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教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

豪州くんだりまで出かけて敗北宣言した恥しらずの安倍首相

2014年07月08日 23時42分45秒 | 国際・政治

天木 直人 | 外交評論家

<time checkedbycsshelper="true"></time>2014年7月8日 7時44分 <iframe class="hatena-bookmark-button-frame" title="このエントリーをはてなブックマークに追加" src="javascript:false" frameborder="0" width="70" scrolling="no" height="20" allowtransparency="true" checkedbycsshelper="true" style="WIDTH: 70px; HEIGHT: 20px"> </iframe>

これには驚き、笑ってしまった。

安倍首相が、集団的自衛権行使容認に不可欠な自衛隊関連法改正を、秋の臨時国会に提出することなく、来年の通常国会まで先送りする

と宣言したことだ。

閣議決定だけでは集団的自衛権行使はできない。

法改正が必要だ。

だから特命大臣を新設してまで法改正を急ぐと、あれだけ繰り返し公言していた安倍首相だ。

それをあっさり変更したのだ。

しかも、このような重大な政策変更を、オセアニアくんだりまで出かけてそこで発表する。

これは安倍首相という政治家の腰砕けぶりを見事にあらわしている。

何度でも書くが、安倍首相では、集団的自衛権行使容認の法改正は出来ない。

法改正で憲法9条を否定するなどという法の下剋上は、「法の支配」を強調する安倍首相の自己矛盾だ。

しかも世論は集団的自衛権行使容認に反対であることが明らかになった。

安倍内閣支持率も下がった。

憲法学者は解釈改憲にこぞって反対し、法改正による憲法9条の否定を許さない。

だから、どんなに一強多弱の国会でも、解釈改憲を可能にするような法改正は不可能なのだ。

それを強行すれば、岸内閣の安保闘争以上の騒ぎになる。

あの時は、安保条約の改正とともに岸内閣は退陣したが、安倍首相は退陣してまで解釈改憲を行う覚悟はない。

一日もながく首相の座にしがみつきたいからだ。

そこで安倍首相は、なにを目論んだか。

米国の威を借りて、解釈改憲も、集団的自衛権行使の容認も、行ってしまえということだ。

そもそも、集団的自衛権行使容認を急いだのは、年末までに行う日米防衛協力の新ガイドライン作成に間に合わせるためだった。

それを安倍首相や高村副総理は何度も国民の前で説明してきた。

ところが閣議決定をしたまではよかったが、秋の臨時国会で法案を通す自信はない。

だからそれを先送りし、日米ガイドラインを先につくり、普天間の辺野古移転を強行する。

要するに日米同盟という米国の威を借りて、何でもやってしまえということだ。

これまでの自民党政権と何も変わらない。

いや、戦後レジームから日本を取り戻すと勇ましく叫んでいた安倍首相が、結局はもっとも対米従属だったということだ。

安倍首相もまた米国に頼るしかないのだ。

それを国民に見せつけたのだ。

このままでは安倍首相は戦後の自民党首相の中で、もっとも恥さらしの対米従属の首相で終わることになる。

それでいいのか、安倍首相は。

それでいいのか、自民党は。

それでいいのか、日本は。日本国民は(了)

<footer checkedbycsshelper="true"></footer>
天木 直人

外交評論家

2003年、当時の小泉首相に「米国のイラク攻撃を支持してはいけない」と進言して外務省を解雇された反骨の元外交官。以来インターネットを中心に評論活動をはじめ、反権力、平和外交、脱官僚支配、判官びいきの立場に立って、メディアが書かない真実を発信しています。主な著書に「さらば外務省!」(講談社)、「さらば日米同盟!」(講談社)、「アメリカの不正義」(展望社)、「マンデラの南アフリカ」(展望社)。

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小沢一郎代表が、「非自民」を旗印に統一地方選挙、総選挙を戦う「オリーブの木」作戦が動き始めた

2014年07月08日 22時17分16秒 | 国際・政治

2014年07月08日 06時15分56秒 | 政治

◆「1強多弱」、野党がバラバラな状況のなかで、ようやく2つの塊が出来上がりつつある。それは、自民党に近い「保守グループ」、その対極にある「リベラル・グループ」だ。政策的には、集団的自衛権行使容認「賛成派」と「反対派」は、まるで「水と油」のように最後のところで決して交われないことが、だんだんと鮮明になってきている。
 野党第1党の民主党は、野党に転落させたいわゆる「戦犯6人組」(岡田克也元副総理、玄葉光一郎元外相、野田佳彦前首相、前原誠司元代表、枝野幸男元経済産業相、安住淳元財務相)らが「保守グループ」、対する海江田万里代表、大畠章宏幹事長(旧民主党系)、輿石東副議長(旧社民党系)の2大グループが「水と油」の間柄だ。
 海江田万里代表は、両グループを何とかまとめようと頑張ってきた。だが、いくらリーダーシップを発揮しようとしても、「水と油」が交わるのは、もはやムリだと悟り、覚悟を決めたという。覚悟とは、どんな覚悟か?
 それは「党の分裂を恐れない」というものだ。海江田万里代表は、「保守グループ」を追放する覚悟を決めている。だが、そのために「リベラル勢力を結集して主流派となし、党の金庫のカネを押さえて、人事権を握る」作戦に乗り出している。何と言っても、「代表ポスト」は、死守しなくてはならない。
 海江田万里代表は、この作戦を成功させる秘策として「細野豪志前幹事長」を幹事長に復帰させる。大畠章宏幹事長は、内心忸怩たるものがありながら、この作戦に一応同意しているという。民主党が分裂して、数は減っても、「団結力」を強化すれば、次の展開がやりやすくなる。
◆その大畠章宏幹事長は7月4日、生活の党の鈴木克昌、社民党の又市征治両幹事長と国会内で相次いで会談した。目的は、2015年春の統一地方選と次期総選挙に向けて選挙協力することだ。いまの「多弱」のままだと、野党候補は、乱立状態のなかで、間違いなく共倒れしてしまう。これを防ぐため、地方議会選挙で、定数3以下の選挙区を対象に協議に入ることにした。
 次に、民主、生活両党の幹事長・国対委員長が7月4日、国会内で会談した結果、民主党の海江田万里代表と生活の小沢一郎代表が、党首会談することで一致した。統一地方選挙に向けて野党協力協議を行うのに、小沢一郎代表を除け者にするのはおかしい。
 しかし、民主党内には、集団離党した小沢一郎代表に対する「アレルギー」が依然として残っている。とくに「保守グループ」に根強い。
 海江田万里代表は、小沢一郎代表との党首会談を通じて、「保守グループ」を党外に追い出すつもりなのだ。
◆小沢一郎代表は、統一地方選挙、総選挙に向けて、「非自民」を旗印に掲げ、「オリーブの木」に加わる勢力を結集しようとしている。しかし、「リベラル・グループ」色がはっきりしているこのオリーブの木に「自民党色」の強い「保守グループ」が結集してくるはずはない。こうして、だんだんと2大勢力が形成されていくことになる。
 小沢一郎代表は、民主党を結党させた世界のロイヤル・ファミリーから「世界のリーダー」として大きな期待を寄せられており、「オリーブの木」を「民主党」として1つにまとめて、政権取りに再挑戦し、「小沢一郎政権」を樹立する覚悟を決めている。その「オリーブの木」作戦が動き始めたのだ。

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」

英国は、「米朝国交正常化・国交樹立」により、米国が北朝鮮に入ってくるのを嫌がり、邪魔し続けている


◆〔特別情報①〕
 韓国駐留米軍が、撤退したがっているという。米韓同盟上、駐留米軍は、韓国軍と一緒に戦う義務があるのだが、米国内で「厭戦気分」が充満しているうえに、駐留米軍のなかでも、「朝鮮半島で戦死したくない」という将兵が増えていて、「一日も早く逃げて帰国したい」というムードが充満している。実は、米国がいま最も入りたがっているのは、北朝鮮だ。だが、米国の北朝鮮入りを最も邪魔している国があり、このために米朝国交正常化・国交樹立の日がなかなかやって来ないのだという。一体、どこの国なのか。

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目次

第3章 警察庁会計課長
あんたはね、腹が黒いのか、頭が悪いのかどっちや


 後藤田は、自分の親分である石田栄三が警察庁長官に就任したのに伴って、長官官房に引き入れられた。昭和三十年七月一日付で、会計課長に栄進したのである。
 警察庁長官は、警視庁をはじめ全国の警察の頂点に立つ。後藤田は、自分のよき理解者であり保護者のような石田の側で仕える身になった。それだけに怖いものは何もない。持てる能力を全面展開することができる。たとえ宮仕えの身とはいえ、これほど幸せなことはない。内務省地方局から、警察畑に転身して、本当によかったと思ったに違いない。
引用元http://blog.goo.ne.jp/itagaki-eiken/e
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集団的自衛権は、徴兵制に繋がるか?資料

2014年07月08日 21時43分00秒 | 国際・政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

大日本帝国憲法第73条は、大日本帝国憲法第7章にある。大日本帝国憲法の改正手続につき規定したもの。

条文 

  1. 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
  2. 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス

現代風の表記 

  1. 将来、この憲法の条項を改正する必要があるときは、勅命をもって、議案を帝国議会の議に付さなければならない。
  2. この場合において、両議院は、各々その総員の三分の二以上が出席しなければ、議事を開くことができない。出席議員の三分の二以上の多数を得られなければ、改正の議決をすることができない。

制定主体に関する議論 

日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法を「改正する」形式で行われたため、この条文によって行われた。

日本国憲法は、上諭で「朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」として欽定憲法の体裁をとるのに対して、前文では「日本國民は、…ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」として民定憲法の体裁をとる。ここに一見齟齬があるため、憲法の制定主体に関して議論があった。

関連条文 

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http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=大日本帝国憲法第73条&oldid=50111600」から取得

d.hatena.ne.jp/asobitarian/
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2013年11月17日 - ブログ終了のお知らせ. 唐突ですが、このブログは本日(2013年11月17日)をもちまして新たな記事の更新を終了致します。 これまでこの拙いブログをお読み頂いた皆様、 コメントを下さった皆様に深く感謝申し上げます。 このエントリーを ...


祭りの後の祭り

2012-07-08

日本国憲法の成立過程Add Star

4.日本国憲法の成立過程
(1)ポツダム宣言受諾
 日本政府は1945年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。米英中3国が7月26日に発表した同宣言は、「日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去」し、「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重」が確立されるべきこと(10項)を要求し、「日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且つ責任ある政府が樹立」されることを(12項)を求めていた。日本の敗戦が避けられない状況の中でなお、同宣言の公表から19日間もの間、日本の戦争指導者たちが同宣言の受諾を巡って逡巡し続けたのは、彼らにとっては「国体の護持」が可能かどうかだけが最大の争点だったからであるが、この間、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦、大阪大空襲などで、国民はさらなる惨禍を味わうことになる。政府は8月10日、「宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という申し入れをしたのに対し、連合国側の回答は、①「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国司令官の制限の下に置かるるものとす」、②「日本国の最終的政治形態は『ポツダム宣言』に遵い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」(引用文は現代仮名遣いに改めた。以下同様)というものだった。
(2)憲法改正への序幕
 ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本であったが、政府関係者の間では、それによって明治憲法の全面的改正、もしくは新憲法の制定が必要になるとの認識は希薄であった。むしろ終戦の詔書(8月15日)に「茲に国体を護持し得て」とあるところからも窺われるように、日本政府は敗戦という現実に直面してもなお明治憲法下の「国体」を維持できると楽観視していた。こうした認識は政府関係者ばかりではなかった。驚くべきことに、明治憲法下の代表的な立憲主義的憲法学者であった美濃部達吉や佐々木惣一、さらには美濃部門下の宮沢俊義がいずれも、明治憲法改正の必要性を認めていなかった(美濃部は10月20日―22日の朝日新聞で憲法改正不要論を唱えている)。
 こうした状況を変えたのは、日本の占領統治に当たった連合国最高司令官マッカーサーである。マッカーサーは10月4日、東久邇内閣の近衛文麿国務相に対して憲法改正を示唆する。同日、GHQが発令した自由の指令によって、翌5日には東久邇内閣が総辞職するが、後を受けた幣原喜重郎内閣の下、近衛は佐々木惣一とともに内大臣府御用掛に任命され、佐々木とともに憲法改正作業に着手する。一方、マッカーサーは10月11日、幣原に対しても憲法の自由主義化を指示し、これを受けて幣原は松本烝治国務相を主任とする憲法問題調査委員会を同月25日に設置する。この委員会には顧問として美濃部達吉ら、委員には美濃部門下の宮沢俊義・清宮四郎らが含まれていた。つまりこの時点では、近衛ラインと幣原ラインという全く異なる2系統で、憲法改正作業が進行し始めていたことになる。ところがこの直後、米国の内外で近衛の戦争責任を問う声が高まったことを受けて、GHQは11月1日、突然、近衛との関係を否認するに至る。それでもなお、近衛と佐々木は同月22日と24日、それぞれ憲法改正要綱を天皇に奉答するが、GHQが12月6日、近衛らに戦犯容疑の逮捕指令を出すと、近衛は巣鴨刑務所に出頭予定の16日、服毒自殺を遂げ、彼らの憲法改正作業は何の意義も発揮せずに終了した。
 憲法問題調査委員会(通称、松本委員会)は12月8日、①天皇が統治権を総攬するとの原則の維持、②議会の権限拡大、③大臣の対議会責任、④権利自由の拡大と救済手段の完備、という「憲法改正4原則」を衆議院で表明した。以後、松本委員会はこの方針に沿って検討を進め、1946年1月末までに、いわゆる松本私案、それを(主に宮沢が)要綱化した甲案、委員の意見をとりまとめた乙案の3案の成立を見た。しかし、これらの改正案が公表される前の2月1日、毎日新聞が松本委員会試案をスクープするに及び、その内容があまりにも守旧的・保守的であることを知ったマッカーサーは、GHQ自ら改正案を作成し、日本政府に「押し付ける」ことを決意した。その背景には、前年(1945年)12月27日に行われたモスクワ外相会議で、対日占領政策の最高意思決定機関として同年(1946年)2月26日に極東委員会が設置されることが決定しており、マッカーサーとしては、同委員会が活動を開始する前に憲法改正問題を決着させておく必要があったからである。すでに、日本における共産主義勢力の伸長を防ぐために天皇制の温存と天皇の戦争責任からの免責を決意していたマッカーサーにとって、極東委員会による天皇および天皇制への批判を回避するための重要な手段として、民主的な憲法を制定しておくことがどうしても不可欠だと感じられたのである。
(3)GHQ草案
 マッカーサーは2月3日、GHQ民政局で憲法草案を作成するに当たり、①天皇は最高位にあるが、その職務と権能は人民の基本的意思に従う、②戦争の放棄、軍隊と交戦権の否認、③封建制の撤廃、貴族の特権の廃止――という3原則(マッカーサー3原則)を示した。民政局は翌4日から憲法草案起草作業に入り、10日に草案を脱稿、マッカーサーに提出後、微調整を続け、12日にGHQ草案が完成した。その間、日本政府は8日に憲法改正要綱をGHQに提出し、13日にGHQ側と協議を持つことを約した。そこで、日本政府代表(吉田茂外相、松本烝治国務相ら)は13日、憲法改正要綱(松本案)への回答を聞くつもりでGHQとの会談に臨んだところ、GHQ側から松本案の受け取りを拒否されたうえ、逆にGHQ草案を手交されたのである。日本政府にとってはまさに「青天の霹靂」であり、日本国憲法の「受胎告知」の瞬間でもあった(古関2009)。日本政府はその後もGHQ草案への抵抗を続けるが、GHQ側から、この草案に基づく憲法改正こそが天皇の安泰を保障するものであること、これに基づく憲法改正作業を始めないなら、GHQが自ら国民にこの草案を提示すると示唆されたことなどから、2月26日になってようやく、GHQ草案に基づく日本案の起草を決定した。まさに極東委員会がワシントンで第1回会議を始めた日であった。
(4)政府の改正案公表と帝国議会での審議
 日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、明治憲法73条所定の改正手続に則り、6月20日、勅書をもって帝国議会に付議された。帝国議会ではまず衆議院での審議でいくつかの修正(「至高」から「主権」への変更、第9条のいわゆる「芦田修正」など)ののち8月24日に可決され、その後貴族院でさらにいくつかの修正(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)を経て、10月6日可決され、10月7日、衆議院は貴族院からの回付案を可決し、憲法改正案が成立し、11月3日、新しい日本国憲法が公布され、半年後の1947年5月3日、新憲法は施行された。

5.日本国憲法制定過程の問題点
(1)連続説と断絶説
 前節で概観してきた日本国憲法の制定過程には非常に多くの問題点が孕まれている。そこには、法的問題点と政治的問題点が存在するが、まずは前者から検討する。前者のうち、最大の争点は、国民主権に立脚する日本国憲法が、欽定憲法たる明治憲法の定める改正手続に従って成立したことをどう考えるか、ということである。「改正」という成立手続と成立した憲法内容との間の齟齬というこの問題は、言い換えれば、明治憲法と日本国憲法の関係を法的に連続したものと考えるのか、法的に断絶したものと考えるのか、という問題である。この問題は、当然ながら、憲法改正権に限界があると見るか(限界説)、ないと見るか(無限界説)という対立と結び付いている。限界説は、憲法の改正権にはおのずと限界があり、少なくとも、その憲法の基本原理に変更を加え、憲法自体のアイデンティティを変更してしまうような「改正」は改正権の限界を超えるものであり、そのような「改正」は実際には新憲法の「制定」である、と見なす。これに対して、無限界説は、憲法改正には内容面での限界はなく、形式的な改正手続に従う限り、どのような内容の改正もなしうる、と説く。明治憲法は天皇を「統治権の総攬者」と規定して天皇主権に立脚しているのに対して、日本国憲法は国民主権に立脚している以上、2つの憲法の間には根本的な原理の変更がある、と見るのが自然な考え方である。従って、改正権限界説の立場からは、日本国憲法は明治憲法の「改正」という手続を採ってはいるが、実質的には新憲法の制定であった、という見なされることになり、これが憲法学界の通説である。しかし、限界説に立ちつつ、日本国憲法は改正権の限界を超えた違憲の「憲法改正」であるから無効である、と唱える説も理論上存立しうる。しかしこの立場は、あくまで明治憲法の基本原理に忠実であり続けようとする立場であり、基本的人権や国民主権という普遍的な立憲主義原理の受け入れを拒否し続ける反動的立場である。これに対して、無限界説の立場からは、明治憲法と日本国憲法は確かに根本原理の変更を伴うものであるが、後者は前者の改正憲法であって両者が法的に連続していることに何ら矛盾はないという。しかし、根本原理を異にする2つの憲法の間に法的連続性を見ることにいかなる意味があるのか、理解に苦しむ立場である。
(2)8月革命説
 ところがもうひとつ、限界説の立場を採りつつ、両者の連続性を主張するという、驚くべき説が存在するのである。憲法学者の佐々木惣一と哲学者の和辻哲郎との間で争われた国体論争と、法哲学者の尾高朝雄と憲法学者の宮沢俊義との間で争われたノモス主権論争で、和辻哲郎や尾高朝雄が採った立場である。まず前者の国体論争においては、誰が統治権の総攬者(主権者)かによって決まるのが国体である以上、新憲法によって国体は君主国体から民主国体に変更したと言わざるを得ない、と佐々木が主張したのに対して、和辻は、国の歴史を一貫する特性が国体であり、日本においてはそれは天皇が日本国民の統一の象徴であったということであるから、新憲法の下でも国体に変化はない、と主張した。
 尾高は、国体の変更を説く論者は主権を国家における最高の政治権力と捉えているが、それでは「力は法なり」を認めることになってしまうと批判し、国家における最高の権威を主権というなら、いかなる力も超えてはならない矩としてもノモス(法の理念)にこそ主権があるのであり、明治憲法も日本国憲法もノモス主権という点で違いはない、と主張した。これに対して宮沢は、ここで問題となっている主権とは、政治の在り方を最終的に決める力ないし意志のことであり、それが天皇に帰属するのか国民に帰属するのかが問われている以上、この問いへの答えを回避するノモス主権論は国民主権によって天皇制に加えられた致命傷を包み隠そうとするホウタイの役割を果たす理論にすぎないと批判した。そして宮沢は、ポツダム宣言は国民主権の要求を含むと解すべきであり、そのような内容を持つポツダム宣言を日本政府が受諾した以上、その時点において一種の法的革命があったと解される、と主張した。
 以上、2つの論争においては、憲法学的には一般に佐々木と宮沢が議論の勝者と見なされている。しかし、宮沢の8月革命説については、いくつかの疑問も提起されている。ひとつは、ポツダム宣言が果たして国民主権の要求を含むと解すべきか否かである。これについて、消極に解す見解もあるが、日本国民の自由に表明せる意志が最終的な政治形態を決定すべしというポツダム宣言第12項や、8月11日の連合国側回答に照らして、やはり国民主権の要求を含んでいたと解すべきだろう。しかし、そうだとしても、同宣言の受諾によって直ちに法的意味の革命が生じた、すなわち明治憲法の基本原理が変更された、と解すべきかについては疑問の余地がある。むしろ同宣言の受諾は、日本が将来、憲法の基本原理を変更すべき国際法上の義務を負ったことを意味するにとどまり、いわば物権的効果ではなく、債権的効果のみを伴うものである、と解する有力な見解がある(佐藤1995:76)。この見解によれば、法的意味の革命が生じたのは、ポツダム宣言受諾時(1945年8月14日)ではなく、日本国憲法の施行時(1947年5月3日)であることになる。しかしながら、8月革命説を採るにせよ「5月革命説」を採るにせよ、日本の統治権が連合国最高司令官の管轄下に置かれ、国家の主権が喪失していた段階において、果たしてその国家における国民主権の成立を言うことができるのか、という疑問も提起されている。この点については、占領終了時に国民主権が成立したと解する説や、占領終了後に改めて国民投票等によって国民の意思を問うべきだったとする説、独立後今日まで国民が自由意思に基づき憲法を指示してきたことで成立時の瑕疵は治癒されていると解する説(高橋2010:43-44)、などが存在する。
(3)「押し付け憲法」論
 政治的争点のうち最大のものは、日本国憲法の制定過程において、GHQが主導的かつ決定的な役割を果たした事実をどう考えるか、という問題である。占領終了以後今日まで、9条「改正」を眼目とする憲法改正論者によって、現憲法がGHQによる「押し付け憲法」であると繰り返し主張されてきた根拠がここにある。制定過程を見れば、GHQ草案がGHQによって日本政府に押し付けられたことは疑問の余地がない。しかし、世論調査等から判断すれば、国民の多数は毎日新聞のスクープした松本草案には批判的で、GHQ草案に基づいて(当時日本国民はその事実を知らされていなかったが)日本政府が起草した政府案要綱を圧倒的に支持していた。したがって、国民がGHQ草案を押し付けられたとは言えないだろう。しかし、(本来、国民主権の憲法であればそうあるはずなのだが)国民自身が政府に押し付けた憲法でもなかった。もちろん、当時、国民主権の立場に立った民間の憲法草案もいくつか発表されてはいたが、連合国総司令部とその背景にあった国際世論の力がなければ、1946年という時点において、国民主権を明記した憲法が採択されることはなかっただろう(樋口1992:64)。その意味で、日本国憲法は国民主権の理念を高々と謳いながらも、その実際の成立過程はそれにふさわしいものではなかったという弱点を持っていたことは否定できないだろう。

<参考文献>
古関彰一(2009)『日本国憲法の誕生』岩波現代文庫
豊下楢彦(2008)『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫
吉田裕(1992)『昭和天皇の終戦史』岩波新書
国立国会図書館「日本国憲法の誕生」(http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

                                      

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集団的自衛権は、徴兵制に繋がるか?

2014年07月08日 21時35分28秒 | 国際・政治

THE PAGE 7月7日(月)18時33分配信『政府は7月1日、集団的自衛権の行使を容認することを閣議決定した。これを受け、自衛隊が海外で活動しやすくなることで、「徴兵制がやがて復活するのではないか」という声が上がっている。それも平和活動家だけでなく、かつての自民党重鎮たちまでも警鐘を鳴らしているから、ちょっと気になる。果たしてそんなことは本当にあり得るのだろうか? 「集団的自衛権の議論は、やりだすと徴兵制まで行き着きかねない」。こんなインタビュー記事が、しんぶん赤旗日曜版(5月18日)に掲載された。同紙は、共産党の機関紙なので、政府への批判は珍しくない。が、その語り手が、元自民党幹事長の加藤紘一氏だったので、読んだ人を驚かせた。 なぜ、集団的自衛権が徴兵制につながっていくのか?加藤氏は「なぜなら戦闘すると承知して自衛隊に入っている人ばかりではないからです」と説明する。たしかに、これまで自衛隊は本格的な戦闘の当事者になったことはない。命を落としかねない本物の戦争が仕事になるのなら、自衛隊に入ることを尻込みする人が増える、というわけだ。 同じような心配をするのは、野中広務・元自民党幹事長。「集団的自衛権の行使容認で自衛隊という若い人たちが戦闘地に行って死ぬ。若い人が死ぬ。自衛隊志願者がいなくなる、そうなったら徴兵制が出てくる」(朝日新聞5月23日)と懸念する。 徴兵制に言及する元幹部だけでない。国防の実務の現場で長く勤めた元防衛官僚の小池清彦・加茂市長も「近い将来、日本人が血を流す時代が来ます。自衛隊の志願者は激減しますから、徴兵制を敷かざるをえないでしょう」(朝日新聞6月25日)と指摘している。 こうした声に敏感に反応したのか、内閣官房のサイトでは7月に入り、徴兵制への懸念に答えるQ&Aが掲載された。「徴兵制が採用され、若者が戦地へと送られるのではないか?」という質問に、「全くの誤解です。例えば、憲法第18条で『何人も(中略)その意に反する苦役に服させられない』と定められているなど、徴兵制は憲法上認められません」と回答し、強く否定している。』

※日本国憲法第二章 戦争の放棄

第九条 「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。』

日本国憲法第三章 国民の権利及び義務
「奴隷的拘束及び苦役からの自由』第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。』が有るからと言う内閣官房の回答ですが。日本国憲法を起草された佐々木惣一博士の助手を務められた大阪大学法学部名誉教授の故磯崎辰五郎先生に日本国憲法第十八条により、徴兵制に出来ないのですかと法学部の学生時代に質問しましたことを思い出しました。磯崎先生は、「第九条が有るから、、徴兵制を導入出来ないのです。」と答えて頂きました。安倍晋三内閣の議会無視の超然主義安倍内閣は、何かヒットラーの時代に似通っていませんか。
日本国憲法第二章 戦争の放棄・第九条を実践的解釈しても、解釈法学の立場から正確に条文を読みますと『集団的自衛権行使』を認めるような法解釈は出来ません。憲法を改正するのに時間が掛かるので、恣意的な拡大解釈をしたにしか過ぎません。日本国憲法は、押し付けると言うのなら「出典・はてなダイアリー祭りの後の祭りld.hatena.ne.jp/asobitarian/<>憲法4.日本国憲法の成立過程(1)ポツダム宣言受諾より一部引用『( 日本政府は3月2日にGHQ草案に基づく改正案をまとめ(3月2日案)、4日にGHQに提出した。そこで、佐藤達夫法制局部長はケーディス民政局行政課長らGHQ側と5日午後までかけて修正作業を行い、日本政府は閣議でこの修正案(3月5日案)の採択を決定した。翌6日、政府は「憲法改正草案要綱」発表し、マッカーサーはこれを承認する旨の声明を出した。その後、政府は同草案要綱を口語化したうえ条文の形式に整備し、4月 17日、内閣憲法改正草案を発表した。同草案は枢密院の諮詢を経たのち、大日本帝国憲法第七十三条1項『将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ 』2項「此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス』の大日本帝国憲法の法的手続きにより改正されたと言えます。マッカーサーの占領憲法・押し付け憲法と揶揄され非難されて来た日本憲法ですが。「出典・思索の日記に武田康弘氏がブログに『日本国憲法』の骨子は、「憲法研究会」を結成した民間人7人による憲法草案が元になっていますが、この草案をつくった7人とは、まことに近代民主主義の柱である「立憲主義」を体現するにふさわしい人たちでした。書かれています。」私の憲法の教えを受けた憲法学者で、関西学院大学元法学部教授で法学博士の故一円一億先生は、押し付け憲法と批判されても、日本国憲法の内容が、良ければ良いと生前言われていました。石原慎太郎東京都知事当時、衆議院で日本国憲法の放棄決議をしたら良い発言は、法治国家を否定し、日本国憲法第九十九条に違反し、日本の平和を重んじられ、亡くなられた昭和天皇陛下の御意思をマッカーサー元帥が尊重し第九条が生まれたと「天皇の真実」の著者河内正臣氏は主張されています。2006年4月30日の朝日新聞社大阪本社発行の朝刊・社会面38ページに「9条の原型は天皇の発言」ニューヨークタイムズ紙のフランク・クリックホーン記者の取材の記事が掲載されています。
日本国憲法を日本の政治家だけが放棄するのは、昭和天皇陛下に対して不敬で、日本国民に敬愛されて来た心のシンボルの昭和天皇陛下の当時の日本を代表された地位と名誉を汚すものです。大元帥陛下に対する名誉毀損です。日本国憲法第九十九条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。』安倍晋作総理大臣以下日本国憲法を尊重し擁護する責任と義務があると思います。憲法の解釈改憲と言う出来もしない解釈を丁稚上げるよりも憲法を堂々と改正するのが正論で、筋です。日本の自衛隊員を海外派兵し戦場になり死傷者、戦死者が出れば退官する自衛隊が多くなり徴兵制を取らざるを得なくなると思います。野中広務前自治大臣や加藤紘一元幹事長、元防衛官僚の小池清彦・加茂市長の予想通りになりかねません。太平洋戦争・大東亜戦争でも、多くの若い人たちが亡くなりました。日本を背負って立つべき貴い若い人材の損失です。何が何でも集団的自衛権を行使したい政治家全員か、国民と日本国の為に先ず最初に鉄兜を被り最前線に行くべきです。いつか来た道、日本の青年に銃を持たせ再び戦場に送ることになるのです。

出典・思索の日記
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法第99条の意味と価値ー民間人による草案だからこそ名実ともに ...

現『日本国憲法』の骨子は、「憲法研究会」を結成した民間人7人による憲法草案が元になっていますが、この草案をつくった7人とは、まことに近代民主主義の柱である「立憲主義」を体現するにふさわしい人たちでした。

【近代民主主義における憲法】とは、主権者である国民が、政治家・裁判官・行政マンなどの公務員に対して、その遵守と擁護義務を負わせるものであって(わたしたち国民が立法権・行政権・司法権を行使する者を縛る=『日本国憲法』第99条)、為政者が国民に与える【国家主義による憲法】(天皇が臣民に与えるという『大日本帝国憲法』)とは根本的に異なります。

これを立憲主義と呼びますが、『日本国憲法』の基本思想は、まさしく主権者たる国民の意思をまとめる(立憲)にふさわしい人々によって草案がつくられています。

彼らを簡単にご紹介します。

まず「憲法研究会」でただ一人の憲法学者であった鈴木安蔵は、戦前は悪名高き「治安維持法」違反の第一号(最初の犠牲者)として逮捕・投獄された人(社会主義的な研究を行った京都大学の学生が多数逮捕された)。
この憲法研究会を立ち上げた高野岩三郎は、東大教授を辞し、民間の「大原社会問題研究所」(白樺派・柳宗悦らを支援した実業家の大原孫三郎により設立)で活躍。1928年に結成された日本大衆党の委員長。戦後は天皇制撤廃(日本共和国)を主張。NHKの初代会長となり民主的放送を目指す。
森戸辰男は、クロポトキン思想(国家主義とは逆に対等な人々による相互扶助の社会をつくる)を広めようとして東大を追われた(森戸事件・1919年)。戦後は衆議院議員。1947年6月片山内閣・芦田内閣の文部大臣に就任し、教育の徹底した民主化を志向、広島大学の初代学長も務めた(なお、クロポトキンの無政府思想は、白樺派にも大きな影響を与えた。有島武郎はロンドンでクロポトキンに会い、大杉栄(甘粕事件で憲兵に殺害される)を経済的に援助している。柳は、相互扶助を相互補助と訳し共鳴)。
杉森孝次郎は、徹底した民主主義者として名高い55代総理大臣の石橋湛山と共に、早稲田大学で田中王道(プラグマティズムの哲学者)に薫陶を受けた哲学徒。「天皇は儀礼のみを行う存在」という象徴天皇制の提唱者。英国の倫理思想を身につけ、学生を愛し、慕われたことでも有名。早稲田大学教授、戦後は駒沢大学教授。
馬場恒吾は、現・早稲田大学の政治科に学んだリベラルなジャーナリストで、読売新聞の主筆の後、社長を務めた。
岩淵辰男は、読売新聞の政治記者。自由主義の政治評論を書く。1944年に早期終戦を主張して検挙。
室伏高信は、雑誌「改造」の特派員としてヨーロッパに渡り、柳宗悦と同じく「ギルド社会主義」を目がけていたが、柳とは異なり、小集団や地方的なものを否定して国家的なギルドを追求した結果、大東亜共栄圏の思想に基づく戦争を積極的に肯定することになった。しかし戦況が不利となると沈黙し、戦後はすぐに思想を反転させた。敗戦の翌月(1945年9月)に発刊された戦後最初の総合誌『新生』の顧問となり、憲法研究会のメンバーに紙面を提供した。

以上のように、室伏には疑問符がつくとしても、他の6名は「民」を主権者とする「立憲主義」の憲法をつくるにふさわしい人々であったと言えます。

彼らによってつくられた憲法草案は、当時の日本政府や政党、東京帝国大学法学部の思想とは大きく異なるもので、主権在民に基づく人権と民主主義思想による国家(新生・日本)をつくるための礎を提供するものでした。

武田康弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本国憲法 第99条は、日本国憲法第10章最高法規にある条文で、憲法尊重擁護の義務について規定している。

条文

第九十九条[1] 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

沿革

大日本帝国憲法
(上諭)…朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
憲法改正要綱[2]
なし
GHQ草案[3]
  • (日本語)
第九十一条 皇帝皇位ニ即キタルトキ並ニ摂政、国務大臣、国会議員、司法府員及其ノ他ノ一切ノ公務員其ノ官職ニ就キタルトキハ、此ノ憲法ヲ尊重擁護スル義務ヲ負フ
此ノ憲法ノ効力発生スル時ニ於テ官職ニ在ル一切ノ公務員ハ右ト同様ノ義務ヲ負フヘク其ノ後任者ノ選挙又ハ任命セラルルマテ官職ニ止マルヘシ
  • (英語)
Article XCI. The Emperor, upon succeeding to the Throne, and the Regent, Ministers of State, Members of the Diet, Members of the Judiciary and all other public officers upon assuming office, shall be bound to uphold and protect this Constitution.
All public officials duly holding office when this Constitution takes effect shall likewise be so bound and shall remain in office until their successors are elected or appointed.
憲法改正草案要綱[4]
第九十四 此ノ憲法ノ日本国民ニ保障スル基本的人権ハ人類ノ多年ニ亙ル自由獲得ノ努力ノ成果ニシテ、此等ノ権利ハ過去幾多ノ試錬ニ堪へ現在及将来ノ国民ニ対シ永劫不磨ノモノトシテ賦与セラレタルモノトスルコト
天皇又ハ摂政及国務大臣、両議院ノ議員、裁判官其ノ他ノ公務員ハ此ノ憲法ヲ尊重擁護スルノ義務ヲ負フコト
憲法改正草案[5]
第九十五条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
日本国憲法
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

解説

天皇また一般職か特別職か・政府機関勤務か地方公共団体勤務かを問わずあらゆる立場の公務員全てが、日本国憲法を遵守し擁護しなければならないと定めている。政治に携わる者達に、憲法を守り、さらに「憲法違反行為を予防し、これに抵抗」[6]する義務を課したものとしている。この規定は「内閣が、憲法を批判し、憲法を検討して、そして憲法を変えるような提案をすることを禁止している」とする見解がある[7][8][9]。一方で、公務員は職務を遂行するにあたり、憲法に問題点があるを認識した場合にその問題点を広く国民に問いかけることを禁止していないとする見解もある[10]

法律[11]では裁判官及び一部の公務員[12]について、「日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」を欠格条項とする規定が存在し、また公務員は就任の際に憲法を守る宣誓を行うことが法令等[13]で規定されているが、これは本条文が根拠となっている。その一方で、国務大臣、国会議員、その他一部の特別職公務員[14]のように「日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者」を欠格条項とする規定や就任の際に憲法を守る宣誓を行うことが法令等が明記されていない例もある[15]

なお、ドイツの憲法である基本法では国民に憲法擁護義務を課している(戦う民主主義)が、日本国憲法第99条の憲法尊重擁護義務に一般の国民は含まれていない。

関連条文

脚注

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  1. ^ 「日本国憲法」、法令データ提供システム。
  2. ^ 「憲法改正要綱」、国立国会図書館「日本国憲法の誕生」。
  3. ^ 「GHQ草案」、国立国会図書館「日本国憲法の誕生」。
  4. ^ 「憲法改正草案要綱」、国立国会図書館「日本国憲法の誕生」。
  5. ^ 「憲法改正草案」、国立国会図書館「日本国憲法の誕生」。
  6. ^ 佐藤幸治他共著『注釈 日本国憲法』下巻、青林書院
  7. ^ 拝啓 安倍晋三様 あなたが「改憲」に前のめりになるのは筋が違いませんか? 法学館憲法研究所(伊藤真浦部法穂水島朝穂村井敏邦森英樹連名)
  8. ^ 憲法擁護尊重義務 浦部法穂の憲法時評 2013年2月21日(法学館憲法研究所)
  9. ^

    憲法の改正は、ご承知のとおり内閣の提案すべき事項ではございません。内閣は憲法の忠実な執行者であり、また憲法のもとにおいて法規をまじめに実行するところの行政機関であります。したがって、内閣が各種の法律を審査いたしまして、憲法に違反するかどうかを調査することは十分できます。しかし憲法を批判し、憲法を検討して、そして憲法を変えるような提案をすることは、内閣にはなんらの権限がないのであります。この点は、内閣法の第5条におきましても、明確に認めているところでございます。(中略)内閣法のこの条文は、事の自然の結果でありまして、内閣には、憲法の批判権がないということを明らかに意味しているものだと思います。(中略)内閣に憲法改正案の提出権がないということは、内閣が憲法を忠実に実行すべき機関である、憲法を否定したり、あるいはまた批判したりすべき機関ではないという趣旨をあらわしているのだと思うのであります。憲法の改正を論議するのは、本来国民であります。内閣が国民を指導して憲法改正を企図するということは、むしろ憲法が禁じているところであるというふうに私は感じております。(中略)元来内閣に憲法の批判権がないということは、憲法そのものの立場から申しまして当然でございます。内閣は、けっして国権の最高機関ではございません。したがって国権の最高機関でないものが、自分のよって立っておるところの憲法を批判したり否定したりするということは、矛盾でございます。こうした憲法擁護の義務を負っているものが憲法

大日本帝国憲法第七十三条

現代風の表記 

  1. 将来、この憲法の条項を改正する必要があるときは、勅命をもって、議案を帝国議会の議に付さなければならない。
  2. この場合において、両議院は、各々その総員の三分の二以上が出席しなければ、議事を開くことができない。出席議員の三分の二以上の多数を得られなければ、改正の議決をすることができない。

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憲法第99条の意味と価値ー民間人による草案だからこそ、名実ともに「立憲主義」なのです。
社会思想 2011/10/03 09:05

現『日本国憲法』の骨子は、「憲法研究会」を結成した民間人7人による憲法草案が元になっていますが、この草案をつくった7人とは、まことに近代民主主義の柱である「立憲主義」を体現するにふさわしい人たちでした。

【近代民主主義における憲法】とは、主権者である国民が、政治家・裁判官・行政マンなどの公務員に対して、その遵守と擁護義務を負わせるものであって(わたしたち国民が立法権・行政権・司法権を行使する者を縛る=『日本国憲法』第99条)、為政者が国民に与える【国家主義による憲法】(天皇が臣民に与えるという『大日本帝国憲法』)とは根本的に異なります。

これを立憲主義と呼びますが、『日本国憲法』の基本思想は、まさしく主権者たる国民の意思をまとめる(立憲)にふさわしい人々によって草案がつくられています。

彼らを簡単にご紹介します。

まず「憲法研究会」でただ一人の憲法学者であった鈴木安蔵は、戦前は悪名高き「治安維持法」違反の第一号(最初の犠牲者)として逮捕・投獄された人(社会主義的な研究を行った京都大学の学生が多数逮捕された)。
この憲法研究会を立ち上げた高野岩三郎は、東大教授を辞し、民間の「大原社会問題研究所」(白樺派・柳宗悦らを支援した実業家の大原孫三郎により設立)で活躍。1928年に結成された日本大衆党の委員長。戦後は天皇制撤廃(日本共和国)を主張。NHKの初代会長となり民主的放送を目指す。
森戸辰男は、クロポトキン思想(国家主義とは逆に対等な人々による相互扶助の社会をつくる)を広めようとして東大を追われた(森戸事件・1919年)。戦後は衆議院議員。1947年6月片山内閣・芦田内閣の文部大臣に就任し、教育の徹底した民主化を志向、広島大学の初代学長も務めた(なお、クロポトキンの無政府思想は、白樺派にも大きな影響を与えた。有島武郎はロンドンでクロポトキンに会い、大杉栄(甘粕事件で憲兵に殺害される)を経済的に援助している。柳は、相互扶助を相互補助と訳し共鳴)。
杉森孝次郎は、徹底した民主主義者として名高い55代総理大臣の石橋湛山と共に、早稲田大学で田中王道(プラグマティズムの哲学者)に薫陶を受けた哲学徒。「天皇は儀礼のみを行う存在」という象徴天皇制の提唱者。英国の倫理思想を身につけ、学生を愛し、慕われたことでも有名。早稲田大学教授、戦後は駒沢大学教授。
馬場恒吾は、現・早稲田大学の政治科に学んだリベラルなジャーナリストで、読売新聞の主筆の後、社長を務めた。
岩淵辰男は、読売新聞の政治記者。自由主義の政治評論を書く。1944年に早期終戦を主張して検挙。
室伏高信は、雑誌「改造」の特派員としてヨーロッパに渡り、柳宗悦と同じく「ギルド社会主義」を目がけていたが、柳とは異なり、小集団や地方的なものを否定して国家的なギルドを追求した結果、大東亜共栄圏の思想に基づく戦争を積極的に肯定することになった。しかし戦況が不利となると沈黙し、戦後はすぐに思想を反転させた。敗戦の翌月(1945年9月)に発刊された戦後最初の総合誌『新生』の顧問となり、憲法研究会のメンバーに紙面を提供した。

以上のように、室伏には疑問符がつくとしても、他の6名は「民」を主権者とする「立憲主義」の憲法をつくるにふさわしい人々であったと言えます。

彼らによってつくられた憲法草案は、当時の日本政府や政党、東京帝国大学法学部の思想とは大きく異なるもので、主権在民に基づく人権と民主主義思想による国家(新生・日本)をつくるための礎を提供するものでした。

武田康弘

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