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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

様々な解釈

2020-05-29 09:58:59 | 古代の出雲

<奉納山公園>

 

『出雲国風土記』の冒頭を飾る「国引き神話」は、

一説に縄文時代の地形変遷(縄文海進)、

そして火山噴火による陸地の増大を表した

話ではないかと言われております。

ただし、『出雲国風土記』が完成したのは

奈良時代ですから、国引き神話が

「縄文時代の地形変化を示した」との説には、

少々無理が生じるものです。

 

そこで、もうひとつの見解として、

「出雲にやってきた渡来部族」のルートを

示したのではないかという仮説が、

取り沙汰されているのでした。

 

例えば、最初に引き寄せた

「栲衾志羅紀」は朝鮮半島東部の新羅。

2番目に引き寄せた

「北門の佐伎(さき)の国」は

島根県隠岐郡の海士町崎周辺。

3番目に引き寄せた

「北門の良浪(よなみ)の国」は

ウラジオストック。

最後に引き寄せた

「高志(北陸)の都都の三崎」は

能登半島の珠洲……等々。

 

いずれの解釈にも諸説あることから、

何とも言えない部分はあるのですが、

奈良時代の出雲の人々が、

ごく近年の出雲の様子だけでなく、

先祖代々の言い伝えを風土記に

反映したと考えれば、

縄文時代から弥生時代にかけての

出雲の遍歴が、内容に影響を及ぼした

可能性も否定できないのでしょう。


国引き神話

2020-05-28 09:52:13 | 古代の出雲

<長浜神社 ながはまじんじゃ>

 

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神代の昔、出雲の国を眺めていた八束水臣津野命は、
「出雲の国は細長い布切れのように狭苦しいから、
作り足して大きくしよう」と思い立ちました。
そこで、「どこかに継ぎ足して縫い合わせられる
ような土地はないか」と周囲を見渡したところ、
朝鮮半島の新羅の岬のあたりに、
余った土地があるのを見つけました。

早速、八束水臣津野命が、その土地を
「国来い、国来い」と引き寄せ、
元の国に縫い合わせてみると、
島根半島の西端の木築の岬が
出来上がったのだとか……。
同じようにして
・狭田の国(さたのくに)
・闇見の国(くらみのくに)
・美保の岬(みほのみさき)も造られたそうです。

また、そのとき立てた杭は佐比売山(三瓶山)に、
引いたときの綱は薗の長浜になりました。

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『出雲国風土記』を代表する物語のひとつが、

いわゆる「国引き神話」です。

『出雲国風土記』にのみ記載され、

古事記や日本書紀には登場しないこの話は、

『出雲国風土記』の存在価値を

際立たせるストーリーとして、

子供向けの本などにも取り上げられておるゆえ、

ご存知の方も多いことでしょう。

 

「この国は、細長い布のように小さい国だ。

どこかの国を縫いつけて大きくしよう……」

という出だしで始まるこの物語は、

スサノオの子孫とされる八束水臣津野命

(やつかみずおみつぬ)による、

出雲国の成り立ちを描いたもので、

近隣から引き寄せた2つの岬と

2つの国をつなぎ合わせて、

現在の形に完成させるまでの過程が、

何とも壮大なスケールで描かれておりました。


縄文の過疎地帯

2020-05-27 09:07:12 | 古代の出雲

<松江市新庄町>

 

ご存知のように『出雲国風土記』は、

全国で唯一「ほぼ完全形」のまま残る古文献でして、

出雲が神話の地といわれる所以も、

古事記・日本書紀内での大々的な記載プラス、

これら『出雲国風土記』の存在に

依るところが大きいと思われます。

 

近年の発掘調査などにより、

『出雲国風土記』の記述を裏付けするような

遺跡・遺物の発見が相次ぎ、

古代出雲には「王国」が存在して

いたことが証明されつつありますが、

「縄文」に関する記事でも書いたように、

実は縄文時代の中国地方は

それほど目立った場所ではありませんでした。

 

もちろん出雲近辺でも、縄文集落の跡や

土器・土偶などは見つかっているものの、

縄文王国である信州や青森はもちろん、

東日本の各遺跡と比べてもその規模は小さく、

当時の人口も決して多くはないと聞きます。

そんな縄文の「過疎地帯」とも呼べる出雲が、

なぜ「王国」へと変貌を遂げたのか……、

まずは『出雲国風土記』の冒頭を飾る

有名な物語に注目してみましょう。


出雲を俯瞰する

2020-05-26 09:01:53 | 古代の出雲

<奉納山公園>

 

「出雲神話」には、私たち日本人の心を

引き付けてやまない「磁力」があるようで、

古今東西、専門家や民間人を問わず多くの人々が、

この出雲という最難関の「古代史ミステリー」

に挑み続けております。

しかしながら、出雲神話を深く読み込むほど、

そして出雲神話についての考察を始めるほど、

ますます「ドツボ」にはまってしまうのが常でして、

一昨年「現場」である出雲の地に出向き、

時間の許す限り出雲神話に関する場所を

訪ねてみたものの、未だにその世界観の

輪郭すら描けていない状況なのです。

 

恐らく、出雲とは古代史の「隠れ蓑」であり、

知られてはいけない「大事な何か」を隠すために、

それらしい伝承を後付けした

部分もあるのかもしれません。

ゆえに、「出雲」という枠に捕らわれすぎたり、

ひとつひとつの伝承にこだわりすぎたりすると、

逆に真実から離れてしまうのでしょう。

ということで、まずは「出雲国を俯瞰する」

というテーマの元に、古代の地誌である

『出雲国風土記』を参考書代わりにして、

当時の「出雲の立ち位置」を

探って行きたいと思います。


霧の中の出雲

2020-05-25 09:47:55 | 古代の出雲

<佐田町須佐>

 

***** 古代の出雲1 *****

というわけで、ここからは再び出雲へと舞い戻り、

これまでご紹介できなかった

『出雲国風土記』絡みのネタなどを取り上げつつ

(そして久しぶりに写真などもUPしつつ)、

古代の出雲の世界へと深く潜って

みることにいたしましょう。

 

とは言え、「出雲の神社」への

来訪からすでに丸二年経った今、

他のエリアや東日本の縄文時代を探る中で、

「出雲」に対する見解にも若干変化が

現れてきたのも事実でございます。

ゆえに、由緒や概略を記載するのみの場所、

あるいは有名どころでもあえて深入りしない場所……

などが出てくるかもしれませんが、

なにとぞご了承いただければと……。

 

しかしながら、改めて出雲という

土地に思いを馳せてみても、

あれほど多くの神社を巡ってきたにも関わらず、

まったくといってよいほど「核心」に

近づいていないと感じるものです。

本当に「出雲」はあったのだろうか……、

いったい「出雲神話」とは何なのだろうか……と、

未だに霧の中を手探りで進んで

いるような感覚を覚えます。

 

周辺国の風土記などに登場する「出雲」の姿も、

「出雲国」そのものを指し示しているのか、

それとも「出雲」という暗喩を

作為的に挿入しているだけなのか、

「正解」の兆しすらつかめていないのでした。