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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

こんな歌を聴きたい 聴いてます

2012年01月18日 00時56分56秒 | 思い出を語る
ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」
ベッツィ&クリス「夏よお前は」
五つの赤い風船「遠い世界に」
テレサ・テン「空港」
天地眞理「思い出のセレナーデ」

どれも、自分の思い出と重なって記憶しているものばかり。

まだまだきりなくあるが、今夜は眠くて眠くて、ここまで。

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残念な東京部落問題研究会の閉会

2012年01月15日 00時49分42秒 | 思い出を語る
「ジョーク」のカテゴリーは、意味ないと考えて削除。同時に記事も抹消しました。
私が作ったものでないし、好きではあっても、このブログには必要ないと考えてのもの。


一昨日の「しんぶん赤旗」のコラムを見て、驚きました。
東京問題研究会が、昨年末をもって閉会したとのこと。

大学生の時に、月例の学習会に、よく参加していた私にとって、とても哀しいニュースとなりました。
この研究会も、現在の私を形成するにあたっての、土台のひとつとなったものです。

たいがいは、八丁堀の勤労福祉会館で行われていた学習会。
当時の講師の面々は、多士済々で、都立大の社会学部教授の鈴木二郎さん、の活動家であった北原泰作さん、研究者である成沢栄寿さん、台東区の靴工組合の田中さんたち。歴史から現状まで、数々のことを、私は学びました。

関西と異なり、未解放(被差別)の問題は、ほとんどの人にとって、「知らない」か「関心ない」かの現状です。
関西は、学校でしっかりと「同和教育」が実践されていますが、東京では、形の上では「人権教育」として、その中に盛り込まれているにもかかわらず、学校で積極的に指導したという話は、現職の私の耳には届いてきません。
東京では「混住化」により、問題がわかりづらいという側面はあるのですが、それをどうとらえて、子供達にどう伝えるかについては、なかなか生やさしいことではありません。

閉会の知らせを、どのように受けとめていけばいいのか。
差別自体がなくなったというわけでもないでしょう。(恥ずかしい話ながら、私の伯母は、栃木なのですが、未だに「チョリンボウ」という言葉を口にします。)

どちらかというと、会の担い手が少なくなったのだと思われます。
そうだとすれば、残念なことです。

バラエティ番組の「弱者への嘲笑」主体の笑いの氾濫。石原慎太郎のような「差別意識を持たない」差別容認、いや助長政治家、さらに彼をすぐにでも追いつき、追い越す勢いの橋下氏、そんな政治家が、選挙で圧勝するような「三流国民」。
差別、貧困は、密接に、そして複雑に絡み合って、まだまだ温存されることでしょう。

この日本は、いったいどこに向かっているのでしょうか。


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亡き父へ

2012年01月10日 01時00分47秒 | 思い出を語る
眩しいくらいの満月が天上に輝いています。
また一つの世代から、次の世代にと受け渡された安堵感で、この記事を書いています。

父が亡くなって、23年。
そんなに歳月を経てしまったのか。まったく実感がなく、ついこのあいだまで、一緒に食事をしたり、職場の話を聞いてもらっていたかのような感覚です。

キッチンのテーブルで、幼い孫に、「おーーい!猫がきているぞー、ほらニャンニャンがこっち見てるよ」と手招きをしたり、タカイタカイをして、キャッキャさせていたのも、つい昨日のことのように思えます。

そんな幼かった孫も、この7日に結婚式を挙げました。

見た目には、彼ら彼女らが、ほとんど自分たちで段取りをして、素敵な式を挙げることができたのですが、時間はずっと連続しているのですね。

父と母が、最初に、「3000円」と「丸い卓袱台」から新婚生活をしたときから(いや、もっともっと前からでしょうが)、ここに至る歴史や因果が始まり、繋がっていたのですよね。

「ご先祖様」などという言い方は、あまり私らしくはないのですが、私の父や母、そしてその祖母、祖父・・・・いったいとどれくらい遡るといいのでしょう。

残念ながら、私の知っている「ご先祖様」は、曾祖母まで。それもすでに寝たきりになっている姿だけです。

哀しいかな、みんな、こんな具合に、人々の記憶から消えていってしまうのですね。

それならせめて、亡き父よ。

あなたはこの世から消えてしまっても、しっかりと私たちは繋がって生きています。
けっして、堂々とした、誇りある生き方とは言えませんが、なんとか家族みんなで支え合い、また自分たちだけの幸福だけを追い求めるような生き方をどうにか避けながら、小さな幸福者として、日々を送っています。

母も80にはなりますが、まだまだやることも、見ておきたいことも、山ほどあるのでしょう。老いたとは言え、すこぶる元気です。

人生の途中経過。

まだまだ物語は続きます。





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35年ぶり 昨日のことのよう

2011年12月29日 22時12分01秒 | 思い出を語る
35年ぶりに、「ペコ」に電話しました。
もう「ペコ」なんて呼んでいるのは、かつてのサークル仲間くらいしかいないでしょう。

彼女は郡山の在。
そういえば、うちの学校の養護教諭のM先生も郡山、前任校のH先生も、長男の嫁さんのお母さんの出身も郡山でした。

受話器の向こうから聞こえてくる彼女の声は、一万日以上も隔てていたにも関わらず、つい昨日にも聞いたかのように、ブランクを感じさせないほど、変わりがありませんでした。

単刀直入に、思ったことをずばずばと言い、目がクリクリってして、不二家の「ペコちゃん」に似ている子でした。
もう時効ですが、彼女は「ベタ惚れ」の私を、見事に振った、私にとっては「歴史上の人物」でもあります。
当時、彼女が住んでいた三軒茶屋にも、結局訪れることもなく、門前払いのはるか手前で、私に「NO」を見舞ったのでした。

現在、彼女は「大五郎」と結婚して、すでにお子さんの就職も決まったとのこと。
大五郎も、同じサークルの後輩。
おそらくは、人情味にかけては、当時のサークル仲間の中では、一番だったのではないかと思います。
茶目っ気があり、それでいて、肝心なときは、自分のことは後回しにするくらい頼りになる。
当時「上っ面」の「いい子」でしかなかった私にすれば、当然の彼女の選択だったのだと思います。
彼女の男を見る目、大五郎の「男気」からすれば、当然の結末だったのでしょうね。

彼女の声は、ほとんど昔のまま、早口で、ややまくしたてる口調もそのままでした。

話は、Mちゃんが四十九日が終わったら、みんなで集まろうということ。
原発は、「怒りというか、もうあきれるほどよ」「郡山はまだ放射能の値が高くて、とても心配」という彼女の言葉通り、日常生活にまで、あれこれと煩わしい苦労をしているということ。
「言ってみれば、私たちが、そのまま人体実験を受けているのと同じだものね」と、私。

東京のものは、まだ恵まれているのかもしれません。

35年も経て、風化していなかった、彼女の声。
幸いなことに、私のイメージは、大学四年生のペコのままです。

あ、これはお互い様ですね。



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これも36年ぶりの声

2011年12月04日 21時00分06秒 | 思い出を語る
ムロから自宅に電話。
受話器の向こうから聞こえてきた声は、大学生時代に引き戻されるほど、「あのときの声」。

「ムロ、ぜんぜん変わらない声だねえ」
「そうかなあ、頭は薄くなっているけどねえ」

彼は、入学時、サークル入部の、たった2人のうちの1人(もう1人は私)、大事な仲間だ。

のらりくらりしていた私と違って、いたって原則的な、つまり信頼に値する「同志」だった。

サークルの後輩、Mちゃんの葬儀に際して、花輪を立て替えたことで、その代金についての問い合わせだったが、それ以上の感慨。
再会を約束して電話を切る。

彼ら、彼女らたちによって、鍛えられた私。
今の私が、小さなことに動じないでいられるのは、「生半可な経験をしているわけじゃない」という自負があるから。

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幸せと健康を祈らざるを得ません

2011年11月28日 01時00分53秒 | 思い出を語る
日曜日に、吉祥寺にある病院に見舞いに行ってきました。
大学のサークルの後輩、通称Mちゃんが入院したと聞いて。
そういえば、夏以来メールが来ないとは思っていましたが、「便りのないのは、よい便り」程度に考えて、こちらからメールを出さないでいましたので、申し訳ないやら、私にふがいなさを感じるやら。

もう1ヶ月も入院していたとのこと。精神的にまいっての入院とあって、げっそりやせているのかと思っていたら、なんのなんのしっかり体格は維持されていて、一安心。

面会室で一時間ほどおしゃべり。サークルの面々の音信を聞くと、親の介護で職を捨ててしまったり、旦那が脳梗塞で倒れたり、お母さんを亡くしてしまったり、当の本人が肝臓を病んでいたり、新たにガンが見つかったり・・・と、本人も係累も、ちょうど「金属疲労」が訪れていて、日々苦労が絶えない様子。
私は、大学卒業後、意地でみんなと会わないとしてきただけに、私の中の彼ら彼女らは、30年以上前の面影、フレッシュな大学生のイメージしかありません。
私が、こんなに老いたのだから、みんなも・・・当然なのですが、なかなか実感として湧いてこないのです。

そろそろ終点の駅が、はるか先とはいえ、小さく見えてきたころの私たち。

みんなの幸せと健康とを、強く、強く願っています。
Mちゃんも、負けるな!!
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父とタンゴ

2011年08月13日 02時35分28秒 | 思い出を語る
「ラジオ深夜便」で、コンチネンタルタンゴの「あおぞら」(「青空」でなく「碧空」だったと・・・)が流れています。
父は、タンゴのレコードを何枚か持っていて、中でもこの「あおぞら」が好きで、よく私も聴かされました。
他にも「小さな喫茶店」「真珠とり」(こんな名前だと思いますが)などをよく聴いていました。
家には、幼い私が踏んで板が軋んでいるギターがあり、それで「演歌」の伴奏をしていました。(「影を慕いて」だったと)
田舎で、本家のおじさんと、母方の「シゲゾーおじさん」たちと、バンドを組んでいたとも聞いていますから、当時の父はきっとモダンだったのでしょう。


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母からのメール

2011年06月14日 23時05分06秒 | 思い出を語る
学校からの帰り道、携帯のメールチェックをすると、母からのメールが二通届いていました。
最初のメールは、空メール。きっと慣れないまま、文字を打ち込むことなく送信してしまったのでしょう。
二通目は、文字あり。私の膝を気遣ってのメールです。
「えっ、そんなこと言ったり、ブログで書いたりしたかな」と思いながら、母に電話をかけました。

まだ、若くて元気溌剌な頃の母は、よく家の中で、私の後ろを通る度に、私の頭を「コツン」と叩きました。
もちろん怒っているときの母です。
父が、私のお尻を平手で叩いて叱るのと対照的に、母は握り拳で頭をこづきます。
もう昔の昔、小学生のころのことですが、母が近づくと、自然に頭に手をやって防御する癖になったこともあり、けっこう母はパワフルに私を叱っていたのだと思います。

もちろん、母の歳とともに、そして私の成長とともに、そんなことはなくなったのですが、今では、それも懐かしく感じられるほど、遠いこととなりました。

たびたび電話やメールを私に送るのは、その「コツン」と同じことなのでしょうか。
「まだタバコやめてないのかい?」「へんなところからお金借りたりしては絶対だめだからね」「あんまり無理して仕事してはだめだから」「海苔、いいのがあるから送るからね」「おいしい蜜柑があるんだよ。これも送るから、みんなで食べなさいよ」

本当に、いつまでたっても私は、母の「子」なのです。

私は母の権威をそこなわないように甘え、母は母で、「いつまでも心配な息子」にエールを送り続ける。
親子とは、切っても切れない間柄なのでしょうね。


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感謝! 「颱風とざくろ」テーマ曲 発見報告

2011年05月08日 00時38分51秒 | 思い出を語る
ハンドルネーム「ひろ」さんに、「颱風とざくろ」の挿入歌「並木よ」(題名すら知りませんでした)を聞くことのできるサイト(YouTube)を知らせていただきました。
聞いてみると、意外に速いテンポです。
私はその倍くらいのスローテンポで口ずさんでいましたから、ちょっと驚きです。

ありがたいことです。
いい加減に歌っていたので、うろ覚えの歌詞の修正もできました。

http://blogs.yahoo.co.jp/alfmom29/32949011.html

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記憶力テスト2

2011年03月03日 22時18分36秒 | 思い出を語る
昨日のつづきです。
記憶違いがかなりあると思われ、どなたか訂正していただくと助かります。

14.「シャボン玉ホリデー」 
   ザ・ピーナッツ、クレージーキャッツの全盛期かな。
  「お父さん、おかゆができましたよ」「こんなときお母さんがいてくれたらなあ」のピーナッツ、ハナ肇のコントは、番組の最後の時期だっただろうか。
15.「夢で逢いましょう」 
   黒柳徹子、ミスター珍、永六輔、坂本スミ子、いずみたくらが以降活躍する土台となった NHKの番組だったと思う。
16.「少年ジェット」 
   「ウーヤッター!」のかけ声しか覚えていないが、きっと毎回見ていたと思う。
17.「スーパージェッター」 
   アニメ。空飛ぶ自家用車?に乗った少年が、人類の危機に助けに行く。
18.「鉄腕アトム」「鉄人28号」 これは言うまでもなし。
19.「変幻三日月丸」 チャンバラ劇。少年剣士が主人公だった。
20.「怪傑ハリマオー」 
   三橋三智也が「ま~っかな たいよ~」とテーマソングを歌う。バンダナ風のターバン?を巻いたハリマオーが活躍。場面も時代もきっとめちゃくちゃなんだろうけれど。
21.「お笑い3人組」 
   落語家3人の日常劇、コメディ。八百屋、クリーニング屋と、??の3人の設定。金馬、一柳斎貞凰?、とだれだっけ。顔はわかっているの             に。
22.「不思議な少年」 
   短期間NHKで放映されていたもの。タイムスリップした少年が、不思議な世界に迷い込 む。ぞくぞくして見ていた。
23.「タイムトンネル」 
   アメリカのSFドラマ。2人組の男が、タイムトンネルをくぐって、過去の世界に飛び込 む。きまって「歴史上の大事件前夜」となるのがにくい。

 こう書いていくと、私はかなりの「テレビ少年」だったことがわかる。
 最近は、息子達が常時垂れ流しているバラエティ番組にはまったく興味がなく、なんとくだらないのだと、あきれているのだけれども、上に挙げた番組とどう違う?と聞かれると、返す言葉がない。
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記憶力テスト1

2011年03月03日 01時05分03秒 | 思い出を語る
これは自分に課したテスト。
半世紀近く前の、私のよく見たテレビ番組を、どれくらい思い出せるか、書き出してみたいと思う。

私が小学校1年生のとき(だったと思う)に、父が早川電機(現在のシャープ)のボタンでチャンネルの切り替えをするという「最新型」のテレビを買ってきた。当時、私の家の周りでは、テレビを持っている家がなかったため、いつも金曜日の夜になると、近所の家からたくさんの「おじさん・おばさん」たちが集まって、プロレスを見た記憶が鮮明。
当時は、プロレス中継は隔週で放映されていて、その合間は「ディズニー」であったと思う。

さて、よく見ていた番組。小学生時代限定で考えてみることにしよう。

1.「宇宙家族ロビンソン」 アメリカのSF番組。女の子が愛らしかった。悪者の「博士」の声は熊倉一雄だったと思う。
2.「ひょっこりひょうたん島」 井上ひさしが台本を書いていたなんて、当時は知るはずもなし。
3.「ルーシーショー」 カツオくんと同じ声優さんがルーシーの声をやっていたんじゃないかな。
4.「大人のマンガ」 クレージーキャッツが時事ネタのコントをやっていた。青島幸夫が台本をてがけていた。
5.「鉄人28号」 
6.「8マン」 たしか「丸美屋」の提供。
9.「プロレス」 金曜の夜7時から1時間。提供は三菱電機。
10.「トムとジェリー」
11.「「ずばり当てましょう」 松下電器の提供。土曜日だったと思う。
12.「ロッテ 歌のアルバム」 玉置宏の司会は安心できた。
13.「大正テレビ寄席」 牧伸二がウクレレをもって司会をしていた。
 
                             つづく
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楽天家になりたい

2011年02月16日 21時53分11秒 | 思い出を語る
大学生の時代、大学紛争で自治会の再建の活動をしていたときに、一緒に、というよりもクラスのリーダーシップをとってまとめていたNくんが、「立派な活動家の条件は、楽天家であるということだと思う」と語ったことを思い出します。
私は、どちらかというと後方支援的な役割をいつも果たしていたと思います。
中心に、全面に立てないでいたのは、やはり「楽天的」ではなかったのかもしれません。

どこか心の隅に冷めたところがある。当時は、柴田翔の「去れど我らが日々」を読んでは、共感のため息など吐いていたのですから・・・

すばらしい活動家といえども、おそらくはそんな部分も併せ持っているのでしょうが、それを周りにはけっして悟られないものです。私は、表情に、そして態度に出てしまうのですから、ついてくる人まで冷めさせてしまうのかもしれません。

しかし、「楽天家でありたい」という願望は、捨ててはいないのですよ。
少しでも「世も末だ」「絶望的なこの世界」などと考えたら、やってられないですから。
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よく口ずさむ歌 ふたつ

2010年08月13日 20時08分19秒 | 思い出を語る
大学時代に、サークルのみんなでよく歌った歌はたくさんありますが、いつも部員が集まると決まって歌う歌がありました。

五つの赤い風船の「遠い世界に」です。
ちょうどその頃流行っていたこともあるのでしょうが、今でも歌詞は全部覚えていますし、よく口ずさんでいます。

「五つの赤い風船(いつつのあかいふうせん)は、日本のフォーク黎明期に現れたフォークグループ。1967年結成、1972年解散。1979年二度のライブのためだけに再結成。2000年再結成。数多くのヒットを出し、若者に絶大な人気を得た。」
メンバーは、「西岡たかし(結成時より。リーダー)藤原秀子(結成時より)有山じゅんじ(結成時より。すぐに脱退)中川イサト(結成時より。1969年脱退、1975年再加入)喜田年亮(1968年脱退)長野隆(1968年加入)東祥高(1969年加入)ながいよう(1975年加入)金森幸介(1975年加入)」(Wikipedia)

とのことですが、西岡たかし以外、まったく覚えていませんし、当時このグループが歌っている場面も見たことがなかったのは不思議なことです。

http://www.youtube.com/watch?v=E_9Q3ddEGvY
YouTubeにありましたので、さっそくパソコン相手に歌いました。

もう1曲は、「まぼろしのつばさと共に」。これも五つの赤い風船の曲です。
かなり情緒的な反戦歌ですが、当時私は「人とし生きるため」と同じくらいよく口ずさんでいました。

戦争とは「愛する人を失うもの」という考えは、この曲からも学んだに違いありません。

これもYouTubeにありました。
http://www.youtube.com/watch?v=ffK_uqmC_EI&feature=related

私の生きた歴史を語る上で欠かせない二つの歌です。
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何もなかった大学時代ですが

2010年05月05日 04時30分35秒 | 思い出を語る
 もう30年以上前の、私の大学生時代は、今から思うと「何もなかった」時代だったのだと思います。

 まず携帯電話、もちろんありません。かといって友人やサークルの仲間に連絡をするときに、自宅に電話をしたという覚えはあまりないのです。当然メールなどという手段もありませんでしたから、事前に「かたい」約束をする、サークル室でたむろして待っている、そんな方法で、連絡をとりあっていたのだと思います。だからといって不便さを感じなかったのは、その状態が当たり前だったからでしょう。
 彼女ができたときも、家からだと迷惑、不審がられると、近所の酒屋の前にある「公衆電話」で10円硬貨をたくさん握ってかけていました。彼女もアパートの部屋の前にある「共同電話」で、暑い日も寒い日も、立ち続けて応じてくれていたのでした。

 パソコン、これもパーソナルのものはありませんでした。ワープロも、私が就職をしたあとのことです。ひたすら大学ノートにメモをとって記録していました。
 ワープロは、働き始めて2年目に思い切って購入しました。まだ覚えていますが、キャノンから発売されたキャノワードという、当時とすれば「画期的」な機種。液晶の画面は、本にはさむ栞くらいの大きさで、そこに13文字が表示されるのです。バックライトなどはありませんから、ちょっと薄暗くなると、もうお手上げ、見えません。しかし手書きすることなしに印刷でき、しかも保存して書き直すこともできるのですから、すごい機械です。思い切って13万円という高額ながら購入しました。
 13文字の表示ですから、レイアウトは全然わかりません。印刷してみて、「ああ、ここが違っている」「ここは改行しないといけない」などと、けっこう紙が無駄になったものでした。

 印刷は、ロウ原紙による謄写版を使いました。コピー機もあったとは思いますが、高価だったと思います。予備校生のときのビラ作りも、鉄筆でカリカリと書きましたし、大学に入ってのビラも、同じように作成。夏の暑い日には、汗っぽい手にロウ原紙がひっついて、なかなか鉄筆を移動させることがむずかしい。印刷も、上蓋(?)をしっかり下に押しつけて、インクの塗られたローラーを均等の力でころがすのに熟練を要しました。
 毎年行う長野でのサークル合宿(一度千葉にいったことも)には、重い謄写版も持参して参加していました。

 カメラを常時持っている学生もいなかった。ですから、私たちサークルの写真、私は一枚も保持していません。(当時の思い出がすべて頭の中からのものですから、写真を撮っておけばという残念さはあります)「みんなで撮っておこう」などという声もなかったのではないでしょうか。(唯一、記憶にあるのは、「白門祭」という学園祭をようやく実現し、クラスで「喫茶店」を出したとき、クラスのリーダーだったNくんの彼女が応援にきてくれ、その写真が<撮ったのが私だったかどうかは記憶なし>家にあったことです。美人でした)

 それでも楽しい大学生活だったのは、「モノ」があふれていない分だけ、「ヒト」と交わった割合が高かったからでしょう。
 便利と幸福とは、必ずしも仲が良いとは限りません。
 
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大学時代の思い出(2)

2010年05月04日 02時56分35秒 | 思い出を語る
 駿河台の中央大学には、二つの学生食堂があり、ひとつは本校舎の地下に、もうひとつは生協のある南の校舎にありました。どちらも、お世辞にもきれいな食堂とは言い難く、とにかく安いだけの飯屋だったという記憶です。

 品数は多いものの、やはり毎日順繰りに食べていても、いずれ飽きるものです。
 そんなときは、神田の古本街界隈の店に繰り出します。
 もうあるのかないのか、よく分からないのですが・・・いくつか思い出す範囲で。

 天丼、天ぷら定食の「いもや」、ここはご飯が大盛りでも同じ値段。ただ残してはいけません。三省堂の向かい側、その路地裏にあった、挽肉カレーや。名前を忘れましが、これだけしかメニューはなかったと思います。その真向かいに、チャーハンの店。悲しいかな、店の名前が出てきません。このチャーハンはいたってシンプル。丸底の中華鍋(?)に卵を割って、白米を入れ、チャーシューを入れ、最後に鳴門巻きを刻んだ物とラーメンのスープの素を投げ入れて完成。この味は、いまだに覚えているくらい、当時の私にとっては美味しいものでした。
 
 中大の南門を出て、靖国通りに向かう道の左側では、二軒の記憶。
 納豆定食、メンチカツ定食の店。ああ、じれったいです。店の名前はどうでもよかったのでしょうね。その二軒ほど先に、焼き肉定食の店。喫茶店風の内装ですが、タマネギをピリ辛に炒めたものがついてきます。小さいときはタマネギは大嫌いだったのですが、このおかげで苦にならなくなったと思います。

 けっこう通ったと思いますが、「いもや」以外の名前が出てこないのは、私の観察眼のなさからくるものかもしれません。
 
 南門を左手に曲がって、校舎沿いに歩いて行くと、入り浸っていた「ソフィア」という喫茶店がありました。
 ここで、おしぼりで顔や手足を拭きながら、サークルの方針を話し合い、試験の対策を練り、また昼寝をしたものでした。

 「大竹しのぶが、うちの学校を受けるらしいんだ。オレ、もし入ってきたらファンクラブの会長になるから」と、クラスメイトから聞かされたのもここ。
 「うーーん、私、Dのことも気になるの・・・」と、好きだった子から、事実上私をフル言葉を聞いたのもここ。
 「ソフィア」とは、なかなかいいネーミングです。(上智のそばでないところも乙)

 入学式に、私に声をかけた「運命の女子学生」は、キヨミちゃんという、もう大人の顔立ちの学生でした。誠実に、しかしかなり強引に、有意義な大学生活を送るには、サークルには入るべきだということ、いま日本が抱えている社会の矛盾に関心を持たなければならないということなどを、ゆったりと私に話しました。

 中学生の親友のAくんが、ゲバラに心酔して、私に熱く語ったこと。
 高校生のとき、長野の学生村で、東京演劇アンサンブルの劇団員と知り合ったこと。
 予備校のときに、ベトナム人民支援委員会のメンバーと出会ったこと。
 それについで、4番目の「私の生きる道」を決める出会いです。

 そして、ここで初めて私は、「問題」(未解放、被差別と、名称は立場によりやや異なるのですが)

 
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