終戦から70年が過ぎました。私は昭和24年生まれですので、戦後の記憶しかありませんが、貧しい日本であったことを記憶しています。当時の故郷では、正午にサイレンが鳴り、皆が黙祷しました。いつしか黙祷やサイレンが無くなりましたが、なぜだったのでしょう。
朝刊で知ったことがありました。ポツダム宣言の受諾に反対した若い将校達の反乱は、書物やドキュメンタリーで知っていましたが、それららに対しての天皇の言葉を初めて知りました。
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「国体に就ては敵も認めて居ると思う。毛頭不安なし。敵の保障占領に関しては一抹の不安がないではないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなる。即ち もとも子もなくなる。
今停戦せば 将来発展の根基は残る。
武装解除は堪へ得ないが 国家と国民の幸福の為には、明治大帝が三国干妙に対すると同様の気持ちでやらねばならぬ。
どうか賛成して呉れ。
陸海軍の統制も困難であろう。
自分自らラジオ放送してもよろしい」 ;梅津美治郎参謀総長のメモ
「忠勇なる日本の軍隊を武装解除することは堪えられぬことだ、燃し国家の為には之も実行せねばならぬ。
明治天皇の三国干渉の時の御心境を心としてやるのだ。
どうか賛成して呉れ」 ;陸軍省軍務局長・吉積正雄中将のメモの骨子
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玉音放送口語訳がネットにありました。整理してみます。
見やすくできたらUPします。
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明治天皇の三国干渉の時の御心境とは
日清戦争後の明治18年に下関条約で、日本は遼東半島を割譲されたが、清国は西洋列強の力を使って日本を追い出そうとした。支那伝統の以夷制夷(いいせいい;外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図る)であるが、これがいかに馬鹿げたことであるかを清国は後に思い知らされることになる。
下関条約が締結されてから一週間もたたない4月23日、日本に永久割譲された遼東半島、台湾全島、澎湖諸島のうちで、遼東半島を放棄せよ、とロシア・フランス・ドイツが勧告してきた。清国が三国に泣きついて、条約を反故にしようと企んだ結果である。
ここでロシアの表明した理由は「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするもので、右は極東永久の平和に障害を与えるものである」というものであった。真の理由は「満州を奪いたいロシアにとって、遼東半島が日本に割譲されるのは困る」ことだった。実際にこの後、ロシアは遼東半島を租借する。
日本にとってはまったく理不尽な要求で、国民は総じて拒否の意思を示した。しかし開国してまだ30年も経たない小国としては、ロシア・フランス・ドイツという当時の大国にどうすることもできない。また、総理大臣の伊藤博文は、日清戦争の終わる前から、ロシアが戦艦をはじめとして大型巡洋艦をウラジオストックに配備し、これにドイツ東洋艦隊、フランス東洋艦隊が加わって、三国連合艦隊が結成されているという情報を得ていた。つまり三国干渉をおこなったときは、すでに日本と戦争しても十分勝てる準備が完了していたのだ。
日本は、泣く泣く遼東半島を清国に還付することにした。日本の政治家たちは、どうしようもないことだとあきらめたが、国民は政府の弱腰に憤慨した。この国民の怒りを抑えるために、明治天皇はわざわざ「遼東還付の詔勅」を出して、国民の自制を求めた。
朝刊で知ったことがありました。ポツダム宣言の受諾に反対した若い将校達の反乱は、書物やドキュメンタリーで知っていましたが、それららに対しての天皇の言葉を初めて知りました。
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「国体に就ては敵も認めて居ると思う。毛頭不安なし。敵の保障占領に関しては一抹の不安がないではないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなる。即ち もとも子もなくなる。
今停戦せば 将来発展の根基は残る。
武装解除は堪へ得ないが 国家と国民の幸福の為には、明治大帝が三国干妙に対すると同様の気持ちでやらねばならぬ。
どうか賛成して呉れ。
陸海軍の統制も困難であろう。
自分自らラジオ放送してもよろしい」 ;梅津美治郎参謀総長のメモ
「忠勇なる日本の軍隊を武装解除することは堪えられぬことだ、燃し国家の為には之も実行せねばならぬ。
明治天皇の三国干渉の時の御心境を心としてやるのだ。
どうか賛成して呉れ」 ;陸軍省軍務局長・吉積正雄中将のメモの骨子
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玉音放送口語訳がネットにありました。整理してみます。
見やすくできたらUPします。
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明治天皇の三国干渉の時の御心境とは
日清戦争後の明治18年に下関条約で、日本は遼東半島を割譲されたが、清国は西洋列強の力を使って日本を追い出そうとした。支那伝統の以夷制夷(いいせいい;外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図る)であるが、これがいかに馬鹿げたことであるかを清国は後に思い知らされることになる。
下関条約が締結されてから一週間もたたない4月23日、日本に永久割譲された遼東半島、台湾全島、澎湖諸島のうちで、遼東半島を放棄せよ、とロシア・フランス・ドイツが勧告してきた。清国が三国に泣きついて、条約を反故にしようと企んだ結果である。
ここでロシアの表明した理由は「遼東半島を日本が所有することは清国の都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするもので、右は極東永久の平和に障害を与えるものである」というものであった。真の理由は「満州を奪いたいロシアにとって、遼東半島が日本に割譲されるのは困る」ことだった。実際にこの後、ロシアは遼東半島を租借する。
日本にとってはまったく理不尽な要求で、国民は総じて拒否の意思を示した。しかし開国してまだ30年も経たない小国としては、ロシア・フランス・ドイツという当時の大国にどうすることもできない。また、総理大臣の伊藤博文は、日清戦争の終わる前から、ロシアが戦艦をはじめとして大型巡洋艦をウラジオストックに配備し、これにドイツ東洋艦隊、フランス東洋艦隊が加わって、三国連合艦隊が結成されているという情報を得ていた。つまり三国干渉をおこなったときは、すでに日本と戦争しても十分勝てる準備が完了していたのだ。
日本は、泣く泣く遼東半島を清国に還付することにした。日本の政治家たちは、どうしようもないことだとあきらめたが、国民は政府の弱腰に憤慨した。この国民の怒りを抑えるために、明治天皇はわざわざ「遼東還付の詔勅」を出して、国民の自制を求めた。