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息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

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採択する空虚な理由 自由社の採択に

2024年09月03日 05時26分39秒 | 教育を考える
 産経新聞が伝えた記事。自由社の教科書が、「時代の特色と世界の動きを概観することができるように配慮されている」「敬意をもって根源的視点を学習できる」という理由で採択されたとするが、なんと空虚な言葉群なのだろうと呆れてしまう。こんな理由なら、どれを選んでも構わないはずだ。
馬鹿げた採択の詳細を知りたいものだ。
記事は以下の通り。

茨城県常陸大宮市は2日、令和7年度から市立中学校で使用する歴史と公民の教科書について、新しい歴史教科書をつくる会(会長・高池勝彦弁護士)が主導する自由社版を採択(選定)したと発表した。採択は7月29日付。自由社の歴史教科書が公立校で採択されたのは、15年ぶりとなる。 同市はこれまで、ひたちなか市など近隣の4市町村とともに教科書を選ぶ「共同採択」を行ってきたが、市独自の教育改革を加速させるため、共同採択の枠組みを離脱。7年度の教科書は独自に選ぶ「単独採択」に切り替えて採択に臨んだ。 常陸大宮市によると、採択は教育長ら計5人で構成する教育委員会が全会一致で決定。歴史の採択理由については、「時代の特色と世界の動きを概観することができるように配慮されている」などと説明。公民は「敬意をもって根源的視点を学習できる」などとした。 自由社によると、同社版は平成21年に横浜市が採択して以降、公立校で選ばれていなかった。つくる会の藤岡信勝副会長は「それぞれの自治体の方針が教育に反映できるように教科書選びは単独採択であるべきだ。今回の常陸大宮市の取り組みは今後のモデルケースとなるだろう」と話した。
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教員の働き方を「金」で解決しようとする愚かな提言

2024年05月14日 08時06分59秒 | 教育を考える
「中教審の特別部会は13日、処遇改善や残業削減といった教員確保策の提言をまとめ、盛山正仁文部科学相に提出した。公立校教員に残業代の代わりに上乗せする月給4%相当の「教職調整額」を2.5倍以上となる「10%以上」に引き上げることや、11時間を目安とする「勤務間インターバル」の導入などが柱。文科省は給与増に関し、来年の通常国会に教員給与特別措置法(給特法)改正案を提出する。調整額が引き上げられれば1972年の給特法施行以来、約50年ぶり。ただ、残業代がなく「定額働かせ放題」とも批判される現行制度が続くため、教員らから、長時間労働抑制につながらず、教職人気回復への効果は限定的との指摘も根強い。提言を抜本的な働き方改革につなげられるかが課題だ。
提言には、負担の重い学級担任の手当加算や、管理職手当の増額も盛り込んだ。現在の「主幹教諭」と「教諭」の間に若手を指導する新ポストを設け給与面で優遇する。生活や睡眠の時間確保のため、終業から次の始業まで休息時間を明確にする「勤務間インターバル」の導入を推奨。」(共同通信)

これで退職や精神疾患続出の現場が、改善されるとでも思っているのだろうか。
これで、「高給」だとして、教員のなり手が増えるとでも思っているのだろうか。
手当を吊り上げただけの「定額働かせ放題」の現実は、何も変わらないのだ。
私生活を犠牲にして、さらにまともな教材研究をする時間もない現実を変える希望は、ここからは少しも見えはしない。

さらに、ここで指摘しなくてはならないのは、この提言に入っている「新ポスト」の創設である。なんともしたたかなものだ。管理職の手当の増額もしかり。
上意下達の組織をいっそう徹底して、管理を強固にしようとするたくらみ。職場の中では「教育するものとして対等」だとする考えは全くない。
いっそう重い苦しい職場になっていく殺伐とした風景が、よく見えてくる。
職場の中で一人一人格差をつけて、給料や異動、退職金まで、違いをつける。「言うことを聞くものは優遇し、地位と金を与える」よくある統治の方法だ。



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居心地は悪くないが

2023年04月15日 06時33分43秒 | 教育を考える
長い長い2週間が終わった。3日から昨日まで。はじめは名も知らぬ職員の中で、後半は受け持った子どもたちの名前を覚えることでエネルギーを使う。マスクを装着した顔を、私はなかなか覚えられない。
新しい学校は、極端に会議が少ない。パソコンでそれぞれの担当からの連絡を見て動くことが多い。その分、自分の時間が増え、一応やりやすい仕組みを醸し出している。しかし。これも一長一短で、話し合うことが極端に少なくなるわけだから、いわゆる「教育論議」がほとんどない。私のように新しくやってきた者は、とにかくパソコンを見て、周りに「これ、どういう意味でしょうか?」「決まったことは、パソコンのどこに入れたらいいのでしょうか?」と聞きまくるしかない。若い職員が比較的多く、かなりアバウトな雰囲気も悪くない。前任校の、掲示板に貼るものや場所、授業の挨拶の一字一句まで統制されたのとは対照的である。(一応スタンダードはあるが)
それでも、やはり勤務は時間内には終わらない。私は6時半には学校に行き、できるだけ定時に退勤するようにしているが、それでも帰宅して、2、3時間は、教材研究、プリント作り、学級通信の作成をせざるを得ない。単純に計算しても、月に最低80時間は「残業」していることになる。働き方改革では、在校時間にしか光が当てられないし、持ち帰りの仕事にしても、先の裁判のように、「自主的な行為」であり正規の仕事ではないと見做されでしまうかもしれない。やらなければ、授業はボロボロになり、学級は崩壊、校務は停滞するはずなのに、「勝手にやった」と見做されるのだ。
働き方改革、すでに破綻しているシステムを改変しなければ、なにも解決はしない。

ちょっと余裕の、今回の土日。かわいい子どもたちのために、私も充電したいと思う。ほぼ日刊で出している学級通信(ここも発行している職員が少ない。受け持った子どもも「初めて見た」と言う)の記事をまとめようかな。映画も見たい。
2週間で読んだ本は「平場の月」だけ。前に途中で辛くなって「一時停止」していた小説だ。先が見えてしまい、「泣いてしまう」予感から投げ出したのだが、案の定、最後の数ページは涙で文字が揺れて仕方なかった。
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現場では当たり前の話 現場を見ようとしない文科省

2022年12月28日 21時41分41秒 | 教育を考える
 なにを今さら、というよりも、この数年間、文科省はいったい何をしてきたのかという疑問と怒りしか私にはない。
 今回の報道では、「心の病」に限った「異常な多さ」が中心だが、私の知る限りでは、「クラスを投げ出した」「二年目の教員が急に学校に来なくなった」といった「心」の面に限ったことだけでなく、「疲労感がとれず、学校でミスを繰りかえしたあげく、ついにドクターストップがかかった」「定期健診で引っかかっていたにもかかわらず、忙しくて病院に行かないでいたら、ガンの第四ステージになっていた」「片頭痛がひどく、医者に診てもらったら、血圧が医者も驚くほど上がっていた」など、忙しさのあまり、私生活まで捧げて働いたための原因による病休が、あとを絶たないでいる。
 一刻も猶予できない状況は、もう何年も続いているのに、文科省はいったい何をしているのか。
 副校長の過重負担を減らすために、SSTを設置した。主幹教諭の軽減を行っている。・・・
 数々、文科省は説明するだろう。
 しかし、しかし、現場にいる大半の教員には、文科省の「努力」は、まったく見えてこない。届いていない。
 一度、学校に来て、教員の一日を見て帰るがいい。
 勤務時間内に、明日の授業の準備をして終わっているものが、いったい何人いるのか。
 もし、できなかったら、自宅で準備するしかないのだが、帰宅後、どれくらいの時間と労力を費やしているのか。
 家庭生活をどれくらい浸食しているのか。
 
 ちなみに、この二年間、私が学校で、授業の準備、教材研究ができたのは、ほとんどゼロである。
 朝、六時半に学校に来て、定時には帰る日を続けているが、みなさんよりも一時間半も早く来てすら、授業準備はできないのである。ふだんは、自宅で、学級通信を作成し、授業の準備をするという毎日がルーティーンである。
 だいたい二時間ほど。(もちろん控えめに書いてで) 土日も同じくらい準備しているので、それだけで、月に60時間を超える仕事をしている計算になる。さらに早朝出勤。月に20日学校があるとすると、30時間の超勤である。合計すれば、90時間。過労死ラインは、軽く超える。
 しかし、残念なことに、管理職、または行政には、超勤の対象とするのは、「在校時間」であって、持ち帰りは全くの対象外である。出勤簿のあるホワイトボードに、「本日は7時30分までには退勤」「9時には帰ろう」などと、大きな字で書かれた紙が貼ってある。とにかく学校ではやるな。あとは家でやろうがやるまいが、それはみなさんの自主的な行為。超勤には当たりませんよ、といった具合である。
 
 今、学校では、今年度の教育活動の教訓をまとめて来年度の計画に生かす「学校評価」「年度末反省」が行われているはずだ。ふだんなかなか言えないことも、洗いざらい書くことだ。ここで書かなければ、それが来年度の一年間の「桎梏」となるのだから。
 つらいことはつらい、けずるものはけずる。おかしいことは、おかしい。つらいことは、つらい。
 それらが書けないような職場だとしたら、もう学校に未来はない。(当然自分にも、子どもにも)
 いつも思うのだが、自分の私生活を、家庭をも犠牲した教師の教えとは、いったいなんなのだろうか。
 虚しい。
 

「心の病で休職の公立校教員、最多5897人 若い世代ほど高い割合
昨年度に「心の病」で休職した公立の小中高校などの教職員は前年度比694人増の5897人で、過去最多を更新したことが26日、文部科学省の調査でわかった。5千人を上回るのは5年連続。1カ月以上病気休暇を取っている人を合わせると1万944人に上り、初めて1万人を超えた。教員の多忙さの抜本的な改善が進まないなか、若手ほど心の病による休職者・休暇取得者の比率が高い実態も浮かんだ。
都道府県や政令指定市の教育委員会を対象に調べた。精神疾患による休職者と、1カ月以上病気休暇を取った人を合わせた数は、前年度から1448人増えて1万944人。うち20代は2794人で、この年代の在職者に占める割合は1・87%と年代別で最多だった。30代は2859人で1・36%、40代は2437人で1・27%。50代以上(2854人、0・92%)と比べると、若い世代で目立つ。  文科省の担当者は「業務量が一部に偏ったり、コロナ禍で教職員間のコミュニケーションが取りづらくなったりしている」と指摘。また、若手の相談相手になってきた40代の中堅が、採用数が少なかったため層が薄く、悩みを抱える20~30代を支えるのが難しくなっている、と説明する。「管理職が目配りしたり、教職員がストレスチェックなどにより自身で心身の状況を把握したりする取り組みを促したい」と話す。」
 (2022 12/27 朝日デジタル)
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哀史

2021年07月08日 06時20分16秒 | 教育を考える
学校に殺されそうだ
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やはりブラック

2021年05月16日 12時57分06秒 | 教育を考える
異動した学校でこんな実験をしてみた。
朝は6時半に出勤して、学年や授業の準備をして、ゆとりをもって子どもを迎える。放課後は、会議がないなら仕事をし、休憩時間はしっかりとる。定時になったら、退勤時刻の30分以内には必ず帰る。
しかし、これでは数日で破綻するのは明白。帰宅後は、教材研究、学級通信だけは頑張ってやる。
在宅も含めると、学校では1ヶ月で30~40時間、在宅でもやはり同じくらいの超過勤務である。過労死ラインすれすれだ。

さて、これを実験してから1ヶ月が過ぎた。
結論は、やはりこれでも「やり残し」がかなり出てきた。
連絡網の作成。クラスの顔写真のまとめ。面談資料の残り。時数計算。出席簿の先月分等々。したかなく、今日、「帳尻合わせ」に学校へ。
たかだか二時間もあればできるのだが、普段は集中してはできない。仕事をしていると、「あ、ちょっといいですか」「これはどうしたら」という話が横から差し込まれるからだ。
やはり、ブラック。
一刻の猶予もないのに。
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「栄転」とはなにか?

2021年03月28日 15時12分16秒 | 教育を考える
まだ若いときに勤めた学校の校長が、都の教育委員会に異動することが分かり、年配の教員が「栄転祝いをします。胡蝶蘭を贈るから寄付をお願いしたい」と打ち合わせで依頼したことがあった。
その話をどこかで聞いたのだろう。翌日の打ち合わせで、「栄転祝いとかでみなさん動かれているそうですが、それは辞退したい。」「そもそも栄転という言葉の使い方は、私には疑問があります。私は出世するわけではないのですから。」「それなら異動される方、すべてが栄転だと考えます」「しかし、職場には、まだ入院して復帰できないでいる先生が二人もいる。そんな中で私、私たちだけが浮かれている気分にはなれないのです。」と話された。
唯一、尊敬できる校長だった。
昔の学校、と言えばそれまでだが、職場の教員を「身内」として、心を配ることは、管理職でさえ当たり前の雰囲気だった。
いま、同じような状況になったとしたら、どのように立ち回るのだろうか。管理職も、教員も。
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卒業式 私だけが異常なのか

2021年03月26日 22時41分56秒 | 教育を考える
コロナ感染対策での「コンパクト卒業式」が終わった。
出ることができるのは一家庭二人まで。卒業生の呼び掛けはなし。校歌も「国歌」も「心の中で歌う」。(と言っても、校長は職務命令という言葉を出して起立せよと私たちに言ったが)祝電は披露せずに校内に掲示。教育委員会、PTAの祝辞も省略。
つまり、入場、君が代清聴、証書授与、校長の言葉、校歌清聴、退場のコンパクト版だ。
時間にして約一時間。その四分の三は証書授与だから、ひたすら忍耐を要する式となる。壇上で子どもが決意表明をしているが、あまり個性が感じられず、「中学生になったら成績を上げます」「優しいひとになりたい」的なものが大半を占める。六年生で習ったはずの、日本の未来や、グローバルな視点に立った決意表明は、悲しいながら皆無。こじんまりした、ささやかな、さらに言えば自分だけの未来像だ。
壇上に上がる校長も証書授与の補助も、壇の上方に吊るされた日の丸に、深々と礼をする。
式のあとの職員の感想で、「当たり前のことが当たり前にできて良かった」「しっかりと作法ができて立派な卒業生でした」「最後まできちんと座って立派だと思いました」の続出。
ああ、何かが根本的に違うなと思い、本当に悪寒が走った。
そうだ。みな、かつての卒業式を知らない世代になってしまったのだ。
全面的に「昔は良かった」などとは思わない。しかし、今から20年近く前までは、卒業式は私たちにとって「最後の授業」だったのだ。
実行委員を選び、呼びかけの台本を練る。思い出の歌を募り、決まったら自主練習をする。親と対面する会場で、子どもの顔がよく見える。保護者も呼びかけの中の一角を担い、成長が顕著な場面を考えて言葉を練る。
管理職からは、君が代斉唱や日の丸掲揚の「お願い」はつきものなのだが、それでも「中身で勝負」という熱い願いがあったのだ。
しかし、「10.23」の通達により、事態は急変する。
君が代は、起立して斉唱せよ。日の丸は壇上に掲げよ。全員が舞台正面に向かった座席にせよ。君が代は、ピアノで生演奏しろ。会場には紅白幕を垂らせ。
学校行事を自分の学校で決めることができずに、細部にまで強制する支離滅裂な命令であった。

当時、クラスや学年にはたいがい何人かは、中国籍。または朝鮮籍、または在日、帰化した朝鮮人の子がが何人かはいたが、もちろんそれらの子たちにも同じように強制された。
君が代斉唱の際に、起立しない教員が次々と処分された。副校長が、立たない、または歌わない教員を調べて教育委員会に報告する。教育委員会の来賓も、対面に座る職員の口許をチェックして「処分のための証拠を探す」。このころから、卒業式の「座席表」が作られた。だれが座り、歌わないかをチェックするためだ。
それ以来、卒業式は堕落、腐敗した。
しかも、「昔」を知らない保護者も教員も、「これが当たり前」として、認識されているのだ。
「作法」と「愛国心」だけに特化した式に成り下がってしまったのだ。根本的には、戦前の「訓練」でしかない卒業式になってしまったのだ。
これからの主権者を育てるはずの教員が人権に関して、何も感じないのなら、もう学校は死んでいるに等しい。
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13時間労働

2021年03月23日 06時27分24秒 | 教育を考える
昨日は、朝6時半に学校に着き、7時を過ぎてヘトヘトの状態で退勤。
通知表の最終確認、指導要録の作成、来年度の計画、転出児童の書類作り、明日の学級の準備、クラス分けの話し合い等々。
五時間目が終わってから、正規の退勤までは、一時間しかない。
すでに仕事量と時間との関係が破綻している。
時期的に忙しいのは事実だが、それだけが原因ではない。
私が学校を出たときは、まだ半分近くの先生がパソコンとにらめっこをしていた。
集中してやろうにも、その合間に「健康カードに番号を入れてください」「貸し出し上履き、整理しましょう」「ソフトがうまくいきません。どうしたら?」などの「臨時作業」が入り込む。
ああ、こんな中で仕事のミスが生じるのだなと納得。
この間、明日の学習など何もクラスのことを考えることはなかった。
帰宅して、やっと学級通信を書き始める。朦朧とした頭で。しかし、この方がずっとずっと楽しいものだ。当然、勤務時間にはカウントされない。
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3.11学級通信より

2021年03月12日 06時20分08秒 | 教育を考える
2011年の3.11と言えば、大人の人はけっして忘れられない特別なひびきをもった言葉として頭にしみついているものです。
みなさんが生まれるちょっと前の3月のことです。
先生は、となりの○○小で、6年生を担任していたときでした。もうすぐ卒業、そんなときに私の6年1組は、なんと17人もの欠席者が出るなど、インフルエンザがはやって学級閉鎖となりました。3月9日から3日間の閉鎖です。9日、10日、11日。学級閉鎖の最後の日のことでした。金曜日。
私は、4月からの行事の細かい計画を立てるために、朝からパソコン室で、パソコンと向かい合って仕事をしていました。
もう1日も終わり、5時間目の授業が終わって、みんなが帰ろうとしていた、その時でした。
2時46分。
とつぜん、パソコン室が大きくゆれはじめました。バスで急ブレーキがかかり、また急に発進、そのくりかえし。そんな感じのはげしいゆれでした。
イスにすわることもできないで、ゆかにはいつくばる私。まわりを見ると、パソコン室のかべが、「平行四辺形」になって、右に左に形を変えています。パソコンは、テーブルから次々にゆかに落ちていきます。
「ああ、これで、死んでしまうかもしれない。」そんな気持ちになったのは、初めてのことです。
左右に大きくゆれているゆかで、なんとか立ち上がって、フラフラと窓のところまで行き、校庭を見て見ると・・・ちょうど校庭の反対側にある電信柱が大きく「よっぱらい」のようにゆれています。そして、なによりもおそろしかったのは、プールが、無人のプールが「波のプール」になっていたのです。だれもいないプールで、大きな波が生まれ、プールサイドにおそいかかっていたのでした。背中がぞくっとしたしゅんかんです。
その後は、校庭に全校の子どもたちが、まず安全のかくにん。半べそをかいている低学年の子もいます。全員の安全がかくにんできて、さて教室にもどろうとすると、またもや「ドーッ」という音がするようなゆれ。何回か、それをくりかえしながら、なんとかみんなを家に帰すことができました。
土日をはさんで、月曜日はりんじのお休み。電車は動かない、お店からは食べ物や飲み物がなくなってしまう、ガソリンがない、「計画停電」という、ときどきの停電、携帯がなかなかつながらない・・・しばらくは、東京でさえも、大変な毎日でした。きっと、その大変なころに、みなさんはお母さんのお腹の中で、「たんじょう」したのですね。だいじな、ほんとうにだいじな、みなさんなのですね。
被災地(ひさいち)では、1万5899人(○○小の子ども全員の20倍以上)がなくなり、2528人が、まだ行方不明(ゆくえふめい)。これに関係してなくなった人、3739人。(前者は20年9月現在、関連死は19年9月現在の数字)
宮城県石巻市(みやぎけんいしのまきし)の大川小学校では、子どもが74人、先生たち10人が、津波でなくなりもしました。
地震と津波と原発の事故で、ひなんしたまま、まだ自分の家に帰れない人たち、転校をして、なれないところで学校生活をしている子どもたちは、へっているとはいえ、まだまだたくさんいるのです。
月曜日の朝会で、校長先生から、この「3.11」についてのお話がありました。

 今、みなさんは「いのちの学習」のまとめとして、「大人になった私から、今の子どもの私へ」という手紙を書こうとしているところです。この1週間、テレビなどで「3.11」についての番組がたくさん放映(ほうえい)されることと思います。どうか、これをきっかけに、あらためて「いのち」について、あれこれと話し、たくさん考えてください。
上にも書きましたが、みなさんが生まれるちょっと前、お家の方は、それこそ「あなた」を守るために、いっしょうけんめいに生きてきたのだと思うのです。ぜひぜひ、聞いてください。
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追記

2021年01月17日 21時24分35秒 | 教育を考える
小林氏には、平山裕人「小学校 超管理教育の実態」(寿郎社)、渡部謙一「東京の教育改革は何をもたらしたか」(高文研)、稲垣久和・土田修「日本型新自由主義の破綻」(春秋社)、竹信三恵子「企業ファースト化する日本」(岩波書店)、内田良・田中へこ「マンガ中学教員日記」を、ぜひ読んでほしい。
 少し考え方が変わるかもしれない。期待。
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一斉休校は、やらないではなく「やれない」

2021年01月05日 15時24分35秒 | 教育を考える
家族内の感染が多くなり、そこで感染した子が一人でもいれば、学校でも爆発的に感染が広がるだろう。「いまはそれほど」と言うよりも、「それほど」の時期こそ、先手をとって防止に努める必要があるのだ。
人の流れを止めることこそ、最大の対策であるなら、休校も同じように実施しなければ説明が成り立たない。
3月の一斉休校が、不評であったこと。リモートの環境がまだまだ不十分であること。
政府は怖くて決断ができないのだ。

子どもは感染しても軽いということは、それはそれでよし。しかし、私はどうだ?
誰かが守ってくれるのだろうか。高齢者だけでなく、教職員はどうなのか。
私は月に何回か時差出勤を申請しているが、あくまで通勤の混雑よけだけ。教室はいつも密状態である。
他の先生は、時差勤務はほとんどとっていない。管理職から、その権利について、何も話されない。取ろうとした先生が、窓口の主幹に話すと、「これは取らないほうがいい」と言われたという影響もある。
いのちを守ることは、私たちの使命だか、そのために、いのちを落としては、元も子もない。
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在野でいられるか 息子の相談に寄せて

2020年10月28日 06時15分35秒 | 教育を考える
息子が「研究員をすすめられている」という相談をしてきた。
複雑な思いで回答が歯切れ悪いものとなった。
できれぱ在野に徹してほしいが。彼には彼の人生がある。
私は都に、どれだけ裏切られ、失望してきたか、息子にはすべて判りはしないだろうと思う。
私とて、卒業式では、起立してしまうまで「保身」の態度を崩せないできた、堕落教師である。
在野に徹することが難しいいま、彼には「精神まで売り飛ばさないこと」を願うぱかりだ。
それすら困難な時代だが。
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10.23から17年 都教委の人権認識の無さ

2020年10月26日 06時24分12秒 | 教育を考える
椅子の並べ方や、斉唱のやり方、装飾にまで規定し、命令した10.23の通知が出されて17年が過ぎた。日の丸、君が代を、なんとしてでも強制させたいための通知だ。
すでに若い教員は、その存在すら知らないで、型通りの、議論も許されない卒業式に、疑問すら抱かないほど「定着」している。
うすら寒い。時間が、問題を風化させる。
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構想外なり

2020年10月03日 18時14分42秒 | 教育を考える
学術会議の件ではないが、わが校はすでに、人選や運営は、管理職の恣意的なものが平然とまかり通っている。
コロナ感染を避けるための「時差勤務」の申請は、ついに私だけとなったようだ。
一緒にとっていた同僚も、番犬主幹に「とるべきではない」旨の注進を受けて断念。
教務主幹の作成した今月の行事予定は、休憩時間後の会議がびっしりと埋め尽くされている。見た途端に「時差をとれるものならとってみろ」と言わんばかりの挑戦的なものだ。
黙っていられない私は、あえて、それにぶつけて申請をした。校長宛の意見書を添えて。
行事予定に「時差勤務」の配慮がまったくされていないこと。
夕方の会議の欠席は、全て「学校運営に支障がある」とは思えず、これまでも年休を行使して、同僚からラインで知らせてもらったり、翌日に日誌で確認したりし、それで迷惑をかけたとは思えない。
時差勤務に対する意義を、もう少し考え直していただきたい。職員の命に関わることゆえ、検討していただきたい。
そんな内容の手紙をつけての申請だった。

すると昼休み、副校長が私の教室にいそいそと訪れ、体が第一だから、時差勤務はぜひとってくださいと言う。行事予定表に赤いマーカーで、可能日が印されているものを渡される。今日は月末だが、書き直して明日でもいいとのこと。

それはそれでありがたい措置をしていただいたのだが、これもおかしいことではないのか。
結局、この措置の恩恵を受けたのは私だけである。「あなただけ特別よ」という訳だ。
行事予定を見て諦めた同僚、主幹に止められた同僚は、どうなるのか。
もの申すものだけにしか権利は行使されないというのか。
翌日の夕方の会では、この件について、管理職からはなにも職員に対してコメントなし。

服務には「自分から見てもうるさいくらい徹底します」という管理職は、服務違反が出てしまう土台、つまり職場に開放性、相互信頼の雰囲気があってこそ、自主的に規律が守られるのだということがわかっていないのではないか。わが校のように、職員を選別、差別し、抑圧的で閉塞感に満ちた職場からは、服務違反者がいつ出てもおかしくない。

私も管理職には「うるさいやつ」「目障り」としか映っているのだろう。
とにかく、校長がわが校にやってきて、挨拶の一言、分掌関連の確認以外、まったく話していない異常な光景である。
毎日、検温し、備考に「強い倦怠感」「寝不足」と、ほぼ毎日申告していても、なんの声かけもない。副校長はせっせとやってきて、声かけをしてくれるが、「副がやっているから」という問題ではないだろう。あなたは、誰なのか、なんのために「長」となっているのか。

あと半年。ちょっとひ弱な同僚たちと、元気いっぱいな子どもたちとの、充実した日々にすがるしか、元気のもとはない。
もちろん、意見は「自粛」しないで言いながら。
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