギカッコ内を読み上げた後、これまでの経緯や病名をけっこう長く説明し、最後に再びカギカッコ内を繰り返し、その後で黒画面・チャイムの流れ。長官の話しぶりは比較的淡々としており、子ども心には長い説明も分かりづらく、「ホウギョ」がキーワードであることも、すぐには分からなかった気がする。繰り返しと黒画面、その後の斎藤アナの繰り返しで、ついにその時になったことをはっきりと認識したのかもしれない。

子ども心には、「ホウギョ」が理解できず、次に「崩御」がそれらしいことは分かった。長官の話しぶり、黒い画面といった全体の雰囲気からして、ことの段階が1つ進んで、ついに来るべき時が来たらしいとなんとか理解した。
天皇が亡くなるのは64年【7日訂正】62年(と少し)ぶりなわけで、大人も似たような感覚だったかもしれない。

あと、黒い画面の時に流れたチャイム音が、妙に明るく、長く、どこか場違いにも感じられた。
NHKでは、昔からこのタイプのチャイムを緊急時に放送するそうで、東日本大震災の発生直後にも流れたそうだ。
ただ、微妙に異なって、崩御時のほうが少し長くて音色が多いようだ。ネット上では「重大さに応じてチャイムを使い分ける」説と、「崩御時は、手違いでチャイムを【3月19日補足・少し時間差をつけて】二重に放送してしまった(ので長く聞こえる)」説が存在する。
【2021年3月20日追記】二重かは別として、このチャイムはNHKのテレビラジオの全チャンネルが同時放送に切り替わるタイミングの音として、2021年時点でも使われていた。地震の場合、震度6弱以上(の緊急地震速報が出た時?)で同時放送になるらしい。2021年3月20日に最大震度5強の地震が発生したが、どうも手違いでチャイムが鳴ってしまったようで、しかも画面の字幕も「宮城で震度6強」と間違った。(以上追記)

その後は、NHK、民放ともずっと臨時ニュース。落ち着くと、ご健在の頃の映像で昭和を振り返るなど、特別番組。
民放では、東日本大震災後のように2日間はCMもなかったそうだが、記憶にない。
NHK教育テレビ(現・Eテレ)は、学校放送など通常編成。NHKBS1も通常だったそうだ。

崩御後、自治体は6日間、民間は2日間の弔意を示すよう協力してもらうことが閣議決定された。
「歌舞音曲(かぶおんぎょく)」の自粛が求められ、大相撲初場所や高校スポーツ大会の延期(ラグビーは決勝中止・両校優勝)、コンサートや成人式にも影響が及んだというが、やはり秋田の小学生には影響はなかった。

関東以西の学校では、当時は冬休み明け最初の登校日(3学期始業式)は1月7日だったか8日だったはず。7日は土曜日だけど、当時は半ドンで午前中だけ学校があった。多くの企業や役所でも、週休二日制はまだ少数派。
そういうところでは、学校や職場でどんな動きや会話があったのだろうか。

冬休み中の僕も、この日は予定が入っていた。歯医者の予約である。
ある種の非常(非日常)時に、そんなことをしてもいいのか、もしかしたら歯医者さんは休んでるんじゃないかなんて思ったが、約束だから行くほかあるまい。歩いて数分の距離だし。

道路に雪はまったくなかったと思う。そして、少し静かな感じもしたが、普通に車が走っているいつもの街。歯科医院もいつもの対応。こんな時でもこんな雰囲気でいいのかと思った。
渡されたレシートには「64.-1.-7」とか印字してある。
天皇が亡くなれば、「昭和」ではなくなるのは、本件以前から知っていた。
昭和は終わるのだろう。昭和の次は何? それは今日から? 明日から? 次の関心はそうしたことで、ちょっと不謹慎ながら、どこかわくわくした気持ちになった。

我が家では七草がゆは欠かさない。1989年1月7日も、朝か昼に食べたはずだけど、まったく記憶にない。
平成の始まりなど続きはいずれ。※続きはこちら


それにしても、当時の決まりではそうするしかなかったにせよ、「昭和の終わり」は突然訪れ、その時を明るい気持ちで迎えることはできなかった。
生前ご退位により、「平成の終わり」には時間的余裕があり、各自さまざまな思いを巡らせながら迎えることができ、そして「平成最後の○○」と楽しむ余裕さえできるのは、悪くない。なんでもかんでも「平成最後」にしちゃうのもどうかとは思うけど。
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蓬莱泰三 小山田満月

2018-12-20 00:27:17 | 昔のこと
今年接した訃報からお二方。
いずれも、昭和末~平成にかけて、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の番組を作っていた放送作家・脚本家。以下、一部敬称略。
以下、内容は訃報にかこつけた、自己満足でどうでもいい学校放送番組の記録です。ほとんど役に立たないと思うので、ご了解の上、物好きな方だけお読みください。

●蓬莱泰三(ほうらい たいぞう。1929年生まれ)
新聞の死亡記事では、放送作家として「できるかな」「中学生日記」、作詞家として「合唱組曲「チコタン」」辺りが代表作とされていた。

僕は小学生の頃から、読めなかったけど、文字の形として存じ上げていた。
幼児向け造形番組「できるかな」のオープニングでは、主演であるノッポさんより先に、画面右下に「作 蓬莱泰三」とおそらく毎回表示されていた。番組初期は別の人も作っていたようだ。
秋田市営バス添川線の行き先表示「添川・蓬田」の「蓬」と同じ文字で、全体に横棒が多い名前だと思いつつ、どう読めばいいのか分からなくて、印象に残っていた。
(再掲)秋田市営バス添川線 下り蓬田上丁行き
その後、中学校の国語で「竹取物語」に「蓬莱の玉の枝」が出てきて、やっと「ほうらい」だと分かった。「たいぞう」か「やすぞう」かは、亡くなるまで分からなかった。

NHK総合テレビ・名古屋放送局制作のドラマ「中学生日記」でも、複数いる脚本家の1人であることを知ったのも、その頃か。なお、2001年までの番組テーマ曲を作っていた熊谷賢一氏は2017年に亡くなっている
※今年話題のTBS「中学聖日記」ではありません。


「チコタン」の作詞者でもあることは、死亡記事で初めて知ったが、歌そのものは前から知っていた。
「チコタン」は関西弁(蓬莱氏は兵庫県出身)による長い合唱曲。男の子の視点で、チコタンへの恋心とその交通事故死を題材にしている。

1986年かと思うが、8月末(=秋田は既に夏休み明け)に東京の西六郷少年少女合唱団(現存するが、いったん解散して再結成されている)が秋田に演奏旅行に訪れ、僕の小学校でも「移動音楽教室」が開催された。そのプログラムに含まれており、コミカルに始まった歌が、後半は「死」を扱った歌になるのに衝撃を受けた(実は僕はさらにそれ以前に歌の存在は知っていたのだが)。

ちなみにこの演奏旅行は、同合唱団の設立・指導者であった鎌田典三郎氏が秋田県男鹿市払戸出身である縁と、首都圏の学校に通っていてまだ夏休み中の団員を、学校が始まっている秋田へ連れてきて、秋田の児童に歌を聴かせようという趣向だったのだろう。
「西六郷」とは合唱団発祥地である東京都大田区の地名(小学校名)。秋田県の美郷町六郷とは関係ない。

【20日追記】蓬莱というのは、筆名かと思ってしまえそうな珍しい姓だが、兵庫県ではそれなりに見られるようだ。大阪発のテレビ番組に出演している気象予報士・蓬莱大介氏も兵庫県出身。



●小山田満月(おやまだ まんげつ。1948年生まれ)
NHKラジオ「サンデージョッキー」や教育テレビ「ピコピコポン」、さらに吉本興業の養成所NSCの講師も務めた。

僕がお名前を知ったのは「ピコピコポン」。
ばくさん(熊倉一雄)とビーバー(という名前の着ぐるみのビーバー)が、数や形の仕組みを教える幼児向け番組「ばくさんのかばん」の後継番組が「ピコピコポン」。
連続するストーリーのある人形劇で、ばくさん~では扱わなかった「ゼロ」の概念を取り上げるなど画期的だったそうだ。「知らないものには『エックス』」というのもあった。
今まで知らなかったが、第1話は毎年度同じながら、以後のストーリー展開は毎年異なる、パラレルワールドで話が展開したそうだ。

1987年に始まったので、僕はとっくに視聴年齢は過ぎていたが、最初の数年は毎回ではないけれどおもしろくて見ていた。クラスメイトでも見ていた人はいて「宝探し友の会」を歌っていた。1991年の放送終了後もファンは多かったようで、2008年にはDVDも発売された。

そのオープニングでは、ドット数も色数も少ない黎明期のCGアニメを背景に、左側に実写の人形が1体ずつ順にクロマキー合成され、右側をキャスト・スタッフが縦スクロールされた。
その中に「作 小山田満月」があって、おもしろい名前だけど本名なんだろうかと不思議だったのが、最初。※ピコピコポンは別の脚本家もいた。
「満月」は筆名。ちなみに小山田姓は東北地方に多いそうで、秋田にもちらほらいる。満月氏も福島市出身。

平成に入ると、幼児向け番組はジャンルを越えて共通化され「ともだちいっぱい」シリーズになって、その一環でピコピコポンも終了。
ともだちいっぱいでも、小山田氏が作った番組があったようだ。記憶では「おーい!はに丸」の後継「やっぱりヤンチャー」→「なかよくあそぼ」を担当していたような気がするが、わくわくさん&ゴロリの「つくってあそぼ」にも関わっていたようだ。


ネット上には明確な記載が見当たらないが、最近、小山田氏が別の学校放送番組も作っていたことを知った。個人的には、または同年代のそれなりの割合の人にとって、インパクトがある番組。
1986~1987年度の「ことばのくに」である。
と言っても、ピンとこないでしょう。
「ユー アンド アイ」といえば思い当たる方は多そう。

「ことばのくに」は小学校2年生国語科の番組。【20日補足】したがって、ここで述べるのは1978~1979年度生まれの人たち向けのバージョン。
Wikipediaによれば、1984~1989年度にわたって放送されたが、設定や出演者は2年ごとに大幅に違って3世代あった。(それぞれの2年目は、全部または一部が前年の再放送というか使い回しだった可能性もある。)

僕自身が2年生の時は初代を見ていたことになるが、ほぼ記憶がない。「王様」がいたらしい。
3代目は「らくらく仙人」がいたのを覚えている。僕が6年生当時のとある曜日は、10時45分:6年生理科→11時00分:ことばのくに→11時15分:6年生社会という番組順の放送。当時は学校でビデオ録画して自由に視聴できる環境ではなかったから、リアルタイム視聴。
理科と社会のテレビを両方とも見るとなると、間に「ことばのくに」で15分間のブランクが生じてしまう。
担任の先生としても、そこが中途半端だったのだろうか。我々児童が見たいとせがむと、「ことばのくに」を見せてくれたことが何度かあって覚えているのだ。
これら初代・3代目の作者は不明。

とてもインパクトがあったのが2代目。といっても全体の流れを記憶する人は少ないかも。
部屋の一角に空き缶や食器やおもちゃの打楽器が並べられており、その部屋の主の若い男が、突然チンチンカンカンとそれらを打ち鳴らしながら、「♪ユー アンド アイ」と歌い出すシーンのみを覚えている人が多そう。

若い男は「新作」という名前の作家という設定。
裕介と愛子という子どもが、「ことばのくに」を目指す旅の道中で、「へんしんタンマ」と闘い(?)ながら、国語を学んでいくというお話を執筆している。
そのお話部分は人形劇で展開される。新作が自室で説明をする部分と人形劇部分の導入部というか切り替え部分が「♪ユー アンド アイ」なのだった。
「まんがはじめて物語」の実写とアニメの移行部分の「ナルナルタンタン へそのゴマ」のような位置づけ。

「ユー アンド アイ」のフレーズが何度か繰り返される歌で、途中で「勇気、愛情」「裕介、愛子、ハイ!」と合いの手も入る。冒頭は新作が歌い、最後は裕介と愛子が歌う。チンチンカンカンとは別に、シンセサイザーらしき伴奏も流れるが、どこか中華風っぽい。
うるさくてしつこいと感じられたのだろうか。どうも番組後期では、繰り返しが短くなり、チンチンカンカンは廃止された(歌うだけ)ようだ。

で、その番組冒頭では「さく おやまだ まんげつ」と出ていたから、そういうことだ。
この番組ではオープニングアニメ(イラスト?)の中でスタッフや声の出演者が、手書き文字・仮名書きで表示されていた。手書き・仮名なのは当時の学校放送番組では珍しくなかった。
だけど、新作だけは、本人が登場する時にゴシック体のテロップで「新作 藤島 新」と、まるでニュースキャスターのように漢字表示されていた。
子ども心に、役名が「新作」で、演じる人が「新」なのが、どこか不思議だった。

藤島 新氏は、1947年生まれの歌手(スタジオミュージシャンとかそんな感じ?)。だからユー アンド アイもうまかったのか。
藤島氏は、槇みちるという人(「ひらけポンキッキ」の歌を歌っていた、ぶんけかな の母)と「みちるとピーカブー」というユニットを組んで、「できるかな」の最後のオープニング曲を歌っていたそうだ。【20日補足・できるかなの歌の収録は、ユーアンドアイと同時期もしくは少し後ではないだろうか。】小山田氏作のことばのくにの出演者=蓬莱氏作のできるかなの歌手という、若干のつながり。
※「できるかな」のオープニングは、曲自体は変わらないが、時期によってアレンジや歌手が違うバージョンが少なくとも3タイプ存在した。


以上、ごちゃごちゃとした記録。
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少し昔の雄物川

2018-12-03 00:34:58 | 昔のこと
昔のデジカメ画像を見ていて気づいたこと。雄物川左岸(美大・新屋栗田町側)から2点。
今年夏、雄物新橋から川沿いに河口を目指そうとしたが、「この先通行禁止」の立て札にはばまれ、断念した。
その時、川本体と通路の間の、普段は水に浸かっていない部分に、草木がうっそうと茂っていることが印象的だった。対岸どころか川面もほとんど見えず、まるで草の壁のよう。恐れをなすとともに、こんなに草が多かったっけ? と引っかかっていた。
(再掲)右が川なのだが見えない

2001年6月に撮影した写真を見ると…
だいたい同じ場所か?
通路が舗装されておらず砂利道。
何よりも、低い草が茂るだけで、川面が見えるばかりか、対岸も、河口の雄物大橋まで見通せてしまっていた。
ズームして雄物大橋と風車(この時点でこんなにあったのか)

2000年10月。秋田大橋から撮影
秋田大橋からも、雄物新橋越しに下流の河川敷が見通せた。現在は防風パネルが通年設置されて、そもそも見えにくいが、ここまでは見通せないはず。

17年の間に草がたくさん茂るようになっていた。
自然にこうなったのか、河川敷の管理方法が変わったのか。少し昔は、今よりもいくぶん開放的で散策しやすい場所だったのかな。


もう1つは、雄物新橋から1つ上流の秋田大橋。
青森の岩木川を例に紹介したが、一級河川本流の堤防に立っている、川の名称を記した「河川名看板」は、もともとは「川表(川側)は漢字、川裏(宅地側)はひらがな」で表記するのが原則であることを知った。
ところが、秋田大橋左岸・下流側の看板は、
(再掲)裏返しに設置されている
※現状では(昔は規則として定められていたが、後に緩和)原則と逆というだけであって、間違いとは言い切れないが、あえてこう設置する意図は考えられない。
その理由は、この看板は秋田大橋が架け替えられた際に、移設されたはずで、その時の手違いで向きが変わってしまったのではないかと推測していた。

現在の秋田大橋は2001年に完成。それ以前の橋は、そのすぐ隣の上流側に架かっていた。
2000年11月撮影の写真があった。
緑色が現在の橋の橋桁。その右向こうの白いトラスが当時現役の旧橋
この時点で、現在と同じ向き。(まだ建設省名義、現在は上に国土交通省と重ね貼り)
設置位置も、現在とほぼ同一の(もしくはとても近い)はずだが、現在のように小公園風に整備されておらず、ギリギリまで堤防の道路が通っている。

手順としては、新しい橋が開通してから移設したと思っていたが、この段階でこうなっていたとは。
ただ、旧橋だけの状態でこの位置にあったのでは、橋から遠すぎて見てもらえない。
やはり、もともとは旧橋のたもとに立っていたが、そこに新しい橋が架かることになり、移設したのだと思う。工事中にどこかに保管しておくよりも、さっさと将来の橋のたもとに設置してしまったのだろう。
そして、やっぱりそこで向きを誤ってしまったのか?(結論としては変わらず)【3日追記】このような手順だったのなら、次の段階の工事が迫っていて、急かされてあわてて確認せずに(対岸の看板に合わせてしまった等)、とにかく設置してしまった可能性はある。
※この看板の側面には標語が書かれている

何気なく撮った昔の写真も、手前味噌ながら時が経てば貴重な記録になるものです。
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奥羽北線上りの思い出 と要望

2018-05-17 00:51:18 | 昔のこと
下りに続いて、奥羽北線上りの思い出。
現在のダイヤで、弘前から秋田までの普通列車(大館乗り換えを含む)は、弘前発時刻で、
6時25分(特急廃止代替の快速)、7時52分、9時03分(大館で1時間待ち)、11時24分(大館50分待ち)、14時51分、17時29分、19時22分
の7本。


20年前。
上りも大筋では昔からのダイヤが受け継がれていると言えるのだが、下りよりは変わった点が多い。
当時は、8時(大館での待ち時間あり※)、10時(※)、14時、17時、19時前と、普通列車は5本。
※10時台の列車は当初はなく、1998年頃? に新設された。その代わり、8時の列車の大館での待ち時間が、それ以前よりさらに長くなった。
以下列車ごとに。

8時の列車は、青森から来る3両編成。
弘前で通勤通学客を降ろし、次の石川で東奥義塾高校、その次の大鰐温泉で県立大鰐高校(弘前南高校大鰐校舎を経て、2013年閉校)の通学生が下車してしまい、ガラガラで秋田県へ入る。
秋休み前に、薄く霧が立ちこめた黄金色の田んぼに朝日が差す、幻想的な車窓に見とれたこともあった。
大館に着いてからが、まどろっこしい。当初は、車両はそのまま秋田へ向かうものの、30分ほど停車してダイヤ上は別列車扱い。弘前からの客はそのまま車内に留まれた。秋田着は11時。
秋田近くの駅、八郎潟とか大久保とかだったと思うが、行商のおばさん風情の人が荷物をたくさん背負って乗りこんで来たことがあり、今どき(当時)鉄道で行商する人がまだいたんだと、驚いたことがあった。
1998年頃には、大館での待ち時間が1時間半ほどになって、たしか車両はいったんホームから引き上げられた。大館からは快速になったものの、秋田着は11時45分と前より遅い。
下りは秋田→大館が快速のダイヤが2本あったが、上りで大館以南が快速につながるダイヤはこの1本だけだった。


10時台は2両編成秋田行き(秋田からそのまま新屋行きになった気がする)。秋田着は13時前。
弘前から秋田まで、全区間ワンマン運転で、かつ大館や東能代で運転士の交代もないという、運転士は大変そうな運転形態(他のダイヤではなかった)。時間的に混雑しなかったと思うが、運転開始が卒業近い時期だったこともあり、乗車機会は少なかった。


午後は、現在も基本的に同じ。
14時台は、2両編成で弘前から大館までワンマン、秋田着が17時前後。
平日の大館以降は高校の帰宅時間帯に当たって立ち客が出るが、彼らは短区間で降りるからまだいい。
この列車は、下りの秋田発11時台と同様、村上発新宿行きの夜行快速「ムーンライトえちご」にスムーズに接続するため、シーズンには青春18きっぷ利用者が多かった(最盛期には、高校は長期休みではあったが)。
さらに東能代から先は、秋田市から出張や用事で来て帰るような人や、秋田新幹線に乗り継ぐ人も乗りこみ、秋田に近づくにつれてどんどん混雑していくのが常だった。
だから、積極的に乗りたい状況ではなかったが、夕食前の時間に秋田に帰れる点ではうれしい列車。金曜日午後の授業が休講になって帰省する時、午前中に用事を片付けてから帰省する時(朝イチでは早すぎるからという理由もある)、秋田から日帰りで来て思いのほか用事が早く済んだ時など、わりと利用した列車でもあった。
この列車で、混雑を避けるワザ(?)とJRへの要望については、後述。
【2020年2月26日追記】入学試験(二次試験)が終わって、帰りに乗ったのもこの列車だった。土曜日だったが、弘前出発時点ではけっこう混雑して立っていた記憶(だけ)がある。


17時台は、秋田着20時頃。当時はそのまま羽越本線に入る酒田行き。一時期、列車番号が「666M」とゾロ目だった。
当初は3両編成、1997年春からは後ろに2両をつないだ5両編成(秋田で切り離し)。時間的には、弘前から大館へ帰る学生や買い物客(けっこういるもんだと思った)、秋田県内では部活帰りの高校生の利用が中心(さほど多くない)。立ち客が出るほどではなく、中でも5両編成当時の前寄り2両辺りは、大館から秋田まで1両貸し切りということもあった。現在は3両編成で秋田止まりのはず。【6月17日追記】2018年6月9日時点では2両編成で運行されていた。この春のダイヤ改正からだろうか、このダイヤも短縮されてしまった。乗ったのは土曜日だったのでちょうどいい乗車率だったが、平日は混雑しないだろうか。

上り17時台は、下り13時台秋田発と同じく、ストレスなく淡々と移動できる列車だった。
金曜日に4コマまで授業があって帰省する時は、テキパキと行動してこの列車で帰ることが多かった。在学中や卒業後とも、弘前へ日帰りして戻る時にも、よく利用した。

当時は寝台特急「日本海2号(列車番号4002)」があり、この普通列車が鷹ノ巣に長時間(10分くらい?)停車中に、追い抜いていた。
日本海も、鷹ノ巣でドアを開けて乗降を扱った後、先に発車する。寝台特急のような客車列車では、車掌から運転士に対し、ドアが閉まって発車して良いことを伝える手段が限られている。大きな駅ではなんとかできるらしいが、鷹ノ巣では無線を使ってやり取りするしかなかったようで、普通列車の運転席(の無線機)越しにも「上り4002列車、発車!」などとJR西日本の関西なまりの車掌と、秋田なまりの運転士の通話が聞こえていた。


18時台は2両編成ながら、全区間車掌乗務。秋田着は22時前。
大館から追分までの区間では、この列車が最終。そのせいか、思ったよりも乗っている感じではあった。
秋田に帰ってからの当日中の時間的余裕がないから、ほとんど利用しなかった。
現在は、寝台列車(たしか碇ケ関で追い抜いていた)が廃止された影響か、弘前発が30分ほど遅くなり、秋田着時刻はほぼ変わらない。下り始発同様、寝台列車がなくなった分、足が速くなっている。


以上が、昔の弘前→秋田の普通列車の概要と印象。改めて思い返せば、当時の普通列車は上りも下りも全列車に乗ったことがあったようだ。我ながら感心。
下りと比べて、上りは時間帯の偏りが大きかった。特に午前が不便で、弘前から秋田へ普通列車だけで日帰りすることは、厳しかった。秋田には昼前から18時過ぎまで、6時間しか滞在できなかった(特急「白鳥」を往復とも使えば、12時間弱滞在)。
逆方向の秋田から弘前日帰りでは、普通列車でも9時から19時前まで、10時間滞在できた(寝台特急の座席を復路に利用すれば11時間強くらい)。

どうしても、朝できるだけ早く弘前を出て秋田へ行きたいのなら、6時40分発の特急「白鳥」があった。自由席特急料金1300円(消費税5%当時)の負担もあるし、当時は3両の自由席はけっこう混雑したような印象(先入観かも?)もあって、たぶん1回しか乗ったことがない。

そこで妥協策。
実は朝7時ちょうど頃弘前始発の、花輪線回り盛岡行き快速「八幡平」があって、まずはそれに乗る。大館までは奥羽本線を各駅停車。
下りで秋田を18時半過ぎに出る大館行き快速から乗り継ぐ弘前行き普通列車は、花輪線の気動車(キハ58またはキハ52の2両編成)を使っていたとしたが、この列車はその翌朝の折り返し。
後に、花輪線内も各駅停車になり、車両もキハ110系になったものの、2017年春のダイヤ改正で電車化されるまで、奥羽線内も気動車運用だった。
2000年撮影。今より帯色が薄い701系電車と盛岡色のキハ58形気動車
大館で降りて30分待てば、花輪線・鹿角花輪から、急行「よねしろ」秋田行きが来る。秋田着は10時頃。
急行料金はおそらく950円(現在は980円)。大館-秋田は104.2キロで、弘前-秋田と同じ料金区分になるため、差額350円は急行と特別急行の違い分だけということになる。
そこでもうひと手間。
急行は秋田の1つ手前・土崎駅にも停車していた。大館-土崎は97.1キロだから、急行料金は1つ下の区分で730円(現750円)。しかも、土崎駅で数分待てば、八郎潟始発の普通列車(現在は廃止)が来て、秋田着は数分遅いだけ。
秋田着が白鳥より1時間半ほど遅く、追加料金は特急より570円安い。

8時台の普通列車乗り継ぎがあった当時は、それより1時間早く着くだけに700円は高いと思っていたので使ったことはなかったけれど、後にその列車での秋田到着がさらに遅くなり、しかも卒業研究などで時間的余裕が減ったこともあって、このよねしろの利用価値が増して、2~3回利用した。
2001年撮影。急行よねしろ用キハ58 1502(臨時快速運用時の写真)
そうそう。急行「よねしろ」もキハ58系で3両編成ながら、リニューアルした車両が使われていて、冷房付き、2人掛けリクライニングシートという、特急並みの装備。全車自由席。【2023年11月9日補足・車両型式としてはキハ58形×2両+キハ28形×1両。キハ58は、キハ28から電力供給を受けないと、冷房を使うことができない。】
当時の特急の特に自由席車両の多くは、リクライニングがONかOFFかしかできない簡易リクライニングで、正面のテーブルがないものもあった(かもしか用485系など)のに対し、よねしろはフリーストップリクライニング、前テーブル付きと、むしろ上回っていた。
急行よねしろの座席。窓も開く
キハ58の製造番号「23」というごく初期の車両も使われ、奥羽本線ではけっこう飛ばしていた。たしか車内販売も乗っていたと思う。

なお、下り急行よねしろは、大館から弘前方面への接続はなく、上りよりも混雑しそう(←先入観)なこともあって、利用したことはない。
その後、急行「よねしろ」は、2002年12月(東北新幹線八戸開業時)に、車両は同じながら無名の快速列車になった。さらに2008年3月に大館で別列車に分断しキハ58系引退、2016年春のダイヤ改正で各駅停車化されている。
今ではできない、架線下の国鉄型気動車乗り継ぎであった。


最後に、弘前発14時台の列車の秋田側(17時前後)での混雑について。
今もごくたまに乗ることがあるが、混雑は変わらない、というか20年前より少し増した気がしなくもない。
ムーンライトえちごはなくなって、乗り継ぎ客はいなくなったとはいえ、数少ない長距離列車なので、青森県内や秋田県北部から乗り通す客が集中してしまう。
キャリーバッグが普及して持ちこむ人が増えて床(通路)に置くので、相対的に車内スペースが狭くなったことや、秋田県の高等学校の学区制が2005年に廃止され、能代から八郎潟辺りまでやや長距離を通学(帰宅)する高校生も見られるようになったことが一因かもしれない。
【6月17日追記】加えて、ダイヤ改正後ごとの微妙な時刻移動によって、17時ちょうどとか17時15分とかで終わる企業や部活動の帰宅者の乗り具合が違うことも、混雑の変化につながっていそう。

この列車の混雑が激しくなる東能代駅では、後続普通列車は1時間後までない。
しかし、八郎潟駅まで来ると、数十分後に八郎潟始発の秋田行き普通列車がある。現在のダイヤでは18分後だが、20年前もだいたいそんなところ。昔は、秋田から奥羽南線に入る新庄行きだったこともある。
しかも、3両編成。
そんなわけで、20分前に列車があるのに後の列車を選んで乗る人は多くはないし、乗るのは事情を知った身軽な(荷物が少ない)人ばかり。追分まではとてもガラガラで、土崎から乗っても座れるかもしれない。
したがって、弘前からの列車を八郎潟駅で降りて、始発に乗り換えれば、秋田着は少し遅くなるものの、最後の30分ほどの最混雑は避けられ、気分的にかなりラク。これが裏技。


となると、JR東日本に提案したくなる。
弘前始発列車は、大館までワンマン運転だから3両以上に増やすことはできないという、システム上の制約は理解する。
じゃあ、八郎潟駅始発の列車を、弘前発より先に走らせて、八郎潟から秋田までの乗客を空いている短距離列車に誘導してはどうだろう。弘前発の列車の混雑もいくぶん緩和され、多くの乗客にとって多少なりともストレスが減るはず。

ちなみに、秋田駅に17~18時台に着く、奥羽北線・男鹿線(追分から合流)の列車とその編成は次の通り。
1つ手前の土崎駅の「どこトレ」画面に、各列車の始発駅を加筆
八郎潟始発のさらに直後には、男鹿線からの列車もある。以前は3両だったのが、今春からEV-E801系になって2両になったけれど、弘前発ほどは混雑しないはず。1時間後の男鹿線など5両編成。
八郎潟始発が無理ならば、追分からの男鹿線を先行させることもできなくはなさそう。

数年前、このことを実際にJR東日本に要望してみたのだが、「増結は難しいです」というトンチンカンな回答(増結は難しいでしょうから、運行順を入れ替えてはどうかと言ったのだけど)をいただいた。
まあ、3両編成を減らして2両編成が増えている昨今、その程度の混雑は我慢しろということなんでしょうね…
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昭和のWラジカセMR-W10

2018-05-09 00:28:46 | 昔のこと
音声を録音再生するカセットテープ(正式な規格としては「コンパクトカセット」)。今も、高齢者(歌を聞いたり、お稽古ごとなど)や愛好家には親しまれているようだけど、一般的にはすっかり過去のものになってしまった。その全盛期、昭和末期の機器の思い出。

カセットテープの録音再生によく使われた機器は、テープレコーダー(カセット録音再生装置)にラジオ受信機が一体化して持ち運びできる「ラジカセ」。
ラジカセにも時代ごとに傾向があって、昭和50年代初め頃は、今から見れば無骨で頑丈なもの。ステレオでなくモノラルのものも多かった。
昭和50年代後半頃には、小さくカラフルでおしゃれなボディが普及。ステレオ化はもちろん、カセットテープを2つセット(ダブルデッキ)して、片方からもう一方へダビングできる「ダブルラジカセ」も広まった。
平成に変わる前後には、CDプレーヤーも搭載したCDラジカセが登場。バブル期ならではの重装備と仰々しいデザインで、21世紀では「バブカセ」と称して収集する愛好家もいる。


さて、半年ほど前、秋田市内のとある閉店した店(?)の前に、ラジカセが放置されているのを見つけた。
道路ギリギリのところに置かれていたのを幸いに、勝手に撮影させていただいた。しかも、後からまた通ると向きが変わっており、裏面も確認できた。※以下、つま先くらいは敷地に入っているけれど、手は触れていません。
昭和のラジカセ!
上記、昭和50年代初めのものよりは洗練され、後半ほどおしゃれではなく、その中間頃の製品っぽい。
スピーカーが大きく、「竹の子族」が踊る時に音楽を流していたラジカセがこんなのか。

天面のラジオのチューニング目盛りの透明カバーが濁っているほかは、外見上の破損はない。ひさしがあるとはいえ屋外に放置では、きっと動作はしないだろうけど。
濁った部分の中に、メーカー名の表示があって「SANYO」とある。今はパナソニックに吸収されてしまった、三洋電機(創業者が松下幸之助の義弟でもある)。ロゴマークは末期の「N」の縦線がはみ出て割れたものではなく、1986年まで使われていたという旧ロゴマーク。


このダブルラジカセ。見覚えがある。
小学校に備品としてあったのが、間違いなくこの機種だ。
当時通っていた小学校では、テレビは各教室に1台あったものの、ラジカセはそうではなく、自前でラジカセを用意したり、音楽の授業にポータブルレコードプレヤー(ナショナルの赤くて横長のやつ。やはり自前か?)を使う先生もいらした。
そんな中、クラスや学年で必要に応じて都度借りる、学校共有のラジカセがこれだった。竹の子族じゃないけれど、屋外での学校行事(大森山少年の家での宿泊研修など)に持っていくこともあった。
1度、持ったこともあって、大きいだけにけっこう重いなと感じた(見た目通りの重さとも言える)。

改めて細部を観察させてもらい、ラジカセの記憶と重ねてみる。
まず、裏面の表示。
製造番号は消えてしまった?
上の旧SANYOロゴは懐かしいけれど、下の明朝体の「三洋電機株式会社」は見覚えがない書体。
当時は当たり前だったであろう「日本製」。昭和最末期頃から、安い機種は東南アジアなど海外で製造されるようになり、やがて多くの家電がそうなっていく。
型番は「MR-W10」。大きいわりに消費電力は12W。でも乾電池は単一型×8本!(持って重かったのはこの分も大きそう)
正面から見て右面は未確認だが、他の面には、電源コード口が見当たらない。電池ボックスの中から出ていたような気もする。でも、それだといろいろと不都合そうだけど…【追記参照↓】
【2022年5月7日追記・電源コードについて】
MR-W10の電源コードは、本体側はつながったまま抜き差しできないものだったようだ。ケーブルを折りたたんで、本体・電池ボックス内の右側にあるくぼみに収納する方式らしい。扇風機では同じ方式のがあるが、ラジカセでは初めて知った。
1970年代辺りでも、家庭用ラジカセの電源コードは、本体側も抜き差し可能な、いわゆる「メガネケーブル(2020年代でも各種家電で珍しくない)」が採用されていたはず。MR-W10は大型だからか、メーカーの方針か、珍しいのではないだろうか。
なお、1980年代にコンパクト化されると、しばらくはACアダプター(本体を小さくした分、コードは巨大化した)が主流になったが、平成に入る頃には、再びメガネケーブル主流に戻ったと思う。(以上追記)
正面には「MR W 10」と見覚えあるロゴ

ネット上には、この機種の情報は断片的なものがちらほら。
正確な製造時期は分からなったが、1982年頃ではないかと推測される方もいらした。
また、例えばMR-W20みたいな明確な後継機種はなさそうだが、「WMR-D6」という機種があり、ネットオークションでちらほら取り引きされている。ボディが黒く、ボディ形状やボタン類の配置はMR-W10とそっくり。後述のミキシングマイク端子がD6は2つ(ステレオ)、W10は1つという違いはあるようだが、他の違いは不明。
サンヨーでは、同時期にコンパクトでカラフルな「おしゃれなテレコ」を発売していた(うちにもあった)。その1つで大ヒットした(のだそう)ダブルラジカセ「MR-WU4」は1982年に4万6800円で発売されたそうだ。MR-W10は、機能としてはあまり変わらなそうだけど、いくらだったのだろう?


ボディはカキッとした箱型で、スピーカーが大きく、天面にはラジオのダイヤルとバンド切り替えスイッチしかない。小さいラジカセでは天面にこそボタンやスイッチが多いのと対照的。
スピーカーが大きいから前面にスペースが大きく、前に操作部分を集中させたということかな。

後のラジカセでは、スピーカー周辺全体を網や布で覆うデザインも出たが、これはスピーカーのコーン部分だけに明確に網。当時としてはこれが普通でかっこよくもあった。
スピーカーは大きいのと別に、小さいものもある。「ツイーター」という高音部用のスピーカーか。語源はツイッターと同じだ。

左右スピーカーのそばに、横長の金属板がある。左右とも「マイク」と書かれたスリットがある。内蔵マイクである。
当時のラジカセでは、本体だけで周りの音を録音できるのが当たり前で、それ用。左右にあるから、ステレオ録音できる。後の廉価機種では、スピーカーはステレオでも内蔵マイクはモノラルだったり、マイクが省略されるものも。

そのスリットの隣は左右で異なり、左は「電源」ボタン。
後~現在の音響映像機器からすれば当たり前だけど、当時のラジカセで電源ボタンがあるのは珍しいかも。ラジカセというものは、電源ボタンなど意識せずとも、いきなり再生ボタンやラジオスイッチを入れれば、音が出るものが普通だった。小学校で使った時、電源の存在を知らずに操作ボタンを押して動かず、戸惑う先生もいらした。

右は「ミキシングマイク」という穴。これは外部マイクロホンをつなぐ端子。ミニプラグではない大きいプラグ(ヘッドホン端子も)。「マイクミキシング」という回転ツマミもあり、そこで調整してカラオケやナレーションを録音する用途なのだろう。当時でも家庭ではあまり使わなかったかな。拡声器のように、マイクでしゃべった音を同時にスピーカーから鳴らすことはできなさそう。
別に裏面には、左右に分かれたミニプラグの「外部マイク」端子もあり、外付けマイクでより高音質にステレオ録音することもできた。

カセットデッキや操作部。

コンパクトカセットというものは、テープが露出する側を下にするのが正しい向きらしい。しかし、普及型のラジカセでは、上下逆さまにセットするのが圧倒的多数だった。上記の通り、天面にスイッチを置き、それを押しこめばヘッドが下降するというシンプルな構造にするためだったのか。
しかし、MR-W10では、本来の向きにセットし、操作ボタンはその下。ピアノの鍵盤のように押し下げるボタン。

ダブルラジカセでは、左右にテープデッキが並び、片方が再生専用、もう一方が録音再生両用というのが普通で、それぞれ「デッキA」「デッキB」と呼称するものが多かった。
MR-W10はA・Bなど呼称はなく、「再生」「録音/再生」とズバリ表示。
デッキの間には、音の大きさ(再生だけでなくおそらく録音時も)に合わせて、棒グラフ状にLEDが縦に点滅する「レベルメーター」。これは上位機種ならではの装備。
FMステレオ、録音中、電源入、バッテリーの表示もここで行なうが、きれいに日本語表記でそろえている中、「電池」じゃなく「バッテリー」なのがおもしろい。電池で駆動している時に点灯し、消耗すると薄くなるのかな。

各デッキの操作ボタンは、左から(録音・)再生・巻戻し・早送り・停止/イジェクト・一時停止。
テープの入れ方が上下逆であるせいかのか、なじみのある配列と左右反対。(上下逆にセットするサンヨーのおしゃれなテレコでは、ボタンもこれと逆順だった)
停止ボタンとイジェクト(テープ取り出し=フタオープン)ボタンを兼ねるのはごく一般的だったが、当時は特になじみがないであろう「イジェクト」と英語表記しているのもおもしろい。
録音ボタンは、メーカーや機種によっては、再生ボタンも同時に押さないといけないものもあったが、これは1つだけでいい(連動して再生ボタンも下がる)ようだ。フタに「ONE PUSH RECORDING」とあるから。

そして、巻戻し・早送りボタンの上に書いてあるものが、左右のデッキで異なる。【12日補足】これは、再生ボタンを押している状態で、重ねて巻戻し・早送りボタンを押した時に動作する機能を示している。メーカーや機種によっては、同じ操作をすると、再生ボタンが勝手に跳ね上がって解除され、単に巻戻し・早送りになるものもあった。
再生専用のほうは「AMSS」、録再側は「レビュー」と「キュー」。
AMSSはフタとロゴ部分に「AUTOMATIC MUSIC SELECT SYSTEM」とある。これ、おしゃれなテレコにも付いていて、記憶がある。要するに曲の頭出し機構。サンヨー独自のものなんだろうか。
早送り・巻き戻し中に曲間の無音部分を検知して、そこを曲の頭とみなしてそこから再生するもの。おしゃれなテレコでは、デジタルで9曲前または先まで指定して送れたが、それがないMR-W10では1曲ずつだったのだろう。
レビューとキューは「CUE & REVIEW」。これはたいていのラジカセでできた気もする、再生状態で巻き戻し・早送りすると、きゅるきゅると音がして、なんとなくテープの位置が分かるというもののこと。たぶん。


録再デッキの上には3桁の数字と「テープカウンター」。テープの進みに合わせて、000から999までの間で増減して、黒いボタンを押せば「000」にリセットされる。【12日補足】秒に連動するなど精密なものではなく、テープ部分と歯車でつながっていて、その回転に応じて数字の表示板が動くという、アナログなしかけ。
今のCDや録画機器では、何時間何分何秒と具体的に、曲や番組、あるいはディスクのどこを再生しているのかが分かるが、当時のカセットテープではそれがなく、その代わりのアイテム。【12日補足】後の廉価機種では、カウンターを省略するものもあった。
基本的には、録音を始める時に000にして、録音が終わって最初に戻って聞く時に、000を目指して巻き戻すという使い方。多くのメーカーで採用していたと思うが、カウンターが動く速度は統一されていないから、曲の頭出し用途には向かない。
MR-W10は右側だけにカウンターがあるから、やはり再生用ではなく、録音用だったのだろう。


上のツマミ類。右のマイクミキシングは上述。
「音量」はもちろんボリューム。普通は0から10までだろうに、10倍の100までが珍しい。そして、0から60までに「オートラウドネス」とある。これもおしゃれなテレコに付いていた。たしか、低音部や高音部の音も聞き取りやすいように、自動的に(というか半ば強制的に?)調整する機能。
「バランス」は、左右のスピーカーの音の配分調整。後年の廉価機種では省略されているが、今もテレビなどでおなじみ。これは左右とも1から10。
「音質」は数字なしの低から高。バブル期頃には、「グラフィックイコライザー」といって、低音から高音までをいくつかに分け、それぞれの強さを調節できるものがあった(今のテレビでは、低音と高音2つに分けている)が、これは1つ。再生するテープによっては、高にすると「サー」というノイズが気になるんだよね。
この3つは、当時のラジカセでは標準的。

「切替」という、3点スイッチ。
上から「マイク録音」「ラジオ」「ダビング/テープ」とある。これは独特で、小学校の時、電源ボタンとともに戸惑う先生がいらした。
なぜなら、マイク録音が独立したモードになっているから。内蔵マイクで録音する時は上にして、それを確認するため巻き戻して再生する時は、下に切り替えないといけない(さらに録音し直す時は、また上にしないと)。下の位置で録音ボタンを押しても、マイクは働かず無音が記録されてしまう。また、上の位置では、再生ボタンを押してもテープは進むが音は出ないと思われる。

ちなみに、ラジオの電波帯を切り替えるツマミは、天面のダイヤルの横。「FMモノ」「FMステレオ」「AM」の3区分。FMでも強制的にモノラルで聞けるようにしてあるのは、電波状態によって使い分けるためか。
当時は、FMの右側に延長してテレビのVHF1~3チャンネル(もちろん地上波アナログ)の音声を聞ける機種もわりと存在し、これも対応。テレビ音声はモノラル限定かな。昭和最末期になると、別バンドでVHF12チャンネルあるいはUHFまで対応とか、テレビ音声もステレオ・副音声対応、という機種も出ていた。
それから、写っていないが向かって左側面に2段切り替えの小さなスイッチがある。「ビートキャンセルスイッチ」だと思う。AMラジオでは、条件(周波数が近い局がある時など?)によっては雑音が入ることがあり、スイッチを切り替えることで、雑音を少なくできたそうだ。


以上、当時のラジカセとしては必要十分な機能だったと思う。
思いつくもので、MR-W10が装備していないのは、スリープ機能とテープポジション切り替えくらいか。
スリープとは、オフタイマーのことだけど、当時のラジカセは、後年のラジカセのように時計が内蔵されているものではない。オフタイマーを働かせたい時間の長さのテープをセットして、スリープモードにして再生状態にすれば、ラジオが作動し、テープが末端まで来れば停止してラジオも止まるというシロモノ。カセットテープの長さを利用した、ラジオ専用のオフタイマーだったのだ。
テープポジションは、カセットテープの磁性体の違いへの対応。ハイポジションとかメタルポジションとか高音質なテープが数種類したが、機器側での対応が必要で、切り替えスイッチがあった機種も存在した。

ほかには、テープの裏表を入れ替えなくてもいいオートリバースや、倍速ダビングなんかは、一般化するのはバブル期以降頃か。ダビング時に両デッキが同時に動き始めるシンクロダビングもなさそうだけど、それもまだ早かったのか。


このラジカセ、いつの間にか姿を消してしまい、現在はもう見られない。懐かしく貴重なものをありがとうございました。

【9日追記】昔は、特定の家電メーカーの製品だけを売る“町の電気屋さん”が多かったが、それが減って家電量販店が増えつつあったのが、バブル前後。
サンヨーを扱う町の電気店というのはほとんどなかったはずで、総合スーパーや家電量販店が勢力を拡大するとともに、知名度やシェアを増したメーカーだと思う。もちろん、おしゃれなテレコなどサンヨー自身の製品開発の努力もあっただろうけど。
また、当時の秋田市立学校で購入する電化製品・音響機器は、松下電器(ブランド名ナショナル、現・パナソニック)か日本ビクター(現・JVCケンウッド。当時は松下系列)がほとんどで、東芝や日立でさえ、まず購入されなかったと思う。それなのに、わざわざMR-W10を選んだのが興味深い。他社で代替製品がなかったのだろうか。
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奥羽北線下りの思い出

2018-04-25 00:19:36 | 昔のこと
JR東日本秋田地区の奥羽本線、羽越本線、津軽線の普通列車用701系電車において、春のダイヤ改正前から編成の組み換えが行われている。
組み換えというか、3両編成の一部を2両編成化して短縮し、2両編成での運行を増やす(=3両編成での運行を減らす)というのが本質。

実際に見たものとネット上の情報によれば、N11、N12、N13編成が2両編成化されており、先に踏切事故で運用離脱しているN5編成も含めて、3両編成は4本減の10本(30両)。2両編成は3本増の31本(62両)となったと思われる。
ちなみに、23日時点で、N10編成は3両で営業運転していたので、これ以上の2両編成化はとりあえずなさそう。【25日追記】番号が飛ぶN101編成も3両のまま。
あと、N11~13編成から抜かれた中間車サハ701×3両はどこに行ったのだろう。車窓から見る限り、秋田車両センター(楢山・牛島の車両基地)にも秋田総合車両センター(旧・土崎工場)にも見当たらないような…


さて、ダイヤ改正直前と比較しても、3両編成が3本も少なくなっているわけで、改正前と運用が変わることは避けられないはず。すなわち、改正前後で3両から2両に減ったダイヤがあるはず。
確認できたのが、列車番号1663M、秋田13時32分発 弘前行き。
2両。しかもN11編成
引き続き車掌は乗務(大館以遠は不明)。

2両になった元3両編成に初めて乗ったけれど、意識しても違和感はまったくなかった。
ドアチャイムの音、運転席周りのワンマン機器など、元から2両だった車両と大きな違いは見つけられなかった。
強いて言えば、これまでの仕切り板を撤去して運賃箱を取り付けた部分に、固定金具を付け替えた跡があったくらい。
N11編成はドアボタン未更新。少数派になった旧ボタンのほうに違和感を覚えてしまった。


JR東日本秋田支社のダイヤ改正告知では、「津軽線の編成両数見直し」を行なうことは軽く触れていた。【11月14日訂正】ダイヤ改正告知で津軽線について触れていたのは盛岡支社のリリースでした。秋田支社では津軽線も含めて、車両減については一切言及がありませんでした。混同していたので訂正します。
ところが、奥羽本線・羽越本線については言及がなかった。結果として、少なくとも奥羽北線では「編成両数見直し」がされているわけだから、矮小化したとも受け取れてしまう。

引き続き3両編成が走るダイヤももちろん存在し、あんまり混雑しないと思われる秋田15時56分発八郎潟行き2633Mとその折り返し2632Mもそうだし、大館14時16分発秋田行き1656Mは前に2両編成をつないだ5両編成のまま。




さて、個人的には、13時台の弘前行きにはちょっとばかりの思い出があり、それが2両になったのはちょっと寂しい。以下、思い出話。
弘前に行くようになって20年以上。その間、ダイヤ改正ごとに、特急を含めた本数の増減や快速の普通列車化など、変化はある。特に2010年の東北新幹線新青森駅開業時には、大館以北で列車の本数が増えた。
しかし、秋田と大館、さらに弘前・青森方面を結ぶ普通列車のダイヤは、基本的には20年間ほとんど変わっていない。

13時台弘前行きもそう。※時期によっては弘前止まりでなく青森行きだった。
現在(2018年春改正)は、列車番号1663M 秋田13時32分→弘前16時12分。
自分のメモ書きを基に、分かる限り書き出してみると…
 1996年 657M 秋田13時42分→弘前16時13分
 1997年(秋田新幹線開業時) 657M 秋田13時37分→弘前16時11分
 1998年12月改正 657M 秋田13時38分→弘前16時20分
秋田新幹線開業以前から、10分程度の時刻の移動しかなく、驚くほど変わっていない。
今は列車番号が大きくなった【27日補足・この区間の列車番号は、千の位は大まかな運行区間や快速を示し、百の位以下は始発から最終に向かって630から数字が増えていくのが基本】のは、新青森開業により大館・弘前以北での区間便が増えた分だろう。
【5月2日追記】1995年のダイヤも判明。657M 秋田13時13分→弘前16時08分 で、比較的時間がかかっていた。また、10分前に特急「いなほ3号」が運転されていて、弘前15時02分着。後に「いなほ1号」になり、さらに「かもしか3号」を経て、現在は「つがる3号」。1996年春のダイヤ改正では、秋田新幹線用改軌工事本格化に伴い、田沢湖線が運休して北上線回り「秋田リレー号」が運転された。それに伴って、奥羽北線のダイヤもそれなりの変化があって、結果的に新幹線開業後現在まで、それがベースになっているようだ。


20年前は、秋田から弘前までの下り普通列車は6本(大館乗り換えを含む)あった。
秋田発の時刻では、5時台、11時台、13時台、15時台、16時台、18時台。いずれも、現在もほぼ同じ時間帯で残っている。ただ、11時台は当時は大館まで快速だったのが各駅停車化【5月2日補足・1995年頃までは秋田発が12時14分。その後11時台になった】。
現在は、これらに8時台と9時台の午前中2本が増え、1日8本。【27日訂正】2016年のダイヤ改正から、特急つがる廃止の代替として、秋田発17時台の快速弘前行きが新設されたのを忘れていた。したがって、今は20年前より3本増えて1日9本。

秋田から弘前へ戻る時にいちばんよく使ったのが、18時台の列車。
大館までは快速(しらかみ→しらゆき→無名快速。当初は3両編成で1997年10月から2両・東能代→大館ワンマン)、大館からは花輪線用の気動車2両(現在は701系電車化)。※この記事後半で少々触れています。
そのため、トータルでは別段速いわけではないが、設定時間帯が良かった。平日は秋田からは帰宅時間帯でとても混雑するが、土日はそうでもなく、週末に帰省して夕食をとってギリギリまで滞在して戻るのに、何度も利用した。
大館からは国鉄形気動車に乗って、22時近い人気のない弘前の街を歩くと、うら寂しい気持ちになったものだ。そして帰宅して「世界ウルルン滞在記」「スーパーギャング深夜同盟」を見て、青森の暮らしに気持ちを切り替えた(?)。


その次に利用したのが、5時台。当時は直前に寝台特急「日本海1号」があったが、立席特急券での座席利用は東能代から(秋田から乗るには寝台券が必要)だった。
これも平日は東能代から大館にかけて通学ラッシュだし、乗るには早起きしないとならず、当然、冬はまだ真っ暗。
しかし、長期休みで帰省中に、成績表配布など弘前でちょっとだけ用事があって、日帰りする時に重宝した。青春18きっぷを使って。
【2022年8月9日 弘前大学の成績通知表配布について補足・履修登録はオンラインでできるようになり、新型コロナウイルス感染症で対面でのやり取りが敬遠されるようになった2022年時点でも、弘前大学では成績通知表を手渡ししているようだ。2022年度前期分は9月21日(後期授業は10月1日開始)に、学部・学年ごとに1時間半ごとに区切って時間帯を指定している(代理受領は認めず、体調が悪い時は後日来るようにとの注記)。夏休みと秋休みが一体化した現行スケジュールに変わった1997年度辺りと、ほぼ変わっていないようだ(1996年度までは、前期授業開始が4月中旬、前期途中で夏休みに入り、9月に前期授業再開~試験があり、下旬に1週間ほどの秋休みがあった。そのため、前期の成績は、後期開始後に配っていたかもしれない。)。】
当時は、秋田から弘前に午前中に到着する普通列車はこの1本しかなかった。もう少し遅い時間帯にあればいいのに…と思っていたのだけど、今は2本もできた。【25日補足】休み明けの午後から授業がある場合などでも、当時はこの5時に乗らねばならず、そんな早起きするのだったら…と前夜のうちに戻ったこともあったかと思う。現在のダイヤでは秋田9時46分発でもギリギリ間に合う。
それに当時は2両編成だった(1995年頃は、八郎潟まで回送を兼ねて2両をつないだ4両編成)のが、2000年頃から3両編成に変わった。現在は不明。
しかも、日本海が廃止されて、この普通列車が始発列車となって足が速くなって、弘前着が昔は8時半過ぎ~9時前だったのが、現在のダイヤでは7時59分着! 大学の1コマの授業にも充分間に合い、ダイヤ上は秋田から弘前へ通学(通勤も)可能になった。


11時台【5月2日補足・1995年頃は12時14分、1998年には11時45分、現在は11時39分発】は、大館までは快速で、そのまま各駅停車になって弘前へ向かう。
秋田から弘前までワンマン運転なので2両編成。しかも、この列車は新宿発の夜行快速「ムーンライトえちご」からスムーズに接続して北海道方面へつながるため、青春18きっぷ期間中は混雑した。自転車を「輪行」する人、どこかの高校の鉄道研究部(?)御一行などがずっと乗り通して、なかなかのにぎわいになる日もあった。
レイルウェイ・ライターの故・種村直樹氏は、「「青春18きっぷ」の旅2(徳間書店1994年)」の中で1994年1月6日にこのダイヤに乗車(3651M~653M、秋田→津軽湯の沢)して混雑に遭遇し「席がなく、つかまるところもないお年寄りなどは、床にすわり込んでいる。」としている。
それはそうとして、秋田から弘前へ日帰り可能な時間帯だし、日帰りでなくても、朝イチでは早いけれどその日中に済ませたい用事がある場合など、何かと便利な列車ではあった。
また、入学式前日に弘前へ行く時も利用し、秋田では雨だったのが碇ケ関で雪に変わって、不安な気持ちになった思い出もある。


15時台と16時台は、ほとんど乗ったことがない。当時は3両編成と5両編成で、高校の帰宅時間帯だとしてもさほど混雑しなそうだけど、時間的に夕食を秋田で食べるには早いし、弘前に着いてからでは準備などが面倒という理由。15時台は大館を境に別列車という扱いで停車時間が長かったが、実際にはそのまま乗車できた。
【6月8日追記】現在のダイヤでは、秋田15時20分発弘前行き2両編成、16時27分発青森行き3両編成となっている。


そして13時台の657M。
日帰りは厳しい。平日に弘前へ戻る時に18時台の快速の混雑を避けて乗ることがあった。翌日の授業(かなり大切な)のため、秋田市で成人式が行われているまさにその時間に乗っていたこともあった。
高校の帰宅時間には早いし、18キッパーが大挙することもない(北海道方面への接続は、11時台でもこの列車でも同じだったらしいが)し、さらに3両編成だから収容力があって空いていた。
上記、種村先生は、津軽湯の沢から後続の657M(当時は青森行き)に乗車し「楽にすわれた。」「(701系が3両で運転可能なら)それならすぐにでも(1本前の快速に)増結してほしい。」としている。とおっしゃられても、2両から3両に容易に増結はできないし、ワンマン運転の都合もあるし…

そして、各駅停車のわりには所要時間が短かった。701系の加減速性能の良さと途中駅・信号場での長時間停車がないことによるもの。1996年は2時間31分で走破しているが、当時の寝台特急と同レベル。

利用回数としてはあまり多くもないが、座っていれば淡々と進んで弘前に着く感じで、あまり気負わずに(?)乗車できて「総合的にストレスがいちばん少ない下り列車」だった。【2021年12月22日補足・秋田での起床~出発、弘前での到着~就寝、どちらも時間に余裕があったこともあって、気分的に楽だったのだと思う。】


それがついに2両化されてしまった。
たしかに、あの程度の乗車率では2両でも収まる。秋田発時点では、発車間際では座れなくなっただろうけど。
ちなみに、秋田から追分までの間をこの時間帯に移動する場合、6分後の男鹿線のほうが混雑しないので、お急ぎでないかたはどうぞ。

上り列車の思い出も、いずれまた?→こちら
2021年春のダイヤ改正では、11時台が(少なくとも大館まで)車掌乗務、13時台が大館までワンマンと、入れ替わった。

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小学校の制服

2018-03-09 00:26:51 | 昔のこと
ちょっと前、東京銀座の区立小学校において、海外高級ブランドの一式9万円くらいの制服を導入することが、学校長の独断も同然で決まったとして、騒ぎになった。
学区外からの通学も可能な制度になっているそうで、裕福な家庭の子も多いらしいし、区民・都民でもないよそ者にはよその話だからどうでもいいけれど、なんかおかしな話。
あと、高校とか私立ならともかく、公立小中学校の校長にそんな権限があるのも意外(例えば秋田市立学校ではそこまではないのでは?)。

さて、上記では「制服」としていたが、正確には「標準服」。
最初、標準服と聞いた時、詰め襟学生服の「標準型学生服」を連想した。業界で統一した基準を満たした学生服の規格のこと。そのことではない。
着用の義務付けはなく、用意しなくてもいい服ということらしいが、実際にはそうもいかないだろう。実質的には制服と同じでしょう。


秋田で生まれ育った者としては、制服だろうが標準服だろうが「公立小学校で服装が指定されている」ということに、かなりの違和感がある。
少なくとも秋田市では、市立中学校では全学校に制服があるが、市立小学校では服装が指定されているところはないはず。秋田市内で小学生が制服を着ているのは、秋田大学教育文化学部附属小学校だけかと思われる。
ただし、我々が小学生だった昭和末期には、体育着を制服として指定(つまり登下校も教室での授業も一日中体育着を着る)していた市立小学校があった。旭北小学校がそうで、みんなエンジ色一色。平成に入ってすぐ頃、その指定はなくなったようだ。これも指定じゃなく、標準服の位置づけだったのかもしれないけれど。(他にはそういう学校があったのだろうか?)


ただ、小学校の制服について、今回初めて知ったわけでもない。
テレビに映った県外の小学校の様子で、普通の公立小学校らしいのに制服を着ているのを見たことが何度かあって、違和感とともに記憶に残っていた。
例えば、最近では、九州南部の新燃岳噴火の灰が降る中、制服姿で登校する小学生を見た。あと、岡山辺りはけっこう制服を着ている印象があった。東京とか高級ブランドとかは別として、地域によっては小学校の制服があるのだと感じていた。

学生服のカンコーのサイトに「カンコーホームルーム【Vol.95】「制服のある小学校」(https://kanko-gakuseifuku.co.jp/media/homeroom/131231)」として、アンケート結果が出ていた。
ただ、回答者の年代がまちまち(20歳以上に対し、小学校時代の服装を質問)で、今現在の状況ではないし、「制服か標準服か」については言及がないので、その点はあいまい。純粋な公立か、国立大附属や私立かも分けていない。
全体では、制服があったのは20.4%、体操服が実質制服だったのが3.9%、残り75.7%が私服(というか服装指定なし)。

エリア別での結果も出ており、制服の割合が高いのは四国70.0%、中国61.3%、九州28.9%。低いほうでは、関東11.7%、東北10.6%、北海道6.0%。
体操服は、東北が13.6%と突出。2位は東海の7.0%。
私服が多いのは、北海道92.5%、関東85.0%、東北75.8%。

やはり、西のほうに制服がある小学校が多いようだ。同じエリア内でも県によって大きく違う可能性もあり、九州はそうかもしれない。東京では、この結果を見る限り、制服そのものが少数派のようだ。


さて、秋田は昔から制服がなかったのかと思いそうだが、そうでもないようだ。
秋田県出身者が半生を語る秋田魁新報の連載「シリーズ・時代を語る」。3月5日からは劇団四季会長の佐々木典夫氏が始まった。そんな立場の人が秋田から出たとは知らなかったけれど、8日までのところで、小学校の制服について気になる写真が掲載されていた。

佐々木氏は、1947年、由利本荘市松ヶ崎生まれ。
松ヶ崎は1954年までは松ヶ崎村で、同年に本荘町などと合併して本荘市となった。
通ったのは2014年に統廃合で岩城小学校となった、松ヶ崎小学校(村立→本荘市立→由利本荘市立)。団塊の世代だけに「1学年100人くらいでした。」。
6日付の第2回には、「小学4年の学級写真」が出ている。佐々木氏は「横じまシャツ」を着ているが、男子児童は過半数が詰め襟の学生服を着ている。女子も半数よりは少ないがセーラー服を着ている人もいる。
第3回の「小学6年の修学旅行先の宮城県で」の写真は、男子ばかり15人が写っており、全員ツルツル坊主頭の詰め襟。

同年代の人の話を聞いても、この頃は小学校で学生服が義務づけられていたわけではないが、着ている子も多かったそうだ。
修学旅行については、修学旅行という一大イベントに着ていくような私服は当時は入手しづらく、翌年の中学進学を控えて、制服を新調したのではないかとの見解。
4年生であっても、当時の経済事情・衣料品事情、お下がりをもらうことを考えれば、当時は私服よりも安く上がったのかもしれない。

その後、秋田では小学生が制服を着る習慣がなくなったことになる。
そういえば、昔は大学生も学生服を着ていた(サザエさんの原作に描かれる【10日追記・あとキテレツ大百科の刈野勉三さん】)そうだけど、それも全国的に廃れた。
結局、一部地域の小学生と全国的に中高生の制服が残ったということか。


私服では金銭的負担とか、服装を理由にいじめられるとか弊害があるという意見もあるけれど、制服だって高級ブランドは論外としても、成長期に6年間も毎日同じ服を着るわけで、買い替えも洗い替えも必要だろう。
それなのに、わざわざ制服を買いそろえる必要などないと思うのは、制服がない地域の者の考えなんだろうか。
給食とか組体操もそうだけど、同じ国内で、同じ制度が適用されているのに、所変われば、そして時代が変われば違うものだ。

【9日追記】コメントをいただいて思い出した。秋田県では、小学校の卒業式に、各自が進学する中学校の制服を着用して出席する(義務付けではなく、暗黙の了解的な位置づけかと思う)ことがかなり一般的(この記事中ほどで少々)。全国的には北海道、栃木などでも散見されるようではあるが、珍しい風習であるようだ。
これは、小学校に制服がなく、国立・私立中学校が少なくほぼ全員が地元公立中学校へ進学する(近年は中高一貫校ができたし、遠方への転出者などはいるけれど)という条件下、経済的負担なく式典にふさわしい衣装を用意できるようにという配慮が起源だったのかもしれない。あるいは上記のように、昔は小学校でも詰め襟学生服を着ることがあったそうなので、その名残かもしれない。
これも秋田以外の人からみれば、やはり所変われば…となるわけで、やっぱり他地域のことをよそ者がとやかく言ってもどうにもならないのでしょうね。

【29日追記】青森県(津軽地方)の状況について、3月23日付陸奥新報のコラム「冬夏言」で触れていた。筆者の子の小学校の卒業式に出席し、「服装は男子のほとんどがスーツ姿。女子はジャケットにスカートが定番のようで、最近人気のはかま姿もちらほら。自分の時に何を着たかは覚えていないが、ズボンは「わざわざ買う必要はない」と学生服で済まされた記憶がある」とのこと。
コメント (5)
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