***** 神社と災害 No.76 *****
一般的に、「タタラ製鉄」などに
従事していた古代の産鉄民は、
多様な鉱物が産出する「深い森の山中」で、
暮らしていたというイメージを持たれがちです。
ただし、実際に彼らが住んでいたのは、
山の中ではなく海辺や湿地帯が多かったとのこと。
つまり、紀伊国の名草や阿波国の名方など
大河川の河口近くでは、海の民や農耕民などとともに、
「産鉄民」も生活していたと考えられるのでしょう。
まあ、当時の人々の出自等を明確に分類するのは
至難の業ですが、名草という場所や地名が
「スズ鉄」との深い関わりを示すならば、
名草戸畔という人物が単なる半農半漁の海人族ではなく、
製鉄にも通じた「山の民」だった可能性もあるのだと……。
もともと海人族は、鉱物探索の嗅覚に優れた民でもありますし、
名草の近隣には「水銀」の一大産地が控えております。
恐らく、名草戸畔の遺体が、海辺の近くではなく、
内陸の小野田地区や高倉山近辺に祀られた理由も、
「山の神」との縁ゆえなのかもしれません。