goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

こどもにどんな社会を残せるか

2010年04月26日 21時57分08秒 | 思い出を語る
 たしか大学の2年生のときです。
 うちにクラスの友達が集まって、ドイツ語の定期試験の対策合宿をしたことがありました。ドイツ語の先生は、テキストを1人1人指名して、読ませ、日本語に訳させる方で、予習をしてこないものなら、きぴしく叱正される方でした。
 あるときに、クラスメイトが、なんとそのテキストの対訳本を探して、私たちにコピーをして渡してくれました。
 なんと親切なやつ。

 彼の行為のおかげで、どれだけ日々の授業が楽になったか、計りしれません。

 しかし、その幸せな気分は長くはつづきませんでした。

 私たちはいともかんたんにドイツ語を訳していくわけですから、スムーズに進むことは当たり前です。先生もやりがいがあるようで、どんどん授業は進行していきます。
 そして・・・

 前期の定期考査が近づいたころ、こなしたテキストは、なんと2冊になっていたのでした。

 2冊で200ページ以上もあるかというドイツ語の文章です。(きっと先生はわかっていてどんどん進めていたのでしょう)
 理解してすらすら答えたわけではない文章が試験範囲となったのですから、それこそ「地獄」です。

 そこで急遽、普段「いい加減にやっていた」男子学生が10人ほど、私の家で特訓することになったのです。

 まあ、それはいいとして(長々書きましたが、なんとか及第点をとりましたので)

 その合宿の夕飯のときに、スーパーでおにぎりやサンドウィッチ、ビール(!)などを買い込んで、みんなで丸くなって飲み食いしていたときに。

 もう誰が言ったのか記憶にないのですが、学生時代によくある「青臭い話」になりました。「僕たちは、なんのために生きているのだろう」といったテーマでした。

 「そりゃあ、いい女と一緒になりたいからさ」「好きなことをやって、そこそこ食えれば幸せ」「やっぱり弁護士になりたいよ。正義の味方が理想だったから」「親父が弁護士を目指して挫折したみたいなんで、弁護士になって喜ばせたい」「やはり自分が一番かわいいし大切なんだと思う。人のためなんてのは偽善だよ」「でも、自分のしたことが他の人に喜んでもらえると、ちょっといい幸福感がある」「それも自己満足なんじゃない?」

 パソコンも携帯もない時代です。

 そんな中で、こんなことを言った友人がいました。

 「堂々巡りみたいな考えだけど、オレは子どもが一番大事だと思うんだ。この世の中で損得を考えないでいられるのは、親子の関係だろ? だからオレは、こどもはこの世の中で一番尊いものだと考えている。まだ結婚もしてないし、こどもだっていないけど、親父やお袋のことを見ていると、2人は自分よりも子どものオレが第一なんだ。
 だからさ、オレたちの仕事や生活は、オレたちの次の世代のこどもたちに、今よりもっと自由で、やりがいがあって、幸せな社会にすることを、生きていく目的にしていくことが大事なんだと思うなあ。
 だから、どんな仕事でもいいんだ。そこで、なんらかの形で、次の世の中のために何ができるかを、みんなが考える必要があるんだと思う。」

 若い彼が、どれだけ実感をこめて熱く語ったのかは、なんとも言えないけれど、そしてそのときは全く「問題外」として聞き過ごしてしまったのだけれど、今、この歳になって、あらためてこの内容を思うと、「そうだよなあ」と納得してしまいます。

 だから、その言葉に励まされて、私は、自分だけの幸せに固執はしない、自分の仕事は第二に位置させる、組合に入り活動する、政治的な無関心にはならないで発言する、そんなスタンスでこれまでやってこれたのだろうと思います。

  
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクラ咲くころ

2010年03月31日 00時14分38秒 | 思い出を語る
学校の裏庭にある桜の木が、たくさんの花を咲かせ始めました。
一方の正門のほうは、まだパラパラの程度ですので、花の知識皆無の私には、「品種の違いかな、植えられている場所も違うからかな」くらいしか思いつきません。

裏庭は北側、日照も圧倒的に正門のほうがいいですから、これは品種なのだと、勝手に判断しています。

もうず~っと前、新宿御苑で、桜吹雪の中をデートしたこと、石神井公園で夜桜を見にいったりしたこと、新越谷の元荒川の川岸が桜で満開だったこと・・・・
どれも、デートの場面の思い出。

それぞれ、相手はもう彼方に去っていってしまった人ばかりだけど、元気でいるだろうかと思ってしまう。

可憐でもあり、ちょっぴり魔性を帯びたサクラでもあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人とし生きるために

2010年03月21日 21時39分34秒 | 思い出を語る
学生時代によくみんなで歌った歌があります。
どこでどう歌われ続けられたものかは、まったく分かりませんが、今の格差時代にも通じる歌詞のような気がしています。
私は、よく口ずさむのですが、もうこの歌を覚えていて、思い出しては歌っているのは、私だけかもしれません。

 人とし生きるために
        【作詞・作曲】左腰広志


地の底から 地の底から
怒りが 燃え上がる
この切羽で この切羽で
仲間が息絶えた
金のためには
人の生命も
奪い去る奴らに
怒りが燃える

血にまみれた 血にまみれた
写真が落ちていた
学生帽の ランドセルの
顔が笑っていた
この子にすべての
望みたくして
働いてた
友の姿がうかぶ

命かけて 命かけて
きずきあげた職場
この職場に 闘いの火を
燃やし続けよう
人とし 生きるため
子らの未来のためにこそ
搾取の鎖を
絶ち切ろう

 人とし 生きるため
 子らの未来のためにこそ
 搾取の鎖を
 絶ち切ろう


※ネットで調べてみると、ありました!
 これは、北海道の太平洋炭鉱の労働者が作ったものとか。
 ただ、それ以外のことはわからないようです。
 そのホームページには、
 「太平洋炭鉱は北海道釧路市にあり、2002年1月30日、日本最後の炭鉱として閉山、82年の歴史に幕をおろしました。三池炭鉱と同じく三井系の炭鉱でした。闘う労働組合も、三池闘争を最後として、御用組合に成り下がって行ったようでした。」
 という記述も見られ、荒木栄らが活躍(?)していた時代とも重なるのかもしれません。
 (http://www.utagoekissa.com/utagoe.php?title=hitotoshiikirutameni&type=midi)

 さらにこんなHPも見つけました。

 「63年11月9日に三池三川坑で451人、65年2月に北炭夕張で62人、6月に山野で237人がガス爆発事故で死亡した。
 66年には太平洋炭鉱でも死亡事故が続いたが、この年の死亡者4人はすべて社外員と呼ばれる下請労働者だった。低賃金を個人で克服するために長時間労働を行っていた。そして危険とわかっていても、改善要求が出来ない従属関係のもとで沈黙を続けていた。事故は、直轄労働者との大きな差別のもとで、低賃金と無権利の状態が引き起こしたことは明らかだった。
 ♪「地の底から 地の底から・・・
 この『人とし生きるために』の歌は、このときの情況を歌ったものである。
 労働組合は、「同じ坑内に働いていて死んでからも社外員という差別で弔慰金が少ないのでは、労働者の結束はない」と弔慰金を炭労と同額にすることを要求しストライキを構えて獲得した。労働組合は、以後もこの姿勢を貫いた。」
 (http://www014.upp.so-net.ne.jp/tor-ks/uni/uni21.htm)

 学生時代の私たちは「未解放」(被差別)について学んでいたため、社会の底辺にあたる人々についての問題意識は、おそらくは高かったのだとは思うのですが、そんな背景などまったく分からないで歌っていたのですね。
 もちろん、この歌に通じるものを、なにか感じ取って歌っていたには違いないのですが。


 

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学時代の思い出(1)

2010年03月03日 19時58分39秒 | 思い出を語る
必死に勉強した思い出があまりないのが残念。いまもし、大学に行けるとしたら、おそらく、当時よりも問題意識を持って講義に臨めたろうにと後悔しています。(だれもが同じ願望を持っているのかもしれませんね)
法学部に入った私は、特に法曹界で身を立てようなどという志などまったくありませんでした。一浪していましたから、駿台予備校の模試の結果、偏差値で、受かりそうな大学、学部で選んで受験しただけです。
予備校時代に、ベトナム戦争の所謂「北爆」が激しくなり、また五月には沖縄が日本に返還され、否応なしに国民の政治的な関心が高まっていた時期だったのでしょう。
私も、予備校で反戦ビラを撒く予備校生といつしか話すようになり、「ベトナム反戦委員会」という組織に入ることになりました。 アメリカがベトナムの全港湾に機雷を沈めて、海路を封鎖したときです。
私はすぐにビラを作るように頼まれ、今はもうない「ろう原紙」に鉄筆でない知識を総動員して作成しました。
ベトナム戦争については素人同然の私でしたから、ビラはまちがいだらけであったと思います。
見出しから「アメリカが全港湾を機雷封鎖!」を「アメリカが金港湾を機雷封鎖!」と書いたことは、恥ずかしい思い出として今でも記憶に残っています。私はベトナムに「金港湾」という湾があると思っていたのでした。大学紛争も下火になりつつある時期、ノンポリの私がそこにいること自体、おかしな光景だったに違いありません。
そう、大学のことを、でした。
中央大学は、現在の多摩ではなく、御茶ノ水にあり、広いキャンパスとは縁遠い、薄汚れた鉄筋のビルで四方が囲まれた空間です。校庭の真ん中に立つと、空は四隅を切り取られたような長方形。地味というよりも、かなり不健康な環境です。
私の入った法学部法律学科のクラスは、45人。女子は5人だけです。
中学、高校と男子校だったので、はなやかな大学を夢見ていたのですが、やや失望。
講堂での型通りの入学式のあと、その「区切られた校庭」に繰り出すと、様々なサークルが勧誘が私に声をかけてきます。
「テニスを楽しみませんか?」「旅行の研究を一緒にしましょう」「応援団に入らなきゃ、男じゃない!」など、隙を見せると、可愛い女の子が、いかつい学生服の男子学生が、身を寄せてきます。
偶然のなせり業です。しつこい勧誘の波に疲れてきた私は、校庭北側の右から三番目の「出店」に、長椅子があるのを認め、ちゃっかりとそこにへたりこみ、休むことにしました。
そして、そこにしばらく座っていると、
「少し話をしてもいいですか?」と、髪の毛の長い女子学生に話しかけられました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人生の岐路

2010年02月03日 00時01分46秒 | 思い出を語る
新年の第一号の学級通信に、こんなことを書きました。

「新年明けましておめでとう。
 新しい年が明け、みなさんは、どのような気持ちで、元旦を迎えたことでしょう。
 今年は、みなさんにとっては、別れと出会いとを経験する年でもあります。もちろん、卒業と、中学校への入学のことです。

 みなさんはきっと、これまでにも、
「1年生のはじめがかんじんだから、そのとき身のまわりのことができるように、がんばりなさい」とか、
「2年生は、掛け算九九でつまづくとあとで大変だから、ここが勝負よ」とか、
「3,4年生は、漢字もたくさんあるし、小数、分数が出てくるから、ふんばりどころよ」とか、
「6年生は、最後のまとめの学年よ。ここでがんばらないでどうするの?」とか
 それこそ、うんざりするほどの「大事なとき」を通過してきましたね。(笑)

 あっ、またか・・・かもしれないけれど、時間というのは、ずっと連続しているものだから、よくよく考えてみれば、大切なときじゃないときなんて、ないのかもしれないね。
 
 今日、お家に帰ったら、家族のだれにでもいいから、こう聞いてごらんなさい。

 「もし、あのときにああしていれば自分の人生が、きっと変わっていただろうなあ、ということなかった?」って。

 おそらくは、いくつも出てくると思いますよ。ただ、ほとんどの人に言えることだけれど、その人生をも変えるかもしれない「大事なとき」(チャンス)は、そのときには、本人にはなかなか分からないものなのです。
 いつも、「ああ、あのとき・・・」なのです。

 またまた今回も「大事なとき」を迎えた君たち。
 そんなにきばらないでいいけれど、いっぱい自分の中身を充実させてください。
 テストの点や、「あゆみ」のためというのではなく、自分の頭や心の中をもっともっと、たくさんのことでいっぱいにしてほしい。気がつかないかしれない、「大事なとき」のためにね。

 もう三ヶ月をきった、みんなとの「別れの瞬間」まで、いい思い出を作り上げていきましょう。(ちょっとかっこつけた新年第一号)」

これは、私自身へのメッセージかもしれません。

この「気づかない人生の岐路」については、この歳まで生きてくると、それこそ数え切れないほどあるものです。

①仲のいい友だちが、私立中学校を受験するという、単純な理由で一緒に受けて、入学したこと。公立に入学したらどうだったのだろう。もっとたくましく育ったかもしれないし、反対に「競争」を第一とする、いやなやつになっていたかもしれない。

②その私立中学で、仲良くなったT山くんが、自宅で首を吊って自殺した。その前日に、「この前借りた金を返すよ」と言われて、かなり前に貸した百円を返してくれた。いつもは、「おごってくれたんだよな」と言って、返すことなどなかった彼だけに、変だなあと思ったけれど、何も言わないで受け取ってしまった。あのとき、なにかの「予兆」を感じて、彼がどんな心境だったのかを察して、一言言ってあげられたらと、今も悔いが残る。

③これも中学生のとき。ダジョーというあだ名の仲良しがいた。(「おそ松くん」に登場するダジョーに似ていたから)そんな彼が突然、ゲバラに心酔してしまった。まだ、何も知らないで、社会のことには疎い私は、なんとなく彼を敬遠し始めて、疎遠になっていった。もっと彼の話を興味を聞いていたら、もっと早く社会に目が開かれていたかもしれない。

④高校生のとき、これも仲の良かったA木くんの家で遊んでいるときに、三島由紀夫の自害のニュースを聞いた。「仮面の告白」を読んだばかりだったので、大きなショックだった。「なんだ、彼の結末は自死かよ」と、単純に判断して、それ以上の思考を停止してしまった。なんで私は、思慮深くないのかなと後悔。

⑤A木くんの彼女が好きになってしまった。しばらくの間、私は彼に黙って、彼女とつきあっていた。後になってから彼に「許し」を乞う。(今考えると彼女を「所有物」扱いしていたのですね)彼女もきっと揺れていたし、苦しんでいたことだろうと思う。それなのに、何回目かのデートのときに(たしか上野だった)「夏目漱石の『心』を読んだんだ。やっぱり俺はA木との友情を選ぶよ」などと言って、彼女と別れてしまった。くだらない自己中心的な決断。彼女は、どちらも失ったのだから。

⑥高校三年の時。長野県にある「学生村」で、東京演劇アンサンブルの劇団員の人と同じ宿になる。男性2人、女性2人。彼らからは、ブレヒトの詩や、谷川俊太郎の「ネロ」の詩を教えてもらい、また劇のすばらしさを説いてもらう。チリのアジェンデ政権が軍事クーデターで倒れて、希望の星がひとつ消えてしまったと嘆いていた。私の劇好きは、ここが出発点。(いや、中学校のとき、文芸部の顧問だった伊藤先生に連れられて、初めて「リヤ王」を観たときかもしれない。まだ若い結城美栄子が末の娘役となって輝いてうつった)以来、よくその劇団の劇を観に行った。(「パリコミューン」は私にとって衝撃的な劇だった)それがあって、⑦につながっていく。

⑦駿台予備校の正門で、ビラをまいている予備校生がいた。「ベトナム人民支援委員会」という団体のメンバーだと言う。北爆のピークを迎えたころ。彼は私に、必死の形相で、北爆に向かうアメリカと、基地を提供する日本の政府の不当性を訴える。「受験」しか考えていなかった私には、新鮮な出会いであった。ほどなく私もそこのメンバーに入れてもらう。この経験がなかったら、今の私はないといってもいいくらいの岐路だったと思う。


⑧大学の新歓で、問題研究会と出会い、入会。卒業してから、誰とも会ってはいないが、ここで、知り合った仲間は、この30数年、片時も忘れたことがない。

だらだらと、しかも横道にそれながら、書いてしまった。
今なら「岐路」と思える瞬間は、いくらでもありますね。
陽水ではないですが、「人生が二度あれば」と、切なく思い出されるものばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の思い出 つづき

2010年02月02日 00時08分44秒 | 思い出を語る
たしか、高校受験のときに雪で延期になった。3月20日前後だったかなあ。(こんな遅いはずはないと思うのですが、なぜかその日付のような感じなのです)
母校の県立浦和高校は北浦和の駅から徒歩10分くらいの距離です。在学中は何回か雪が降ったと思うのですが、記憶にありません。
大学時代もあまりないのです。唯一、何年生のときか忘れたのですが、サークルの全国大会で京都の立命館に行った際に、雪がちらついていました。「12月集会」という名称からして、その頃だったと思うのですが、京都は、暑くて、しかも寒いという印象を持ちました。
ひとつだけ、そのころ好きだった人と、一つのマフラーを一緒に巻いて、京都の街を歩いたことだけが、艶っぽい思い出。私は中学、高校と男子校でしたので、緊張して、心臓が張り裂けそうでした。

貧弱な雪の思い出です。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の思い出は味気ない

2010年02月01日 19時08分14秒 | 思い出を語る
昼過ぎに降り出した雨が、陽が落ちたころから、霙になっている。
やや早い速度で、白く斜めの線が走る。
霙が寒気を運んできたようで、さほど寒さを感じなかった昼間とは一変して、膝から下が刺すように冷たく感じる。この分では夜半には本格的な雪になるかもしれない。
雪に纏わる思い出に乏しい。
小学生のときは、校庭に雪だるまを作り、クラスの友達と雪合戦をしたくらいな、ごく平凡な思い出しかない。誰かが投げた雪玉が私の頬を直撃して、しばらく頬がなくなってしまったような痺れ。
中学一年のときは、電車通学だったので、朝7時に自宅を出て、窓ガラスの割れるくらい混雑した急行に乗った記憶。途中で電車は鈍行、停止を繰り返し、2時間くらいしてようやく池袋に着く。外は膝に近い積雪。いつもは5分で着く道を、30分もかけて学校に向かう。校門には『本日は大雪のため休校です』の表示。また同じくらいの時間をかけて帰宅。臨時休校になることは長年の夢だったのに。
続きは、本当に雪となるころに。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冷たい京都の風 だけど

2010年01月12日 20時52分23秒 | 思い出を語る
初雪の東京でした。途中から雨に変わり、積もることはなく、こどもたちはがっかりしていましたが、やや粒の大きい雪の舞いに、授業そっちのけで魅入っていました。
ただ、この寒さも、一昨日の京都に比べれば、まだまだたいしたことないものです。日が落ちた頃は寺町通りや錦市場にいたのですが、寒いというよりも『冷たい』と感じましたから。膝から下が、
痺れるような感覚は、東京ではめったにお目にかかれません。
たいして町並みや歴史には詳しくないくせに、私の中ではいつも行きたい町の第一位です。
これも大学生時代の鮮明な思い出がなせる業なのでしょう。
今はあるのかわかりませんが、金のないころでしたから、京都にはいつも夜の11時半(11時26分だと思います)に東京から発つ大垣行きの鈍行に乗り込みました。もちろんみんな若いから徹夜でしゃべったり、トランプのセブンブリッジで盛り上がります。早朝に大垣で西明石行きの通勤列車に乗り換えて京都に着くのです。当時国鉄の最低乗車券は40円でしたから、東京でその切符を買い、京都では精算所に行き、『すみません、切符なくしました』と、隣駅から来た申告をして40円支払います。つまり80円。すみません、もう時効ですね。
大学のサークルの事務局?は立命館大学にありましたから、かなりの頻度で京都に行きました。
あ、思い出すときりがありません。携帯からの更新のため、指が腱鞘炎になりそうです。 また書きましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

33年を隔てた声

2010年01月04日 04時59分29秒 | 思い出を語る
昨日、息子2人と池袋に行ったときに、私の携帯に留守電が入っていることに気がつきました。

登録されていない番号からのものでしたが、留守電を再生すると・・・

大学時代のサークルの仲間だったmihoちゃんからのものでした。
卒業して33年も経っているにもかかわらず、「もしもし・・・」のはじめの声で分かりました。(そのあとすぐに名乗ったこともあるのですが)

社会科学系のサークルで、私は理由があって、卒業してから、年賀状のやりとりは別として、誰とも会わず、また電話することもしていなかったので、いっぺんに33年前に時間が逆戻りしたような気持ちでした。同時に、はじめの声だけで判別できたことにも驚き。
いつも、心の片隅に、このサークルのこと、仲間のことがへばりついていたのだということを実感しました。

いわゆる「ノンポリ」の私の頭や目を、社会に向けさせてくれたのは、このサークルと仲間のおかげ。もし、偶然にせよ、そのときに入部していなかったら、現在のような教師にはなっていなかったと確信しているほど、たくさんの影響や栄養をもらったところでした。

彼女は、私よりも1年(いや2年だったっけなあ)あとにサークルに入ってきました。縮れた髪を後ろで束ね、おっとりとした話し方でしゃべり、微笑んでいることが多く、春や秋には、薄手のカーディガンを羽織り、一つだけボタンをはめている。そんな姿が、つい昨日のようによみがえってきます。
私は卒業式のときは、奈良に旅行していたものだから、サークルのみんなとはきちんとしたあいさつすらしないで去っていったのかもしれないなと、ちょっと辛い思いも含んだ懐かしさが湧いてきます。

私の思想(といっても差し支えないと思う)の原点、そして卒業から今までの30年以上の年月を、重く辛いものにしたのも、このサークルです。(後者は、まったく私のせいなのですが)

できることなら、時間をあの当時に戻してリセットしてみたいものです。

こんなことを書いても、一番読んでほしい人には、思いを届けることはできないのですから、なおさら残酷です。

mihoちゃん、電話をありがとう。
「みんなで会いたいね~」という言葉は、ありがたく受け取っておきます。「もう時効です」とメールをくれて嬉しかったけれど、私には時効はないのかもしれません。旦那さん、早くよくなりますように。また、私たちも歳ですから、せいぜいのんびり長生きできるよう、互いに自愛しましょう。

ホリ、マッチャン、ヤッチャン、カキ、ポンタ、モチ、かずえちゃん、ペコ、ダイゴロウ、マユミちゃん、ムロ、モグ、ワコ、スズキクン、キヨミちゃん、山口さん、ミホちゃん、イッケイ、タザキくん、ニシさん、マツザカくん・・・
私の中には、当時のままのみんながいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父を思い出すジョーク

2009年12月21日 02時30分32秒 | 思い出を語る
「おい、ウェイター。スープに蝿が入っているぞ!」

「別々にお出ししたほうがよろしかったですか?」


※父は競輪の選手をしていました。私が物心つくころには、全盛期をすでに越えていて、小学校4年生のときに引退。練馬で食堂を始めました。
ちょうど妹が生まれるころ、東京オリンピックの年、「愛と死をみつめて」がベストセラーになった年、「マグマ大使」「パーマン」が始まった年、森進一がデビューした年、新潟に大地震が起きた年、新幹線が開業した年です。
父は、ときどき客の理不尽なクレームに、低い腰で応対していました。鮮明に覚えているのは、客から「おい、このラーメン、蝿がはいっているぞ」と悪態をつかれたときのことです。
父の腕の太さは、当時の私の胴回りと同じ。「あんな客、ぶっとばしてしまえばいいのに」と思っていましたが、父はひたすら謝っていました。
父の「偉さ」が分かったのは、ずっとずっと後のことです。哀しいことに。
それを伝えたいと思ったときには、もうこの世から去っていました。
本当に、哀しいことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

95になる伯母

2009年10月31日 21時01分54秒 | 思い出を語る
 起きたら夕方の4時になっていて 一週間の疲れが溜まっていた記し(:_;) 。なにもとらないで伯母のいる施設に急ぎました。
 私の伯母は、実母の長姉で、今年で95になります。私の母は、水商売をしていましたから、競輪選手の父が遠征でいないときは、いつも伯母の家に行って、泊まっていました。 ですから、私にとっては伯母は「半分母親」と言っていいくらいの身近な存在です。伯母は生涯(まだ分かりませんね)独身、子どももいないため、なおさら私は可愛がられました。

 ちょうど夕飯の時間とぶつかってしまい それでも笑顔で応対されて伯母と面会
この頃はみやげは いつもかりんとう。腐らないのと、小さなサイズで誰にも食べやすく、周りのお年寄りにも配ることができるから。彼女はまだ隙あらば何かを盗まれるという強迫観念があるため、伯母との話では、毎夜その「大事な」かりんとうを胸に抱いて寝ているとのこと。その光景を想像したら 胸が締め付けられるようでした(:_;)

 栃木で探しているホームの引受先の決定は まだまだのようで、一昨日には伯母は直接区役所に赴いて、状況を聞き、ぜひ急いでほしいと直談判したとのこと。
引っ越したときの布団の始末や、ゴミの回収日の心配まで、あれこれと話して退散してきました。


 何も食べずに飛び出したものだから、帰り道 小さな「おにぎりやさん」で、あさりの佃煮入りのおにぎりを150円で一個買い、店の前の長椅子で、通行人がじろじろ見る中で頬張りました。
 ご主人は会社のリストラにあい、プレハブの組み立て式小屋を購入。道路脇に地主に月二万で場所を借りて開業したとのこと。一日百個の売上とのことです。かなり厳しい計算です。それでもリストラ直前よりも「少しだけいい」「ストレスがないだけいい」とのこと。おとなしい人みたいで、営業マンとしてはさぞかし苦労したろうな、上司からはノルマのことでさぞやねちねち言われたのだろうなと想像できます。

 まだ重いからだながら これから電車に乗って帰宅の道につきます。
 だんだん月は太ってきています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い込みの怖さ

2009年09月24日 22時55分32秒 | 思い出を語る
小学校の3年生のときに、近くの天ぷら屋が火事となり、もうもうと立ち上る真っ黒な煙を見ていたことがあります。油を使った商売ですので、その煙の勢いは、幼い子どもの私の心を震わせるほどでした。
風向きが私の家に向いていたこともあって、父がバケツに水を張って、「もし家に燃え移ったら、これで消すんだ」と言っていたことも、懐かしい思い出です。
その際、私は口をぽかんと開けて見ていたのでしょう。飛んできた小さな灰を口に含んでしまいました。思わず、ペッとはき出したのですが、ジャリッとした感触は今でも忘れられないものです。
翌日、教室では火事の話題となり、私は、灰を口にしたことを、さも得意そうに友達に話しました。
すると、友人で「博学」を自称するYくんが、すかさず「えーっ、灰を食べると、腸チフスにかかるんだぞ!」と驚いたように言ったのでした。
「腸チフスっていうのはねえ、いったんかかると、ほとんどが死んじゃうんだよ」といったおまけまでつけて。
「あ、食べないではき出したから大丈夫だよ」とは、言ってみたものの、その日からしばらくの間は、「チフスにかかったらどうしよう」と、恐れおののいていました。

チフスは、チフス菌によって感染する。
こんな単純なことがわかったのは、なんと私が中学2年生の保健の授業によってでした。しかし、いったん刷り込まれると、なかなか抜けないものです。
今でも、腸チフスと聞くと、「灰」を連想するのですから。

「思い込み」による誤解の経験は、挙げたらきりがないほどあります。

※ウスバカゲロウをずっと、「薄馬鹿下郎」だと思っていたこと。
※これも小学生のときに、イチョウは、オスの木から「精子」が泳いでメスの木に泳いで移動して受精する。これは人間も同じだ。そんな理科の先生の言葉を鵜呑みにして、人間はきっと、こたつに男女が入っていると、その中で精子がそっと移動して受精するのだと思ったこと。それなら母が、父とちがう男の人とこたつに入るのは危険なことだと、本気で、しかもしばらく思い込んでいたこと。
※きな粉は、とうもろこしの花粉だと信じていたこと。あのふさふさした毛を、ぶるんぶるんと振って、きなこを集めているのだと信じていたこと。

思い込みとは、「信じ切っている状態」ですから、その誤解を解くきっかけは、偶然に遭遇するしかないようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

颱風とざくろ

2009年09月16日 22時04分04秒 | 思い出を語る
 とんでもなくはるか昔の記憶です。
 私が中学生か高校生のころ、テレビで「颱風とざくろ」というタイトルのドラマがありました。たしか石坂洋次郎原作、主演が石坂浩二と松原智恵子だったと思います。
 「女子大生の性を大胆に描く・・・」といったコピーに騙され(?)、ドキドキワクワクして毎週見ていたものでした。今から見れば、ほんの幼い「恋愛ごっこ」程度のものなのでしたが、当時は、金持ちの男(たしか緒形拳)を好きになり、その男が山で遭難、その男の思い出を引きずったまま、新しい男と恋人同士になっていく、そんなストーリーだけでも、中学・高校と男子校で育った私には、大いなる刺激でした。

 今回は、そのストーリーがテーマではありません。
 このドラマでは、二つのテーマソングが流れていました。どちらも森山良子が歌っているものです。(よく覚えているでしょう)
 ひとつが「雲の流れに~」という歌い出しのもの。そしてもう一つが、「並木よ、坂よ、古い友よ、君は今、大人になり、やさしい言葉で、ぼくをさそう、だがぼくは~」という歌い出しのものです。(長い年月で、いい加減に改作しているかもしれません)
 実は、この後者の歌。なにかにつけて、私の口からこぼれ出てくるのです。
 
 この歌の題名を知りません。
 本当に、いつの間にか自然に・・・といった感じで出てくるのです。
 みなさんも、ふっと口ずさむ「自分の歌」があるのでしょうね。
 残念ながら、森山良子のCDをいくら探しても、この曲が入っているものはありません。彼女にとっては、たいして重きを置いていないのでしょう。
 
 時々口ずさむ曲は、あと一組あります。
 それは、劇団四季の劇「夢から覚めた夢」の挿入歌です。
 赤川次郎原作、作曲はたしか、先日亡くなった三木たかし。
 「愛をありがとう、やさしさをありがとう~」という歌と、「すきとおったような、やさしいあなた~」という歌。
 前の「颱風と~」と同じように、全部最後まで歌えないのが、悔しいかぎり。
 
 思い出すたびに、CDや歌詞などを探しているのですが、まだ見つけることができないでいます。
 歌は、個々人の思い出と繋がったものが多いものですが、上に記した歌は、そうではない「いつの間にか」に類するもの。

 もしご存じの方がいましたら、コメントにでも書いて、お教えください。

 ※ネットで検索すると、「颱風とざくろ」は、1969年に放映されていたようです。歳がばれてしまいますね。

 
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あこがれの京都

2009年09月08日 22時55分56秒 | 思い出を語る
 昔、大学生のときに、サークルの事務局が京都の立命館大学にあったので、よく京都に行きました。当時は金がなかったもので、23時26分発の大垣行きの列車に、40円(当時の最低乗車金額)の切符で乗り込んだものでした。翌朝に大垣で西明石行きの通勤電車に乗り京都に到着です。駅について、構内を探すと、たいがい切符が1枚くらいは落ちています。それが京都で降りることができるものであればそれで、なければ精算所に行き、「すみません、山科(一つ手前の駅です)から来たのですが、切符を落としてしまって・・・」というと、一駅の金額で精算してくれます。100円以下で毎回京都に行っていたことになります。(もう時効だと思いますが・・・今は検札が厳しくてできませんよ)
 国鉄が、理不尽にも解体された原因の一つを担ってしまったかもしれません。

 京都は何度訪れても飽きのこない町、奥深い町です。(物価は高いけれど)
 貴船の河床料理、「ぎをん小森」の和菓子、引き上げ湯葉、京都タワーで飲んだ生姜味の冷やし飴、あれこれと何を食べようか迷ってしまう錦市場、どうも私には合わないにしんそば、昆布の巻かれた大好物の鯖寿司、ご飯にふりかけて思わずはき出してしまった大徳寺納豆、緑寿庵清水の金平糖、今宮神社前で、一和、かざりやの二つの店が対抗して客引きをするあぶり餅・・・
 食べ物だけでも、きりがないくらい思い出のつまった町です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする