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今後はhttps://taic02.hatenablog.jp/で更新します

秋田ニューシティ 階段と広場

2021-06-16 23:43:59 | 昔のこと
秋田ニューシティの思い出、いよいよ最終回。※前回3回目
完全無断撮影で恐縮ですが、貴重な内部。
2002年ダイエー末期の4階の売り場配置図に、1階の出入口など加筆したものを示す。
右が北、下が大町通り側
上の図右下、北東角が前回のエレベーター。建物に対して斜めなのが分かる。

まずは階段。東辺の北側と南側の2か所にあった。冒頭の図では、2つの階段の大きさが違って見えるが、同じサイズだったと思う。
商業施設の階段は、避難階段の役目を兼ねる場合もあるはずで、基準みたいなのがあるのだろう。ニューシティと同じ構造の階段は、よく見かけると思う。フォンテAKITA(以前イトーヨーカドー秋田店が入居)、イオン秋田中央店(秋田サティ)、イトーヨーカドー弘前店、ヒロロ(以前ダイエー弘前店が入居)と同じ作り。【7月23日追記・フォンテは西側の階段だけがその構造。東側は一般的な1本道の階段】
前後の時代は知らないが、少なくとも1980年代から1990年代半ばまでは、主流だったのではないだろうか。

その造りを指す用語があるのか知らないし、文章では上手く説明できない(写真を見てください)が、「左右対称」のデザイン。
上がる時は、踊り場までは1本(幅が広くて中央にも手すりがある場合が多い)。踊り場で方向転換すると、左右に半分の幅2本に分かれて、上の階へ。単純なジグザクの階段を2つくっつけた感じか。造るのが手間で、場所を取るが、狭苦しさはない。

造りは同じ各商業施設でも、階段の位置はそれぞれで違うようだ。
「階段室」のように売り場と隔離するように配置する場合と、売り場と一体化させ(実際には防火シャッターがあるだろうけど)目立つように配置する場合。
2か所階段があるイオン秋田中央店では、2つとも階段室風。お客様はエスカレーターをお使いくださいということか。
フォンテ秋田も2か所だが、東側はエレベーター横の階段室的位置、西側は入り口を入った横の見える位置と、使い分けている。イトーヨーカドー弘前店もそんな感じ(エレベーター横とバスターミナル側)で、チェーンの方針みたいなのもあるのかも。
この2店は、階段やその壁の色はどれも白系統でまとめられている。となると困るのが、どっちがどっちか、例えば「トイレは階段のそば」と記憶していても、どっちの階段か迷うことがあること。

秋田ニューシティは、ヨーカドー同様に2つの設置環境が違った。
北側はエレベーター向かいの開放的な場所。1階では北寄り入口から入って、右前方。
南側が階段室風。日本銀行秋田支店際、南寄り入口の左ではあるが、少し距離があって、通路を抜けて左側に階段。
さらに大きな特徴があって、2つの階段を取り違えることは(常連客としては)絶対になかった。なぜなら…
北側
写真では北側が暗く、南側が明るく写ってしまったが、実際の感覚としては逆だった。
南側
床の色が、明らかに違ったから。
北側はベージュ系の落ち着いた色合い。南側は若干朱色がかった赤で、壁際や手すりの支柱が埋まっている部分は、白くなっている。
以前の記事の通り、秋田ニューシティでは、当初の外壁やエレベーターの扉など、ダイエーのイメージカラーを意識したのか、赤~オレンジ色が使われていた。目立たない側とはいえ南の階段もその1つなのだろうか。こんな赤い階段なんて、ほかにあるかな。

写真で気付いた発見。
ベージュの手すりや白い壁は、南北共通だった。踊り場の照明の下に「ご案内」掲示板が2つあるのも同じ(その上の照明は南のほうが多い)。
踊り場の角の壁の形状が違う。北側ではきれいにカーブを描いているが、南側ではそこが角を落とした直線。目立たない側は工事費を節約したのでしょう。

各フロアとも売り場は、基本的に東半分がテナント、西半分がダイエー直営だったので、階段はどちらもテナント側。
個人的に印象深い階段付近の光景は、北側では、地下はクリーニング屋、2階が辻兵の呉服の店、4階がレコード屋。南側は、地下はフードコートの近くだったことになるが、明確に思い出せない。4階は書店と時計店の間の通路を入っていった所。

南側の階段で特徴的なのは、上り口の幅が広い階段と向き合って、トイレがあったこと。階段とトイレが隣り合ったり、踊り場にあったりすることは多いが、相対する配置は知る限りではニューシティだけ。
トイレは、出入口は男女共通で、入ってすぐで左・南が女性、右が男性と分かれていた。
最近は入口から男女分けるトイレが多いが、昔よりは狭めで、中に角があって、出る人と入る人が鉢合わせすることがある。その点、ニューシティのトイレは良かったと思う。

階段の下、トイレ共通出入口の横には、ベンチがあった。
あと、開店から何年か経ってからだと思う。1985年頃かもしれない。ベンチのそば、トイレ入口の左に冷水機(ウォータークーラー。床置き・水道管直結でペダルを踏むかボタンを押すと、ピューっと吐水するやつ)が置かれた。初めて冷水機を知ったのがニューシティだった。イトーヨーカドー秋田店(フォンテ)には今もあるかな?
フロアから踊り場方向。この背後がトイレ

踊り場からフロア方向。右が売り場方向、左は非常口だった
通路の奥、独特な色、トイレ、マイナーな階段という条件のせいか、南側階段は暗いような避けたいような気持ちがなくもなかった。けど、わりと使った思い出もある。
あと、弘前のヒロロの階段に行くと、若干ながらニューシティの階段に通ずるものを感じてしまう。当初の核テナントがダイエーで、玄関から少し左側に行って階段室、階段近くにトイレという構造が似てはいるが、築年数が10年以上後で、色やトイレの配置は違うので、先入観かもしれないけれど。

さらに、改めて写真を見て感じたこと。
商業施設の階段としては、段数が多そうで、上下方向の空間が広く見える。1段ごとの高さとか、階段の傾斜角度は、他の商業施設の階段と大差ないはず。
数えてみた。※同じビル内でも、階によって1~2段程度の差があるらしいのが分かった。
秋田ニューシティは、1フロア分が32段程度(踊り場をはさんで16+16)。明らかに天井が低い、秋田OPAでは26段ほど。フォンテAKITAは29段。イオン秋田中央店は28段。
やはりニューシティは若干、段が多い。つまり天井が高かったようだ。以上階段。


ニューシティで象徴的だったのが1階と2階の東側中央寄り。1階は「インナープラザ」という広場で、2階までの吹き抜けであった。
インナープラザという名前は、公式にはある程度使われていたが、身の回りの人たちは「広場」と呼んでいたと思う。客としては、使わないが通用はする名称という感じ。
2009年11月。2階東側から中央方向
向こうにエスカレーターがある。
この時のインナープラザでは、辻兵によるお歳暮ギフトコーナーが特設されていたようだ。
上の写真で左奥(南西)にはディッパーダン、右奥(北西)には公衆電話2台(ボックスではなく台に並べて)があったが、この時点でどちらもなくなっていた。また、左手前(南東)にはインフォメーションカウンター・プレイガイドがあった(後の写真参照)。

上の写真、記憶にあるインナープラザと違うと思われるかたもおられよう。
ダイエー撤退後のリニューアルで、だいぶ手が加えられているから。
モノクロながら貴重な当初の写真は、2011年6月6日の「二〇世紀ひみつ基地」「1981「ダイエー秋田店・秋田ニューシティ」オープン(http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-797.html)」に出ている。

ただし、この部分では耐震補強材などは入っていなそうで、天井や柱など骨組みはリニューアル前と変わっていないと思われるので、サイズは変わらない。
上の写真正面に、格子状の太い柱のようなものがある(格子の間は鏡)。ここがインナープラザの正面。
リニューアル前のここは、からくり時計があった。てっぺんにアナログ時計(セイコー製で文字盤はローマ数字だったはず)があり、毎正時にチャイムの音色とともに、その下に大きくはない人形が何体か現れて、動く(鐘を鳴らす動作をする?)感じだったと思う。
色はベージュやこげ茶など(時計の文字盤と針もそんな色)暗めで、人形は無機質な感じ。幼稚園児の僕は、そういう全体の雰囲気、見上げるような高さ、キンキンカンカンけっこう大きな音で鳴り響くチャイムの音に、恐怖を感じた思い出がある。
写真では、床は白くて明るいが、そこも当初はもっと落ち着いた色合いだったと思う。

インナープラザの広い部分を使って、写真展・作品展のような催しがされることもあった。お歳暮コーナーみたいなのは、ダイエー時代にはなかったかもしれない(4階に催事コーナーがあった)。
さらに時計の下には、少し高くなったステージがあって、ステージイベントが開催されることもあった。
南西から北東方向。この左がエスカレーター・下にディッパーダン跡
↑2階の真正面にはオレンジ色のエレベーター扉が見える。
拡大
下のインナープラザの片隅には丸いテーブルと椅子があって、そこで談笑や勉強する若者がいる。
催事がない通常時は、もっと広場中央寄りに置かれていたはず。リニューアル前は、円柱の柱を囲む円形の木製(?)のベンチもあったと思う。

北西から南東方向。右がエスカレーター、下に公衆電話跡

拡大
1階の奥のほうは、日銀側の出入口がすぐ。その手前にインフォメーション。2階のこの位置にイタリアントマトのカフェがあったのか(記憶では北側だと思っていた)。

2階。すりガラスの外が吹き抜け
2階はエスカレーターを除く3辺が吹き抜けに面した通路になっていて、見下ろすことができた。
記憶では、インナープラザの吹き抜けは完全な円形だと思っていた。しかし、写真の通り、北辺は直線だった。エスカレーターや時計を設置し、通路でないため、そういう形になったのだろう。吹き抜けがある分、2階の通路は狭いような気がしていたが、写真を見るとけっこう広い。
通路外側は、イタトマや辻兵などのテナントだが、この時点では撤退したものもあった。

商業施設に吹き抜けのイベント会場を設けるのは、時代を問わずあるところにはあるが、秋田市内ではイオンモール秋田の3階まで吹き抜けの「セントラルコート」が有名。ほかにはあまりなさそう。ニューシティのインナープラザは時代を先取りしていたのかも。


エスカレーターについて。上のほうに少しだけ写っているように、中央部南北方向に1セットのみ。
通常の2人並列で、ベルトは階段の手すりと同じような濃いベージュ。
当時のジャスコやヨーカドーでは、乗り降り口でステップの下が緑色に光っていた。「ステップ下照明」という三菱電機のオプションらしい。ニューシティにはなく、エレベーターからすると日立製?

1階では北側の小さい入り口から入って、まっすぐがエスカレーター。北側は2階への乗り口と、地下からの降り口。北側玄関から地下へ降りるには、南のディッパーダン側へ回りこむ。
末期(リニューアル後もしくはそれよりも前)以外は、1階の北入口から北側エスカレーターの辺りで、いつも音楽が流れていた。ニューシティ内のほかの場所では聞いた覚えはなく、音の発生源が分からなかった。いつも同じクラシック曲で、ヴィヴァルディのいわゆる「四季」から「秋」第1楽章が流れていたと思う。正月だけは宮城道雄「春の海」に替わるけれど、その他季節問わず。


その他思い出。
・初期には、北側出入口の外付近がドブ臭いことがあった。あとたしか地下のトイレも?
・小学校2年生の社会科見学(当時は生活科がなく、小1から理科社会)で、ニューシティというかダイエー地下食品売り場を訪れた。開店前の動かないエスカレーターを上った。同時に、近くのせきや商店も見学。
・秋田ケーブルテレビがインターネットプロバイダサービスを開始した頃、インナープラザ公衆電話前で特設カウンターを設置していて、そこで加入を申しこんだ。【19日コメントで思い出したので追記】時計下のステージ右側では、多画面ディスプレイを置いて、ケーブルテレビの多チャンネルを放映する紹介ブースが常設されていた。
【19日コメントで思い出したので追記】・イタリアントマトは、辻兵系列の「株式会社エル・アンド・デー」が運営(現在も存続)。この企業は1981年4月に設立されており、ニューシティオープンと同時にイタトマを出店させる意向だったようだ。当時はケーキがでっかいのに驚いたものだ(近年は少し小さくなった)。

徒歩圏内の者にとって、派手な思い出はないけれど、秋田ニューシティ・ダイエー秋田店は、身近で暮らしに欠かせない存在であった。
開店時には、地元商店街(通町や大町)からの反発もあったようだが、営業中は、ある程度共存できていたと思う。当時大型商業施設が多かった秋田駅前~広小路の客を、ある程度大町周辺に呼びこむ役割を果たせていたと思う。
ニューシティの開業とその後に関わっている辻兵・辻家にとって、大町は創業から代々営業してきた土地でもある。地元の老舗として、地域経済を活発にする役目と責任も、ニューシティによって果たしてくれていたと思う。

秋田ニューシティの閉鎖・解体は、人口減、当時の日本経済の衰退、ダイエーの業績不振もあって、タイミングは悪かったと思う。辻兵の努力では限界だったのだろう。2008年に、5代目・辻 兵吉氏が亡くなったことも影響するかも。
更地になった跡地は、新文化施設候補地になったものの、辻家側が断ったのが2016年。その報道では、「民間での利用計画に充てたい」「今すぐ進める具体的な計画があるわけではないが、(略)民間で活用するのが望ましいと判断した」とのコメントで、期待したのだけど、もう5年になる。秋田駅前は官民挙げて活性化が進んでいるというのに、旭川の西側は…
何かやるより、空き地として所有し続けて、駐車場で貸すぐらいが、確実で安全という判断なのだろうか。誰かに売ってマンションが建ってしまったりするのも、惜しい気はするけれど。

自分(たち)で活用すると決めた以上、地域全体のことも考えて、なんとかして盛り上げていく責任も、秋田経済界を代表する辻さんにはあるようにも思う。
私有地に部外者が口出しする資格はないのだが、往時の街のにぎわいとそれが辻家の力でもあったことを知る者としては、辻さんにがんばってほしい、何とかしてほしい、何かやってくれるのではと、願ったり期待したりする気持ちは、まだ消えていないですよ。
オープン40年後・解体10年後の姿
北辺で90メートル、東辺で70メートルほどの敷地。これっぽっちの場所にあれだけのものがあったのはちょっと信じられないし、ここにたくさんの人と物が集まってにぎわっていたのは遠い昔の話になった。
40年前、40年後のここがこうなっているとは、誰が想像できただろうか。秋田ニューシティオープンから50年となる、10年後・2031年、ここはどうなっているだろう。
2024年にここの一部に新たな用途ができた
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ニューシティ 庇とエレベーター

2021-06-10 19:32:49 | 昔のこと
秋田ニューシティの思い出3回目(前回は遠景)。今回は特記なきものは2009~2010年撮影。
まずは、客用出入口周辺。
東辺。元市営バス265号車だったバス
出入口がある東辺と北辺は、歩道がない市道に面していることもあるのだろう、道路沿いの敷地を歩道同然に開放し、ひさしも付いていた。駐輪場も(明確に指定されていたかは忘れたけど)ここだった。
ドーム状のひさしで、銅らしき金属がふかれ、支えのアームには丸い穴が開いているという、独特のデザイン。何かモチーフがあるのか(形は稚内の「北防波堤ドーム」をちょっと連想)重苦しい印象があったが、今見れば悪くないかも。
よく見ると、屋根の端に、屋根と同じ金属製の箱状の大きな樋らしきものが付いていた。雪が道路へ滑り落ちないような仕掛けでもあったのか。

1回目の記事の通り、東辺には南北それぞれに、ドア3組の幅の出入口。
この2つは同格の玄関だと思っていた。しかし、2010年のニューシティ最後の正月の記事を見たら、門松は北側のほうが大きいものが置かれていた。
南側入口横から北方向。ひさし内は昼間でもオレンジ色の照明が灯っていたようだ
一方、南側玄関の南には「定礎」板がはめられていた。上の写真手前の赤い所。
解体着工後撮影のせいか、枠右下に傷あり
オープン前月の昭和56年5月付。「辻 兵吉」などとは書いていない。

小さい玄関が1つあった北辺。個人的にはこちらが懐かしいが、記憶は薄れてしまった。
手前がエレベーターのある北東角
北にもひさしはあるが、その出入口のところで終わっている。以降、西方向にも歩行者スペースは続くが、路面もタイルからアスファルト舗装になり、自転車が長く放置されることもあったはずで、扱いが悪くなる。ミスドやせきや方面との行き来も考えれば、ギリギリまでひさしを延長しても良かったかも。
【16日追記・オープン当初、この辺りがドブ臭いことがあった。】

こちらの出入口は、ドア2組分の幅。
ドアとドアの間に、北都銀行のATMがあった。秋田銀行は末期はエレベーター前にあったけど、最初はどうだったか??【11日追記・コメントで教えていただいた。当初の秋田銀行ATMは、南側出入口そばにある、階段付近にあったとのこと。そう言われればそうだったかも。】
屋根なし部は照明も簡素、草も生える
以前も紹介したように、ここの壁に何かの表示板があって塗り直されず、その看板が取れたようで、
オープン当初の外壁の色が見えていた

ひさしの下の店内側は、テナント部分に当たり、ショーウインドウになっていた。
東辺
ひさしの下にまたひさしがあり、白いヒラヒラに「NEW CITY」ロゴ入り。
窓の中には耐震補強材が入っている。ダイエー撤退後のリニューアル時に耐震改修をしたのか? だったら取り壊す必要があったのか…


交差点のある北東角にあったのが、ガラス張りエレベーター。
※これを「シースルーエレベーター」と呼ぶこともあるようだが、現在は吹き抜けの中などにあり、もっと丸見えのシースルーエレベーターもある。昭和にはそんなのはまだなかったのだろう。
真四角の建物の「角」を面取りしたようにエレベーターが取り付けられており、壁や店舗・店内通路に対してエレベーターのドアが斜めの位置関係。
外から見て左の箱
外から見ると、エレベーターの箱が赤い。そしてその上下に小さな電球がたくさん並んで昼間でも点灯している。箱の上と下各2列ずつ。これはオープンから閉鎖まで変わっていないはず。
写真を見て気付いたが、閉鎖直前時点では、消えているものが少なくない。1つ置きに点灯している感じもするが、ランダムに消えている球もあって、正常ではなさそう。
電球は、記憶より小さい。昭和40~50年代辺りは、テレビのスタジオセットなんかでも電球を並べて灯すのが流行ったものだが、それと比べると小さい球で、21世紀の視点でもあまり野暮ったく感じない。

いよいよ内部へ。無断撮影ということになってしまいますが。
2002年8月ダイエー末期の屋上駐車場のエレベーター扉
屋上階なので天井が低いはずだが、ドア周りは他のフロアと同じ。
ニューシティのエレベーターといえば、このオレンジ色のドアが強烈。ほかではこんな鮮やかなドアのエレベーターは少ないと思うし、箱の外側も赤だったように、赤系統で統一したのか。ダイエーのイメージカラー(?)のオレンジ色を意識したのか。

エレベーターは日立製作所製。定員24名、積載1600KG。
店内から見て左が「NO.1」、右が「NO.2」。カゴ内の操作盤(ボタン)はそれぞれの外側に設置。
NO.1の内部。NO.2では操作盤はドア左側
外のボタンと中の階数ボタンは、黒い縁取りのほぼ正方形で中央が銀色、外周が電球色に光るもの。1990年代頃までの日立製エレベーターの標準。

写真を見てみると、カゴが記憶より狭く感じられた。では、秋田市内などほかのエレベーターと比べてみよう。※Youtubeにエレベーターの動画が投稿されており、そこから読み取りました。
・ポートタワー セリオン(1994年)日立、15名、1000kg。

・フォンテAKITA(1980年)日立、24名、1600kg。
ニューシティと同サイズながら、機種は同一ではないようだ。ニューシティにはない、自動運転中(エレベーター操作員が乗っていない)の表示灯があった。後述の通り、ニューシティでも操作員モードはあったようだが、表示はなかった。
ボタンは、当初はニューシティと同じだったが、2010年頃にボタンや表示灯が交換。それでもなお自動運転表示は残っている。

・秋田OPAは何度か装置全体が交換されているようで、秋田フォーラス時代では、三菱電機、13名、900kg。
箱の大きさは変えられないから、歴代大差ないだろう。ニューシティやフォンテより小さい。

・土崎ショッピングセンター(1979年イオン土崎港店)日立、27名、1800kg。
・イオン秋田中央店(1995年秋田サティ)日立、30名、2000kg。

・弘前のヒロロ(1994年ジョッパル、ダイエー弘前店)東芝、24名、1600kg。

・秋田拠点センター アルヴェ(2004年)の民間棟・店舗オフィスフロア、オーチス、24名、1600kg。

アルヴェのエレベーターはなんかでっかい気がしていたが、ニューシティと同サイズか。記憶なんていい加減。
郊外など車での来店を重視したショッピングセンターでは、低層でも大きい箱のエレベーターが採用されるようだ。ヒロロは小さめだが3基セット。

以前も書いたけれど、ニューシティオープンからしばらくの間(10年には満たないと思う)は、エレベーターガールが乗っていた(乗らない時もあった)。
当時は赤い制服だった、1階のインフォメーションカウンターのお姉さんが兼務。階数ボタン群の下にあるフタを下げて、そこを操作していた。階数を申し出るのを恥ずかしがって、カゴ内側面の車椅子用操作盤をいじる客がいると、怒られていた。おそらく車椅子モードに切り替わって、2台の協調運転態勢が崩れてしまうからだと思う。
前々回のフロア案内にあった「~の街」のフレーズを用いて、「ホビーライフの街、家庭電器と暮らしのフロア。4階でございます」と言って降ろしていたような気がしたのを、思い出した。

エレベーターからの眺め。今ではドローンを飛ばすか、近隣のビルに頼みこまないと見られなくなった、大町二丁目上空の景色。
NO.1から雨模様の大町一丁目・通町方向
エレベーターから見える北~東方向は、高い建物が多めで、そんなにいい眺めでもなかったようだ。

ひさしとエレベーターでまた1回使ってしまいました。もう1回続けさせてください
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秋田ニューシティ外観ぐるり

2021-06-05 23:57:16 | 昔のこと
40年前にできて、約10年前になくなった「秋田ニューシティ」の続き
今回は、外観を改めて記録しておく。
前回の冒頭の再掲写真もそうだが、ネット上に残るニューシティの写真は、北東側から撮影したものがほとんど。こちらが「正面」ととらえられるデザインだったこともあるだろう。
※外壁が白くなる前、当初の肌色(ペールオレンジ)だった頃の写真は見当たらない。あれば貴重だ。

東辺が大町通りに面し、秋田駅方向でもあるため、出入りする客は多いのは間違いないが、北東角としたのは小さいながら信号機付き交差点(2000年代に入ってからスクランブル化)があって、比較的開けていて目立つからだろうか。
大町通りを少し北・通町方向へ進んで、旧・秋田魁新報社跡地、サンパティオ付近から。
東辺と北辺が見渡せる
外が見えるガラス張りのエレベーターが、この角に設置されていて特徴的。ガラス張りエレベーターは当時流行りで、秋田駅前のジャスコとヨーカドーもそうだが、いずれも角ではない位置。
エレベーターの上の壁にも、辻兵マークと、その左右にNEWCITYマーク。

ここから見ても、前回の通り屋上の辻兵の箱看板が鉄骨に載っているのが分かる。
今初めて気付いたが、写真右・北辺の外壁は、4階から上は少し引っこんだ構造になっていて、ちょっと格好悪い。東辺は5階まで平らなのに、何か理由があるのか。日照権ってほどでもなさそうだし。

さらに北、通町との丁字路手前、ねぶり流し館前から。
右に「辻兵」の頭が見える
往時は、通町の商店街やバス停(神田線や将軍野線利用者)とニューシティを行き来する人でにぎわったはず。

大町通りの1本東側、星辻神社のある川反通り、今、旧大島商会が移築された付近からは、こう見えた。
あくらやサンパティオに隠れて、てっぺんだけ
右に屋上の辻兵も見えた。オープン当初は魁の建物があったので、すべて隠れて見えなかったはず。


北辺の道路は、大町二丁目と一丁目との境、東・一丁目橋から西・新国道方向への一方通行。その通りの少し一丁目橋寄りから。

オープン時は、百貨店「本金(ほんきん。駅前に移転し、現・西武秋田店)」があったので、また違う風景だったはずだけど記憶にない。秋田ワシントンホテル(現・イーホテル秋田)が建つと、狭苦しい雰囲気で、近づくまでニューシティは見えない。

大町通りの1本西側、茶町通り~上肴町。北側は通町の鮮魚店寄りの地元スーパー(?)「せきや」の横と言うか裏。
辻兵看板と建物裏側が見える
裏側ではあるが、せきやと掛け持ちで買い物する人もいたはずで、行き来する人は少なくなかったはず。

上の位置から南へ進むと、ニューシティ北西角、一方通行路との小さな交差点。ここに、
(再掲)2002年8月
「ミスタードーナツ秋田大町ショップ」があった。ショップNo.0360。
ニューシティ本体とは別の平屋。鎌田会館運営で秋田県内では2店舗目か?
1983年頃オープンらしく【下の追記も参照】、2007年8月末で閉店。ニューシティの最初と最後には存在しなかった。
ニューシティより遅れてミスドができたのは記憶している。できる以前はこの部分がどうなっていたか記憶にない。あと店舗前のタイルが滑りやすい材質【6日追記・若干の傾斜もあった】で、冬は怖かった。
閉店後は、
2010年。先に解体されて空き地に
当初はどうしてここをこう空けて建てたのか。2年後にミスドを作る計画があったのか。
【6日補足】ここも土地所有者はニューシティと同じだったのだと思うが、建物と歩行者通路で、敷地のほぼめいっぱいを使っている中、ここだけが何もないスペースだったことになる。
【7日追記】いただいたコメントによれば、ここは所有者が違う建物があり、ニューシティオープン時点では土地を購入できなかったらしいとのこと。
【7日追記】ミスド閉店時の張り紙に24年目で閉店と記載されていたとの情報から、1983年オープンと推測した。
一方、店番号360とミスタードーナツ公式サイトの「ミスタードーナツの歴史」を照らし合わせると、1981年に337、1982年に400がオープンしている。番号と開店順が完全に一致しない可能性もあるが、それだと360番目は1981~1982年の開店の可能性もある。

茶町通りを南・竿燈大通り方向へ進むと、ニューシティ西辺。こちらは裏面の趣。
2010年。左端の車のいる位置がミスド跡
搬入口や従業員出入口。搬入口らしきシャッターは2つ。左・北側がやや広く白いシャッター。

右は「NEW CITY」ロゴ入り、「専門店街搬入口」と表示もある。白いほうはダイエー用だったのかも【7日補足・いただいたコメントによれば、白いほうがダイエー搬入口で内部も分かれていたとのこと】。

搬入口の南隣、日本銀行秋田支店裏との間は、
2010年。第1駐車場
本体屋上駐車場へもここから出入りするが、そのほかの立体駐車場部分は別棟のようだ。こちらは肌色なので、白く塗り替えられなかったらしい。

南西角・日銀裏から竿燈大通りに背を向けて、駐車場の西面と南面。
2002年8月。ダイエーの箱看板が見える

ここで正面側・大町通りに飛んで、日本銀行秋田支店前から、南東角。
2010年9月。日銀前では音楽イベント
本体塗替え後は色が違って分かりやすい。この面は本体と立体駐車場が入り組んだ構造のようだ。
車で行くことがなかったので、意識しなかったが、真四角な箱の建物ではなかったのか。
【7日補足】日本銀行の敷地は長方形ではなく、裏・茶町通り側では少し狭くなっている。その分、ニューシティの土地が飛び出している。そんなこともあって、こちら面が複雑な作りなのかもしれない。

大町三丁目以降や交通公社前(現・川反入口)でバスを降りて来店する人には、こちらが最初に見える。向かいの名店街(AD)と向かい合う横断歩道もこちら寄り(上の写真で白い車のいる位置)なのだが、こっちを正面にしてもよかったようにも思う。


では、東・秋田駅方向から広小路を通ってきた場合。秋田ワシントンホテル・ADが建った後は、それに隠れてニューシティは一切見えなかったはず。若干低かったであろう本金・名店街時代は、どうだったろう。
少し南へずれて、二丁目橋交差点・旧協働社横の土手長町横断歩道橋からは、ダイエー看板が見えた。
2002年8月
↑今と比べると、周りの店の入れ替わり、建物の建て替えもある。スカイホテルも見える。
夕暮れのダイエーから飛び立つカラス

外観だけで1回使ってしまいました。さらに続く
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1981年6月4日から40年

2021-06-04 00:16:27 | 昔のこと
40年前の1981(昭和56)年6月4日木曜日、秋田市大町二丁目に商業ビル「秋田ニューシティ」がオープンした。開業初日は8万人が訪れた(当時の報道より)。
秋田経済界の中心人物が経営する呉服店「辻兵(つじひょう)」が、大家(一時期は日本生命所有)兼テナントの1つ。
秋田県初進出となる「ダイエー秋田店」を核テナントとする、地下1階・地上5階建て。昭和末期の典型的な「総合スーパー」の形態。
※ダイエー撤退後に「ニューシティ」という名になったと誤解する人がいるようだが、ダイエー時代から建物としてはニューシティ。少なくとも周辺地域の人にはそれなりに浸透していたと思うが、ニューシティ全体の呼び名としても「ダイエー」と呼ぶことは多かった。

僕は当時幼稚園児だったが、身近な場所だったこともあり、ダイエーが「できた」のははっきり覚えている。ただ、その後継続して何度も行ったわけで、開業当初の具体的な記憶はない。
建設以前の辻兵の単独店舗や工事途中の風景も、記憶はない。それに、秋田駅前のジャスコ(現・秋田オーパ)やイトーヨーカドー(現・フォンテAKITA)に行く機会はほとんどなかったので、総合スーパーというものを初めて知ったのが、ダイエー秋田店であった。
そんなわけで、これまで何度か触れたように、弘前店とともにダイエーには思い入れがある。
自分に40年前の記憶があること(40年前に生きていたこと)にも驚くが、40年前に初日とはいえ8万人も来たのが、40年後には信じられない街になってしまったのにも驚く。


(再掲)閉鎖後解体を待つ秋田ニューシティ北東角
Wikipediaも参考に、ニューシティの歴史を振り返っておく。
1981年6月4日 オープン
1990年 日本生命が所有権取得
2002年8月31日 ダイエー秋田店閉店・撤退
2002年11月21日 リニューアル。地下は「マックスバリュ大町店」開店
2003年11月1日 5階に「サンパル秋田(秋田市中央公民館・女性学習センター・勤労青少年ホーム)」開所
2005年5月29日 マックスバリュ閉店
2005年10月8日 地下に「スーパーランドヤマト大町」開店
2009年3月15日 スーパーランドヤマト撤退、向かいのイーホテルショッピングモール(旧・AD)へ「大町こみち」として移転するも、2010年10月に破産
2009年~2010年 その他テナントも次々に撤退
【16日追記・2008年 辻兵の当主・5代目・辻 兵吉(つじ ひょうきち)氏死去。子息が後継となるが、兵吉は襲名せず】
2010年1月20日 所有権が日本生命から辻兵系列・辻不動産へ売却
2010年4月13日 秋田ニューシティ全館閉館
2010年8月 建物解体開始
2011年5月 解体完了、更地化
その後、月ぎめ駐車場と、使われない日のほうが多いイベント会場という名目の空き地のまま、10年が過ぎた。


在りし日のニューシティを写真で紹介したい。断片的で不鮮明な写真もあることと、何よりも無許可で撮影したものなのですが、記録になればとアップさせていただきます。
まず、屋上の箱型の看板(ルーフサインというのかな)は2つ。上の再掲写真では、左・南東側に白いものがあるが、それはもともとはダイエーロゴ。撤退後はスーパーやダイソーのロゴが描かれたこともあった。右・北西側は、一貫して赤い「辻兵」だった。
ニューシティが身近な者としては、意識せずとも目に触れるものではあったが、建物が多い一帯なので見上げても見えるかどうかで身近な存在でもなかった。
ニューシティの屋上は、客用駐車場だった。車は裏側・西の茶町通りから出入りするのだが、徒歩圏内の者には縁はなし。でも、2度ほど、思い立って屋上へ上がって写真を撮っていた。※別に「第二駐車場」もあり、それは現存する。
2002年8月。東向きに撮影
↑向かいの白いのが秋田ワシントンホテル(現・イーホテル秋田)。その向こうの建設中のが協働社跡の高層マンション。
懐かしい、「D」と上弦の月がモチーフの以前のダイエーマーク。1975年から2005年まで使われた。と思ったら、2020年から復活し、新マークと併用されているとのこと! どっちみち東北では見られないけど。

屋上に飛び出た建物本体(=塔屋)が白く、その上に看板。その間が肌色(ペールオレンジ)でおかしな感じだが、当初は外壁が全部肌色だった。ある時に白に塗り替えられて、最後まで続いた。じゃあここも白く塗ればいいような気もするけれど、間延びして見えるのか。【4日追記・ダイエー撤退後は、肌色部分に黒で「NEW CITY」と表記された。】
北面と南面が、緑色マークに「ダイエー」、東面と西面が、オレンジ色マークに「Daiei」だった。
弘前店では箱の形状も異なるが、マークは全面がオレンジ色だったようで、Dの色に何か意味があるのだろうか。

「辻兵」のほう。
2010年2月。西向きに撮影

デカいと感じた
こちらは鉄骨を組んだ上に載っている。鉄骨も肌色のままだ。


ここで下へ降りて、玄関。
2010年。エレベーター隣の東辺北側
1階の出入り口は3か所。北辺の一方通行路に小さめのが1つ、東辺は南北に同じ規模のが1つずつ。

寒冷地のせいなのか全国的なのか、秋田の総合スーパーの出入り口は、ドアが二重になっているのが一般的。ニューシティは途中で改装(おそらく壁が白くなった時)されて、内側だけ両開きの自動ドアになった。上の写真のように玄関左右が赤くなったのもその時のはず。
自動ドア以前は、内側も外側も同じ、手押しの両開きドア。上の写真の通り、大きい玄関は3組、小さい方はおそらく2組分の幅【続編にて】。
ドアの手で押す部分は、イトーヨーカドーだと鳥のマークだったりするが、ここは台のような形で、押す部分が梨地のようなザラザラした質感。その横に白地に赤で「AKITA NEW CITY」のロゴがあって、さらに「いらっしゃいませ」と書いてあったのは、よく覚えている。

屋上駐車場の出入り口も同じだが、枠が茶色いドア。こちらは自動化されなかったようだ。
「AKITA NEW CITY」のロゴは最初から最後まで一貫して不変だった
記憶になかったが、ドアの内側は「ご来店ありがとうございます」だった。青系統に白抜きの丸ゴシック体だったのか、なんとなく覚えている。書体は「ナール」、じゃない!
フォントワークス「スーラ」だ。スーラは1990年に世に出たフォントだそうで、途中で替えられたことになる。やはり改装時か。

館内を簡単に。
2010年4月=閉店時の「店内ご案内」
ちゃんとした案内の上に紙を貼って対応。どんどんテナントが抜けていって、最後はこの状態。地下、2階、3階は「閉鎖中」。
お店は1階に8店か。地元2行のATMや、インフォメーションカウンターを兼ねたプレイガイドはなくなっていたのか。
あとは5階に秋田市中央公民館、女性学習センター、青少年センターからなる「サンパル秋田」もあるが、そのほかはオフィス。
かつては飲食店街だった5階も様変わりして、
公民館の和室など

2009年11月はちゃんとした案内
てっぺんに「n」と「c」を重ねたロゴマークらしきものがあるが、これは見覚えない。
この直後に2階(地下も?)が閉鎖されるのだが、すでに3階は空白。
地下には、フードコートの名残か、丼とラーメンが1店ずつ。
1階は「お茶 辻吟」など13店。ATMとインフォメーションカウンターもある。
2階は辻兵のギフト・スクールの店、「コーヒーレストラン」のイタリアントマト【4日補足・イタトマも辻兵系列企業がフランチャイズで運営】。この2つは当初から同じ場所で通したはず。ほかにザ・ダイソー、エレガンスコニシ、マブチファブリックス。
4階には、保育所「第一ルンビニ園」の「分園ちゅうりっぷ」もあった。

トイレは開いている各階にあるが、地下と1階は女性用のみだったらしい。当初はどのフロアも男女ともあったはず。
イトーヨーカドーでもやっている(現・フォンテも)、女性用を増やす取り組みがされていたのか。

2002年8月=ダイエー最後。非常に見にくく、オリジナルでも判読不可能です
開店当初と比べると、ダイエー末期は縮小されていたものの、上と比べればこの充実ぶり。
上の表で、各階左側がテナントで「~の街」、右側がダイエー直営で「~のフロア」としているようだ。なお、5階以外は、基本的に中央のエスカレーターを境に、東側がテナント、西側が直営という割り振り。
順に記すと、※見間違いなどあるかもしれません。
地階 フードショップの街、食料品のフロア
明確に「フードコート」とは記載がない。
テナントには辻兵による「リカーショップねごしあん」、イタリアントマトのベーカリー、地元菓子店、土崎のそば店「こんどう」など。
直営側にはダイエーのサービスカウンター、「ハンバーガー・ドムドム」、「スピードプリント ダイエーフォト(DPE)」なども。開店当初は55分だかで写真が現像・プリントされるのは、とても画期的だった。
【6日追記】地下のメインは食品売り場なわけだが、ごく標準的なものだろう。早い時期にはサラダバーがあって、ヤングコーンやミニトマトが目新しかった。
当時、ジャスコ秋田店やイトーヨーカドー秋田店の食品売り場は、地元スーパー「なかよし」がテナントとして運営していたので、秋田市中心市街地における大手スーパーによる直営食品売り場は、ダイエーが初めてということかと思う(北部のジャスコ土崎港店はすでに直営だったはず)。
僕が大きくなれたのは、ダイエー秋田店食品売り場のおかげもある。(以上追記)

開店から少ししてから、「愛着仕様」というダイエー版無印良品みたいなブランドが立ち上がって、地下の北東側がそのコーナーだった。この頃にはなくなっていたか。【2022年12月18日追記・当初の愛着仕様は、無印良品同様、文房具や食品も扱っていたが、後に女性用衣料品のプライベートブランドとなり、2000年代にはダイエーでも取り扱わない店舗があったようだ。十和田市にあったダイエーとうてつ駅ビル店跡の記事も参照。】

1階 レディースファッションの街、婦人服飾雑貨のフロア
中央の2階までの吹き抜けの一角にあった、アイスクリームの「ディッパーダン」も。
【4日補足・ディッパーダンはダイエー子会社運営だが、案内では左のテナント側に記載。
案内では「アイスクリーム&????(クレープ?)」とされている。ディッパーダンは今は「クレープ」のイメージだが、1981年からしばらくは(クレープの扱いは記憶にないが)アイスのほうに重きを置いていたと思うし、それを裏付ける表記。看板というか店の色合いは赤っぽかった気がする(途中から現行のような青系統になったかも)。
いろんな種類から選んで、コーンに盛り付けてもらうアイスを初めて食べたのがここで、その後、それがダイエー(ニューシティ)に行く楽しみであった。
なお、ディッパーダンは、2021年時点も変わらずダイエー子会社「オレンジフードコート」が運営し、ダイエーのイオン傘下入りでイオン店内にも出店しているようだが、東北地方の店はいずれもフランチャイズだ。秋田県内がイオン3店とナイス土崎店と秋田駅トピコと、東北の県別ではいちばん多い。どこがフランチャイジーなんだろう。】

2階 ミッシー・ミセスファッションの街、婦人ファッションのフロア
「ミッシー」は初めて聞いた。
2014年の「ライフコラムことばオンライン(https://style.nikkei.com/article/DGXMZO80043220S4A121C1000000/)」によれば、「いわゆるヤングミセスを指す業界用語だ。一昔前までどこの百貨店のフロア案内でもよく見かけた言葉」。

3階 (テナント4店)、紳士ファッションと子供・おもちゃ・文具のフロア
直営売り場が詰めこんだ感じ。元は、おもちゃと文具は4階にあったのが下りてきたため。

4階 ホビーライフの街、家庭電器と暮らしのフロア
「家電」と言わないのがおもしろい。文具類を下ろした分、当初より家電を充実させたということなんだろうか。末期はパソコンもあった。
判読できないのだが、テナントは、当初はレコード、玩具、書店、時計、それに催事場があった。
個人的には地下と4階が思い出深い。

5階 (テナント3店)、屋内遊園地D.L.L
レストラン街・飲食店街。昔はもっとあったはず。

【4日追記】↑このフロアガイドは階段付近か何かの壁の案内。同時期のエレベーター前にも、書式は違うが同内容のものがあった。しかし、エレベーターの中、ドアの上の階数ランプの表記はまた異なるものだった。一部判読できないものもあるが、テナント部分は以下の通り。
地下:フードショップの街、1階:レディスファッションの街、2階:シティファッションの街、3階:和装(以下判読不可能)、4階:ホビーライフの街、5階:グルメ10番街。(以上追記)


多少続きます
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いがぐりむしの正体

2021-05-25 22:54:56 | 昔のこと
2012年の記事でも取り上げた、昭和末~平成初期の秋田市立小中学校の給食に関連する話題。
今年3月始め、スーパーの冷蔵売り場に、こんなひなまつり用商品があった。
雛 中華点心 DUMPLING ASSORT
見切り品シールで隠れたせいもあるが、一見、お菓子のような色合い。
上からピンク、白、緑とひし餅と同じ色。順に「芝えび使用焼売」「上州麦豚使用てまり焼売」「九条ねぎ使用水晶餃子」。
シュウマイやギョウザは、総称としては「DUMPLING」で合っているらしい。群馬県の「みまつ食品」製。

どれもおいしかったのだけど、白い「てまり焼売」。
加熱前
「手まり」にしてはゴツゴツしているような。
シュウマイの皮の代わりに、米粒を付けたもの。これって…
加熱後
昔、秋田市の給食に出ていた「いがぐりむし」そのものでは?!
2012年は「肉団子の周りに米粒を付けて蒸したもの。外見が栗に似ているから「いが栗蒸し」というわけで、台湾の料理らしい。」と表記していた。
しかし、「肉団子」より「シュウマイの中身」のほうが適切だったかもしれない。味も似ていたような気がする。大きさは今回のと同じか、若干大きいと思う。
断面
こんなところで再会できるとは!
そして、いがぐりむしの実態は「皮で包む代わりに、米粒をまぶしたシュウマイ」であることを気付かされた。


改めて、Googleで主に画像検索。
「てまり焼売」では、普通の皮で包んだシュウマイ(の丸っこい形のなど)がほとんど。「""」で囲わずに「いが栗蒸し」だけでは、栗蒸し羊羹の画像ばかり。
囲った「"いが栗蒸し"」や、ひらがなの「いがぐりむし」では、多くはないがやっと画像が出る。
米粒でなく、カットしたそうめんを付けたものもあり、見た目はそのほうが「いが栗」っぽい。

そのほか呼び名が多い食べ物で、多数派の「肉団子のもち米蒸し」のほか、いくつかあるので後述。
ここでまた、シュウマイか肉団子かになってしまう。明治やキッコーマンのサイトやその他レシピサイトのいくつかでは、「肉団子~」の名称で、このレシピが出ている。それを見ると(それぞれ違いはあるが)、タケノコ、シイタケ、ネギ、ショウガなどを刻んでひき肉に混ぜている。キッコーマンのサイトではカラシ醤油で食べることになっている(タネに味付けして醤油不要とするレシピも多いが)。そうなれば、肉団子というよりはシュウマイ寄りではないか。

昔、「いがぐりむし」が、給食で最初に出た時は、ほんとうの栗が入っているかと思った。ネット上には「虫」だと勘違いしたり連想したりして、気持ち悪く感じた人もいたようだ。
「肉団子のもち米蒸し」だとそんな誤解はないが、肉団子と米の関係が伝わらず、こんな形状の食べ物だと想像はできないだろう。どっちもどっち。


現在の学校給食。秋田市立学校では、どうも出なくなってしまったようだ。
神奈川県真鶴町は「いがぐりむし」の名で2020年度時点で出ていた。
違う呼称では、全国各地で確認できる。明治のサイトでは給食で人気のメニューの1つとして紹介。
ネットの検索結果を見る限り、特に東京都や長野県に多く、小中学校だけでなく保育所でも好まれる献立。
少数派の呼称としては、「いが蒸し(八王子市)」、「くす玉蒸し(長野県須坂市)」、「真珠団子(静岡県富士市、同牧之原市)」、「真珠蒸し(埼玉県久喜市)」、そして「珍珠丸子(チンジュワンズ、杉並区)」。ただし、これの呼称は画像検索やレシピサイトでも見られる。
「糯米蒸肉圓」とするレシピサイトもあったが、中国語では「珍珠丸子」のほうが適切っぽい。
「珍珠」とは中国語で真珠のこと。真珠団子や真珠蒸しは、その連想なのだろう。手まり同様、こんなゴツゴツした真珠はないけれど。

作り方は、米に着色したり紫黒米を付けたりした色変わり(紅白)や、豆腐を混ぜたヘルシー仕様もある。
給食室や給食センターで手作りするものもあれば、業務用冷凍食品(テーブルマーク「もち米付き肉だんご」など)もある。手作り版では、1人1個で大きめに作り、弁当用のアルミカップに入れて蒸すところが複数あった。



最後に給食から離れて。
ひなまつりセットが「点心」であったように、珍珠丸子も点心の1つ、やはり台湾のものらしい。
僕は「点心」と「飲茶(ヤムチャ)」を混同してしまう。
本場と日本では、多少定義が違ってしまっているようだが、「点心」は中華料理の軽食のこと、「飲茶」はお茶を飲みながら点心を食べること、もしくは点心をたくさん食べること、だそう。「食べ物の総称」と「食べ方」という、並列できない違いがあった。

日本で点心や飲茶という言葉も、食べ物・食べ方も、広まったのは1990年代だと思う。ギョウザ、シュウマイ、春巻きなど、点心の1つ1つはそれ以前から親しまれていたものもあるが。
それに貢献した大きなものが、ミスタードーナツの「ミスター飲茶」。所さんの「♪桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン、の飲茶」のテレビCMもあった。
1992年から一部店舗で実施したもので、今はなき鎌田会館運営の秋田市内の店(鎌田会館内ではなく広小路の店など)でも早期に導入していた。
主に飲み物よりも食べ物(点心)がメインなはずだから、もし、ここで「ミスター点心」としても間違いではないだろうし、その後の世の中が少し変わっていたかもしれない。
1994年6月29日放送の「警部補・古畑任三郎(第1シリーズ)」最終話「最後のあいさつ」では、古畑と今泉が飲茶を食べるシーンがある。たくさん食べようとする今泉が、古畑に「少しずつ色々食べるのが、飲茶の本来の楽しみ方」とたしなめられていた。
このように、おそらく当初は「飲茶」のほうがよく使われていた。その後、「点心」に変わっていったのではないだろうか。「てんしん」は日本語と同じ読みだが、「やむちゃ」だと中国語らしい響きでそれらしい感じが増すということもあったのかも。
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メト美/東ブタ

2021-05-24 17:33:18 | 昔のこと
先月「文字・書体」カテゴリーで取り上げた、放送開始60周年を迎えるNHK「みんなのうた」の昔の作品。※以下、一部敬称略。
ステージ歌唱などがある「60周年特番」もあったけど、みんなのうたそのものじゃない。注目すべきは、昔の作品を放送する「60年スペシャルセレクション」。
いつもの再放送枠と同じなのだが、60周年を意識した選曲や構成になっている。そのため、初冬を歌った「北風小僧の寒太郎(堺正章版)」が2月に放送されるなど季節感は失われてしまうけれど。

2021年5月分のスペシャルセレクションのうち、「1980~1990年代」の作品枠で4曲放送。うち2曲が、おもしろい組み合わせで、どちらも懐かしい。
1曲目は「メトロポリタン美術館(ミュージアム)」。
これは、みんなのうたを代表する曲として、異論はなかろう。「北風小僧の寒太郎」と並んで。

「(人形アニメーションによる)映像が怖い」「トラウマになっている」と感じている人もいるそうだ。僕は嫌いではないけれど、好きでもない、という程度。
「靴下を片っぽ」はケチなようでトンチンカンなようだし(遠回しに断ってるのか?)、五千年眠っているファラオを起こすような余計なお世話をし、バイオリンとトランペットのケースをトランク代わりにしては収容力がないのじゃないのかと、そういうツッコミをしたくなった。
メトロポリタンミュージアムが何かよく分からず、ニューヨークに実在する美術館だと知るのはだいぶ後でもあった。
【2023年10月10日追記】「世界の民謡・童謡(https://www.worldfolksong.com/kids/song/metropolitan-museum.html)」サイトによれば、「メトロポリタン美術館」には元ネタとなった絵本が存在する。
1967年にアメリカで出版された「クローディアの秘密」。メトロポリタン美術館に泊まろうと、バイオリンとトランペットのケースに荷造りするといった場面があるとのこと。(以上追記)

作詞・作曲・歌が大貫妙子なわけだが、当時はシンガーソングライターは珍しかった。今のみんなのうたの新曲など、ほとんどが作者と歌唱者が同じ。
そして、小学校低~中学年の頃やたらと放送されていて、飽きてしまった記憶もある。
調べると、1984年4~5月が初回放送で、Wikipediaによれば同じ年度の12月にさっそく再放送。初出はもう少し古いかと思っていたが、記憶と一致。
その後、1990年代初めまでは毎年度再放送があり、以降は散発的。北風小僧~ほどではなくなっている。


久々に見た感想。
ステレオ音声だった(1981年度の新曲からステレオ放送だったそうだ)。当時モノラルテレビの我が家で、画面左下に出るステレオマークを指をくわえて見ていた思い出はある。今回、初めてステレオで聴いたかも。
曲も映像も、記憶よりは「明るく」感じた。やっぱり少々怖いようなイメージは植え付けられていたのかも。
アニメの後半に、主人公がスクーターに乗るのは覚えていたが、考えてみれば場違い(館内で乗ってるのか?)だし、今なら若い女性はあまり乗らないだろう。でも、当時はああいう小型の原付バイクがブームになっていた。赤い帽子のままヘルメットをかぶらずに乗っているが、当時の日本では義務化前だった。

例によって字幕。これはモリサワ「テレビ太ゴシック体BT1」のはず。
「ン」が「ソ」に見えてしまったり、「美」の横棒の長さのメリハリ(上から長短長短)が目立ったり、「羊」と「大」がアンバランスなように見えてしまったり、学校で習った文字と違うのではと悩んだ思い出もあった。今のモリサワのデジタルフォントのオールド系ゴシック体でも、それらは似ているが、「ン」は微妙に調整されたか?



もう1曲が「東の島にコブタがいた」。これが再放送されるとは! もう一度視聴したいと思っていたが、なかなか再放送されなかった。
みんなのうたでは、音声と映像は残っているはずなのに、再放送されない作品が存在する(ラジオのみ再放送という作品も)。単に人気がなく忘れ去られたのか、権利上の問題か、映像の中身に不都合があるのかと思っていた。
この曲は、実際には、2008年と2011年に再放送されていたそうだけど。

初回は、平成に入って間もない、中学生の夏休み中に放送された。爆風スランプが歌い、テンポがよくコミカルながら、環境問題を扱った内容で印象付けられた。「東の島のめがねをかけたコブタ」というのは、日本、日本人の比喩なんだろうなと思った。
1989年かと思っていたが1年後、1990年8~9月放送。爆風スランプが「Runner」「大きな玉ねぎの下で」をリリースした翌年。
歌手名は、英語表記の「BAKUFU-SLUMP」。
作詞はサンプラザ中野(現・サンプラザ中野くん)。
作曲は豊岡正志、Newファンキー末吉(ファンキー末吉の一時期の改名)、パッパラー河合。豊岡氏は、爆風スランプの由来となったバンド「スーパースランプ」のリーダーだそう。

さらに編曲者もいて(公式サイトでは最近まで抜けていたし、JASRACにも未登録)、宮下博次。
2週間に1度、「NHKのど自慢」で編曲、ピアノ演奏、バンドマスターを務めている人(最近の記事)。当時は、のど自慢を担当し始めるかどうかの頃(=アコーディオンがいたかいなくなったの境)だったのではないだろうか。
宮下先生は、テレビや舞台でのバンド演奏用の編曲がお得意なようで、こういう形の編曲は珍しいと思う。もし、この歌でのど自慢に出場したら、どう編曲してもらえるのかな。

映像は古川タクのアニメーション。
独特のタッチが印象的で、みんなのうたは29作品も手がけている。1986年の「こぶたのしっぽ」でもコブタを描いているが、本作とは別豚。


シングル発売はされていないが、爆風スランプのアルバムには「東の島にコブタがいた(TEKE TEKE SONG)」として収録され、それがネット配信されているようだ。
部分的に試聴した限りではみんなのうたと同じに聞こえたし、時間は2分29秒だから、みんなのうたと同一音源かもしれない。だったら宮下先生も著作権者にするべきなのでは? 音楽の著作権って難しい。


一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)のデータベースを調べてみた。
「東の島にコブタがいた」は、上記の通り編曲者のほか、アーティスト(歌唱者ってことでしょう)も未登録。
さらに、いずれもサンプラザ中野作詞、(Newなしの)ファンキー末吉作曲で「東の島にブタがいた VOL.2」「東の島にブタがいた VOL3」という、コブタでないブタの曲もあった。※左記はJASRACの登録名ママ。
アーティストは前者は小泉今日子、後者は爆風スランプで登録。

さらにWikipedia等で調べた。
vol.2は、小泉今日子の1987年3月のアルバム「Hippies」収録。
vol.3は、爆風スランプの1987年10月のアルバム「JUNGLE」収録。
2と3は曲は同じで、歌詞が異なるようだ。2は物語のようなお話風の内容、3は反戦・平和を題材にしている。
VOL.1がないが、コブタは「4」的位置づけなんだろうか?


当時はバブル崩壊前の絶頂期で浮かれていたのか、「おどるポンポコリン」をはじめコミカルソングがブームであった。
一方で、「さよなら人類」など、社会性あるテーマの歌も、あまり違和感なく受け入れられていたと思う。地球環境では、オゾン層破壊、温暖化、酸性雨などが問題になり始めていた。
ちなみに、みんなのうたでは、1981年に小椋佳の「まだ遅くは」という地球環境を題材にした歌があった。Tell me what do for youなど英語入り。

左の箱はテレビ、煙を出す煙突が映る。当時らしく横にスピーカーが突き出た大画面
例によって字幕。
実は歌詞の書体が、1989年度の途中(6月か8月か10月の新曲から)で写研「石井太ゴシック体」に変更されている。※モリサワ時代も、何らかの事情で部分的に写研書体が使われたことがある。
上の画像では、「タ」の3画目が2画目に突き出ない、「を」の1画目が短い、「か」の3画目が上寄り(「が」と位置が違う?)といった点が、モリサワ書体とは異なる。
【26日補足・ちょうど写研ホームページに詳しい書体紹介がアップされた。以前から知ってはいたが、それを見ると、石井ゴシック体には太さや細部が違うシリーズものがたくさんある。みんなのうたは石井ゴシック系統なのは間違いないが、「太」なのかは判断できない。記事中では「石井太ゴシック体」のままにしておきます。】

ところで、メロディーに乗らない「セリフ」が入る曲がたまにあるが、その字幕の対応。
「コンピューターおばあちゃん」の「ずっといつまでも…」のように、モリサワ時代は、メロディー部分と同じBT1。
写研変更後は、セリフはナールで表示するようになった。1989年12月の所ジョージ「背中でツイスト」がそうだったのを覚えている。
忘れていたが「東の島にコブタがいた」でも、セリフがあって、やはりナール。
歌詞より少し小さい字。「へ」は言っていないように聞こえるが
なお、歌詞の字幕が石井太ゴシック体なのは1994年度途中まで。1994年8月から全面ナールになり、2003年度辺りまでという変遷。詳しくは機会があればいずれ


歌の中身。合いの手みたいなのが2回1セット(最後だけ1回)で繰り返される。今回気付いたのは、各1回目は「ブタがいた コブタがいた」、各2回目が「コブタがいた ブタがいた」と、「コ」の位置が異なること。ブタとコブタ両方あるのは記憶していたけど。

3番としていいのか最後は、「東の島にコブタが『いた』」が「~コブタが『いく』」に変わる。
これも前から感づいていたが、字幕は「東の島『に』コブタがいく」だが、実際には「東の島『の』コブタがいく」と歌っているようだ。ストーリーからしても、また作詞者自身が歌っていることを踏まえても、「の」のほうが適切だと思うので、字幕の誤植なのだろう。
昔のみんなのうたでは、誤植はたまにあって、手書きで修正されたり、後年にデジタル修正されたりすることもあるが、そのままのこともある。


久しぶりに聴いても、記憶と大きな相違はなかった。メトロポリタン美術館の後では、伴奏が大きく・歌声が小さく感じたけど。
そして、歌もアニメも、示唆に富んでいることを、改めて実感した。
アニメでは、最後の「コブタがいく」シーンで、デパートのエレベーターの横に「マチス展」の告知が描かれる。自然を愛したアンリ・マティスのことか?(フォントワークスの明朝体の商品名「マティス」の由来でもある)
右上の字幕は後年の追加
最後の最後は、ブタ顔の地球から、宇宙空間に向かってピンク色の高級リムジンが出てくる。後部座席には札束を持った金髪女性。その側面に「THE EARTHcond」と書いている。どういう意味なんだろう? 何やら意味深。

30年後の今、エコという言葉もできて環境意識は高まり、対策も進んではいる。オゾン層や酸性雨はさほど言われなくなった。
しかし、温暖化は今なお深刻で、マイクロプラスチックのような新たな課題も出ている。今でも充分通用してしまう歌。


この2曲が放送されるのは、テレビでは5月27日【26日訂正】5月31日が最後のようなので、興味のある方は公式サイトや電子番組表で確認の上、ご覧ください。
来月以降への期待としては、「ラジャ・マハラジャー」を見て・聴いてみたい。1985年2月だから、メトロポリタン美術館の年度末だったのか。
あと、1981年「メゲメゲルンバ」もいいな。明るい楽しい歌ではあるが、大人になってみればいろいろと思うところがある内容だ。あと、歌詞の字幕に誤植が複数あるらしい。【2023年10月3日補足・ラジャ、メゲメゲとも、2023年までに再放送が実現した。メゲメゲの誤植は上手に修正。】
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工業カーブから登校?!

2021-05-20 23:54:55 | 昔のこと
秋田県立秋田工業高等学校の通学事情の続きで、昔の話。
今では考えられないし、実行できない、鉄道を使った通学手段が存在したという。※昔も今も、実行したとしてもとても危険で法令にも違反するでしょうから、やらないでくださいよ。

僕が聞いたのは、中学校1年生の時の社会科の先生から。高校生だった頃の思い出話として。
今62~63歳くらい、1960年頃の生まれのはずだから、1975(昭和50)年前後のこと。
先生は土崎駅から秋田駅まで、国鉄奥羽本線で通学していて、乗り合わせた秋田工業の生徒がそうしていたという。

前回の通り、秋田工業高校の敷地の北~東辺に沿って、奥羽本線は大きくカーブした線形。
列車はそこで減速する(先生は「カーブなので減速」とおっしゃったはずだが、実際には秋田駅が近いので停まるための減速でもあるだろう)。
当時の普通列車の車両は、自走する気動車(ディーゼルカー)もあったが、電気機関車やディーゼル機関車が、動力を持たない「客車」をひっぱって走る方式もあった。その客車列車では、乗降用のドアが自動開閉ではなく手動(ボタン式でなくドア自体を客が自力で動かす)で、走行中もドアを開けることができた【2025年7月10日補足・その当時は、気動車にも客が自力で開けるドアの形式があったが、それは停車中しか開けられなかった(発車時に閉まるのは自動)。したがって、走行中でも開けられたのは客車のみ】。だから、そのカーブに差しかかった時に、ドアから飛び降りて、目の前の学校へ登校していった。
という話。へぇーと聞いたけれど、誇張を含む、都市伝説的話なのではと疑ったりしつつ、記憶に残っている。
その後、当ブログへのコメントでも複数のかたから、同じ場所での同じ話を寄せていただいたので、まったくの作り話ではないようだ。


このことを、検証ってほどでもないけれど、考えてみる。推測ばかりですのでアテにせず、何かご存知でしたらコメントください。
上り普通列車の後部から、この区間を眺めてみた。当時とは校舎等の配置は異なり、鉄道側の設備の位置等が変わっている可能性もあります。
泉踏切を通過。左側はもう秋田工業高校の敷地
泉踏切通過後もしばらくは直線。貨物駅~旧機関区があった名残で、ここは複線の上下線の間が広い。

まだ直線
徐々に上下線が接近する。そしてカーブへ。
右に信号機(第一閉塞信号機?)
再び線路が広くなり始める。この先の旭川を渡る橋梁が、上下線別々に架かっているため。
カーブ終わり。左はまだ工業の敷地

旭川橋梁を渡って秋田駅へ

走る列車から“安全に飛び降りる”には注意点や条件があることだろう。
地面にぶつかる危険性は当然として、乗っていた車両自体に巻きこまれる、線路際の柱などに激突する、複線区間では隣の線路の列車にひかれる、といった点をクリアしなければならない。
ここは1971年8月に電化されているので、先生が通学していた当時も、今と同じく電化柱(架線柱)が並んでいたはず。
上の写真の通り、ここは貨物駅と橋梁のおかげで、上下線の間隔が通常より広い。そこには柱の類はほとんどない。さらに上り列車では、そちら側がカーブ内側となるので、車体の傾斜により地面が近くなって、いくらか降りやすそう。
そんなわけで、飛び降りやすい条件がそろっている場所ではないだろうか。

ただ速度も大切。どのくらい減速していたのか。
今の電車や3月までのキハ40系気動車でも、ここを通る上りでは50km/hは出ていると思う。
客車列車は、電車・気動車ほど加減速が高性能ではないとはいえ、そこそこ出ていたのでは。客車に近い走行性能と思われる貨物列車では、旭川橋梁を渡って少し進んだ地点で、秋田駅に停まるための強いブレーキを掛け始めるようだけど。
自動ドアになった50系客車時代だが、国鉄最後1987年3月の時刻表を見ると、土崎→秋田間は、客車も気動車も8~9分で走行している。今の電車では、泉外旭川駅停車を含めて9分なので、昔が劇的に遅かったわけではなさそう。

信号機の指示で減速する可能性もある。
学校横・橋手前の第一閉塞信号が赤で停まってくれれば、とても好都合。だが、僕はこの25年奥羽北線に乗ってきて(ただし朝は1度も乗ったことなし)、ここで停まったのは2~3度しかない。
その先、手形陸橋手前の場内信号で停まることは、(下り列車の発車遅れ等により)たまにある。以前のSL試運転の時、場内信号による停止なのだと思うが、なぜか旭川橋梁の上で停まってしまったことがあった(ギャラリー大喜び)。
昔の、朝の客車列車では実はけっこう停まっていたりしたのかもしれないが、運良く停まったから飛び降りたという人もいただろうし、停まらなくても飛び降りてやろうという人もいたのではないだろうか。
線形や上下線間のスペースや障害物を把握し、速度を認識し、飛び降りるポイントとタイミングを見極める能力は必要だったはず。工業高校だけに、授業で学んだことが役に立ったかもしれない?


降りた後、どうやって学校へ向かったか。飛び降りるほどの人だから、なんとでもなったでしょうけど。
旭川の堤防から、工業のグラウンド(野球場)越しに奥羽本線を見ると、
左が泉踏切方向、右が橋。2012年のC61形蒸気機関車の下り試運転
旭川を渡るため、堤防のレベルに合わせた築堤を通っている。工業や家々よりも高い位置。校地とは斜面になっている。
余談だが、ここはカーブしているわりに、鉄道写真の撮影地にはなっていないのは、その高低差で撮影しづらいためだと思う。
【21日追記】「土崎カーブ」のように、撮影名所のカーブには通称が付けられることが多い。この記事のタイトルは「工業カーブ」としてしまったけれど独自のもので、合意形成されている呼び名ではない。「工業の線路がカーブした所」と言えば、地元の人なら伝わるとは思う。

今度は下り列車の前からの眺め。秋田駅から橋を渡ってカーブに入ると、
下り第一閉塞信号、左に野球場のスコアボードが見える
川近くではけっこうな高低差。
上りの信号付近
泉踏切近くでは、高低差が小さくなる。
線路と校地が接しており、間に通路などもないので【21日補足・部外者が入りこむ余地は少なく、溝などはありそうだけど、斜面や草むらでなんとなく区分され】、今でも厳重なフェンスなどがあるわけではない。昔はもっと緩かったかもしれない。

上下線間を泉踏切まで歩いて、線路外へ出るのが“安全”そうだけど、飛び降りるほどの人のこと。上り線を渡って、線路と校地の高低差を滑り降りて登校していたのかもしれない。
どちらにしても、線路内に立ち入ること自体、言うまでもなくとても危険。


そんなわけで、土崎方面からの上り列車で、降りる時限定の“通学手段”だったことになろう。
秋田駅から来る下り列車では、ある程度速度が出て(今の電車ではフルスピード、3月までのキハ40系でも70km/h程度には達していたか)いる地点だし、カーブ内側は柱が並び斜面であるので危険すぎる。また「飛び乗る」のは、ほぼ完全に停止していないとさすがに不可能だろうから、下校時は使えなかったのでしょう。


当時、カーブで飛び降りた人たちは、何のためにそうしたのか。
寝坊して遅い列車に乗ってしまって、秋田駅からでは遅刻必至だから?

時期的に合わないが、上記1987年3月の時刻表で、朝の通学時間帯の北線上りの客車列車を拾ってみる。時刻は秋田駅着(カッコは始発駅)。
(八郎潟)7時47分、(男鹿)7時52分、(東能代)8時03分の3本。
あとは、自動ドアで走行中は開けられない気動車が2本。次の客車は8時57分着(大館始発)だから、飛び降りたとしても遅刻。

8時03分着でも駅から間に合いそうだし、真面目な高校生だったであろう先生も乗り合わせていた列車だから、遅刻回避の飛び降りではなさそう。部活等で早く登校する必要などあったのもしれないが。
秋田駅で降りても間に合う列車なのに、秋田駅→学校の移動をラクするため、あるいは度胸試しとかカッコつけでやったのではないか。



ドアが手動の普通列車用客車は、雑多な形式をつないだ「旧型客車」と呼ばれるもの。僕は1981年に羽越本線で乗った思い出がある(関連記事)。
記憶にないが、当時は、冬以外ドアは開けっ放し、最後尾の貫通扉もチェーンを張ったくらいでスカスカだったそうだ。乗客の転落事故も少なくなかったという。
また、駅に停まり切らないうちにホームに降りたり、ちあきなおみの「喝采」にも歌われているように「動き始めた汽車にひとり飛び乗った」りするような行為も普通だったそうだ。今も海外の鉄道では見かける。
そんな中、このように駅でない所で飛び降りる行為も、全国的に横行し、無賃乗車を兼ねた者もいたようだ。

今では考えられないことだが、今も駅のホームドアの設置がなかなか進まないのと同じような事情があったのか。
2021年時点でも、SLなどイベント列車用にわずかに旧型客車が残っているが、保安要員を配置したり、秋田総合車両センターの技術で従前の雰囲気を残しつつ自動ドア改造されたり、対策されている。

国鉄は旧型客車の後継として、エンジ色塗装の「50系」客車を、1977年から全国に投入。秋田での正確な置き換え時期は不明【21日追記・いただいたコメントによれば、1985年3月改正で置き換えたとのこと】だが、上記の通り、秋田では80年代初めは旧型客車も走っていた。
50系ではドアが自動化された。転落事故防止のほか、飛び降り対策でもあったのだろう。
なお、50系客車は時代の変化に合わず、全国的に短命に終わった。秋田では奥羽本線・羽越本線は1993年で701系電車に置き換えられた。男鹿線の1往復が最後で1994年末で役目を終えた。


工業カーブでの飛び降りを実際に知る世代は、昭和40(1965)年前後生まれが最後ということになろう。
近年の秋田工業と線路の関わりとしては、SLが走った時に、グラウンドに生徒がふんしたナマハゲが現れて歓迎した。数年前には、測量の実習中と思われる生徒が、EV-E801系電車に手を振っていた(先生らしき人もいたけど、特にとがめず)。
何より、泉外旭川駅が開業して、飛び降りなくても秋田駅より近い乗降場所ができた。
線路と学校の位置関係は変わらないが、そこを通る列車も、通う人も、大きく変わった今となっては、昔話。

昔の列車の風景としては、これも先生から聞いた高校生当時の話で、1970年代初め頃、新屋駅のカーブしたホームで目が合った人に因縁を付けられたというのがあった。
ほとんど経験がない、昭和末期の旧型客車の旅。経験してみたいような、してみたくないような。かと言って、冷房があり、特急と遜色ない速度の701系電車で満足と、言いたいようで言いたくもなく…

【21日いただいたコメントより追記】カーブではなく、橋を渡ってさらに秋田駅寄りの、第一手形谷地町踏切(グランマート裏の保育所前)、第二手形谷地町踏切(手形陸橋そば、いちばん駅寄りの踏切)付近で飛び降りる高校生がいたとのこと。
上下線の間の空間は一般的な幅であり、秋田工業への徒歩距離は遠くはなる。しかし、工業横よりもかなり減速していて、第二踏切手前が場内信号なのでそこで停まる可能性もあり、第二踏切では外側に入換線があるので飛び降りられるスペースもある。カーブより現実的な場所かもしれない。

【6月6日追記】2021年春までは、秋田発の下りの電車(気動車でなく)では、旭川橋梁までに加速を終えてカーブに入るような運転だったはず。前回の記事の通り、この先に電力を供給する変電所の境界として架線に電気が流れていない区間(デッドセクション)があるのも理由(通電してセクションを通過すると、機器が壊れることがある)だろう。
【7月26日追記】2021年3月の泉外旭川駅開業以前はどうだったか知らないが、2021年春以降の下り電車では、橋を渡り終えてすぐ、軽くブレーキをかけて、すぐ解除することが多いようだ。カーブ~泉外旭川駅で減速が必要なのと、下り坂で加速してしまうのを抑える意味だろうか。
とある701系電車では数秒間2ノッチに入れていたが、意識しないと気付かない。EV-E801系電車では、加減速が一体化したワンハンドルマスコンのためか、性能・仕様上か、減速感がはっきり分かることが多い。

【9月16日追記】上りGV-E400系気動車での土崎→秋田の運転状況。泉外旭川停車時間を含めて、電車より1分多い10分かかる。
土崎発車後加速を続け、草生津川を渡る付近で95km/hに達し、ノッチオフ。惰行とブレーキで泉外旭川停車。
泉外旭川発車後、泉踏切手前付近・70km/h程度まで加速しオフ。惰行で工業カーブを通過し、(上り坂の影響か)60km/h程度まで落ちる。その後、多少再加速もしながら、秋田駅構内へ。
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2001年 銘菓/雪印 続き

2021-02-14 23:08:16 | 昔のこと
先日アップした、昔の飲食物の思い出記事に関係して、新たな写真が発掘できたので続報。

まずは2001年の秋田銘菓の続き。
菓子舗 榮太楼のチョコタルト「秋田城菓 大工町」。ナッツ入りだと記憶していたのに、2001年5月の写真では、そうでなくハスカップが入っていた。
2002年7月の写真があった
大きさや包装は変わっていない。タルトの縁の質感が少しごわごわ(?)した感じがする。そして、
ほらナッツ!!
こんなに目立つほどたくさんの量だとは思わなかった。生地に混ぜこんで、さらにトッピングもされていそう。
砕いたアーモンドのような気がしていて、写真もそれっぽく見えるが、原材料欄では「くるみ」。ハスカップは使われなくなり「ブルーベリージャム」使用。
色の違いは写真の都合によるところが大きいはずです
2001年5月から2002年7月の間に、仕様が変わっていたのでした。「新大工町」だ。※大工町の西側、かつて市電の支線があった付近が新大工町。
(再掲)2001年の大工町
どっちにしても大工町との関連はないと思うけど。


次に、その記事のコメントで話が少し出た、新屋表町、旧道にあった菓子店「高島松月堂(たかしましょうげつどう)」。やめて10年以上経っているのだろう。
「吟醸酒入り酒ケーキ」のほか、サブレ生地が入ったパイ「カリッとPAi」、黒糖使った虎柄の皮でバターもサンドした「とら焼き」などがあったそうだ。
1つだけ、2001年2月に商品の写真を撮っていた。
糸ぐるま
とても上品な袋入り。
袋に比べて中身は小さい?
ブッセの縁をホワイトチョコでコーティングしたような見た目。形として「糸車」っぽくなくもない。
中にはイチゴジャム
食べたことさえ忘れていたけれど、写真を見て、思い出した(気がする)。おいしかったはず。一般的なブッセよりはちょっと硬めのクッキーっぽい感じだったような??



別の記事では秋田市にあった雪印グループの拠点を取り上げた。
雪印は2000年と2002年に、不祥事を起こした結果、会社が再編された。いろいろあって、旧雪印乳業は雪印メグミルクとなった。
2003年3月に撮影していた写真。
懐かしい!
ちなみに、横に置いたナショナルの乾電池も懐かしい。パナソニックブランドになった今も製造はされているようだが、見る機会は減った。

昔の「雪印牛乳」の紙パックである。大容量も同じデザイン。「MILK」と赤で書かれた面があるものも存在したが、これは小容量だからか時期の違いかなし。
白と青、それに赤い文字。これこそ、(雪の結晶マークと並ぶ)雪印の代名詞、いや、牛乳全般を象徴するデザインといっても過言ではなかった。20世紀~当時は。

「近いうちに、不祥事の結果、牛乳パックのデザインが変更される」との報道を見て、記念にわざわざ買って撮影していた(にしては光線などもっと気を使って撮れ!)。
改めて調べれば、2003年始に再編で「日本ミルクコミュニティ」が設立、「メグミルク」ブランドの発売が開始されていた。一気にメグミルクに切り替わったのではなく、商品や地域によって順次変更されていた。
写真の商品では、販売者は「日本ミルクコミュニティ株式会社」、製造者は宮城県岩出山町の「みちのくミルク(株)本社工場」=現存。容器の印刷が新会社名になっているわけだから、単にパッケージの準備が間に合わなくて、メグミルクへの切り替えが遅れていたわけではないのだろう。

このサイズのパックって、上の接着部分が後ろに倒れているのが標準なんだよね(メーカーによっては違うかも)。垂直に起こしたくなる。
裏側の天面には「大地とあなたを、おいしさでつなぐ。」。2000年末時点では「雪印のブランドメッセージ」だったようだが、再編後も有効だったのか?

今なら「賞味期限」である部分は「品質保持期限」。
さかのぼれば、1995年までは「『製造』日」表記だった。その後、消費期限(日持ちしない商品)または品質保持期限表示となった。
品質保持期限とは、賞味期限と同義なのだが、当時は食品衛生法とJAS法で用語が異なっていて、分かりづらいとして、2003年(2005年まで猶予期間)から賞味期限に統一されたとのこと。

そのほか細部は変更があるのだろうが、白と青の容器は物心ついた時から変わっていなかった。
かつて秋田工場があったこともあり、小中学校の給食の牛乳も雪印牛乳であった。小学校に入学してすぐは、これとかなり似たデザインのパックだった。その後、わりと早期(1983~1984年?)に、赤色を使わない、青だけで子どもの顔なども描かれた学校給食専用にデザインに変わって(全体的な雰囲気はそんなに違わない)、中学校卒業までそれだった。

撮影後、店頭ではいつの間にか、青い雪印牛乳を見なくなり、赤いメグミルクばかりに。
ヨーグルト「ナチュレ」も昔は青系統の容器だったのが、赤い「ナチュレ 恵」に。
雪印の不祥事を払拭するために、青と正反対の赤に変えたのではと勘ぐってしまう。名前や商品に親しみはあるけれど、総合的には好印象ばかりではない、複雑な気持ちだった。
今の乳飲料「毎日骨太」は、かつての雪印牛乳を彷彿させるデザイン。1993年発売当初(~再編前?)は、もっと旧雪印牛乳に近い、文字を変えた程度のパックだった。

いかにも昭和のデザインでもあり、不祥事がなくても、21世紀中には変更されていたのかもしれないが、あれほどの存在感と認知度。旧デザインでも充分通用するのでは。
実は、2021年現在でも、北海道など地域によっては、まだ青と白の紙パックで市販されているそうだ。


【2022年7月9日追記・ゲータレードと雪印について】
アメリカではスポーツドリンクの代名詞だという「ゲータレード」。
日本では1970年発売開始。当初は大正製薬が販売。後にスポーツシューズメーカー「スポットビルト」が、スポーツ用品店で発売して広まり、日本のスポーツドリンクの草分けになった。瓶入りや粉末。
その後、雪印食品→雪印乳業が扱うことになる(いつからかは不明)。缶入りになってコストがかさんだり、ポカリスエット(1980年発売開始)が出現したりで苦戦を強いられ、2000年の雪印の食中毒も追い打ちをかけて、終売になったらしい。
その後、2004年にサントリーから発売されるも、2015年にライセンス契約終了。今は日本では購入は困難。

僕がゲータレードを知って初めて飲んだのは、1990年代前半~中頃か(ポカリよりも後)。ダイエー秋田店で、きんちゃく袋みたいな販促品付きで売っていた。缶か大きいペットボトルだったか形態は忘れたが、嫌いな味ではなかった。
1995年3月には雪印食品扱いで、「ゲータレード」を大幅にリニューアルした「ニューゲータレード」が発売という情報もネット上にあった。
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2001年 秋田銘菓

2021-02-09 23:56:43 | 昔のこと
ご当地銘菓のネーミングの話の続き。
今回は撮った自分も忘れていた秘蔵画像から、今はもう発売されていないと思われる、20年前・2001年の秋田県内のお菓子をいくつか。
いずれも、ネーミングを予想していただけるよう、中身→包装・商品名の順に紹介します。

まず、秋田マリーナ→秋田ミルフェでもおなじみ「菓子舗 榮太楼」の商品。
2001年5月撮影
1人分サイズのチョコタルト。

ナッツ類が入っていたように記憶していたが、そうではなかった翌年には仕様が変更されていた】。中央の丸いものは「ハスカップ」らしく、ゼリーコーティングしたのか。

この商品名は?
ヒント:秋田市の旧町名。
答えは…

秋田城菓 大工町
裏面シールの品名欄は「秋田城菓(大工町)」と主客転倒。

秋田市の旧町名・大工町とは、通町(菊谷小路との交差点より西)と保戸野鉄砲町の間を指す。広義では通町の一部に含められる。
江戸時代は大工が住んでいたそうだが、今はいちおう商店街。道路拡張後しばらくは、その奥様たちが「マダム・カーペンターズ」という名前で、イベント時に出店をやるなどしていた。
竿燈に出ているわけでもなく、市民全般の認知度は低い旧町名かもしれないのに、どうしてお菓子の商品名にしたのだろう。「中通町」「上通町」みたいな旧町名シリーズでもあったのだろうか。
大工町には菓子店として川口屋がある。通町全体まで広げれば勝月と高砂堂もある。榮太楼は当時は大町店がやや近い所にあったものの、大工町が地元とは言えまい。どうして他の菓子店が存在する、よその地名をお菓子にしたのか。

ついでに「秋田城菓」も違和感ある名前。城下とかけたのかもしれないが、それはいいとして、一般に「秋田城」とは寺内の高清水公園の奈良平安の城柵のこと。江戸時代、ここが城下町だったのは、千秋公園の「久保田城」だ。せめて「久保田城菓」でないと。

そして、今回もやっぱり想像できないのが、ハスカップ入りチョコタルトが、どういう連想で大工町になったのか。


次は、秋田市外の店。
2001年8月撮影
サブレーである。前回の記事に追記したが、全国的にご当地お菓子でいちばん多いのがサブレーかもしれない。何かをかたどった形で、命名は「○○サブレ」が多いので、ストレートに分かって戸惑いは少ないでしょう。
このサブレは円形に近い形状で、写真のせいもあって葉っぱやメロンに見えなくもないが、魚の形。切れこみが口、出っ張りが尾びれ。
モチーフになった魚は何でしょう? 商品名はその魚の名+サブレーなのですが。フグじゃありません。

ヒントは製造元。男鹿市のゴンタロー。
つまり男鹿で獲れる魚なのだけど、ハタハタじゃありません。
答えは…

男鹿銘菓 鯛サブレー
鯛でした。
男鹿ではマダイもよく水揚げされ、初夏に「男鹿の鯛まつり」が行われるほど。近年特に知られるようになったと思うが、まつりは2020年で第44回だったらしいので、歴史がある。
現在のゴンタローでは、ナマハゲの顔の「男鹿の面々 なまはげサブレ」というのを売っているので、鯛サブレーはやめてしまったようだ。

包装正面は真っ白で中身が分からないためなのだろう。裏返すと、
サブレ表面がこちら
あえて裏返して袋に入れていたのだと思う。

それにしても、パッケージこそ商品の重要な要素とされる現在の感覚では、却下されちゃいそうな包装デザイン。
「レトロ」とは違うと思うけど、シンプルでかわいらしくて、これはこれでいいのでは。「鯛サブレー」の丸ゴシック体はナールでしょう。

ゴンタローのことは、昨年記事にした。そこで主に取り上げたお菓子を、2001年9月に食べていた。おそらくこの時が初。
男鹿銘菓 えぐり舟 ※2021年時点でも発売されています。
えぐり舟は、バターの入った生地であんこを包んで、ホイルで包んで焼いた和洋折衷菓子。「ホイルケーキ」「ホイル焼き」といったくくりになり、名前(一部は中のあんこも)違いで全国にそこそこある。
昨年の記事の繰り返しだが、えぐり舟はこしあんと白あんの2種があるのに、包装表面での識別が難しい。どうも舟の絵の色が違うのではないかと推測した。
昨年食べたのは、白っぽい舟で、中身はこしあんだった。
この時のものは、舟が黄色っぽい。今は裏面の表示で識別できるはずだが、当時は裏面にも表示がなかった。
果たして中身は、
白あんだった!
ぜひとも、表を見てすぐに分かるようにしていただきたい。


最後。秋田市内へ戻って、2001年6月。
これもホイルケーキ
えぐり舟と比べると、細長くて、春巻きみたい。
生地の色が薄く、厚さも薄いようで中の黒いものが透けている。
中はこしあん?

昨年のえぐり舟の記事の通り、秋田におけるホイルケーキといえば、えぐり舟と、くらたの「おばこナ(黒砂糖あん)」「ひでこナ(白味噌あん)」に二分される。
その時、かつてさらに別のホイルケーキが、かおる堂にあったようだと、触れていた。ネットで調べても写真はなかった。

なんとこれこそが、
どじょっこふなっこ
自分で撮影して食べていたとはすっかり忘れていたけれど、記録していた自分を褒めたい。
当然、味など記憶にない。
昨年、おばこナひでこナのように、どじょっこ/ふなっこで味が違うのではと考えたが、おそらく1種類だったようだ。
えぐり舟、おばこナひでこナは、紙も使われた袋だが、これは完全なプラスチックの袋。
裏面シール
裏面の商品名は「どじょっこ,ふなっこ」とカンマで区切っている。
原材料には「コーヒー」がある。隠し味だったのか、意外なコーヒーあんだったのかも?

「どじょっこふなっこ」とは、今は童謡みたいなものだが、元は民謡というか地元に伝わる歌。
作曲家・岡本敏明が玉川学園の演奏旅行で、今の秋田市北部・金足(かなあし)地区を訪れた際、歓迎会で歌われたものを譜面に起こしたことで、広く知られるようになった。
かおる堂と金足は秋田市内ながらやや距離はあるが、秋田市内の菓子店が秋田発祥の歌の名前を付けたのは分かる。
だけど、どうしてこんなホイル焼きがどじょっこふなっこなのかは、例によって分からない。細長いのがドジョウっぽくなくもない?

※大工町の仕様変更ほか、ちょっとした続き
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節分の日付/縁起巻

2021-02-02 23:56:24 | 昔のこと
2021年2月2日は節分。今年は「124年ぶり」として、少々騒がれている。
2日が節分になるのが、1897(明治30)年以来ということ。

節分は立春(他の3つの季節でもそうだけど)の前の日のこと。
立春は二十四節気のひとつ。
地球の動きと、二十四節気と、今のカレンダーのグレゴリオ暦は、どれも完全に連動してはいないから、ズレが生じる。その結果だと思えば、そんなに騒ぐほどでもないのでは…

スーパーなどがそう騒ぎ立てるのは、商売の宣伝文句でもあるから、分からなくはない。
マスコミは、ニュース本文で触れるのはいいとして、見出しやスタジオトークなどで「124年ぶり」と過剰気味に繰り返すのは気になる。マスコミ側に勘違いしている人、それを見て勘違いさせられる人もいそう。

勘違いというのは、「1898年から2020年までの節分は、ずっと同じ日だった」、もしくは「節分の日付が変動することは、とても珍しい」と思って/思わされていないかということ。
2020年やそれ以前しばらくは、2月3日が節分だった。でも、123年間、すべて2月3日だったわけではないのに。
直近では1984年は2月4日。それ以前も長らく、4年に1回は2月4日であった。
つまり、今年は「2月3日でない日が節分なのは、1984年以来37年ぶり」とも言える。平成はずっと3日だったのか。

そんなわけで、若い人たちは、近年の経験で節分=2月3日と思ってしまうのは当然。
我々世代では、4日だった頃の記憶、加えて二十四節気や節分の日付の中途半端な知識(立春の当日との混同もある)があって、「124年ぶり」と聞いても、「そうなの? 昔は【9日補足・=自分が小さかった・若かった頃は、3日ではない】違う日だったような…」と思うかもしれない。

未来の話。※以下、日付はWikipediaより。
来年以降は4年に1回は2日が節分。今世紀後半には、だんだんと2日のほうが多くなっていくが、長年同じ日に固定ということはなくなる。
そして22世紀に入ると、また2日の節分はなくなり、久しぶりに4日が出てくる。
これはグレゴリオ暦とのずれ、特にうるう年が関係して来るのだろう。2100年は4で割り切れるが、うるう年にはならない等。

今年からしばらくは2日か3日が節分。
4日の節分は、次は2104年。1984年以来120年ぶりとなる。
僕は小学校1年生の時が、生涯最後の4日の節分となるのだろう。


2日付秋田魁新報 秋田市地域面「きょう節分」のリード文は、「きょう2日は、例年より1日早い節分。」で始まる。124年ぶりであることや、その仕組みの説明はあるが、未来のことには触れていない。
「例年」の定義があいまいだが、「節分は3日なのが原則」と誤解させかねない。言葉選びは難しいだろうけど。

マスコミには「124年ぶり2日」ばかりでなく、「これまでは3日か4日だった」とか「3日でない日の節分なのは37年ぶりでもある」とか「来年以降は2日の節分が多くなる」みたいな補足もしてほしいものである。
秋田県内某スーパーの折込チラシより
よく見れば間違ったことは書いていない。でも「節分が動いた!」「124年ぶりの2月2日」だけ見ると、ちょっと誤解させやすい。「節分が動いた!」のは37年ぶりだし、来年以降は動くことが多くなるのです。
そして当然、翌日の立春も、同じ変化をする。


節分と言えば、今は「恵方巻」。
今日の魁の地域面コラムにも出ていたが、元は関西の海苔業界が広めた地域限定の風習だったのを、コンビニやスーパーが2000年代以降に全国に広めて定着、といったのが定説。
Wikipediaにも同じような感じで、1989年にセブン-イレブンが、追ってジャスコやダイエー(今はどちらもイオン)も西日本から全国に広めていったようなことが出ている。
「恵方巻」という言葉も、この全国拡大の中でできたようで、それ以前はない言葉だったらしい。
1990年代に大手が全国展開していたのだから、東日本でも「2000年以降」よりは少し前に、定着はともかく認知はされていたのではないだろうか。

さらに、前も触れたけれど、秋田でも、節分に(決まった方角を向いて一気に)太巻き寿司を食べることは、1989年より前、昭和末の段階で知ることはできた。
持ち帰り専門チェーン店「小僧寿し」によって。
僕は今まで、その時点の小僧寿しも「恵方巻」の呼称を使っていたと思っていたが、上記の通りそうではなかった!

小僧寿しでは「縁起巻」と呼んでいたそうで、混同していたらしい。商標として1986年出願、1989年登録。
縁起巻はさほどブームにはならなかったが、セブン-イレブンがそれに目をつけたらしい。縁起巻が商標登録されたので、恵方巻となったのか。

小僧寿しの縁起巻きを調べていて、そうそうと思い出したこと。
・小僧寿しでは、関西の言葉で丸かじりを指す「丸かぶり」のフレーズを使っていた。
・その初期にはドラえもん(アニメ仕様)とタイアップした商品があった。
今年は違うようだが、数年前にはイオンがドラえもんの恵方巻を売っていた。
【2024年2月15日追記】本来の恵方巻は、玉子焼き、かんぴょう、シイタケ、でんぶ、キュウリなどを巻いた、ごく普通の太巻き寿司であり、小僧寿しが始めた縁起巻きもそうだったかと思う。しかし、2020年代では、丸かじりするには気が引ける(丸かじりはないことにされている?)、海鮮太巻きなど豪華なものを勧める店が大多数。さらに2010年代後半頃からは、売れ残りの廃棄が問題視されるようになった。恵方巻を取り巻く環境の変化が続く。(以上追記)


ついでに小僧寿し関連。
小僧寿しは、昭和には秋田市内にいくつか店があった。
回転寿司はほぼなく(SL寿司吾作くらい?)、宅配寿司もコンビニも、スーパーの惣菜にも寿司はたぶんないような世の中で、数少ない庶民的で自宅で食べられる寿司を売る店だった。
学校が半ドン(午前中で終わり給食なし)の土曜日、家のお昼が小僧寿しだと、うれしかった。店に行ったら小学校の先生も買いに来ていたこともあったり。
昭和末には、今コンビニで売っているのと同じ、海苔とシャリの間にシートを入れた手巻き寿司を売り出して、「シーチキン(R)」巻きを初めて食べた。
縁起巻のほか、ひなまつりとか、山口の郷土料理だという「幽霊寿司」を夏に売るなど、いろいろやっていた。【3日追記】変わり味の稲荷寿司もやっていたと思う。五目ごはんとかカレー味なんてのもあったようななかったような???
1980年代後半頃に、稲荷寿司のシャリに刻んだショウガが入るようになって、子どもには辛くて困った思い出も。


数年前、親戚宅から発掘されたもの。
箸袋
これが残っていたのに驚いて、忘れていたことを思い出した。
「sushi花館」
「すし はなかん」と読む。

小僧寿しは、ある時から「sushi花館」を名乗るようになって、店舗の看板が変わったのを覚えている。
テレビCMで「sushi花館、小僧寿しチェーン」と言っていたはずなので、愛称とか副名みたいなのかと思って調べたら、1990(平成2)年から順次、「小僧寿しチェーン」から「sushi花館」へ移行していたらしい。企業名は小僧寿しのまま。
つまりCMは移行途中で新旧両方の名前を言っていて、sushi花館になった時点で、その店は店名としてはもう小僧寿しではなかったのか。

そしていつの間にか、秋田市にあったsushi花館はなくなった。
上の箸袋には、「紙」のリサイクルマーク(リサイクル識別表示マーク)も印刷されている。紙マークは1995年に制定されたらしいので、1990年代後半時点ではまだ秋田にあったのだろうか。
1990年代後半時点では、弘前市にも店があって、しかもsushi花館ではなく「小僧寿し」。食べたことはなかったが雰囲気もちょっと違う感じ。フランチャイズとかの関係なのだろう。秋田よりも後まで存在し、今はない。【2023年5月10日補足・Wikipediaによれば、弘前市の城東高田店は「2007年初頭まで存在」。】

その後、21世紀には、経営が悪化してすかいらーくと提携するなどいろいろあったが、小僧寿しは今も存在する。弘前にはなくなったが、東北地方では青森県には今も店がある。
公式ホームページを見れば、今は「sushi花館」ではなく、再び「小僧寿し」が屋号で、ロゴは見慣れないもの。
ただ、ネット上の写真によれば、今も「sushi花館」の看板の店がそこそこあるらしいし、小僧寿しではなくsushi花館と呼ぶ人もいるようだ。
メニューは地域や店で違いがあり、カレーや揚げ物を売ったり、ホームページのメニューに寿司が1つもなく弁当ばかりの店も。
青森などの店では手巻きの「シーチキン(R)」が今もあり、商品の青い楕円形のシールもたぶん昔と同じ。一方、四国の店では「ツナ」。あと、玉子がでんと目立つ「小僧の太巻」は見覚えがあるような。昔あった、細い巻きずし(かんぴょう巻きなど)は今はないけど、手巻きと引き換えになくなったような気もしてきた。【2023年1月31日追記・店舗によっては細巻きが存続しているようだ。それでも、種類は少なく、手巻きの影に追いやられている感じ。】
味は変わっているかもしれないし、記憶もないだろうけど、いつか小僧寿しを再び食べてみたい。→食べることができた

【4日追記】八戸市内に「小僧寿し東北地域本部」があるらしい。
【24日追記】八戸の隣、三沢市にも小僧寿しが2店舗ある。これは「三咲羽や(みさわや)」という企業によるフランチャイズのようで、八戸の店とはメニューが異なる。仕出し弁当や駅弁(三沢駅でなく、八戸や新青森などで販売)も作っており、小僧寿しの店で購入できるのかも?

【2021年6月17日追記】2021年3月に八戸市の「湊高台店」、4月に青森市の「小柳店」が閉店。いつの間にか、青森県内(=東北6県でもある)では八戸市1店舗(根城店)と、三沢の2店舗だけになってしまっていた。

【2023年1月31日追記】八戸の根城店が、2022年8月31日をもって「休業」したとのこと。公式サイトの店舗一覧からは消えている。
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2001年 堀のアヒル/雪印ハ 

2021-01-30 23:12:22 | 昔のこと
20年前=2001年1月に撮影した写真から2題。
雄物川が凍ったのを初めて見た(この記事後半に写真あり)のがこの月で、寒くて雪も多かった。

ところで、広小路沿い、千秋公園の外堀にアヒルがいたことがあるのはご存知だろうか。白鳥でなくアヒル。
※外堀は、中土橋をはさんで秋田駅側がハスが生える「大手門の堀」、旭川側がL字型で昔は貸しボートやスケートリンクになった「穴門の堀」。

ついでなので白鳥のこと。
記憶では昭和末頃~平成初期頃には、穴門の堀に数羽の白鳥がいた。野生ではなく、通年住み着いていた。
冬にシベリアから来るオオハクチョウ、コハクチョウとは異なる種でヨーロッパなどに棲息する「コブハクチョウ」。
コブハクチョウは、くちばしが黄色でなくオレンジ色で、その上に黒いコブがある。泳ぐ時に羽を持ち上げるような形になるので、ハクチョウの中でも特に優雅に見える。羽がややクリーム色がかっている気もしたのは、気のせいか汚れ?
戦後、日本各地に移入されて飼育されており、逃げ出して野生化したものもある。苫小牧のウトナイ湖にいるものは、茨城の霞ヶ浦まで渡って越冬するらしい。
僕が初めて見た白鳥が、ここのコブハクチョウだった。後でオオハクチョウ、コハクチョウを知った時は、コブがないあっさりした顔で物足りなく感じた。

「二〇世紀ひみつ基地」の2006年6月20日「お堀から消えた貸ボート(http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-191.html)」によれば、コブハクチョウは「昭和四十四年(1969)、市内の会社経営者が市に購入費八十万円を寄贈し、動物商から十羽買い入れたのが始まり」で、当初は大手門の堀にいた。
後にハスが繁茂したため、穴門の堀へ移すことが検討されたが、貸しボートとの競合が問題に。その結果、1980年4月でボートが廃止されたとのこと。

また、1980年11月14日の秋田魁新報には「千秋公園のハクチョウ/お堀で越冬へ」という見出しの記事があるし、同時期に秋田市大森山動物園にもコブハクチョウがいた記事がある。おそらく、冬の間だけ大森山動物園へ移していた時期があったのかもしれない。

今、海が荒れると、ウミネコが旭川沿いに上ってきて、そこから中土橋まで来てたむろしていることがある。1992年3月12日の記事では「えさ求めウミネコ民俗移動?/旭川ごみ清掃で残飯減ったから/ハクチョウの飼料お堀にはいっぱい」とあり、コブハクチョウがその一因としている。=1992(平成4)年時点ではまだコブハクチョウがいたのだろう。
その後、いつの間にか、コブハクチョウはいなくなってしまった。

ちなみに弘前公園(中濠)でも、昭和50年代からコブハクチョウが飼育されていたが、近年は1羽だけに減っていた。2020年始にそれが死亡(20~30年は生きていたという話あり)。弘前市は告知をし、惜しむ市民がいたとのこと。
以上コブハクチョウは、「千秋公園のお堀の白鳥」として記憶する市民は少なくないようだ。


2001年1月13日。中土橋から穴門の堀
今シーズンも同様だったが、穴門の堀は、まだらに凍結していく傾向があるらしく、まだ凍っていない部分が点在。この時は噴水は作動しているので、その影響もある。
で、その未凍結の水面に、
白いアヒルが3羽!

 ぐるぐる

マガモが家畜化されたのがアヒル。日本ではこの真っ白の「シロアヒル」が一般的だが、マガモのような雌雄で違う色をしたものなど品種は多い。
僕が実物のアヒルを見たのは、小学校で飼われていたのと、ここぐらい。【2月1日訂正】10年ちょっと前に、別の場所のアヒルを記事にしていたのを、すっかり忘れていた。当時の猿田川には、白いアヒルが、黒っぽいアヒルらしき鳥といっしょに泳いでいた。ほかにもどこかで見てはいるでしょう。

どこかから飛んで来る/飛んで行くほど飛翔力はないはずだし、いつもいたので、ここに住み着いていたことになる。コブハクチョウのように誰かが正式に寄贈したものなのか、何者かが放した=捨てた“野良アヒル”なのか。

コブハクチョウいた当時は、広小路の岸に沿って草が茂った部分があったようだ。しかし、2000年前後より後~現在までは、水位が上がったのか、穴門の堀に陸地は少なくなった。そこにいるアヒルも、たまには陸に上がる必要があるはず。
広小路沿いの西寄り、今は美容室、昔は大判焼き&かき氷屋が建っていた土地の脇に、わずかな陸があり、夜にそこで休んでいたのを見たことがある。広小路沿いだと、車、人、明かりと住環境は良くなさそう。
それ以外の場所では、数メートル飛んで道路や県民会館・和洋高校(いずれも当時)の土手に上がらないといけない。アヒルでもその程度は飛べそうだけど、あえて飛ばないでいたのか。
その後、
2001年1月31日撮影。たぶん中土橋から
凍結した部分に上がって、座ったり立ったりして休んでいた。2羽しかいない。

記憶では、いつの間にか1羽いなくなってしまったのは確実。この時だったのか??
その後、しばらく2羽でいるのを見かけたが、いつの間にかみんないなくなってしまった。

今は、ウミネコのほかは、カルガモがたまに来る程度。サギ類は大手門の堀のほうを好み、穴門の堀では見たことがない。


話変わって。
2001年1月2日撮影
「雪印ハ」の看板。下のトラックにちゃんと書いてあるように「ム」が取れているから「雪印ハム」。

雪の結晶マークが共通し、今は「雪印メグミルク」として存在する企業と関係があるのだが、この時はメグミルクは付いていないし、今はハムは扱っていないようだ。
たしかこの直前に荒れた天候があって、それで「ム」が飛んでしまったのか、あるいはこの会社の状況から手が回らず直せないのかと思いつつ、撮影した記憶がある。
ご記憶の方もおられるように、当時の「雪印」は大変だった。

当時は、乳製品は「雪印乳業」、ハムは「雪印食品」と、グループ内で別企業だった。
雪印乳業は1999年3月まで秋田工場が臨海にあり、秋田市の学校給食にも採用されていた。※雪印牛乳についてこの記事後半。
2000年には近畿地方を中心に集団食中毒を起こしており、対応のまずさと合わせて、批判を浴びた。
ここは雪印食品のほうだから、この時点では直接的な批判の対象ではなかったことになるが、冷たい目で見て(撮って)しまっていた。

そしてこの翌年、2002年1月、今度は雪印食品の牛肉偽装事件が発覚。これら2つの事件で、雪印グループが再編される。
乳業は最終的に雪印メグミルクとして存続、食品のほうは廃業・解散。
看板の「ム」がなくなったどころか、翌年にはそのブランド自体がなくなるなんて、当時は知るよしもなかった。

今まで知らなかったが、雪印食品の子会社「東北雪印食品」は、この件で2002年に独立して「銀河フーズ株式会社(本社・岩手県花巻市)」になっていたのだった。ここの製品は、今の秋田ではよく売っている。
では、写真の「雪印ハ」は、東北雪印食品の秋田営業所か何かだったのだろうか。Googleにはここに「雪印食品東北販売部秋田営業所」という記述も残っている。
銀河フーズ秋田営業所は発足当時は知らないが、その後は別の場所。以前は北インター方面の外旭川字一本木、その後移転したようで今は御所野湯元にある。

雪印ハの場所の現在は、
建物は現存する
外壁の色が少し変わったが、建物は同じ。

少なくとも2012年から2019年12月までは、タイヤホイールメーカー「weds(ウェッズ)秋田営業所」が入っていた(臨海バイパスの寺内へ移転)。現在は目立った看板はなさそうだが、電気工事会社の名入り車両が置かれている。
で、その場所、お分かりでしょうか。
右の黒い建物はパチンコ屋(2001年でも存在したようだ)、その奥になんとなく見えているのがマックスバリュ泉店。ということで、県道126号沿いの泉北二丁目。


久々に見て、第一印象はもう20年も経つのかと思ったが、考えてみればそんなもんだし、まだ20年しか経っていない気もしなくない。
21世紀が始まったばかりの風景だと思えば、そのわりには古臭いような、今がそれだけ未来にいるのか。不思議な感じ。昔の風景はいずれまた。
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オムロン ロボと小4理科コスモ

2021-01-07 23:09:46 | 昔のこと
イオン東北運営の秋田市のスーパー、マックスバリュ泉店に、昨年秋頃から珍しいモノがいる(ある)。
2020年11月1日、青果売り場で初めて遭遇した時は、一瞬びっくり。
箱型のロボットが、店内をひとりで動き回っている!
「遠隔警備中」みたいなシールが貼ってあったので、すぐ納得。

でも、この店にそんなものがいるとは。今のところ同社運営の秋田市内の他店(総合スーパーのイオン含む)では、見ていない。
ネットを見ても、全国的にイオン系スーパーにいるということでもなさそう。なぜイオン東北の、なぜマックスバリュ泉店に配置されたのか分からない。
なお、東北以外の一部マックスバリュには、棚を巡回して商品管理をするロボットがいるらしい。


ロボットに「OMRON」のロゴがあったので、ネット検索するとすぐに判明。

2020年5月から提供を始めた「複合型サービスロボット」。充電式で「清掃・警備・案内」する。
泉店にいるのは、AEONロゴなどもなく、オムロン公式サイトの画像そのままの姿だと思われる。ただ、ボディの色合いは上の画像よりも、若干青っぽく見える気がする【10日追記・改めて見たらそうでもなく、写真と同じく見えたかも…】。
幅500mm×奥行790mm×高さ871mm、約85kg。前面に縦長の液晶ディスプレイがあって、店の宣伝みたいなのを映している。音声が流れることもあり、「ごばばばーい」の歌など流す。ポイント5倍デーでない日に「ごばばばーい」が聞こえてきて、しかも音が動くので、おかしいなと思ったら、コイツだった。

液晶がなく自走していなければ、手押し床磨きの機械か、小さめのコピー機か何かにも見えそう。【10日追記・後部には排気口などもあって、よりOA機器っぽい】
後部側には手で押せそうな棒状のハンドルと、十字など数個のボタン。巡回ルートは手押しして教えるそうで、その時に使うのか。
店にいるロボットといえばソフトバンク「Pepper」だが、それより背が低く、顔や手などもない。実務型ロボットだ。

泉店では、店内の売り場通路をくまなく動き回る。レジの間や会計後袋詰めスペースでは見たことがないけど。やや小型の店舗なこともあり、外周でない中の売り場の通路は狭めなのだが、そこにも入る。
たいていは、広告の音声以外ほぼ無音で動くのだが、掃除機みたいな音をさせて移動(速度はほぼ同じ)することも。その時は掃除しているわけだが、これまで1度しか遭遇していない。【2021年5月28日追記・巡回の途中で、突然掃除機が作動し始めたこともあった。タイマーじかけなのかもしれないし、床面の状況を感知して掃除モードに入るのかもしれない。】
専門のロボット掃除機のように隅々まではできなそう。真ん中をすーっと吸う程度だから。店内は少しでも清潔であるべきだろうから、やらないよりはいいのでしょうけど。水や雪は吸っても大丈夫なのか、紙幣や手袋のような落とし物も吸ってしまうのかなど、気になる。

移動速度は人と同じかやや遅いくらいか。営業中なのでお客がいるが、基本的にはうまく避ける。
通常は通路の中央を動き、面と向かって歩いてくる人がいた場合は、かなり手前で察知し、斜め前へ進路を変えて、通路の隅を進んですれ違う。
近くの曲がり角から人が出てきた場合などでも、機敏に隅へ避けられる。客とぶつかるということは、あまり考えられないと思う。たまにいる走り回る子どもよりのほうが危ないでしょう。

ただ、買い物かごは苦手な模様。この店は赤いカゴだけど、それをロボットの真正面になるようにして、腕にかけたり手に持って歩いている(体は通路隅)と、かなり近くまで気づかず、あわてて避ける。
狭くてすれ違えないなど避けられない場合は、止まる。棚の商品を熱心に吟味する客がいる時なども止まって待つ。フリーズしたかのようで、ジャマなのだけど、それでしばらく待っても状況が変わらなければ、あきらめたかのように方向転換して、別の通路へ進む。

【10日改めて見て追記】広い通路で人がいなければ、感覚としては“かなり”速く動く。急ぎ足の人くらいの速度。雪や水で転倒しないよう、ひざ丈くらいのコーン状のものが2つ置かれていたが、それを丁寧によけて走行。もしかしたら、先方の床近くの低い位置に主に照準を合わせて障害物を検知しているのかもと思った。だから、腕から下げているカゴには反応しづらいのかも。


店内の一角に充電器がある。自分でそこまで移動(位置的にバックもしないと収まらないが見たことない)し、充電中もディスプレイと音声は作動。
イオン銀行ATMの隣なので、ATMの順番待ちをする人などがいると、やはり止まって待つ。この場合は方向転換せず待ち続けるのかもしれないが、出入り口付近でもあるので、やはりジャマ。
【2021年5月28日追記】2021年春に、その出入り口は封鎖された。これにより充電箇所は「隅っこ」となり、人と重なる機会は減ったようだ。
【2021年7月30日追記】2021年6月下旬に、封鎖されていた出入口が復活。同時に、充電場所が移設。外から見て左でなく、正面のメインのドアを入ってすぐの左、パン売り場手前のお盆など季節商品が台売りされる左隣という、目立つ位置になった。今までよりは通行の支障にはならなそうで、充電中に広告画面がよく見えるメリットはある。充電場所の設定をやり直したことになるのだろう。

そもそも、この店の狭い通路では、カートや車椅子、足の悪い客の移動を妨げてしまう場合もあるようにも思うし、どの程度店の業務の手助けになっているのか、とも考えてしまう。
総合スーパーイオンの上の階(衣料品売り場など)などは、客も店員も少なく広いから、適任で重宝されるのではないでしょうか。


客の反応は、大人でも興味深そうにじっと見る人もいる【11日追記・動いてきたロボットと鉢合わせして、ものすごくびっくりしてまじまじと見ていたおじさんもいた】。「遠隔警備」とか書かれると、見られているかもと思う人もいるだろう。常連客は当然のように気に留めない。「触るな」などとは書いてないはずだけど、触ったらどうなるのだろう。
そして子ども。熱心なファンが複数いる。
「お掃除ロボット!」と後ろから行動を共にする子(お掃除はしていないモードだったけど)、充電場所に不在で「ロボットいなーい」と残念がる子(店内のどこかにはいるのだけど)、ロボットにまとわりつき、母親に「しつこくしてると通報されるよ」と諭される子など。
しかも小学校入学前後くらいの女の子にも人気。ロボットに興味を持つのに男女は関係ない。でも、そのくらいの年代だと、まだ女の子はお人形さんみたいなのを好みそうなのに。こんな機能重視の機械に興味を持つのか。

子どもたちが親しみを抱く感情は、理解できる。
人と同じくらいの速度で、人に道を譲ったり待ったりしながら動くのには親近感がわく。あきらめて方向転換する時や、充電したくてけなげに待ち続ける姿には、同情したくなる。
顔も手もなく、人を避けるか待つだけしかしないロボットだけど。
ペッパーなどのように会話したり積極的にコミュニケーションする必要がないのが、かえって安心できるという面もあるだろう。

【2025年1月27日追記】2024年頃から、秋田駅東口の「秋田拠点センター ALVE(アルヴェ)」1階の多目的広場でも、このロボットが稼働するようになった。
2024年7月に開催されたアルヴェ開館20周年記念イベントにおいて、ロボットの名前(愛称ってことでしょう)を募集。11月に「AL☆VO(アルヴォ)」に決まった。

また、マックスバリュ泉店は2025年1月末で閉店。ロボットは最後まで稼働していたが、閉店後はどうなるか。(以上追記)


せっかくなら、飾りでいいから顔を付けたら、もっと親しんでもらえるのではと考えていると、思い出したロボットがいた。正確にはロボットもどきだけど。
かつてNHK教育テレビ(現・Eテレ)の小学校4年生の理科の学校放送番組に出ていた「コスモ」である。以下、その思い出。長い思い出話ですので、読み飛ばしてください。



学校放送は、すべての学年向けに番組があるわけではない。
その中で小学校の理科は、1960年前後から(低学年が生活科になる)1991年度までは、6学年すべてで番組があった。番組名も「理科教室小学校○年生」で統一されていた。※1・2年生は「なんなんなあに」「はてなはてな」のサブタイトルあり。

僕が小学校低学年だった1980年代前半は、4年生以上は堅い内容に思えた。キャラクターもお兄さんお姉さんもいなく、ナレーションと「先生(理科教育専門の小学校教諭など)」で進行するような。
ところが、自分たちがその学年に達する1985年頃になると、いくぶん軟化した。
特に4年生。
まず、お兄さんが登場。1985~1986年度は「ムロさん」、1987~1989年度は「ロングさん」。※したがって、リアルタイム(放送時期と学年が一致する)で見ていたのは1975年度から1978【8日訂正】1979年度生まれの人。

その“相方”が「コスモ」。
ロボットという設定で、お兄さんと流暢に会話し、多少動く。
「わたしは充電するから、ムロさん調べておいてね。♪じゅうでんじゅうでん」と歌いながら引っ込んでいくシーンがあって、教室で見ていてみんな笑った思い出がある。※一人称がわたしということ【8日追記・およびそのほかの言動から】は性別は女だったのだろう。
ネット上には当時の映像や画像は見当たらない(と指摘して懐かしむ声もちらほら)が、薄い青~水色のボディで、脚がない自走可能な胴体から、頭と両腕・両手が出ていた(これらも多少動くはず)と記憶する。しゃがんだ人間と目が合うほどの高さ、人よりやや広い横幅程度。
オムロンのロボットは、色合い、大まかなサイズ感、動き、充電式であることがどことなくコスモに通じ、頭と手を付ければ、ちょっとスリムなコスモになりそう。


コスモの名は、Wikipediaによれば、1985年に開催されたつくば万博のマスコットキャラクター「コスモ星丸」が由来らしい。姿はまったく別。ちょっと短絡的な命名。【2025年1月27日追記】Wikipediaは2022年頃に書き換えられ、コスモ星丸うんぬんは消え、NHKの出版物を出典として「名前は公募で選ばれた」となった。放送開始当初は名がなかったのか、それとも初回に間に合うよう、前年度に募集したということなのか?(以上追記)
コスモの実態は、電動の操り人形(ほんとは充電式ではなかったかも?)。最後には「コスモ 声:白石冬美」とともに「操演」の人の名前も出ていたはず。
当時の小4の理科では、ジャガイモ栽培、太陽と月の動き、川の流れの単元もあって屋外ロケが必須だが、地面が安定した屋外ならロケにも出ていたかな。

コスモ(とムロさん・ロングさん)の出演が4【8日訂正】5年間だったとは、意外に短い。
しかし、コスモの後任ロボがいる。
「マッキー」。忘れていたがWikipediaなどを見たら、そうそうと思い出した。

1990~1995年度に放送された「はてなをさがそう~小学校4年・理科~」。
番組のスタイルはほぼ変わらなかったが、生活科実施を見据えて、理科教室シリーズ全般の見直しがされたそうだ。
そのロボットがマッキー。ボディは黄色(まさか真っ黄色だからマッキー??)で、頭は丸みを帯びて(コスモは角張っていたはず)赤いリボンがある。声は松島みのり。
マッキーのサイズ感はコスモとそっくり。
ネットには、コスモを改造・塗装変更してマッキーにしたのではないかとの説があるが、そうかも(昔の僕もそう思ったような気もする)。

また、コスモは途中でマイナーチェンジされたかもという投稿もあった。そう言われればそんな気もするし、そうであればタイミングとしては、ロングさんに交代して僕が5年生になった時の可能性がある(というかそこしかないだろう。お兄さんが同じなら前年の再放送もあるはずなので)。

とすると、コスモ~マッキーで11年間活躍したことになる。
さらにこれは知らなかったが、マッキーの後任もいるそうで「コロンブス」という、緑系で、全体の雰囲気は共通するロボット。

もし、コスモがほんとうにロボットならば、店内巡回ぐらいできるし、子どもやお客さんに愛想良くしてくれそう(かえってうるさい?)。



上記の通り、ネット上にはコスモの画像はおそらく皆無。検索すると、2014年にツイッターに鉛筆がきのイラストとともに「すいません、質問なんですが 20数年まえにNHKの教室テレビでこんな 女の子のロボットが出てくるの番組ありましたよね!?」との投稿があった。

詳しく見ると、最初の投稿は個人ユーザーから「NHK広報局(@nhk_pr)」のアカウントに対して行われ、それを受けたNHKは「誰か!」と引用リツイート。いちばん知っていて、情報も多い、というか当事者なのに、他人に頼るって…
奇特な他ユーザーから47件の返信があり、(見当違いもあったが)コスモかマッキーだとの指摘が多数あった。放送期間が長かったためか、マッキーとの回答が多かったが、質問者の年齢も分からないし、いちばんの差異である色の記憶の言及がないので、この画像では断定できないと思う。頭が角張っていることからすれば、コスモかもしれない。
中には、「コスモの妹がマッキー」というのもあったが、それはどうだろう?


ちなみに理科教室小学校4年生は、ムロさん&コスモ登場時から、オープニングも大きく変わった。
音楽は、それまではクラシックみたいな落ち着いたものだったが、電子楽器のアップテンポの音楽。たしかエレクトーン奏者でもある小寺久美子という方が音楽担当だった。
画面は、実写映像に重ねて、数字の「4」の三角形の部分が重なるように動いてから、「理科教室小学校 4 年生」みたいなちょっと飾り気のある文字になったはず。CGではなく、テロップをアニメーションのように動かしていたのだと思う。同じ手法と思われる映像は、当時のニュース番組のオープニングでもよくあった。

理科教室は自分の学年とずれた年度も含めて、他学年でもインパクトのあるものが多かった(小3のギザギザCGとか、後の小2の「ひとみ博士」とか、小1のキートン山田氏&やったくん&めるちゃんとか)が、リアルタイムで自分の対象学年だったものでは、コスモがひときわ個性的だったかもしれない。
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休み明け報道 と小梅の思い出

2020-08-22 23:04:56 | 昔のこと
今年3月の新型コロナウイルス感染症流行の“第1波”により、全国の小中高校が休校とされてしまった。その後も地域によっては休校が長引き、分散登校が続いたところもあり、夏休みが短縮される地域が多い。
大都市圏に比べれば休校が短かった秋田県内の小中学校でも、感染者が散発的に続いた秋田市は、休校が少し長かった。その結果、県内で秋田市立学校がいちばん短い夏休みになり、本来は7月20日~8月24日なのが8月1~19日となった。
ただし、短縮日数が秋田市より少ない市町村でも、日程はそれぞれ違うので、美郷町も20日、大仙市は17日から始まっている。

8月20日が、秋田市の夏休み明け最初の登校日。
地方のローカルニュースでは、長期休みの入りと明けの風景が報道されるのは、コロナ流行に関わらず昔から定番のネタ。テレビでは登校風景→集会(式)→どこか1学級の教室のやり取り、といった流れで映像を作るのが定番。
20日も、秋田の4放送局とも、取り上げた。
NHK秋田は「秋田市の小中学校で授業再開」、秋田テレビ(AKT)は「短い夏休みが終わり… 校舎に子どもたちの元気な姿」、秋田朝日放送(AAB)は「夏休みが明けて 秋田市の小中学校に元気な声」。ABSはサイトに掲載されず、テレビは見たけど忘れた。

我々古い人間は、20日が「(2学期)始業式」と言ってしまいそうになる。
しかし、現在の秋田市立学校は2学期制なので、夏休みは「前学期の途中の長い休み」に過ぎず、各局ともそのように報道している。
終業式/始業式ではなくても、全校集会やホームルームは、それらがあった時に準じた形で行われるので、それを取材していることになる。

一方、2学期制では重要になるはずの、秋の前学期終業式と後学期始業式(=秋休みの入り/明け)は報道されたことがないのではないだろうか。
秋田市以外では3学期制の学校もまだ多いそうで、全県的ではないこともあるだろうけれど、マスコミもまた、古い人間が昔の感覚で報道してしまっている、と言っては言い過ぎ?

各マスコミは、毎回、どこかの学校(ほとんど小学校)を訪れて取材する。気になるのは、その「どこかの学校」をどのようにして選ぶか。
昔は、秋田市立の学校が原則だったと思う。マスコミの拠点が秋田市である以上、仕方ないのか。
最近は、大館市や横手市など、秋田市外の小学校を取り上げる局もある。AKTが多いような気がする。秋田市以外にある支局の取材活動を活性化させる意図があるのかもしれない。あとは、秋田市以外の3学期制の地域を取材すれば、夏休み前や冬休み前ならば、「終業式」と「通信簿を渡す」という、典型的で理想的な場面を伝えられるという狙いもあるかも。

今回は、(まだ休み中の自治体も多いわけで)各局とも秋田市立小学校。
NHKとABSは東小学校、AKTは中通小学校、AABは河辺の戸島小学校、秋田魁新報は雄和小学校と御所野学院中学校(さらに美郷町立仙南小学校も軽く触れた)。
小学校に限れば、2局が東小に重複、2社は本社から遠い郊外。
閉校を控えているとか、同時に別の催しも行われるとか、特に理由があればまだ分かるが、別段なさそう。41校ある市立小学校のうち、なぜこのような選択になったのだろうか? NHKは局からいちばん近い学校でラクしたのかもしれない。

憶測だけど、秋田市教育委員会とか秋田市政記者クラブが調整役になって、取材先を割り振っているのではないか。
全国的にも同じようで、2019年4月の始業式を取材された大阪市立矢田北小学校ホームページでは、春休み前にはよみうりテレビ、朝日放送、テレビ大阪の3局が取材に来ることを予告していて、実際にはよみうりと朝日の2局が来たように紹介している。大阪市立小学校は300校弱あるそうで、それでも1校に複数社が来ているのだから、何らかの力(ってほどでもない)が働いているのでは?
その学校の中でどのクラスで取材・撮影させるかは、学校長の裁量で決められそう。


報道された4校のうち、東小以外の各校は、体育館で全校集会を行っていた。東小は、校内のテレビ放送で、校長や児童代表の話を放送していた。(御所野学院中は体育館、仙南小は校内放送)【24日補足・集会の代わりに校内放送(テレビまたは音声のみ)を使うことは秋田市内の学校では、コロナ対策以前にも、暑さ寒さ対策などで学校や状況によっては散発的に行われていた。僕が小学生だった昭和末でも、試験的に1回だけテレビで行ったことがあった(が本格実施はされず)。】
東小は児童数が多い(500人弱)のに対し、他各校は少なくて体育館に集まっても充分に間隔が取れるためだと思われる。

NHKでもABSでも、校長が話しているのが教室のテレビに映っている映像が放送された。
NHKでは校長の話だけが校内放送されたかのような映像と言い回しだが、ABSでは児童が話す場面も放送された。
3年生の教室のテレビ受像機は物持ち良く、4対3比率のブラウン管。25インチくらい?
ABSでは、リフレッシュレートの関係で、画面に太い黒い帯が映ってしまい、見づらかった。
NHK NEWS WEBより
そのテレビ画面では、右上に字幕がずっと出ていた。字幕というか画面表示。
いろいろ出ていて「0:03:50」という数字が1秒ごとに進んでいる。手ブレ補正みたいなマーク、テープ残量55分みたいなものも。
校長先生が持つ「コロナよぼう」の紙の「コ」の部分で、赤いマークが点滅しているのは何?

表示内容からして、校長を撮影しているのは、録画機能付きビデオカメラ(カムコーダ)で、その画面表示が全校に放送されている。
ビデオカメラは詳しくないけれど、テレビやデッキと違って、表示を消すことはできないのかな。この画面表示も今どきではなさそうで、カメラも物持ちが良さそう。

数字(=テープカウンター)が進んでいるということは、同時に録画しているのか。
それが放送されることで、話が長い校長先生かどうか分かっちゃうね。

【2021年1月5日追記】2020年末の冬休み前最終登校日も、NHKは東小学校を取材。やはり校内テレビで校長の話が放送されていたが、前回の反省を踏まえたのか、今回は画面表示はなかった。ただ、取材された教室では、画面サイズの変換(比率)の設定のせいか縦横比が不自然なように見えた気がする。



前から繰り返しているが、気象データでなく感覚としては、秋田ではお盆過ぎに少し涼しくなるが、夏休みが明けた8月下旬~末頃に、暑さがぶり返すことが多い気がする。
今年もそのような週間予報が出ていて、来週は連日33度以上らしい。
秋田市立学校の教室には、冷房は設置されていない。昨年度は設置に国の補助が受けられたのだが、それでも財政負担が多い、学校再編を進めている、トイレや外壁など優先して補修すべき物がある、といった理由で、見送っていた。
そこへこの夏休み短縮。急遽、冷房を設置することにしたが、来年度以降になる。冷房を点けたとしても、換気しないといけないし、登下校は暑いし、大変だ。



関連した昔の話。
学校の休み入り/明けは、昭和末の我々が小学生の時も、報道されていた。
秋田市中央地区の我が母校には、6年間で記憶する限り1度だけテレビ取材が来た(ほかにも来たけど、意識にないだけかも)。
しかも、その時のクラスのシーンは、自分たちの教室が取材された!

2年生に進級した1学期始業式の日。クラス替えなしで担任は1年から持ち上がりのベテランの先生。だから、そのクラスが選ばれたのかも。
来たのはNHK。照明とハンディカメラがあったが、わりと控えめに撮影していたような気がする。緊張したかどうかは忘れたが、こうしろああしろと指示するようなこともなかったはず。
1学期始業日の教室といえば、新しい教科書の配布。そこをカメラが熱心に撮影し、それが放送されていた記憶がある。
今は、教室で児童へのインタビューも定番(みんな上手に受け答えするもんだ)だけど、当時はなかった。

3学期制だった当時は、始業・終業日は、給食なしで11時くらいまでには下校が基本。
その日、僕は新学期早々掃除当番に当たって残っていた。そこへ校内放送が流れた。教頭か教務主任辺りの先生だったか。
「さっき取材していった様子が、12時15分から放送されるそうです」と。
編集や他のニュースとの兼ね合いで不確実だったのが、確定したと連絡があったのか。

校内放送は、早く帰って家で見ろというつもりだったのかもしれないが、我がクラスは違った。
担任の先生が、都合で早く帰らないといけない人は別として、学校に残って見ていきなさいとおっしゃった。

ということで、10人くらいか、掃除が済んだ教室の席に座って、お昼のニュースを見ることになった。
2年生だと「居残りさせられる」のもたぶん初体験だし、教育テレビの学校放送しか見ない教室のテレビで、違うチャンネルのニュースを見るのが新鮮だったはず。ちなみに、この年はロサンゼルスオリンピックが開催されたので、後にそれも見せてもらうことになる。
当時の教室のテレビは、ナショナル(現・パナソニック)ブランドの、外枠が木目風パネル(家具調テレビ)で、ダイヤルでチャンネルを回す、モノラル音声・19インチくらいの受像機。※4対3テレビ末期は、14インチの次は21インチが主流だったが、その少し前は20インチとか19インチという画面サイズもわりとあった。
ドキドキして待ったわりには、「誰が映った」くらいであっけなく終わって、下校したはず。


もう1つその時の思い出。
担任の先生は、昼食前の児童を12時15分までただ待たせるのを不憫に思ったのか、飴を1粒ずつ配ってくれた。
学校でお菓子を食べるのも、おそらく初めてで、不思議な気分だったかも。(その後、卒業までに何度かあった)

その飴は、先生が個人的おやつとして備蓄していたのであろう、ロッテ「小梅」。
小梅は、中に梅ペーストが入った小玉と、甘い大玉が混在した商品。今も当時もほぼ変わらない商品形態だが、今は大玉は1袋に2つ(昔はもっと多かった?)で、期間限定で青梅味になるらしい。
児童には小玉が配られた。当時の僕は、梅味のものなど酸っぱすぎて食べることがなかった。もらったはいいけれど、特に中のペーストに困惑しながらなめた思い出。

僕が初めて小梅をなめたのは、1984年4月4日の昼だったことになる。
今は梅は好きになったけど、小梅は何年も食べていない。

【2020年9月13日追記】1984年春の気候について。
1983年末~1984年の冬は、全国的に雪が多く「五九豪雪」とも呼ばれる。それまで経験したことがないくらい、雪がたくさん積もったと当時思ったのを記憶している。自宅の一部では、屋根から落ちた雪がたまって軒まで達し、容易に(平屋の)屋根に登れるようになった。ただ、秋田では10年前の「四八豪雪(1973~1974年)」ほうが強烈だったらしく、当時大人だった人は五九豪雪はあまり印象にないようだ。※四八豪雪は秋田だけ局所的な大雪だったそうだ。
その名残りか、1984年の春は遅かった。秋田市の気象データでは、4月中旬でも最低気温が0度前後(氷点下も)の日が多かったが、記憶にはない。
桜の開花も遅く、5月の連休に弘前公園の桜(通常なら4月末~連休が見頃)を見に行ったのに、ぜんぜん咲いていなかったのは覚えている。その時が、初めての弘前。その次訪れるのは11年後で、4年間弘前で暮らすことになる。(ちなみに、その翌年1985年春に弘前大学卒の新採用の先生が同じ学年の違うクラスの担任になり、弘前に大学があることを知った。)
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チアーズとサンダイヤの昔のCM

2020-06-11 23:48:08 | 昔のこと
たまにふと思い出す、昔のテレビCM(の歌)が2つある。
どちらも、県域よりは広範囲で放映されたが、全国放送ではなかったようで、誰でも知っているわけでもなさそう。「ヤンヤンヤヤ(八木山ベニーランド)」や「だいじょうぶ~(三八五引越センター)」みたいなもので。
見ていた当時は知らなかった(おそらくネットで調べられるようになった2000年代以降に知った)が、今回の2社とも青森県と関係が強い企業だった。


1つ目は、秋田では昭和末~平成初期頃、夕方のアニメ枠でよく流れていたと思う。
「ピーターパンはパンじゃない」のような、言葉遊びの歌が3つ続き、最後にメーカーらしき名称「チアーズ」が歌われて終わる。15秒だろう。
映像は写真を組み合わせたアニメ、歌うのは男の子だったか。冷蔵のチキンナゲットみたいな肉類加工品の写真が写っていたと思う。
最初は1パターンだけで、後に別の歌詞のバージョンも作られた。

ネットで検索すると、少し情報が出てきた。北海道でも放送されていたそうだ。
広告主の「チアーズ」は、八戸市に本社があるメーカーの、企業名でなくブランド名。
企業名は放送当時は「第一ブロイラー株式会社」、2008年に「プライフーズ株式会社」となって現在に至る。
チアーズブランドは1983年に導入し、今も使っている。当時テレビで見たのと同じ、赤とオレンジのロゴ。

そのCMの歌詞もネット上にあった。正式なものでないし、同じ人が複数箇所に投稿している可能性、覚え違いもあるかもしれないが、見てみれば、そういう歌詞だったなと思うので、ほぼ合っていそう。漢字表記等を調整して、以下に記す。

第1弾 キューリー婦人はキュウリじゃない ピーターパンはパンじゃない 佐藤くんは甘くない
第2弾? 鈴木くんは魚じゃない おさない(小山内/長内)くんは子どもじゃない 越後屋さんは悪くない
第3弾? ジャストミートは肉じゃない 毛ガニはケガしたカニじゃない フルーツパンチは痛くない

当時、「おさないくんは子どもじゃない」が分かりづらいと思ったのを思い出した。
苗字の「おさない」から「幼い」というつながりが、子どもの視聴者には難しいかもしれないのと、それ以前に「おさないくん」=「おさない姓」が存在することを知らない人が多いのではないかと考えたから。
秋田ではおさないさんは、わずかにはいらっしゃる。小山内さんも長内さんも、都道府県別分布でいちばん多いのが、青森県(読みでなく、それぞれの漢字表記での統計)。
青森の企業のCMだったことを思えば、青森県民の感覚で作ってしまって、県外での放送では分かりづらくなったかもしれない。(スクランブル交差点の乙女の祈りの例もあった)

一方、越後屋=悪は時代劇の影響で知名度は高いが、単に昔の商家の屋号だと思われているかもしれない。今も越後屋姓が実在することを知る人はどのくらいだろう。
越後屋姓は、全国的には秋田県に圧倒的に多い。青森でも皆無ではないだろうが存じ上げない。


このCMが放送された時期は、昭和最後1988年か、平成になって1991年ではないかと思う。
なぜなら、その年に同じクラスだった人が、第2弾の替え歌を作ろうと、いろんな苗字で作詞を試みていたから。1989~1990年はクラスが違ったので。

さらに第3弾の「ジャストミート」も手がかりになるかも。
それ以前にも言葉はあったが、ある頃から急に身近なよく使われる言葉になった。当時日本テレビの局アナであった、福澤朗氏の決めゼリフとして。1989年に「全日本プロレス中継」に福澤さんが起用されて使い出したようだから、時期が重なる。
ということで、昭和のいちばん最後~平成のいちばん初め頃の放映ではないだろうか。




もう1つは、チアーズの数年後、高校生の頃(これもクラスメイトが歌っていた)、秋田テレビの昼前のニュース「FNNスピーク」でよく見た。

商品の写真と、男性が写り、その男性が良い声で歌う。
「サンサンサンサン サンダイヤ 1台だけでもサンダイヤ」

「サンダイヤ/SUNDIA」とは、北国・寒冷地の必需品「ホームタンク」の商品名。
ごく最近はまた変わりつつあるが、効率や経済性を考えると、寒冷地では暖房や給湯に灯油を使うのが一般的。そのための、(主に屋外用)据え置き型大容量灯油タンクのことを、ホームタンクと呼ぶ。
各家庭で設置して配達してもらえば、運んだりポンプで注いだりしなくても、スイッチやレバー操作で暖房やお湯が使える。灯油の存在を意識せずに使ってしまうし、万一、漏洩した場合は近隣へ【12日補足・土壌や河川といった環境や消防当局にも】迷惑をかけることになるのは注意。

1974年7月23日の秋田魁新報夕刊に「怠るまじ、灯油保存/ホームタンク激増/豪雪・オイルショック 骨身にこたえたネ」という記事があった(県立図書館見出し検索)。
なるほど。ヨンパチ豪雪による配達困難と、オイルショックによる灯油不足・値上がりを経験して、より多く備蓄しようとする家庭が増えたのか。でも機器のほうがホームタンクに対応しないとダメか? 今のホームタンクとは違うホームタンクなのか?
いずれにしても個人的感覚では、昭和末時点の秋田市ではホームタンクはそれほど普及していなかったと思う。ストーブ1台ごとに都度給油し、風呂・台所は別々のガス給湯の家庭が、まだ多かったと思う。
1990年代中頃以降、ホームタンクが広まったかもしれない。
そして、このダジャレのCMソングで、「サンダイヤ」というブランドのホームタンクがあることを知った。
【12日補足】寒冷地ではホームタンクは、“一家に1台”に近い存在だが、一家に2台以上あることはまずない。その面では「1台だけでもサンダイヤ」は、ある意味実態に即していると言えるかも。

今、秋田市内のお宅のホームタンクを拝見すると、結構な割合で「SUNDIA」。シェアトップかもしれない。
正面ロゴは位置的に撮れなかったので、横のカタカナロゴ
正式名称は「オイルタンク」か。
数年前、我が家のホームタンクがそろそろ耐用年数で交換したが、灯油屋さんもこちらも、最初からサンダイヤ前提で話が進んだ。その頭の片隅には「サンサンサンサン」「1台だけでも」があった。CMの効果がまだ続いている。

昔のCMに話を戻して。
ダジャレの歌を歌っていたのは、なんとあの尾崎紀世彦氏!

Wikipediaには、「北東北限定CM、1991年」「リヤカーを引きながら本人出演」。
一方、尾崎さんのファンサイトには、1994~1997年に東北・北陸で放映との情報も。
僕が高校生の時見たのは時期的に1994年。それ以前には見た記憶もないし、リヤカーも覚えがない。数年違いで2バージョン以上あったのかもしれない。

尾崎さんといえば、1971年の名曲「また会う日まで」。
1990年代では、過去の歌ではあったが、尾崎さんは過去の人でもなかった。
日本テレビで「夜もヒッパレ一生けんめい」→「THE夜もヒッパレ」という、バラエティ歌番組があったが、月1回ほど尾崎さんが出演して、マイクを口から遠ざけて「二人でドアを閉ーめーてー」を大音量で歌ったり、出だしの音が似た「真夏の出来事」とひっかけて「また会う、車に乗って」と歌ったりしていた。僕はそれで尾崎さんと「また会う日まで」を知ったかもしれないし、今も歌い継がれるのはこの功績も大きいかもしれない。
尾崎さんがヒッパレに出ていたのは1994~2002年だそう。また同時期には、他社のCMソングもけっこう歌っているようだ。

さて、ホームタンク・サンダイヤを発売するのは、東京に本社がある「株式会社サンダイヤ」。※東京には「サンダイヤ株式会社」も存在するが、食品添加物などの無関係の企業のようだ。
各種タンクのほか、ゴミ置き場、床暖房パネル、“ねこ車”こと手押し一輪車のタイヤをスキー化する「ねこスキー」なるものなどを販売。
「宝栄工業」という企業の営業部門を1982年に独立させた企業とのことで、その製造部門として、今も「宝栄」を名乗る企業が全国各地に4社ほどある。
そのうち、ホームタンクを製造しているのが、「青森宝栄工業株式会社」。青森県六ヶ所村にあり、場所柄、原子力やマリンレジャー(釣りとか?)関連も扱っている。

ということで、上のサンダイヤも、
青森宝栄工業株式会社

僕が秋田でテレビCMを見た翌年頃には、青森へ行ったことになる。青森でもサンダイヤのCMは当然、流れていたようなのに、見た記憶はない。
尾崎さんが出なくなった後は、青森つながりを重視したのか、吉幾三氏や十和田在住のシンガーソングライター桜田マコト氏が出ているそうで、秋田でも放送されるらしいが、見た覚えはない。

2つとも、おもしろくて、ブランド名もきちんと頭に残る、いいCMだった。
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26年越しの古畑任三郎

2020-04-13 00:37:45 | 昔のこと
25年前のテレビについての個人的思い出ですので、読み飛ばしてください。
テレビドラマはほぼ視聴しないけれど、三谷幸喜脚本、田村正和主演のフジテレビの刑事ドラマ(?)「古畑任三郎」はよく見た。その思い出。Wikipediaを参考にしています。敬称略。

古畑任三郎は、1994年4月、1996年1月、1999年4月からそれぞれ3か月間毎週放送され、その後は単発として2008年まで43作が作られた。以下、毎週放送の3シーズンをそれぞれ第1~3期と表記します。
第1期だけは「警部補・古畑任三郎」と、頭に職名が付く番組名。これにより刑事ドラマっぽくなったが、当時高校3年の僕は、ただの刑事ドラマだと思って最初からは見なかった。

偶然、途中から見たのが、第1期の最終回の1つ前、1994年6月22日の第11回「さよなら、DJ」。桃井かおりがゲスト。
刑事ドラマあるいは事件ものの概念を覆す展開とおもしろさに、まさにハマってしまったが、その次の週で終わってしまった。

そして翌春には、進学でフジテレビ系列局がない青森へ行ってしまう。
第2期はその次の年始早々だから、正月に秋田に帰っていた時に番宣が流れ、始まるのを心待ちにした。最初の2回くらいは秋田で見た記憶があり、古畑任三郎のおもしろさを再認識した。でも、以降は青森では見られず、残念だった。

第1期は視聴率が20%に達しなかったが、第2期は毎回20%越え。古畑(田村)のモノマネがされるようになったのも、この頃かもしれない。
ただ、青森の大学生の間では、まったくと言っていいほど話題にはならなかったはず。

青森では、フジテレビ系列のドラマは、他系列局が購入して、土日の午後などに遅れて放送することが多い。
予想はしていたが、古畑任三郎2期も青森放送(日テレ系)が数か月遅れて、土曜午後に放送してくれた。
ただ、1週につき2話ずつ続けて放送するという、特殊な放送形態【15日補足・最近はNHK平日16時台の朝ドラ過去作品の再放送で、同様の放送形態をしている。】。見やすいといえば見やすい。

2期には、スピンオフとして「巡査・今泉慎太郎(職名ありが正式)」という10分のミニドラマが作られ、古畑本編が放送された後の深夜にフジテレビなどで放送された。
しかし、秋田テレビは今泉慎太郎は放送しなかった。テレビガイド誌で存在を知ったものの、見るすべがなくこれも残念だった。
ところが、青森放送さんは、その今泉慎太郎も放送してくれた!
内容としては、科学研究室で、今泉が桑原技官を相手に古畑に対するグチを述べるのがメイン。向島巡査なども出るが、古畑の出番はなし(「今、部屋の外まで来ていたが、帰った」という設定の時はあった【15日追記・第1話では、古畑と電話で会話する設定もあった。】)。
遅れながらも、完璧な形で見られることを喜んだ。


直接関係はないが、この翌年は古畑はなかったものの、1997年4月から三谷脚本、田村主演で「総理と呼ばないで」という政治を舞台にしたドラマが放送された(フジ系、青森で遅れ放送あり)。視聴率や人気は芳しくなかったようだが、これもおもしろかった。
【5月8日追記】不人気な総理大臣が主人公だが、その強情な態度や、周りの忖度ぶり(総理が「のべつまくなし」を「のべつくまなし」と発言してしまったのをとりつくろうなど)、数十年後のどこかの国を予言していたかのよう。


そして秋田に戻ってすぐの第3期は、リアルタイムで楽しんだ。
ちなみに、第3期の実質初回スペシャルである1999年4月6日放送「黒岩博士の恐怖」。もともとは先日亡くなった志村けんを犯人役に起用するつもりで“当て書き”したものの、スケジュールの都合(と先日朝日新聞のコラムで本人が書いていた)で、緒形拳になったとのこと。【2024年9月13日追記・2024年9月13日に、映画の宣伝ついでにフジテレビに出演した三谷氏の発言では、志村けんに台本を見せたところ、セリフが多くて無理だと断れられ、「ケン」つながりで緒形拳になったと発言したとのこと。】

第3期の後、4年ブランクがあって、次の単発が2004年1月。
個人的には、あまりおもしろくなくなってきた。長ったらしいのが好きじゃないこともあるし、初期と設定や脇役の関わり方が違いすぎて違和感もあった。


さて、古畑を知る前に放送済みだった、1期の最初期の作は再放送で見た。
人気番組だけに秋田テレビでは何度も再放送していた。秋田テレビの再放送枠はフジテレビ(関東圏)とは別だが、フジで再放送している時期に、秋田でも再放送していた傾向があるかもしれない。系列外のためか青森放送ではやっていなかったと思う。
それも、2010年以降はやらなくなり、BSフジでちょっと見た程度。20年も「昔の」ドラマだから、時代の流れか。


そんなわけで、古畑任三郎のほとんどの回を見ている。特に1時間枠の1~3期は何度も再放送され、何度も見た。
ただ、1期初回、中森明菜の「死者からの伝言」は、あまり見ていない。なぜなら、再放送が始まってからそれを知ることが多く、たいてい見逃していたから。

さらに、唯一、まったく見ていない回があった。スペシャル枠の陣内孝則・水野真紀の「笑うカンガルー」。オーストラリアが舞台で、数学者が犯人だそう。
再放送されたこと自体なかったかもしれない。だからもう見られないかと思っていた。※ソフトやネット配信を使う手はありますが…

笑うカンガルーは、1期と2期の間の1995年春に放送された、初のスペシャル枠。
DVDでは1期に含んでいるそうだが、タイトルは「警部補」が付かない2期以降と同じ。1995年に唯一放送された作品で前後と間隔が広く、どっちつかずの扱いのようだ。それも再放送されない理由なのかもしれない。

ところが、昨年の末だったか今年の正月だったか、ケーブルテレビの基本料金に含まれるCS局「日本映画専門チャンネル」で、古畑任三郎一挙放送をしているのを知った。4月現在も、一挙でない形で、繰り返し放送が続いている。
あの「巡査・今泉慎太郎(※)」も放送してくれ、さらにあの幻の「笑うカンガルー」も放送してくれた!
※今泉慎太郎は、古畑本編とは分離して、それだけを一挙放送。今泉慎太郎は、本編の内容を知った上で見ないと、理解もおもしろさも激減するのだから、青森放送方式のほうがいいのにと思った。
しかし、今のCSでの再放送では別の都合があった。古畑本編2期では、現在、再放送できない回が2回ある。17回「赤か、青か」と22回「間違われた(間違えられた)男」。
理由は前者はキムタクがゲストであり、それによるジャニーズの問題。
後者は風間杜夫がゲストなのは関係なくて、作中にアニメ「サザエさん(今はなき火曜の再放送)」の映像が写り、その権利の問題。かつそのサザエさんが、展開上重要でカットすると成り立たなくなるため。
「間違われた男」はくだらなくて好きな回で、以前の秋田テレビでは再放送していたと思う。肖像権・著作権は大事なのだろうけど、それが後々尾を引くとはなんとも。
だから、本編に続ける形だと、その2回の今泉だけは、キムタクもサザエさんも出ないのに放送できなくなる。今泉だけを一挙放送することで、その点はクリアできる。しかも、2004年のスペシャルの時も連動して作られたそうで、その1回も含めて全12作を放送してくれる。



25年目にしてついに、笑うカンガルーを見られる。
2月に録画したのだけど、録画機器の設置環境の都合で、まだ見ていないのですが…

改めて笑うカンガルーの放送日を確認したら、1995年4月12日。ちょうど25年前。
その日は、僕の大学の入学式の前日であった。
※当時の弘前大学は入学式(というか前期授業開始)が遅く、夏休みと秋休みが分割【13日補足・夏休み後、9月頭に3週間程度の前期最後の授業・試験があって、短い秋休み】されていた。その翌年くらい【2023年8月8日訂正】1997年度から4月初めに繰り上がって、夏・秋休みが一体化【13日補足・7月中に前期を終了して、9月いっぱい休み】した。今年は新型コロナウイルスでそれどころでない繰り下げでしょうけれど。

4月初旬に引っ越しを済ませていったん秋田へ戻って、12日に改めて弘前へ向かった。秋田では雨だったのが、碇ヶ関でみぞれか雪に変わり、不安な気持ちになったのを覚えている。
その頭の片隅には、古畑を見られなくて残念という思いもあったような気もする。秋田で録画してもらおうとか、青森での遅れ放送をチェックしようというところまでは頭が回らなかった。
一方、話には聞いていたTBS「筑紫哲也ニュース23」を、初めて見ることができて、ちょっと感動したのも、その日だったはず。

録画したはいいけれど、見ないまま26年目に突入してしまった。忘れないように。

【5月15日追記】余談だが、2020年4月に久しぶりに「古畑任三郎」の新作が世に出た。
朝日新聞連載の三谷氏のエッセイ「ありふれた生活」の中で、新型コロナウイルス感染症流行で外出自粛のなぐさみにと、4回にわたる小説版を掲載。
古畑任三郎のテレビ第1シリーズの大部分は小説化もされており、テレビとは違う点もあって、いつか読みたいと思っていたが、こんな形で実現。テレビの往年の古畑を知る者としては、うれしいし、映像がイメージできて楽しい。
【2021年5月19日追記】田村正和さんが2021年4月3日に77歳で亡くなったことが、5月18日に明らかになった。ほぼすべての訃報記事が、代表作に古畑任三郎を挙げている。NHKも「民放のドラマ「古畑任三郎」シリーズなどに出演し、多くのテレビドラマで活躍した俳優の田村正和さんが」と冒頭で言及。
ご本人としては、喜劇はやりたくないと、徹子の部屋で話す映像も流れたが…
2020年にはネット上で、テレビドラマとしても古畑が復活する、その新たな古畑役の俳優は、といった噂が流れた。しかし、三谷氏は古畑は田村さんしかいないとの考えを示していた。

追記しないでいたが、その後、録画していた笑うカンガルーを見た。見てみると、前に1回は見たことがあったと思い出した。次の場面転換が頭に浮かぶほど何度も見てはいないが、「そうそう。こういうシーン、こういう流れだった!」と常に思いつつ、気付いたらエンディングだった。ともかく、楽しめた。
そして、巡査・今泉慎太郎の見られなかった回(2004年のほか、帰省などして青森で見られなかった初回や最終回)は、確実に初めて見た。くだらなくておもしろい。

【2021年12月13日追記】2022年1月にデアゴスティーニから「隔週刊 古畑任三郎DVDコレクション」が発売。1999年のスペシャル「古畑任三郎 vs SMAP」を除く全作品、巡査・今泉慎太郎や予告も収録されるとのこと。
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