たしか大学の2年生のときです。
うちにクラスの友達が集まって、ドイツ語の定期試験の対策合宿をしたことがありました。ドイツ語の先生は、テキストを1人1人指名して、読ませ、日本語に訳させる方で、予習をしてこないものなら、きぴしく叱正される方でした。
あるときに、クラスメイトが、なんとそのテキストの対訳本を探して、私たちにコピーをして渡してくれました。
なんと親切なやつ。
彼の行為のおかげで、どれだけ日々の授業が楽になったか、計りしれません。
しかし、その幸せな気分は長くはつづきませんでした。
私たちはいともかんたんにドイツ語を訳していくわけですから、スムーズに進むことは当たり前です。先生もやりがいがあるようで、どんどん授業は進行していきます。
そして・・・
前期の定期考査が近づいたころ、こなしたテキストは、なんと2冊になっていたのでした。
2冊で200ページ以上もあるかというドイツ語の文章です。(きっと先生はわかっていてどんどん進めていたのでしょう)
理解してすらすら答えたわけではない文章が試験範囲となったのですから、それこそ「地獄」です。
そこで急遽、普段「いい加減にやっていた」男子学生が10人ほど、私の家で特訓することになったのです。
まあ、それはいいとして(長々書きましたが、なんとか及第点をとりましたので)
その合宿の夕飯のときに、スーパーでおにぎりやサンドウィッチ、ビール(!)などを買い込んで、みんなで丸くなって飲み食いしていたときに。
もう誰が言ったのか記憶にないのですが、学生時代によくある「青臭い話」になりました。「僕たちは、なんのために生きているのだろう」といったテーマでした。
「そりゃあ、いい女と一緒になりたいからさ」「好きなことをやって、そこそこ食えれば幸せ」「やっぱり弁護士になりたいよ。正義の味方が理想だったから」「親父が弁護士を目指して挫折したみたいなんで、弁護士になって喜ばせたい」「やはり自分が一番かわいいし大切なんだと思う。人のためなんてのは偽善だよ」「でも、自分のしたことが他の人に喜んでもらえると、ちょっといい幸福感がある」「それも自己満足なんじゃない?」
パソコンも携帯もない時代です。
そんな中で、こんなことを言った友人がいました。
「堂々巡りみたいな考えだけど、オレは子どもが一番大事だと思うんだ。この世の中で損得を考えないでいられるのは、親子の関係だろ? だからオレは、こどもはこの世の中で一番尊いものだと考えている。まだ結婚もしてないし、こどもだっていないけど、親父やお袋のことを見ていると、2人は自分よりも子どものオレが第一なんだ。
だからさ、オレたちの仕事や生活は、オレたちの次の世代のこどもたちに、今よりもっと自由で、やりがいがあって、幸せな社会にすることを、生きていく目的にしていくことが大事なんだと思うなあ。
だから、どんな仕事でもいいんだ。そこで、なんらかの形で、次の世の中のために何ができるかを、みんなが考える必要があるんだと思う。」
若い彼が、どれだけ実感をこめて熱く語ったのかは、なんとも言えないけれど、そしてそのときは全く「問題外」として聞き過ごしてしまったのだけれど、今、この歳になって、あらためてこの内容を思うと、「そうだよなあ」と納得してしまいます。
だから、その言葉に励まされて、私は、自分だけの幸せに固執はしない、自分の仕事は第二に位置させる、組合に入り活動する、政治的な無関心にはならないで発言する、そんなスタンスでこれまでやってこれたのだろうと思います。
うちにクラスの友達が集まって、ドイツ語の定期試験の対策合宿をしたことがありました。ドイツ語の先生は、テキストを1人1人指名して、読ませ、日本語に訳させる方で、予習をしてこないものなら、きぴしく叱正される方でした。
あるときに、クラスメイトが、なんとそのテキストの対訳本を探して、私たちにコピーをして渡してくれました。
なんと親切なやつ。
彼の行為のおかげで、どれだけ日々の授業が楽になったか、計りしれません。
しかし、その幸せな気分は長くはつづきませんでした。
私たちはいともかんたんにドイツ語を訳していくわけですから、スムーズに進むことは当たり前です。先生もやりがいがあるようで、どんどん授業は進行していきます。
そして・・・
前期の定期考査が近づいたころ、こなしたテキストは、なんと2冊になっていたのでした。
2冊で200ページ以上もあるかというドイツ語の文章です。(きっと先生はわかっていてどんどん進めていたのでしょう)
理解してすらすら答えたわけではない文章が試験範囲となったのですから、それこそ「地獄」です。
そこで急遽、普段「いい加減にやっていた」男子学生が10人ほど、私の家で特訓することになったのです。
まあ、それはいいとして(長々書きましたが、なんとか及第点をとりましたので)
その合宿の夕飯のときに、スーパーでおにぎりやサンドウィッチ、ビール(!)などを買い込んで、みんなで丸くなって飲み食いしていたときに。
もう誰が言ったのか記憶にないのですが、学生時代によくある「青臭い話」になりました。「僕たちは、なんのために生きているのだろう」といったテーマでした。
「そりゃあ、いい女と一緒になりたいからさ」「好きなことをやって、そこそこ食えれば幸せ」「やっぱり弁護士になりたいよ。正義の味方が理想だったから」「親父が弁護士を目指して挫折したみたいなんで、弁護士になって喜ばせたい」「やはり自分が一番かわいいし大切なんだと思う。人のためなんてのは偽善だよ」「でも、自分のしたことが他の人に喜んでもらえると、ちょっといい幸福感がある」「それも自己満足なんじゃない?」
パソコンも携帯もない時代です。
そんな中で、こんなことを言った友人がいました。
「堂々巡りみたいな考えだけど、オレは子どもが一番大事だと思うんだ。この世の中で損得を考えないでいられるのは、親子の関係だろ? だからオレは、こどもはこの世の中で一番尊いものだと考えている。まだ結婚もしてないし、こどもだっていないけど、親父やお袋のことを見ていると、2人は自分よりも子どものオレが第一なんだ。
だからさ、オレたちの仕事や生活は、オレたちの次の世代のこどもたちに、今よりもっと自由で、やりがいがあって、幸せな社会にすることを、生きていく目的にしていくことが大事なんだと思うなあ。
だから、どんな仕事でもいいんだ。そこで、なんらかの形で、次の世の中のために何ができるかを、みんなが考える必要があるんだと思う。」
若い彼が、どれだけ実感をこめて熱く語ったのかは、なんとも言えないけれど、そしてそのときは全く「問題外」として聞き過ごしてしまったのだけれど、今、この歳になって、あらためてこの内容を思うと、「そうだよなあ」と納得してしまいます。
だから、その言葉に励まされて、私は、自分だけの幸せに固執はしない、自分の仕事は第二に位置させる、組合に入り活動する、政治的な無関心にはならないで発言する、そんなスタンスでこれまでやってこれたのだろうと思います。