goo blog サービス終了のお知らせ 

息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

尋ね人

2016年11月22日 07時48分18秒 | 思い出を語る
しみずよしつぐくんの消息をお知りのかたは、いらっしゃいませんか。
チャックという渾名でしたが、これは内輪の間での使用。会いたい友人です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島 流川 「緑」 きよこさん

2016年08月03日 23時53分05秒 | 思い出を語る
広島、流川の隅っこに、小さな赤提灯の飲み屋がありました。
ひなびたソープランド街を通り抜けて、本当にひっそりと開いている小さな店、「緑」です。
もう30年近くも前になります。
広島を訪れたときに、ぶらっと入った店。
こじんまりとしていて、おばあさん1人でやっているような店。ちょうどぴったりの印象だったからです。
隣がキャッチバー、前が貸本屋とお好み焼き屋を合わせたような店。

店は六畳あるかないか。カウンターだけ。7,8人で満席。
おかみさんは70ほどの色白美人(元かな)
よく笑い、よくしゃべり、よく詩吟を吟じてくれた。
初回に、私が看板までいると、気持ちよく酔った「清子さん」は、立つことができなくて、背負って2階の自宅に連れて行き、寝かしてあげました。
下に降りて、食器を洗い、シャッターを下ろしてホテルへ。
翌日の夕方に店を訪れると、酔って介抱されたことを、いたく恐縮していて、「来たらごちそうしようと、福屋に行って買い物をしてきた」と、このわた(初めて食べた)、鱧を振る舞ってくれました。

もともとは四国の出身。京都で働いていて、呉服問屋のお妾さんとしてしばらくは過ごしていたようです。
旦那が亡くなって、広島に。そして被爆。
「遠くにいたのでたいしたことがなかったのよ」と、被爆者手帳を持ってはいても、幸いに使うことはなかったらしい。
貴金属と宝石が好きで、よく買い物をしているらしく、私にもその数々を見せてくれる。

その年から、毎年広島に行くたびに、「緑」に寄りました。
1年でたった2日か3日だけですが、夏になると毎回、6日前後に訪れた店でした。
「もう来る頃だと思っていたのよ」と、いつも「鱧」「このわた」による歓迎をされます。
3年目に、店の時計が壊れてしまっていたので、新しい柱時計をプレゼントしました。

あいかわらず店じまいには、酔いつぶれてしまう清子さんですが、「ふつうに結婚していたら、あなたくらいの息子がいてもおかしくないわよね。
生まれ変わったら、あなた、子どもになってで来なさいよ」と言っていたものでした。

6年目の夏。
東京土産を片手に、「緑」を訪れると。
そこは駐車場と変わっていました。
前の店で聞くと、「去年の暮れに亡くなってねえ」とのこと。
親類の方が四国からやってきて、一切合切、店のものは処分したとのこと。
きっとあの時計も・・・
去年の夏、どんな会話をして、どんな別れ方をしたのだろう。
もっともっと、清子さんの生き様を知りたかった。語ってほしかった。
「また来年ね」
そんな言葉は、あてにはできない。

名古屋の母と別れたときに、このことを思い出すべきだった。
母も清子さんと、同じくらいの歳になってきている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まぼろしの翼とともに

2016年08月03日 21時47分03秒 | 思い出を語る
この歌、よく口ずさむのだが、いつ覚え、どんな経過でずっと歌い続けてきたのか、自分でもわからない。
西岡たかしは知ってはいたが、夢中になって聞いていたという記憶はない。
五つの赤い風船は「遠い世界に」が、大学のサークルの「部歌」的なものであったから、その関連からかもしれない。

誰もがそうかもしれないが、昔の歌は、その歌が自分のなにかしらの経験、事件と結びついていることが多い。

天地真理の「水色の恋」は、高3のときに大宮で下宿をしていたころ、銭湯で初めて聴いた歌。
「思い出のセレナーデ」は、大学3年のときに、「のりちゃん」というサークルの仲間と、地域ボランティアのあと、浅草橋の銭湯に行き、帰りに2人で口ずさんだ歌。
三善英次?の「雨」は、大学1年のサークルの合宿で長野、飯山に行ったときに流行っていた歌。「心の旅」も同時期に流行っていたなあ。
「京都の恋」は高校の修学旅行のとき。

そんな感じで・・・
歌詞はここでご覧ください。

http://www.kasi-time.com/item-21674.html

http://www.uta-net.com/movie/43182/

8月。
また、戦争を想起させる月がやってきた。
明日から息子夫婦は、広島の平和集会へと。
なにを学んでくるのかは分からないが、どうか観光のついて・・・という発想でないことを。

「まぼろしの翼とともに」は、口ずさむたびに、どんな所でも背筋をのばす。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鱒寿司 富山競輪場 そして父

2015年12月07日 01時07分47秒 | 思い出を語る
私がよく買ってくるためだろう。うちの息子は2人とも鱒寿司が好きである。
そしてまた、その嫁さんもよく食べてくれる。
月に1,2度は、私が池袋のデパ地下で買ってきては、みんなして分けて食べるからだろうと思っている。

父は、私が小学校の低学年のころまでは、競輪の選手であった。
すでに実力の峠は越えていたとは思うのだが、覚えている限りでは、もうB級の選手としての父しか知らない。
その父が、遠征に行っては、よくみやげを買ってきてくれた。
覚えているのは、函館からは、青い缶に詰められたトラピストのバター、そして富山の鱒寿司である。
年に1,2回だったと思うが、富山の帰りは必ずと言っていいほど、鱒寿司であった。

鱒の肉を酢でしめて、円い形の押し寿司にしたもので、それがおいしくて、いつも父に、
「今度はいつ富山に行くの?」
と聞いてねだったものだった。

父は私が小学校の3年生ごろに引退するのだが、当時は東京では鱒寿司は販売されていないで、しばらくおあずけの状態だったと思う。
その鱒寿司が、東京でも販売されるようになったのはいつごろだったのか記憶にはないが、デパートやスーパーで行われる「駅弁販売」の
イベントの際には、よく出かけて買ってきたものだった。
そして池袋では、東武も西武も、鱒寿司が常時店頭販売されるようになった。

東京で食べることのできる鱒寿司は、2種類ほどのもので、元祖源のものもあるが、肉が薄い。
しかしそれでも鱒寿司には変わらない。
せっせと私が買って、食卓に並べているうちに、鱒寿司は息子たちの好物にまでなってしまったのだと思う。

息子たちの嗜好とはひと味異なり、私には父の思い出が重なっている。

土日に、妻と富山に旅行に出かけた。
ほたるいか、のどぐろ、白エビ、鱒寿司を食べに、という名目だが、私は「富山競輪場を一目見ておきたい」という理由からだ。
父が訪れて、走り、その帰りにみやげを買ってくる。それを少しばかり追体験しておきたいという気持ちから。

富山駅からライトレールという路面(的)電車に乗って、約20分ほどのところの、海に近い場所に競輪場はある。
岩瀬浜という終点のひとつ前の駅が競輪場前という駅だ。
厚手のジャンパー、片手にスポーツ新聞、そんな乗客が乗り込んだ電車は、かつての武蔵野線と同じ雰囲気をもっている。
寒冷地のため、冬場は開催されていないというから、今日は場外のみかなとも思ったが、よくは分からず。
電車の窓から競輪場の高い壁しか見ることはできなかったが、ここでかつて父は走ったのだ、泊まったのだ、家族を思ったのだと
思うと、また私と父との「独り対話」をすることができた。
曇天、風が湿っていて冷たい。
海側には晴れ間が見えているのに、立山の方角の空には、黒く渦巻くような不気味な雲が恐ろしい速さで流れている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島 「緑」の亡きママさん

2015年08月06日 09時39分44秒 | 思い出を語る
もう10年以上も前に、8月6日を挟んで、毎年広島を訪れた時があった。自堕落な自分を、この日にリセットする意味合いでの訪問だ。最初の訪問のときに、流川(流河?)の歓楽街の端に小さな飲み屋を見つけて入った。カウンターだけ。客も7、8人入ればいっぱいになるくらいの小さな飲み屋だ。ママさんは一人。70前後か。くたびれた感じではなく、真っ白に化粧して、姿勢もいい、しっかり生きているといった印象。飲み屋の名前は「緑」。
飲み進めているうちに意気投合して、あれこれと話が弾む。習っている詩吟も披露していただく。出身は高知。岐阜か京都か忘れたが、織物問屋の主人のお妾さんとなり、彼の死後に広島で飲み屋を始めたと言う。被爆者手帳を持っていて、市内からは離れたところで被爆されたとのこと。
酒にはあまり強くなく、店じまいのころには、立っていられないくらいになり、私が背負って2階の部屋に行き、寝かしつけ、食器を洗い、店の戸締まりをしてホテルにもどった。
翌日の夜に再度店に行くと、ママさんはえらく恐縮し、感激していたようで、「あなたがまた来ると思って、ふくやで買ってきたの」と、このわたを振る舞ってくれた。初めて口にするこのわた。なにかヘソの緒のなまものといった感じだったが、気持ちをありがたくいただいた。
それから5年間ほど、毎年原爆忌には「緑」を訪れて、酒を飲み交わし、ママさんの詩吟を聞き、この日のために買っておいたというこのわた、はもなどを食べさせてもらった。
お子さんには恵まれなかったそうで、「もし授かったなら一人で育てていく決心はしていたのにねえ」とこぼしていた。
5年目に訪れたとき。店の前まで来ると、店はあとかたもなく、そこは駐車場に変わっていた。嫌な予感だ。はす向かいのお好み焼き屋に入って訪ねると、年の初めに亡くなられたとのこと。親戚の方かは分からないが、店のものや部屋のものは、一日がかりでどこかに運ばれていったとのこと。「元気のいい方でしたのにねえ」とも。
去年、掛け時計が壊れてしまったとかで、プレゼントした新しい時計。「時は止まってくれたほうがいいなあ」と言って笑っていたママさんだった。
いつも6日の原爆忌には、「緑」のことを思い出す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めとめ先輩の死

2013年04月21日 21時50分07秒 | 思い出を語る
大学のサークルの先輩「めとめ」が亡くなった。
夫婦揃って先輩だから、「いつでも会える」と、高をくくっていたのですが、
前回の先輩(2011.8)につづき、またも「話ができないまま」の別れです。

「めとめ」は、松戸の市議会議員として、長い間活躍していたとのことですが、そのことすら
きちんと私は把握していなかったのでした。
奥さんとは電話で何度も話していましたし、彼が入院していたことも知ってはいましたが、
あのパワフルな彼が「死ぬわけがない」と、見舞いにも行かず、いずれ退院したら祝いに
いってみよう程度に考えていたのでした。

ネットで、議員時代のことを検索してみると、市議会の議員さんのブログに、こんな記事を
見つけました。
2006年9月7日の記事です。

「9月6日、松戸市議会9月定例会一般質問の3日目、山口博行議員(日本共産党)の最後の一般質問がありました。
 その力量は、行政も議員も認めるところです。引退を惜しむ声は本当に多く、議場の、あるいは議場の外の人たちが聴きいる中、最後の質問は行われました。
 今期は山口さんの隣の席でずいぶん教えてもらえてよかったっけとか、私が議員になる前の議会傍聴を続けていた頃に、山口さんの質問で議場の雰囲気が一変したことがあったっけとか、常任委員会がいっしょで視察先で話したこととか、様々なシーンを想い出しつつ、私も聴きいりました。
 市政全体の筋道の話で将来を案じての締めに、いつもの厳しさは見られませんでしたが、議場全体から拍手が起きました。傍聴席での拍手は禁じられていますので私は控えましたが、もう彼の一般質問が聴けないのは、心底、残念です。」

穏やかで、おそらく彼が声を荒げたことなど、1回もなかったと思うくらい、相手の目線で考え、的確なアドバイスをしてくれた先輩でした。
私たちのサークルは、いわゆる「社会科学」系のもので、いつも「日本の未来は」「私たちの生き方は」など、熱く語り合ったものでしたが、彼の言葉は、その一つ一つが、「後輩」にとっての羅針盤でした。

大学を卒業して、1度たりとも話をしていなかったこと。
悔やんでも悔やみきれない思いです。

サークルのみんなと、一時期「空白の期間」を作ってしまった、私の「身から出たさび」「自業自得」なのですから。

めとめ、ありがとうございました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪!

2013年01月14日 19時17分32秒 | 思い出を語る
久しぶりの「大雪」です。
もちろん東京では、ということですが。

10cmほども積もったでしょうか。それだけで、電車は止まる、道路は渋滞、転倒事故は多発。
そんな脆弱な首都です。

めったに降らない雪ですから、雪に関する思い出は、意外と少ないものです。

中一のとき、前の日の夜半から降り始めた雪が、朝には30センチほどになっていたのだと思います。
必死になって、電車に乗りましたが、途中で走る、止まるの繰り返し、満員の電車では、窓ガラスは割れる、
どこからか女性の悲鳴が聞こえる。そんなパニック同然の通勤状況で、ようやく池袋の中学校に着いたのが
2時間後。ふだんは40分ほどの通学なのですが。
通常なら2時間目の途中かなと思って、正門にたどり着くと、
「今日は休校にします」のすげない表示。
また2時間かけて帰宅したことです。

それから中三のとき、埼玉県の高校入試が大雪で延期になったこと。これは事前に分かったので、会場の浦和まで
行かずにすみました。

あとは・・・どうも思い出せないほどのか細いものばかりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川岳

2012年10月02日 22時40分10秒 | 思い出を語る
そういえば、父は「谷川岳に登ったことがある」と言っていた。
小学生ごろに聞いた話で、それ以上も、それ以下のことではないのだが、
若いときの父なら、きっとやるだろうとも思う。

競輪の選手であった父は、毎日、早朝に栃木を出て、東京まで走り、折り返して
また栃木に帰るというトレーニングを毎日繰り返したと言っていた。
それほど根気強く、「続ける」といったことには有言実行の父であった。
その遺伝子が私にも受け継がれていたらなあと、今も思う。

まだ二十歳と少しの母を連れて、東京にやってきた父。
あ、その時には四歳の私がいたのだ。
これから東京で家族を守る、家庭を作るということでは、さぞかし心細かったに違いない。

いかつい顔立ちとは正反対に、人が好きで、面倒見がよかった父だからこそ、東京に根を張って、
友人をたくさん作ったのだろうと思う。
おそらく、「人を憎む」という感情とは縁がなかった父。
その気質は、私も受け継いでいる。

大正14年2月28日生
平成元年9月26日没
昭和をまるまる生きた父。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足元の敷石がひとつひとつ・・・伊藤エミさん死去

2012年06月27日 23時23分28秒 | 思い出を語る
 こんな年齢になっていることも知らなかった。
 「シャボン玉ホリデー」の出演者も、櫛の歯が1本ずつ抜け落ちるよう。

 彼女が引退、結婚し、マスコミと完全に縁を切ってからは、音源のみでの関わりとなっていたので、
 容姿、年齢は、まったく変化なしのままであったのだ。

 テレビっ子だった私は、ほぼ全ての「シャボン玉ホリデー」を見たのだろうと思う。
 

「双子の人気ポップスデュオ「ザ・ピーナッツ」で活躍した伊藤エミさんが15日に亡くなった。

 告別式は近親者で済ませた。71歳だった。

 伊藤さんは愛知県出身。ナイトクラブで歌っているところをスカウトされ、妹のユミさんとともに「ザ・ピーナッツ」を結成。1959年に「可愛い花」で、レコードデビューした。人気テレビ番組「ザ・ヒットパレード」や「シャボン玉ホリデー」に出演し、かわいらしい歌声と息の合ったハーモニーで人気を集めた。

 代表曲は「情熱の花」「月影のナポリ」「ふりむかないで」「恋のバカンス」「恋のフーガ」など。また、米国のテレビ番組「エド・サリバン・ショー」や映画「モスラ」などにも出演した。

 ザ・ピーナッツは1975年に芸能界を引退。伊藤さんは、歌手の沢田研二さんと結婚したが87年に離婚していた。」
                                                      (読売)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亡き父に そして母 妹に

2012年06月04日 22時04分46秒 | 思い出を語る
昨日の写真掲載の記事は、東京に出てまもない父と母に宛てたもの。

当時、30前半の父と、20半ばの母とが、これから誕生する妹と、小学生の私のために、必死に働いていた
ころ。

父は、もういないが、私の中には、この写真の風景とともに、しっかりと生きている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半世紀前の東長崎をさがす

2012年06月03日 23時02分18秒 | 思い出を語る



東長崎、北口を歩いてきた。
私が、幼児期から小学校4年生まで育った街だ。
もう半世紀近くも前のことであるから、その変貌には驚くべきものがある。
ぶらぶら歩いたが、当時を思い出させるものは、この写真にあるくらい。
やはり時間の流れは、残酷だ。

上から順に説明をすると、こうだ。

1.「愛の家」 小さいころはなんだかよく分からないまま、よく遊びに行った。
 ホームページで調べると、「本園はキリスト教の精神に基づき、大正12年に創設された歴史ある保育施設です。
西武池袋線東長崎駅のすぐ近くという交通の便利な地にあり、建物の1階部分に保育園、2階以上は母子生活支援施設として運営されています。食事は園職員手作りの完全給食を実施をしており、無農薬・添加物の少ない安全な食品を使用するよう心がけています。」とあった。鉄筋コンクリートになってはいるが、当時は木造だったと思う。

2.東長崎郵便局。かつての家から歩いて1分もかからなかった。ここも建物は新しくなっている。

3.わが母園。長崎幼稚園。最初、道を2本も間違えてしまい、近くにいたおばあさんに聞いて、ようやく場所が分かる。後述の「飯田畳店」のすぐそばだったなんて、すっかりと忘れていた。
 雨が降っては、風が吹いては、すぐに「おやすみ」したくなる私だった。

4.田島商店。乾物屋さんである。ここでよく、鰹節を買った。となりの渡辺茶屋は、こうば湯(銭湯)のとなりに引っ越していた。(田島商店のおじさんに聞く)

5.飯田畳店。もう代替わりしているかもしれない。ちなみに長男は同級生。メガネをかけ、屈託のない好青年、いや好少年だった。

6.カテイ堂薬局。ここも昔からあって、よく薬を買いに行ったものだった。

7.父と母とが、初めて東京に出て、最初に住んだアパートにつながる路地の入り口。面影は残っている。奥の右がアパートで、
何年かたって、今度は左奥の一軒家を借りた。
 しげちゃんという子と、よく月光仮面ごっこをした。この写真の奥、やや左に井戸があったのを記憶している。
 マスダさん、ホリグチさん、今はどうしているのだろうか。

8.路地には、二軒の飲み屋があった。一軒は「ツルカワ」という日本酒専門の店。ここでは老犬を飼っていて、その犬はもいつの間にか、一日に一回は、うちの玄関を訪れるようになった。私はいつも「煮干し」をあげていた。父には、なにもなくてもなついていたものだった。もう一軒が、この写真。すでに店じまいをして、何年もたっているようだ。ここには、小太りの若い「まーちゃん(うーん、ちょっと違うかな)」という娘がいて、すぐ上で、東大生(ハセガワさん)と同棲していた。この学生は、どういったいきさつかは知らないが、私の家庭教師をしてくれていた。4年生の私は、そこで英語と算数を教えてもらいに通っていた。今考えると、机に座って勉強している後ろで、「まーちゃん」が着替えていたり、化粧をしていたりしていたのを思い出す。
なんの疑問も湧かなかった年頃。

9.魚勝。まだ健在だった。この横の路地を入ったところが「我が家」だ。店の横では、メガネをかけ、半ズボンをはいたおじさんが、しきりに、群がるハエを、はえ叩きでたたいていた。この路地で、よく野球をしたのだが、こんなに狭い道だったんだ。


好きだった「ケイコちゃん」の家は、とうとう見つけることができず。前回は、確認できたのに・・・


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新藤兼人氏 尾崎紀世彦氏 

2012年06月03日 07時56分16秒 | 思い出を語る
尾崎紀世彦氏は、私が高校から大学に進学したころが絶頂期だったように思える。
「また逢う日まで」は、私もよく口ずさんだ。

ふたりでドアを閉めて~ ふたりで名前消して~

このフレーズは、口を大きく開けて歌うと気持ち良かったのだと思う。何度も、ここだけを繰り返して歌っていたような気がする。
そのあと「さよならをもう一度」「ゴッドファーザー~愛のテーマ」くらいしかヒット曲はなかったと記憶する。
歌唱力はありながら、何かに恵まれなかったのだろう。


新藤兼人氏は、山本薩夫氏らと同じく、「直球勝負」の脚本家、監督であった。
明確なテーマ、それも社会性のはっきりしたものを持ち、そのままを映像化してきた。
だから、私にとって、彼の映画は、「娯楽」ではなく、「学習」の場であった。
「原爆の子」「第五福竜丸」「裸の島」
私はこの三本しか観ていないのだから、すすんで観ようとした映画・監督とはいえないかもしれない。
しかし、一貫して平和を追求する姿勢には、いつも敬服の念は抱いていたと思う。独立プロとしての経営も大変だったに違いない。

この二人にも、今の私を形成する上で刺激や栄養をいただいたに違いない。

ありがとうございました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠い世界に

2012年02月13日 22時43分15秒 | 思い出を語る
私たちは大学の4年間、ずっと「遠い世界に」をサークルのテーマソングとして歌ってきた。
当時、チェリッシュやらキャンディーズやら山口百恵やらの曲が流行っていて、法学部のクラスのよこたくんがエッちゃんの大ファンであったことを思い出すが、私たちサークルでは、もっぱら、この「遠い世界に」ばかりだった。

この歌をよく知らなかった私は、サークルの誰かが作った歌とばかり思っていて、あとから五つの赤い風船の持ち歌だと聞いて、恥じ入ったものだった。

なにか集まりがあれば、みんなで肩を組んで、「遠い世界に」を歌う。なんの不思議もなかった、一途な、そして幼かった私たちだ。

よく新宿に行っては、今の山田電気あたりにあった歌声喫茶「ともしび」で、歌ったものだった。これもよく知らなかったロシア民謡や労働歌の洗礼にもあった。
「すずらん」「黒い瞳の」「ともしび」「インターナショナル」「国際学連の歌」「がんばろう」「惜別の歌」(これは大学の第二校歌でもあった
  http://www.youtube.com/watch?v=CYl9nlD4hDk ネットで調べるとここで聴くことができた)
今は店はなくなったが、先日新宿を歩いていると、ケンタッキーフライドチキンの店の上階に「ともしび」の名前を見つけた。まだ灯はともっていたのだ。

吉祥寺の「ともしび」にも同じくらい通ったものだった。駅前に労働者向け、専門の書店があり、そこをのぞいてから、歌声喫茶へというのが、私の定番コースだった。

時間は使い放題。老いるとか、力関係の渦巻く職場であくせく働くなどということなど、まったく微塵も考えることなく、語り合い、唾を飛ばすほど激論をし合い、そして肩を組み、歌を歌った日々の重なりだった。

みほちゃんから、「このときにもどって、毎日こうしていたい」というメールが来た。

あの良き時代は、それこそ「遠い世界に」去ってしまったが、いつでも戻ることのできる世界でもあるのだ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありがたい仲間たち 悲しいほど嬉しかった

2012年02月11日 23時46分44秒 | 思い出を語る
35年の時空を飛び越えて、私を一気に大学生へと変身させてくれた。

4年間のサークル活動。
何度も書いてきたことだが、この時間を経ることなしに、今の私はない。
毎日、屋根裏のサークル室に入り浸り、ひたすら「差別」について語り合い、本を読みあさり、また語り合う。

東京のはずれにある、「貧困」の集積しきった地域に赴き、子供達と遊び、家庭を訪問し、現実から必死に、現在日本を学び取ろうとしていた4年間。

今考えれば、なんと稚拙な・・・とは思うが、みな一人一人必死であったのだ。

一気に、私はサークル室に飛ぶ。

ホリも、まっちゃんも、かずえちゃんも、だいごろうも、ペコも、ポンタも、ムロも、ワコも、みほちゃんも、そして私も、あの汚いサークル室の、長椅子に腰をかけて、熱く語り合っている。

時間の流れは残酷ではあるが、今、ここ、このときは、あらゆるものから隔たった「止まっている世界」。

悲しいくらいの至福なときを、いただいた一日。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

35年ぶりの再会

2012年02月11日 00時01分48秒 | 思い出を語る
大学のサークル仲間と、35年ぶりに再会します。

年月は経っているものの、私には、つい昨日のように感じる「あの日々」です。

そとみは変わったでしょうが、気持ちは、あのときのまま。

長い空白の時間を埋め合わせできる言葉が出てくるでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする