たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

聖地の掟

2017-11-11 09:38:22 | 自然災害・参拝マナー

<東祖谷名頃・かかしの里>

 

過去の記事内でも書いておりますが、

旅の計画を立てているときから、

その土地の神様への参拝は始まっており、

実際にその場を訪れ神前でお参りするのは、

「旅の総仕上げ」にすぎません。

人それぞれ、旅の仕方は違うものの、

出かける前から、訪れる予定の土地や

その土地の神様へと礼儀を尽くす姿勢は、

必ず「旅に活かされる」ということを、

これまでの経験からも実感しております。

 

特に、「聖地」を呼ばれるような場所は、

基本的に部外者が立ち入るところではなく、

物見遊山の気楽な気持ちで訪れると、

不敬な行為を犯す結果にもなりかねず……。

剣山という私にとっての未開の地にも、

恐らく安易に立ち入ってはいけない

エリアが潜んでいることでしょう。

情報ツールやインターネットの拡大により、

誰もが気軽に聖地に赴けるようになりましたが、

「聖地の掟」自体が変わったわけではないのですね。


邪道な行為

2017-08-15 10:13:22 | 自然災害・参拝マナー

<国立民族学博物館>

 

地域の人たちの生活の一部である小さな氏神、

地元の人たちが大切に守っている無名の聖域は、

本来物見遊山の観光客や遠方から訪れた部外者が、

安易に立ち入るような場所ではないと考えています。

もし、様々な理由でそれらの場所に入るのであれば、

決して神域を荒らしたりすることのないよう、

周囲に気を配りながら参拝するのが礼儀でしょう。

 

あくまでも個人的な意見ではありますが、

神域、特に自然信仰に近い神社や聖域などで、

「その立場にない一般人が」祝詞を挙げたり、

音楽や踊りを奉納したりするような行為は、

あまり気持ちのよいものではありません。

 

個人で行うだけならまだしも、大勢の仲間と

グループでご神事や諸々の儀式に興じれば、

それこそ「神の道」から外れてしまいます。

神様の前で独自の祝詞や音楽を奉納し、

「気持ちがよい」「神様が喜んでいる」

などと自己満足の世界に浸っているのは、

恐らく当人たちだけなのですね。


謙虚さ

2017-08-07 10:06:56 | 自然災害・参拝マナー

<滝の拝・矢倉神社 たきのはいやぐらじんじゃ>

 

「土地の人々が大切にお祀りしている場所」

を訪れる際には、常識的なマナーを守り、

地元の方々の迷惑にならないよう

静かにお参りすることが大切だと感じます。

個人の敷地内を通る場合もありますので、

出来れば立ち入りの許可を取り、

難しければ最低限の配慮をしながら、

謙虚な気持ちで訪れていただければ幸いです。

 

私自身がそうだったように、

「行ってみたい」と感じる神社には、

ぜひとも足を運んだほうがよいと思います。

土地の神様への挨拶を済ませられると同時に、

「地域の風習」等にも触れられるからです。

ただし、人口の少ない場所だからこそ、

交通の便は悪く、道路状況もよいとは言えず、

また治安に関しても十分注意が必要でしょう。

 

熊野地方での話ではありませんが、

他の山間地域にある神社や聖地では、

案内人を装って声をかける不審者や、

宗教がらみの勧誘者も多いと聞きます。

ときには、音の出るものを用意したり、

参拝時間を調節したりして、

しっかりと身の安全を図ることも、

大切なマナーのひとつかもしれません。


犠牲者の上で

2016-11-26 10:06:33 | 自然災害・参拝マナー

<女川町>

 

東日本大震災の発生により犠牲になられた方、

あるいは行方不明のままの方の数を合わせると、

2万数千人にも及ぶといわれております。

これまでの三陸の神社に関する記事の中でも、

「〇〇市では〇〇〇〇人の犠牲者」といった数字を、

文章の中に書き留めておきましたが、

本当は犠牲者ひとりひとりの人生があり、

〇〇〇〇人と一括りにしてあらわすのは、

とても失礼なことなのかもしれません。

 

誰もが知る有名人が「たった一人」でも亡くなると、

大勢の人々が「たった一人」のその人への思いを語り、

全国の人々が「たった一人」のその人を悼みます。

一方、自然災害や大規模な事故などで

一度に大勢の人が亡くなったとしても、

面識のない犠牲者ひとりひとりに対し、

哀悼の思いを寄せることは困難でしょう。

 

三陸地方の神社を巡っている最中は、

「この大地の上で大勢の人が亡くなった」という事実を、

常に持ち続けるよう心がけておりました。

私たちは、過去の人々の死の上で、

「生かされ」日々の生活を送っているのですね。

噂によりますと、今も被災地のあちこちで、

津波の犠牲者であろう人たちの霊が目撃されているようです。

「忘れない」という気持ちこそが、これらの方々の慰めとなり、

未来に起こるであろう災害を抑える楔となるのかもしれません。


尺度の長さ

2016-11-25 10:04:08 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町>

 

三陸地方の神社を巡っていて感じたのは、

被災地の人々の中にある「尺度の長さ」でした。

現地の方と話しておりましても、

会話の端々に「これからの人のために」という思いが、

当たり前のように込められていることに気づきます。

 

もちろん、東日本大震災が起きた当初は、

自分の生活の立て直しが優先で、

視野を広げるゆとりなどなかったでしょう。

ただ、震災から5年の月日が流れ、

当時の状況を冷静に振り返ってみると、見えてきたのは

「無視し続けてきた先祖の思い」 だったのかもしれません。

 

これまで幾度となく、災害に見舞われてきた場所でさえ、

時間が経つに従い、負の記憶は過去へと追いやられ、

人間の驕りを戒めるかのように、自然の猛威が牙をむきます。

「忘れない」ということは、「忘れる」ことより難しいのですね。

 

目先の生活に追われ、自分のことで精いっぱいの現代人は、

とかく他人の状況を気づかう余裕や、

未来に生きる人たちに対する配慮を忘れがちです。

被災地の方々の脳裏に浮かぶこれからの光景が、

今の日本を救うためには必要なのかもしれません。


本当の被災地の声

2016-11-24 10:00:39 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町>

 

三陸の方々のお話を聞いておりますと、

淡々とした語り口の中に潜む、

「真剣さ」のようなものを強く感じます。

こちらからあえて、震災当時の話題を出さなくても、

話は自然と防災や変わりゆく故郷への思いなど、

人間が生きる原点に関する会話へとつながり、

最後には被災していない私たちのほうが、

気づかわれてしまうことも多々ありました。

 

4月に熊本で大地震が発生したとき、

「まさか自分の身に起きるとは思わなかった」

「東北の災害は他人事だと思っていた」などと、

熊本の被災者が口々に話していましたが、

その様子を見た東日本大震災の被災地の人々は、

とても歯がゆい気持ちを抱いたはずです。

たくさんの犠牲を伴いながら出した警告が、

無意味だったのだろうか…と愕然としたことでしょう。

 

南三陸町で震災時の様子を伝え続けてきた方は、

これまでは津波の状況を説明するのが精いっぱいだったが、

今はなるべく「役に立つこと」「学ぶべきこと」を、

話に盛り込むよう心がけているとおっしゃっていました。

「自分たちの犠牲を無駄にしないで欲しい」という思いは、

幾多の死と向き合ってきた人たちの嘘偽りのない願いです。

 

東日本大震災の記憶が日本人の中から薄れている今、

もう一度東北の人たちの声に、

真摯に耳を傾けるべきなのかもしれません。


新たな災害に向けて

2016-11-23 10:00:05 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町>

 

「あの日」から5年半以上が過ぎ、当時と比べると、

東日本大震災関連の報道は格段に減り、遠地の人間が、

被災地の現状を目にする機会は少なくなりました。

いくら口では「忘れない」などと言っておりましても、

日々の生活や次から次へと押し寄せる災害に追われ、

東北や被災者の方々への意識が薄れているのも事実です。

 

今回、三陸沿岸の神社を巡りながら感じたのは、

まさしく「忘れない」ということの難しさでした。

時間の経過とともに遠のいていく記憶を、

「どうすれば今につなぎとめられるのか…」。

様々な試みと自問自答を繰り返しながら、

地元の方々の試行錯誤は続いています。

 

そして私自身も、これだけの大災害がありながら、

すでに当時の状況やそのとき抱いた感情を、

鮮明に思い出せなくなっているのも確かです。

「忘れそうな自分」にカツを入れ、

「新たな災害に向けて」心を入れ替える意味でも、

今回の旅は非常に意義深かったような気がします。


過去との境目

2016-11-22 10:51:52 | 自然災害・参拝マナー

<石巻市>

 

今回、東日本大震災の被災地を訪れてみて感じたのは、

「もっと早く行けばよかった…」という後悔の念です。

これまで何度も震災の記事を書いておきながら、

「自分の目で見る」という判断をせずに、

6年近くの時間を費やしてしまいました。

今となれば、もう少し早く自分の目で見る努力をしていたら、

記事の内容も違ったものになったのではないかと思います。

 

「被災地に行く方法がわからない」

「観光気分では申し訳ない」などと、

現地への訪問をためらっている方もいらっしゃるはずです。

ただ、すでに多くの場所では、震災遺構が解体されたり、

更地に草が生い茂ったり、盛り土がされたりして、

すでに震災後の姿すらとどめていません。

 

このまま「復興」という名の陰に、

被災地の現状が隠れてしまえば、

とりわけ遠地に住む人々にとっては、

東日本大震災は確実に「過去のもの」になります。

災害から5年~という今の時期は、

「忘れるか忘れないか」の境目でもあるのですね。


被災地との縁

2016-11-21 10:49:50 | 自然災害・参拝マナー

<陸前高田市>

 

東日本大震災から今までの間、「その瞬間」の映像が、

TVやネットなど様々なメディアで流されてきました。

 

生き物のようにうねる津波の渦や、

成すすべもなく押し流されていく建物、

無言で立ち尽くしている人々の様子など、

カメラの前で起こったその非現実的な光景を、

今も多くの人が記憶の片隅に留めているはずです。

 

ただ、現地以外の人間にとっては、

どれもなじみの薄い場所の景色ばかりで、

その状況を具体的にイメージすることが

難しいのもまた事実かもしれません。

 

災害を防ぐため、災害を忘れないためには、

「現地との縁を結ぶ」のはひとつの策です。

一度でもその地を訪れ、自分の目で確かめることで、

これまで漫然と聞き流していた出来事が、

とたんに現実味を帯びてくるでしょう。


大槌町

2016-11-14 10:26:57 | 自然災害・参拝マナー

<大槌町>

 

大船渡市から釜石市を通過し、

いくつかの長いトンネルを抜けると、

9月末に天皇皇后両陛下が視察で訪れた、

大槌町という海辺の町が見えてきます。

東日本大震災当日、この町の役場庁舎では、

町長をはじめとする40名の職員が亡くなり、

行政機能が完全に麻痺してしまいました。

 

リアス式海岸が続く三陸の町は、

切り立った山と山との間の湾が開け、

狭い平地の中でひしめくように

市街地や集落が広がっています。

今回訪れた大槌町の吉里吉里地区は、

大槌町の中心部からさらに、

山を一つ越えた場所にありました。


奇跡の一本松

2016-11-07 21:14:01 | 自然災害・参拝マナー

<陸前高田市>

 

陸前高田の市街地にある「奇跡の一本松」は、

震災からの復興のシンボルとして、

全国的にその名を知られている存在です。

今回私が巡った三陸の旅の道中でも、

唯一「観光地」として整備されていたのが、

この一本松の周辺でした。

近くには無料の駐車場や休憩所などが用意され、

訪れた日も県内だけでなく、

県外ナンバーの車がたくさん停まっていました。

 

巨大津波の襲来にも耐えきった

高田松原のこの大きな松の木ですが、

その保存を巡っては賛否両論あったと聞きます。

ただ、こうして一本の松の木を見るために、

全国から人々が集まってくる様子を見ますと、

やはり今後の地域のためにも、

可能な限り「目に見える遺産」を、

後世に残すことも必要ではないかと、

他の地域から来た人間は無責任に考えてしまうもの。

 

ちなみに、お隣の気仙沼市では、

陸に打ち上げられた大型船の解体後、

船を見るために訪れていた観光客の数が減り、

復興商店街の売り上げが激減したそうです。

これらの地域に限ったことではなく、

震災遺構の保存か解体かの是非は、

多くの被災地が抱える問題だと思います。

ただ、どんな選択をするにせよ、

それが「未来の犠牲者を減らすための策」

であることを願わずにはいられません。


ルールの変更

2016-10-25 10:26:59 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸・戸倉小学校跡>

 

南三陸町にある戸倉小学校の児童たちは、

東日本大震災当日、近くにある神社の山に避難し、

その日学校にいた全員が命を取り留めました。

ただし直前まで、小学校のマニュアルでは、

「津波警報が出たら屋上に避難」

というルールが決められていたのだそうです。

 

実は、数日前から続く強い群発地震に、

危機感を抱いた戸倉小学校の教職員は、

地震発生の前日まで、最善の避難ルートを

繰り返し議論していたと聞きます。

 

校長先生自身、津波到達までの時間を考慮して、

屋上への避難を優先的に考えていたそうですが、

過去の巨大津波の言い伝えを叩き込まれてきた

地元出身のひとりの先生が

「山に逃げるべき」と主張したことにより、

屋上ではなく神社の高台への避難も、

選択肢のひとつとして考慮したのだとか。

 

そして巨大津波が襲来したそのとき、

想像をはるかに超える現実に直面した校長先生は、

とっさに「高台(山)への避難」を命じたのだそうです。


相反する感情

2016-10-22 10:18:21 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町・戸倉地区>

 

東日本大震災により発生した津波の威力は、

現代人の誰もが想像できないくらい、

すさまじい力を秘めていたようです。

翌日波が引いた後の南三陸町の写真を見ると、

そこに町があったとは思えないほど、

ありとあらゆる建物が破壊し尽くされていました。

 

すでに、壊れた建物のほとんどは取り壊され、

今では数棟の建造物を残すのみとなっていますが、

震災のモニュメント的存在にもなっている

町の防災庁舎に関しては、「保存か取り壊しか」で、

住民の意見が大きく割れているそうです。

 

これは南三陸町に限ったことではなく、

多くの被災地が抱えている問題だと聞きます。

「忘れないで欲しい」「忘れてしまいたい」

という相反するふたつの感情が、

最善の形で折り合うためには、

もう少し時間がかかるのかもしれません。


生と死の交差

2016-10-21 10:15:58 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸町・志津川地区>

 

南三陸町の防災庁舎から、

ほど近い場所にある高野会館では、

震災当日、地元の老人クラブが主催する、

歌や踊りの発表会が開かれていたそうです。

大きな揺れが収まった後、

津波の襲来を予感した職員の方々が、

必死でお年寄りたちを説得して、

会館内にとどまらせたと聞きます。

 

一方、多くのお年寄りが命を救われた建物の

すぐ隣にある町立志津川病院では、

多数の患者さんやスタッフが亡くなりました。

ベッドごと波にさらわれる入院中の知人が、

助けを求めるように手を振っていた姿を、

目撃してしまった人もいたようです。

 

つい先ほどまで、当たり前のように言葉を交わし、

生の温もりをしっかりと感じていた相手が、

大きな波に飲まれ海に流されていく姿を、

どんな思いで見つめていたのでしょうか。

生き残った人たちの心を占めていたのは、

助かった安堵感よりも「助けられなかった後悔」

のほうが大きかったと聞きます。


最後の声

2016-10-20 10:10:55 | 自然災害・参拝マナー

<南三陸・防災庁舎 ぼうさいちょうしゃ>

 

今回の旅の中でも、とりわけ南三陸町では、

震災当時の話をたくさん伺うことができました。

ニュースでもたびたび報道されましたが、

津波に襲われる直前まで、防災無線を通じて

住民に避難を呼びかけていた女性は、

南三陸町に住んでおられた方です。

 

現地で聞いたところによりますと、

実際に最後の避難誘導をしたのは、

女性の上司にあたる男性で、

部下や同僚を屋上へと避難させたあとも、

ひとり放送室に残って、

津波襲来まで呼びかけを続けたのだそうです。

 

そしてその鬼気迫る声を、

高台の避難所で聞いていた人たちの中には、

男性のご家族もいらっしゃったと聞きます。

また、その他にも防災庁舎内には、

数十名の役場職員が業務を続けており、

残念ながら男性を含め、

未だに行方不明の方もおられます。