







東長崎、北口を歩いてきた。
私が、幼児期から小学校4年生まで育った街だ。
もう半世紀近くも前のことであるから、その変貌には驚くべきものがある。
ぶらぶら歩いたが、当時を思い出させるものは、この写真にあるくらい。
やはり時間の流れは、残酷だ。
上から順に説明をすると、こうだ。
1.「愛の家」 小さいころはなんだかよく分からないまま、よく遊びに行った。
ホームページで調べると、「本園はキリスト教の精神に基づき、大正12年に創設された歴史ある保育施設です。
西武池袋線東長崎駅のすぐ近くという交通の便利な地にあり、建物の1階部分に保育園、2階以上は母子生活支援施設として運営されています。食事は園職員手作りの完全給食を実施をしており、無農薬・添加物の少ない安全な食品を使用するよう心がけています。」とあった。鉄筋コンクリートになってはいるが、当時は木造だったと思う。
2.東長崎郵便局。かつての家から歩いて1分もかからなかった。ここも建物は新しくなっている。
3.わが母園。長崎幼稚園。最初、道を2本も間違えてしまい、近くにいたおばあさんに聞いて、ようやく場所が分かる。後述の「飯田畳店」のすぐそばだったなんて、すっかりと忘れていた。
雨が降っては、風が吹いては、すぐに「おやすみ」したくなる私だった。
4.田島商店。乾物屋さんである。ここでよく、鰹節を買った。となりの渡辺茶屋は、こうば湯(銭湯)のとなりに引っ越していた。(田島商店のおじさんに聞く)
5.飯田畳店。もう代替わりしているかもしれない。ちなみに長男は同級生。メガネをかけ、屈託のない好青年、いや好少年だった。
6.カテイ堂薬局。ここも昔からあって、よく薬を買いに行ったものだった。
7.父と母とが、初めて東京に出て、最初に住んだアパートにつながる路地の入り口。面影は残っている。奥の右がアパートで、
何年かたって、今度は左奥の一軒家を借りた。
しげちゃんという子と、よく月光仮面ごっこをした。この写真の奥、やや左に井戸があったのを記憶している。
マスダさん、ホリグチさん、今はどうしているのだろうか。
8.路地には、二軒の飲み屋があった。一軒は「ツルカワ」という日本酒専門の店。ここでは老犬を飼っていて、その犬はもいつの間にか、一日に一回は、うちの玄関を訪れるようになった。私はいつも「煮干し」をあげていた。父には、なにもなくてもなついていたものだった。もう一軒が、この写真。すでに店じまいをして、何年もたっているようだ。ここには、小太りの若い「まーちゃん(うーん、ちょっと違うかな)」という娘がいて、すぐ上で、東大生(ハセガワさん)と同棲していた。この学生は、どういったいきさつかは知らないが、私の家庭教師をしてくれていた。4年生の私は、そこで英語と算数を教えてもらいに通っていた。今考えると、机に座って勉強している後ろで、「まーちゃん」が着替えていたり、化粧をしていたりしていたのを思い出す。
なんの疑問も湧かなかった年頃。
9.魚勝。まだ健在だった。この横の路地を入ったところが「我が家」だ。店の横では、メガネをかけ、半ズボンをはいたおじさんが、しきりに、群がるハエを、はえ叩きでたたいていた。この路地で、よく野球をしたのだが、こんなに狭い道だったんだ。
好きだった「ケイコちゃん」の家は、とうとう見つけることができず。前回は、確認できたのに・・・