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「治ってよかった発達障害」って、いいタイトルですね、って言われました。
おおそういえば、と思いました。
私がつけたタイトルではありません。5月13日に沖縄で行う講演の主催者さんがつけたタイトルです。
第一部は藤家さんと私。
第二部は栗本さんのその名もずばり『感覚過敏は治りますか?』の講座を実技多めでやります。
ところで
藤家さんの電子書籍二部作がまだ限定価格のママです。
これには浅いわけがあるのです。
実はハイテクに見えて、価格って版元が手作業で直すのですが
4月8日から9日にかけて、私がセキュリティのかかったコンピュータから遠い場所にいたからです。そして帰ってきてゲラ作業をして手つかずでいるうちに、どんどんお得な価格で買っていかれる人がいました。
こうなったらもう、15日まで延長してしまおうかなと思います。
なぜなら、もう一つ言い忘れたことがあったからです。
よく発達障害の当事者の人は
「どういう状態が治るのか?」とかきいてきたり
「自分はもう治っているのだろうか?」とこちらに治ったと名乗る許可を認めるみたいな人がいますが、私は別に治ったの胴元をやってライセンスを発行しているわけではありません。
今度の本でも指摘していますが、本当にみんな人の言うことききすぎですよね。不思議で仕方ありません。これは学校教育の弊害だと思います。そして無礼を承知で言わせてもらえれば、学校を出た後ほうれんそうをたたき込まれるような「アシスタント的な仕事」のみに従事していると、そもそも自分のアタマで考える習慣をなくしていくと思います。いや、そういう職業を揶揄しているのではありません。言いたいのは職場では立場上誰かの指揮系統の下に入っても、自分の人生は自分が舵取りをするもの。そこで何を持って治るというのか、自分はどう治りたいのかは自分で決めるものだということです。
ある人はたとえ薬の力を借りていてもクローズドで就職し、職場では天然だね~と面白がられながらもきちんと買われていたら自分は治ったと思いたい、と言いました。そりゃそうですね。どう治りたいか、そして自分が治ったかどうかは虫取り少年の面影を残している専門家たちが決めることではない。本人たちが目標として決めることなのです。
藤家さんは自分なりの「治った」を明確に定義していますね。私はあれ、なるほど、と思いました。藤家基準でいうとツイッターでうごめいている「社会の理解ガー」のママさんたちは、障害者じゃないのに障害が治っていない人と言うことになります。不思議ですね。
というわけで
藤家寛子の闘病記
藤家寛子の就活記
15日まで限定価格を続けます。
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沖縄の講演も、楽しいものになると思います。アクセス可能な方、この際沖縄行こうかな、という方はどうぞお申し込みくださいね。暑すぎず、いい季節です。