goo blog サービス終了のお知らせ 

息苦しい世の中で 自由に語り合える空間を

自由でも民主でもない この日本を もっともっとよりよく変えていくことができるように たくさんの知恵を語りましょう。

裁判官の頭の構造は

2013年02月26日 23時21分56秒 | 教育を考える
 まったくバカげた判決である。
 減給・停職処分は認めないというのが、せめてもの「良心」だとも言えるのだろうか。
 この裁判長の「バランス感覚」が見て取れる判決内容だ。
 結果的に行政に寄り添った、「日和見」判決なのだ。
 

「2月26日東京高裁(園尾隆司裁判長)は、元八王子市立中学校教員近藤順一さんに対する「君が代」不起立をめぐる処分への判決を出した。判決は、控訴棄却。「日の丸・君が代」を強制する10・23通達や職務命令は合憲合法、戒告処分は認めるが、それ以上の減給・停職処分は認めないという地裁判決(2012年1月の最高裁判決のコピー)をそのまま維持した。原告の近藤さんが求めていた、精神的苦痛に対する損害賠償は認められず、教育の自由をめぐる憲法判断や、戒告処分の取消も一切判断されなかった。

判決後、近藤さんは「憲法判断・不当判決」と書かれた紙をかかげ裁判所への抗議の意志を示した。また、「戦前から戦後にかけて教員たちが軍国主義から豹変して民主主義を語ったと聞いたことがある。今の教員は、ひょっとしたら1年でそれをやらされる。人権、自由、個人の尊重を語るほど卒業式や入学式で見せる姿は生徒たちにどのように映るのか、それを危惧する」と語った。

昨年の1月の最高裁判決以後、それをそのまま踏襲する下級審の判決が相次いでいる。裁判の独立はどこへいったのか。わたしたちが望むのは、まず自分の頭で考える裁判官だ。」(佐々木有美)<レイバーネット日本>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都にしては珍しく

2013年02月17日 00時58分00秒 | 教育を考える
東京都教育委員会は14日、公立中学校と中等教育学校前期課程の1年生の学級編制基準について、35人学級を可能にするよう改定しました。4月1日から実施します。

どう考えたのかは、詳細はわかりませんが、ことごとく頑なで、権威的で、独断も甚だしい都にしては、珍しく柔軟な施策です。
「都教委は、10年度から実施してきた中学1年生で少人数学級を可能にする「中1ギャップ」教員加配について、「制度活用の効果が顕著に現れている」と評価。中学1年生は「いじめの認知件数が最も高いなどの課題がある」として、35人学級を編制できると基準を改めました。これに伴い教員215人を加配します。」と報じられているところから察するに、自分の手柄を、さらに再確認すべく取り組んだということでしょうか。

まあそれはそれてして、ハード的な面での前向きな姿勢を評価すべきでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まことしやかな嘘 「紀元節」の日に

2013年02月11日 09時11分03秒 | 教育を考える
TOSSという「お手軽教育技術」サイトに「お話集」として乗っていた記事だ。
こんな非科学的な話を、真面目くさった顔をして、子どもの前で講話をする教員がいること自体、信じられなく、
情けなく思う。
「真理を追究し、未来を語る」はずの教師が、こんな低俗な話をしている。それだけで、「あなたは教師としてはふさわしくない。即刻やめなさい」と言いたくなる。


「世界で一番古い国はどこでしょう。皆さんのよく知っている国です。(間)日本です。
日本の国が出来て、何年たつのでしょう。
(1)100年  (2)500年  (3)1000年  (4)2500年  
2662年になります。
皆さんには誕生日がありますね。学校にも誕生日があります。創立記念日です。
日本の国にも誕生日があります。
なんと言いますか。
建国記念の日と言います。
日本が出来たころは、文字がありませんでしたから、国の始まりのことは 言い伝えでした。
やっと文字が中国から伝わり、言い伝えを本に残すことが出来ました。1300年前です。
この本を古事記といいます。
古事記には、国の始まりのことをこのように書いています。
 「四つの大きな島に住む人々がばらばらに暮らしていました。みんなが一つにまとまって、
日本という国を作ることはとても大変な仕事でした。その大業を成し遂げられたのが第1代神武天皇です。
辛酉(かのととり)の年、春正月朔日(ついたち)、橿原の都で天皇の位につき、日本の国が始まりました。」
その日を、今の暦になおすと2月11日だったので、建国記念の日と定められました。
今の天皇陛下は、神武天皇から数えて125代目にあたります。」
(TOSS 近藤光弘) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司法は権力の番犬なのか

2013年02月10日 08時23分26秒 | 教育を考える
ふたたび土肥さんの訴えが拒否された。
言わぬ教師を大量生産するためには、格好の「みせしめ」「さらし者」なのだろうと思う。
権力の横暴、そして司法の独立放棄。


「土肥信雄・元三鷹高校長が東京都教育委員会を相手に争ってきた裁判で、2月7日東京高裁控訴審判決があった。「職員会議での挙手・採決禁止問題」に異議を唱え、再雇用を拒否された土肥元校長側の全面敗訴だった。司法は再び都教委の横暴を追認した。判決後、土肥元校長(写真)は固い表情で支援者を前にこう語った。「残念ながらまた不当判決が出ました。三鷹高校時代の教員を呼んで証人尋問したのは一体何だったのだろう。事実はひとつなんですよ。それを認めてくれない司法があっていいのでしょうか。日本において三権分立の精神、司法の独立はまったくなくなったと思ってもいい。」(レイバーネット日本より)

「この裁判は通称「学校に言論の自由を求めて!裁判」と言われ、2006年4月13日に都教委が発出した「学校経営適正化通知」(4・13通知)により、職員会議での挙手・採決が禁止され、業績評価制度とあいまって、学校現場で教職員が自由に意見を言えない状況が生み出されました。この状況に疑問を持った同校長は、校長説明会などで都教委を批判し、公開討論会などを要求しました。また、市民などと共に
「学校に言論の自由を求めて!」の集会などを行い、都教委に公然と異議申し立てをしました。
土肥校長は退職後の継続雇用たる非常勤教員に応募したところ、通常、ほぼ全員が合格・採用になるにもかかわらず、都教委は「反抗的だ」として同校長を不合格にして、2009年3月、土肥校長は定年退職を迎えました。彼は退職後の職を奪われたのです。私たち「君が代」強制に不服従を貫き処分された被処分者は、全員が不合格となっていますが、それ以外で体罰、セクハラなどで処分された人も殆ど合格・採用されているにもかかわらず、何ら処分歴のない土肥校長が不合格・不採用となったのです。
・・・
土肥元校長は、東京高裁に控訴しました。控訴から約1年、本日の判決で、東京高裁は、①不合格処分が都の裁量権の逸脱・濫用にあたるか、②挙手・採決禁止の通知が教育の自由の侵害、校長の学校経営への介入、となるのか、③都教委の業績評価のやり方が本来の趣旨を逸脱していないか、の3つの争点でいずれも都教委の主張を採用して控訴人の主張を斥けました。
今回の不当判決でも土肥元校長の「教育実践は立派」と認めていますが、結局は「先に結論ありき」で行政に追随し、控訴を棄却しました。退職後の職を奪うという教職員に対するイジメを裁判所までもが容認しているのです。今、全国で「いじめ」が大問題になっていますが、教育行政が教職員をいじめてこどもの「イジメ」は決してな
くなりません。」(「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会 東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟原告団 事務局長 近藤 徹さんの報告)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理科離れなんて無縁

2013年02月09日 09時05分33秒 | 教育を考える
これは、私の学級通信からの引用です。名前は伏せてありますが、それ以外はそのままの表記、表現となっています。

 「今、日本では、理科が嫌いな子どもたちが、たくさんいるらしいよ」
 そんな私の言葉に、「えー、ぼくたち、大好きだよ!」「へんなの~、こんなにおもしろいのになあ」「ふしぎなこと、いっぱいわかるんだもの。楽しいよねえ」 たくさんの声があがりました。ありがたいことです。
 今、理科では「磁石のふしぎ」の学習をしています。大人の私にとっても、磁石はとても不思議なものです。この公開中に、「磁石の真ん中は、鉄を引きつけるだろうか」という疑問を解く実験をしました。まず子ども達は、一生懸命に考えて、自分の仮説を立てます。最初の子ども達の予想は、「ひきつける」が14人、「ひきつけない」が19人。これには、参観中のお母さん方にも参加していただきました。
 次は、その予想の根拠となった理由を発表してもらいました。それが、なかなかするどいのです。
「まるごと一本の磁石なんだから、どこでも鉄をひきつけると思います」「でも、磁石にはS極とN極があるんだから、真ん中は、それが打ち消されて、力がなくなると思う」「鉄は、S極でもN極でもひきつけられるのだから、打ち消されることはないと思います。だからくっつくと思います」「自分の持っている磁石は、どこもひきつける力が、おんなじじゃないです。強いところも、弱いところもあります。だから、きっと真ん中は、弱いか0だと思います」
 その話し合いのあとに、再度、自分の予想を聞きます。(もちろんみんなの意見を聞いて、変更してもかまいません)2回目の予想は、少し「つかない」が増えました。
 さあ、みんなの実験開始! 慎重に、棒磁石の真ん中に、釘を立ててみます。
 「あれ、釘が逃げた」(まさにそんな表現がぴったりです)「横にとんでいっちゃう!」「あれえ、ひきつけてくれないよ」 実験は、全員が「つかない」という結果に。

まちがえたから忘れない 予想とちがっていたから楽しい
 ○○さんが、「まちがった人がいっぱいいたけど、まちがえたから、みんなこれを忘れないと思うし、まちがえることも楽しくなりました」といった感想を言ってくれました。その通りですね。
地球は ものすごい磁石なんだ! 昨日は、「方位磁針」の実験でした。今、1組の教室には、仮説社で手に入れた、強力なフェライト磁石、ネオジム磁石が5個あります。それを黒板の左側(つまり西の方向)に貼り付けます。そして、「あまり近づけてはいけません。
みんなの机に方位磁針を置くと、ちゃんと南北を指すでしょうか」という問いかけをしました。(これもお母さん方を巻き込んでしまいました。ありがとうございます)
 私は、「磁石の方向に向きを変える」「そのまま南北を指す」の2つを用意したのですが、子ども達の頭のほうが、ずっと柔軟です。△△くんからは、「南北と、黒板の磁石の方向のどちらにも迷って動く」という予想を立てました。なーーるほど!みんなの予想は、「南北のまま」が、少し多めながら、二分され、さらに△△くんの「新仮説」の登場で、その意見にも賛成する子が増えていきます。
 結論を言うと、「そのまま南北を指す」が正しい結果です。つまり、それほど地球という磁石は、私たちの空間に大きな影響、力を及ばせているのです。
 ここでも、予想通りの子も、予想とちがっていた子も、すがすがしく結果を受け入れる「さわやかさ」があります。
不思議大好き 理科大好きの子を たくさん育てたい! 3年生の理科は、「不思議の導入」期間でもあります。ちょっとした時間に、子ども達は、例の「強力磁石」を手にとって遊んでいます。その2つを同時に空中に投げ上げると、反発力と磁力とで、細かく「カチカチカチ」と振動するようになること、球形の磁石にも、やはりS極とN極が存在すること・・・どんどん子ども達は発見していきます。「理科」と聞いただけで、目が曇ってしまう子にならないよう、私たちも子どもに負けないように学んでいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちゃっかり「やーめた」なんてことではない

2013年01月30日 00時51分39秒 | 教育を考える
 退職金が減らされる前に退職しようとする教職員のことが報じられている。
 やはり「けしからん」「最後まで勤めることが教師としての責務だ」「こどもはどうするのだ」といった意見が多くのマスコミのスタンスのようである。

 「職を辞する」
 それについて、「金のためだから」と、いとも簡単に結論を出した教員など、おそらくは1人もいないに違いない。
 その多くは、家のローン、子どもの養育、学費、親の介護、自分の退職後の見通し、その他もろもろのことを、「現場を途中で放棄する」ことと、天秤にかけながら、考えて考えて、悩んで悩んで出した結論に違いないのだ。

 教員は、けっして「裕福」ではない。
 しかも、ここ10数年は、手取りが大幅に減り、これからも減ることはあっても、まず増えることはありえないということを考えれば、「早期退職」をして、第2の人生に踏み出したほうが、「まだまし」と考えもことも、やむを得ないことだと思える。
 「子どもにはすまない」
 しかし、自分も、家族も、生きていかなければならないのだ。

 最近は、定年前に「燃え尽きて」やめていく仲間が、激増しているが、すでに魅力のない学校にはとどまっていたくない、そんな気持ちも拍車をかけているのかもしれない。

 悲しい現実である。

「埼玉県内の公立学校の教員100人以上が、退職金が引き下げられる前の1月末で退職を申し出ている問題で、29日までに6人がいったん申し出た退職願を撤回した。いずれも「駆け込み退職」問題が報道された後で、現場の先生たちも揺れているようだ。

 県教育局やさいたま市教委によると、小学校で担任2人を含む3人、中学校で1人、県立高校で教頭1人を含む2人の計6人。さいたま市の担任教諭の1人は「子どものために」と学年末まで職務を全うすることを決めたという。

 ただ、県とさいたま市の教員計104人が今月末で退職する意向で、県教育局は「臨時教員を採用するなどして学校に混乱がないように努めたい」としている。」(朝日新聞)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現場の声など聞く耳を持たない政権

2013年01月26日 10時48分44秒 | 教育を考える
やはり、という感じがするが、末端にまで金を落とそうとはしないのは、自民党らしいなと失望の上塗り。


「全学年35人学級、断念 文科省、自民意向受け白紙に
 文部科学省は、公立小中学校の全学年に少人数学級を導入する計画を断念することを決めた。今年度までに小1、小2の「35人以下学級」を実現した民主党政権は、新年度から5年間で中3まで全学年に広げる計画を立てていたが、政権交代で白紙に戻った。

 文科省は昨年9月、小3~中3を35人以下学級にするには教員1万9800人の定数増が必要と判断。2013~17年度に実現する計画で、新たに1学年分を増やす3900人分(85億円)の予算を概算要求していた。どの学年に先に導入するかを都道府県が選ぶ方法を想定していた。

 しかし、自民党内には全国一律の底上げよりも、学力向上やいじめ問題対応などに焦点を絞った追加配置(加配)の方が費用対効果が高いとの主張が強い。その意向を受けた財務省と文科省が調整した結果、(1)小学校で担任とは別に理科や英語を教える専科教員を配置する(2)いじめ問題への対応などで生徒指導の態勢を強める(3)マネジメント強化のため主幹教諭を置く――といった学校に限定し、増員を認めることにした。 」(朝日新聞)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体罰の記憶

2013年01月22日 23時17分42秒 | 教育を考える
私の中学生時代は、周りに「体罰教師」が多数ひしめいている、そんな印象でスタートしました。

まず担任。数学の先生であり、忘れ物をすると、教室の前に立たせて、思い切り頬にビンタする「約束」を強いられました。
まだ教員となってすぐで、自身を「熱血漢」だと思っていたのでしょうが、数学のある日は、起きてから家を出るまで、何度も何度も宿題のプリントやノートを点検していたことを思い出します。
幸い、忘れ物は0で、ビンタは回避できましたが、「宿題をやって賢くなろう」などとは全く考えることはなく、「痛い思いをしたくない」としか考えてしませんでした。

そして極めつけは、美術の先生。
月曜日に美術の時間がありましたので、休み明けの朝は、いつも胃が痛くなりました。
馬の絵を描かせたら、右に出る者はいないという芸術家だとのことですが、とにかく子どもに向かって額縁を投げる、体当たりをする、イーゼルを投げる・・・それが予測不可能なのです。
私も、「集合、整列をさせるのが遅い」と、胸を突かれ、「お前、肩にふけがついてるよ」と額縁を首に投げるようにかけられ、「なんだ、その目つきは」と、体当たりを食らいました。

これらも「体罰の会」からすれば、崇高な指導方法なのでしょうが、暴力を受けた側からすれば、「屈辱」と「恐怖」以外のなにものでもありません。
私たちは、教師の顔色を見ながら、「怒られまい」という意識だけで、授業を受けていました。
その当時の私たちは、別の言い方をすれば、主体性のない、意気地のない、まったく「進歩」などありえない、哀れな子どもたちでした。

教師の主観で、それが暴力にも、またすぐれた「体罰」にも解釈できることは、結局、いい加減な基準だということなのでしょう。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中止すれば解決なのか

2013年01月20日 18時44分27秒 | 教育を考える
「大阪市立桜宮(さくらのみや)高校の体罰問題に絡み、市教委が、橋下徹市長から要請されている同高体育系2科(体育科、スポーツ健康科学科)の今春入試での募集中止について、「この時期の募集中止は極めて困難」として、入試継続を軸に調整していることがわかった。」(読売新聞)

「言うことが聞けないなら、出て行け!」
「そんなもん、やめちまえ!」

とにかく橋下氏は短絡的である。
その高校、その学科を目指していた子達は、いったいどうなるのか。
そんなことはお構いなしのようである。

「やめる」ということは、つまり「あいまいにする」と、ほとんど同義である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体罰の会

2013年01月20日 10時59分36秒 | 教育を考える
かなり長い文章の引用をします。
みなさんは、これを読んで、どう感じられるでしょうか。

「体罰とは、進歩を目的とした有形力の行使です。体罰は教育です。それは、礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸、武術、学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なものなのです。
  一方、あたりまえのこととして、暴力は許されません。自己の利益、不満解消(鬱憤晴らし)、虐待を目的として人(弱者)に対して有形力の行使をして傷つける行為は、家庭内であれ、学校内であれ、社会内であれ決して許されません。それは、その人間の考えの間違い、心の弱さ、過度の精神的な疲労(人間力の劣化)などが原因となっています。しかし、このような進歩を目的としない「暴力」と、進歩を目的とする「体罰」とは根本的に異なります。

 初めから「全人」として生まれた人はいません。躾や鍛錬によって生命と身体を維持し家族、民族そして国家を維持しようとする本能を強化し、学習によって理性を作り上げて進歩しながら人格を形成してゆくのです。
  しかし、自己の自覚と努力だけでは進歩できない場合もあり、むしろ、それができない人の方が多いのです。それは、進歩のためには鍛錬が必要であることを理性的には理解できても、自らに苦痛を課す鍛錬から逃れようとする心があるからです。これは、「快を求め不快を避ける」という本能的な行動原理によるものであり、教育はこの行動原理に基づくものなのです。

 進歩を目的とした躾や鍛錬には少なからず不快感を伴います。躾や鍛錬による不快感は、それを克服させるための行動を起こさせ、その目的を達成すると不快感は消え、快感(幸福感)が得られます。それゆえ、進歩を目的とした躾や鍛錬による不快感は、進歩のためには必要不可欠なものであり、「不快なくして進歩なし」なのです。ところが、躾や鍛錬による不快を「悪」であるとして躾や鍛錬を否定すれば、進歩のための行動が生まれず、いつまでも進歩しないことから、他人との能力差を感じて疎外感や劣等感が生まれ、それが逆に大きなストレスとなって、躾や鍛錬による不快以上の大きな不快が生まれ、社会生活に適合できなくなります。

 人生において進歩向上すべき最も重要な時期に、進歩のための不快を避け、不快なくして進歩しようとする怠惰な心の赴くまま身を委ねてしまうと、進歩することができません。克己心を得て進歩のための不快を克服して自己研鑽できる一部の恵まれた者だけが教育的に進歩できても、その他の多くの者が取り残されて社会の全体的な進歩がなければ、社会秩序は安定せず社会全体の民度は高まりません。大人ですら進歩のために必要な矯正措置を不快と感じて避ける怠惰な心がありますので、子供たちの場合は尚更のことです。自主性とは理性が完成していることを前提としますので、理性の未熟な子供に自主性を期待することはできません。そのために、教育的矯正が必要となってきます。その最も重要なものが体罰なのです。

 水が高いところから低いところに流れるように、学級生徒の中に怠惰な者がいて、それに対して教師が何らの教育的矯正をなさないとしたら、学級全体が怠惰を是認することになって、克己心を持って研鑽している他の生徒にも悪影響を与えます。その結果、学級全体の生徒の進歩が遅れ、学級の秩序が乱れます。
  そのことを動物行動学を確立してノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツが科学的に証明しました。それは、「種内攻撃は悪ではなく善である」ということです。ここで「善」というのは、種族保存のために必要な秩序維持に必要不可欠なことを意味します。決して、理性的、宗教的に判断した「善」のことではありません。善悪は、理性で決するものではなく、固体と種族の本能(生命原理)に適合するか否かによって科学的に決定されることを意味します。種内攻撃は、すべて種内の秩序の形成と維持のためになされます。決して秩序を壊し秩序を乱すためになされるものではありません。人間以外の動物は、秩序を壊し秩序を乱す結果を生む種内攻撃をすることがありません。そして、本能的行動としての種内攻撃、つまり、同種内における有形力の行使は、種族維持、秩序維持のために必要なものであることを説いたのです。この種内攻撃の最も重要なものに「体罰」があるのです。

 ところが、それでも体罰は悪であるという人がいます。しかし、これには前に触れたとおり科学的な根拠がありません。それどころか、進歩を目的とする体罰が悪であれば、それ以外の方法による進歩を目的とする強制力もすべて悪になります。体罰のみが悪であるとする根拠がなく、進歩を目的とする強制力のすべてを否定することは、結局のところ教育それ自体を否定することになります。
  さらに、そのような体罰否定論者は、「体罰」を「虐待」と同視します。たしかに、虐待も有形力の行使ですが、虐待は単なる憎悪の発露に過ぎず進歩を目的としない暴力です。同種内でこのような秩序の破壊と紊乱を生む行為をする動物は人間だけです。本能に忠実な人間以外の動物は、無益な殺生や虐待をしません。親殺し、子殺し、夫殺し、妻殺しのような犯罪も犯しません。家族維持や社会秩序維持の本能が劣化すれば犯罪が起こります。虐待とか犯罪が起こるのは、人間にしかない歪んだ理性によるものです。犯罪とは、「歪んだ理性のアダ花」というべきものなのです。
  そもそも、同じ有形力の行使ではあっても、目的の有無によってその性質は全く異なります。体罰と虐待(犯罪)とは、進歩を目的とする行為であるか否かによって峻別されます。決して体罰の延長線上に虐待があるのではありません。この区別の解らない人は、人命救助と治療を目的として外科医がメスを用いて行った手術行為と、憎しみと利害打算によって人を刃物で殺傷する犯罪行為との区別もできないことになります。

 また、「刑の疑わしきをば軽んぜよ」(書経)といふ言葉があります。これは、刑罰の謙抑性を説いた言葉です。法はあらゆる違法行為を対象とすべきではなく、刑罰は必要やむをえない場合に最小限度で適用されるべきです。これと同じく、体罰もまた無条件、無制約ではありません。体罰が教育として必要なことと、体罰がどのような場合にどの程度必要であり、そして教育目的を実現するためにどうすれば効果的であるかということとは区別しなければなりません。体罰は、教育を行う者に認められた懲戒権であり、その権利が認められるか否かという権利の「存否」の問題と、その権利を行使するについてどのような場合にどのような方法や程度で行うことができるかという権利の「要件」の問題とは区別されます。ハードとソフトの関係です。これを混同することは、警察官が違法な逮捕をしたことがあったことを理由に、すべての警察官の逮捕権限を全否定することはできないことと同じです。体罰を悪であるとして否定する人は、この区別もできないことになります。

 子供は教育的進歩を遂げなければ社会人として完成できないのですから、体罰を含む教育を受ける権利があり、国家としても体罰を含む教育をすべき義務があります。ところが、学校教育においては、学校教育法第11条但書により、教員による体罰が禁止されています。同条は、学生生徒等の懲戒についての規定であり、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」と定めています。体罰は教育に必要な懲戒権には原則的に含まれるのですが、例外的にこれを行使してはならないとしているのです。
  しかし、このように学校教育における体罰(学校体罰)による懲戒権の行使は禁止されていますが、家庭教育における体罰(家庭体罰)は禁止されていません。それは民法第822条に規定する親権者の懲戒権には体罰を除外されていないからです。つまり、学校体罰は禁止され、家庭体罰は禁止されていないという不統一で論理矛盾な懲戒制度となっているのです。
  そのうえ、平成12年には、体罰と虐待の区別もできていない「児童虐待の防止等に関する法律」という欠陥法律が制定・施行されます。これにより、進歩目的の有無で区別していないことを口実に、親権者の体罰を虐待とみなして、児童相談所が独断で一時保護と称して児童を拉致し、親子を引き離して長期完全隔離して家庭を崩壊させる事案が恐ろしい勢いで増加しています。確かに、これまでの放任教育の結果、あまりにも悪質で悲惨な児童虐待事案が増えてきていることは確かです。これは、「体罰」ではなく明らかに犯罪なのです。

 現行の制度では、家庭体罰を肯定し、学校体罰を否定しています。学校体罰と家庭体罰とを区別し、学校体罰のみが否定されることの科学根拠は未だに示されていません。さらに、体罰を虐待とを混同しうるような児童虐待の防止等に関する法律が制定運用されるという矛盾に満ちた現行の法制度は、明らかに教育科学に反します。科学でなければ、それは特異な思想か宗教的教義に他なりません。いわば、教育が「体罰禁止教」に支配され、いまや教育は再生不能の状態にまで陥っています。
  子供の自主性を尊重し、命の大切さだけを教え続けた個人主義の「理性教育」は、論理矛盾と形容矛盾の最たるものと言えます。自分の命を捨ててまで守るべきものがあることを教えなかったからです。自分の命を捨ててまで愛すべき親や子供たちを守ることは、理性教育からは導かれません。そのため、個人主義では、自分の命だけが大切であり、他人の命は大切ではないことになりました。戦後教育は、この個人主義に根差した理性教育が正しいとして今日まで来ました。その結果は、実に惨憺たるものでした。今では、家庭教育では、家族の序列と秩序が消滅して健全な親子関係が崩壊し、学校教育においても、教師と生徒との序列と秩序が乱れ、イジメや不登校、自殺などが起こって、教育全体が回復不能の状況となり、社会秩序が崩壊寸前にあります。怠惰を助長させる放任主義は、まさに教育の放棄であり、社会秩序の崩壊となります。そのために、少なからず他律的な矯正の力が必要となります。競争原理による叱咤激励、信賞必罰や、劣後する者や怠慢な者に対する叱責などの間接的な矯正だけでなく、直接的な矯正力が必要な場合があります。それが体罰です。ですから、体罰は教育なのです。ところが、そのどさくさに紛れて、体罰と虐待とを同一視する傾向が一層進んでいるのです。

 このように、現在では悲観的な状況ではありますが、平成21年4月28日の最高裁判所第三小法廷の判決によって、教育再生へのかすかな光明を見出すことができました。この事案は、休み時間に女子児童を蹴っていた男児らを教員が注意して職員室に戻ろうとしたところ男児に尻をけられたので、教員が男児の胸元をつかんで壁に押しつけ、「もう、すんなよ」と怒った行為を、学校教育法第11条但書の体罰禁止条項に違反する行為であるとして男児の保護者が損害賠償を請求したものです。一審と控訴審は損害賠償を認めましたが、最高裁では逆転してその請求を退けました。この教員が男児の胸元をつかんだ行為が「体罰」にあたるか否かについて、最高裁は、「許される教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰には当たらない」と判断したのです。しかし、この教員の行為は、明らかに体罰です。教育的指導は体罰の一種です。つまり、この最高裁判決は、学校教育法第11条但書を実質的に否定したか、あるいは限定的解釈を行ったものと評価されるのです。
  しかし、この判決はまるで多勢に無勢、焼け石に水のような存在で、現在のような不整合な法制度が存在し、その規定を正しいものであるとする体罰否定の人たちが戦後教育を支配し続けたため、学校のみならず、家庭も崩壊し、児童相談所の横暴を許し、家庭裁判所もそれを黙認するに至っています。それゆえ、この最高裁判決を踏まえて、現在の状況を打破して、教育の再生をはかるには、体罰禁止教の支配から我が国を解放して、教育に科学性を回復することです。そのための緊急の課題として、まずは学校教育法第11条但書の削除を実現することが必要です。その上で、体罰の方法や程度に関する法整備を実現して、教育の再生を実現せねばならないと確信します。

 戦後教育によって多くの国民に深く刷り込まれた体罰という言葉の否定的なイメージを払いのけるのは並大抵のことではありませんが、我々は、この洗脳から解放されることが教育再生の大きな第一歩であり、その具体的な目的として、学校教育法第11条但書の改正(削除)をもって教育正常化を実現する国民運動を展開するために本会を設立しました。
  何卒、皆様のより一層のご理解とご協力、そして本会への積極的なご参加をお願いする次第です。」

これは、「体罰の会」という組織の趣意書です。

会長は、慶応大出身で「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長も務めた加瀬英明(かせ ひであき)氏。顧問兼支部長に戸塚宏氏、顧問として、女優で詩人とされる村松英子(むらまつ えいこ)氏、そしてあのNHK英語講座で知られた松本道弘(まつもと みちひろ)氏が名を連ねています。支部は、戸塚ヨットスクール支部(愛知)、PNF支部(東京)、進歩目的の体罰の会支部(神奈川)、そして教育改革を提言する会支部(静岡)にあります。

「進歩を目的とする体罰」
すてきな言葉ですね。

しかし、そんな情緒的な「美しい言葉」も、現実に照らし合わせてみると、それがいかに「欺瞞的な言葉」だと思えるのは私だけではないでしょう。
暴力を行う者の意図が崇高であれば、暴力を受ける心情など関係ないのだ、そんな文脈のように思えます。


この記事は、おそらく、安倍新政権の「教育再生」とも重なり合うと思いますので、その記事の際に詳しくコメントできると思います。
とりあえず警鐘のみ。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏見 独断のメンバーだらけ 教育再生会議

2013年01月12日 12時18分04秒 | 教育を考える
また、うんざりするくらいの布陣にしたものだ。
もう、この時点で、答申・勧告することは決まったも同然。

「日本を誇らしく思える教育をせよ」「飛び級・複線化など、教育の多様化を進めろ(つまり選別の仕組みを整えろ)」「学校・教員の統制、支配を強化せよ」「日本にとって自虐的な内容の教科書は排除せよ」「教育の現場に、もっと民活を導入させろ」

 なによりも、学びが楽しく、しかもそれが子ども達の生きる力となるように。そんな教育とは、まったく正反対の論議がなされていくのは自明のメンバーである。
 こんなまやかしの会議の決定に、現場は右往左往させられているのである。



「政府は11日までに、首相官邸に設置する「教育再生実行会議」(仮称、本部長・安倍晋三首相)の有識者メンバーを内定しました。
日本の侵略戦争を肯定する「新しい歴史教科書をつくる会」元会長で、「ジェンダーフリー」や男女共同参画を攻撃してきた八木秀次高崎経済大教授、教育現場での「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱を主張し、沖縄戦での集団自決強要はなかったとする著書を出版した曽野綾子氏、改悪教育基本法に「愛国心」を盛り込むことを主張した全日本教職員連盟委員長の河野達信氏といった「つくる会」「靖国派」が名を連ねています。安倍政権の公約である教科書検定基準の「抜本的な改善」などを狙う危険な布陣です。
 座長に鎌田薫早稲田大総長、副座長に佃和夫三菱重工業会長が就任します。
 鎌田、佃両氏以外の内定者は次の通りです。
 大竹美喜(アメリカンファミリー生命保険最高顧問)▽尾崎正直(高知県知事)▽貝ノ瀬滋(東京都三鷹市教育委員会委員長)▽加戸守行
 (前愛媛県知事)▽蒲島郁夫(熊本県知事)▽川合真紀(東大教授)▽河野達信(全日本教職員連盟委員長)▽佐々木喜一(成基コミュニテ ィグループ代表)▽鈴木高弘(専修大付属高校長)▽曽野綾子(作家)▽武田美保(スポーツ・教育コメンテーター)▽八木秀次(高崎経済 大教授)▽山内昌之(東大名誉教授)」(新聞あかはた)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いじめ・体罰は、まだまだなくなるはずがない

2013年01月10日 22時46分02秒 | 教育を考える
体罰が自殺を誘発させたのではないかという報道が、あちこちでなされている。
真相は、時間を経て、徐々に分かってくることだろう。

長年、現場にいた私としては、日本の教育現場を考えたとき、いじめも自殺も根絶できない土壌が
あると思っている。
いくつかの理由があるのだが、ひとつは、教師の一般的な傾向にあると考えている。

その傾向には、2つのことが言えると思う。

一つ目。教師の「真面目さ」から来るもの。
とにかく、私の周りの教師は真面目である。今や、それほど高い賃金とは言えない収入で、朝早くから
夜遅くまで、働きづくめであり、愚痴をこぼすことはあっても、そこから逃げることがない。
それはそれで尊敬できる特質であり、美徳とも言えるのだが、これが、子どもと接したときに、時として
「抑圧者」となりうるものを持っているとも言える。
教師は、「ねばならない」「こうあるべきだ」といった思いがすこぶる強い。これ自体は当然のことだが、
最近は、「規律正しい」「従順」「品行方正」といった外見を持つ子、学級を、極度に希求する傾向が強いと
感じる。
別の言い方をすれば、「子どもの多面性」を否定する、そんな指導が主流を占めているかのように思える。
教師の思い描く「規格」から外れること、外れた子に対しては、かなり執拗に、強引に「規格」に収まるよう
指導を繰り返すのである。
極端に言えば、教師は「差別意識」を持って、子どもに対しているかのようである。
こんな意識を持った教師が担任の学級には、うわべだけの「仲良く」「協力」「1人1人大切に」という言葉は
飛び交ってはいても、どこかで排他的な関係、階層が生じてくるのは必然である。

二つ目。教師が孤立していることに由来するもの。
同僚から「あなたのクラスは、ちょっとうるさいね」「○○、昨日は休み時間に外にも出ないで、校舎内をぶらぶら
していたよ。指導したほうがいいのと違う?」などと言われると、教師は、とたんに身を固くする。
「ああ、そうなですよ。まあ、それが取り柄の活発なクラスで・・・」「あ、彼は1人でいるのが好きなんです。
放っておいてあげてください」などとは、決して言えない。
忠告を受けるや否や、教師は、かっと顔が熱くなり、子どもに対して、「暴君」と化していく。
「お前らのせいで、俺は同僚になじられた」などとは言わないまでも、それまでの優しさはなんのその、しばらくは
管理的で、高圧的な指導を、子どもに向かって行う。
本意ではないのだが、とにかく「静かにさせるため」「外にだすため」、そして「導尿から指摘を受けないため」に。
教師は孤立している。自分を、とにかく守っていかなければならない。
子どもは、たまったものではない。担任の「保身」のために、理不尽な指導をうけることになるからである。
ときには体罰もどきの「指導」もあるだろう。「みせしめ」により、学級全体を震え上がらせることもあるだろう。

これだけでも、いじめや体罰は、容易に克服されていくとは考えにくい。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見るも・・・続

2013年01月07日 00時40分48秒 | 教育を考える
⑤ 「効率化」という名の思考停止
 
 パソコンには、これまでの「実施計画案」が蓄積されている。多忙ゆえ、それを利用、活用する
 のはいいだろう。しかし、昨年と全く同じものを、日時と職員の名前を変えただけで提案される
 ことがほとんど。もちろん、その都度、「反省」がなされて、改正されていくこともあるが、
 それはあくまでも「手順」「分担」の変更が多く、「ねらい」または「ねらいをどう実現するか」
 の論議は、それこそ皆無といっていい。
 「ねらいをどう子ども達と達成させるか」に至っては、実施計画にもないことが多数である。
 つまり、これから行う行事、実践については、深い考えからのものではなく、「従来通り」が
 幅をきかせている現場であって、これは「多忙」を差し引いても、教員の「怠慢」といっても
 いいと思う。
 「運動会の紅白対抗は、はたして教育的か」「最後の授業たる卒業式での、国歌斉唱は、子ども
 たちにどう指導させるのか。それとも指導しないのか」「市販のテストで、子ども達の学力が
 わかるのか」「関心・態度は、私たちの実践の裏返しなのだが、それを検討することなく評定を
 定めていいものか」
 きりがなく、論議すべきことは多いのだが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見るも無惨な教育現場--新年にあらためて原点に

2013年01月06日 03時27分09秒 | 教育を考える
今、急いで村田栄一の本を読み返しています。
私が教員となってから、しだいしだいに、「現状に甘んじる」「現実に妥協する」ように
なってしまっていると感じているからです。

そんな、「ダメ私」を、少しでも「原点復帰」させたいと考えて・・・

どう妥協してきたか。

それは限りなく記述することができます。

①「静寂なクラス」が、「指導力ある教師の証」かのような風潮に抗することを怠ってきていること。
 同様に「おとなしい、素直なクラスを持ててよかった」かのごとく同僚が話すことに、黙認し始めている
自分がいること。

 静かにさせることはたやすい。子どもに自分の顔色をうかがうことを習慣化させればいいのだから。
 「あの先生の厳しさのおかげで、自分は成長できた」という言葉をよく聞くが、主体性を欠いて、
 ただ従順になった自分のことを気づかないだけのこと。本当の成長とは、かけ離れた認識だと、私は
 考えている。

②通知表の観点が、指導要録の観点のコピーであることについて。「別の観点だと、作業が面倒」「二重帳簿
 をつけるので煩雑」といった意見に、的確に反論していないこと。

 関心・態度を筆頭として、なにやら意味不明の通知表が、すでに市民権を得て久しい。知識、技能、論理的な
 思考・・・切り刻まれた、少しも科学的ではない観点が、はたして子ども達の学力観として成り立つのか。
 教員の「手抜き」としか思えない通知表は、私にとってなんら意味を持たない。したがって、子ども達にとっ
 ても無意味である。

③卒業式、入学式で、「日の丸」「君が代」が全く論議されなくなったことへ抵抗する意識が薄くなっている
 こと。

 とりわけ東京の教育委員会の出した通達は、権力ある側の傲慢さの象徴である。
 こんなもので本当の愛国心など、生まれるわけもない。
 なのに、現場では、すでに会議の、いや日常の話にも出てこない現実。若い人は、ますます「政治的無知」となって
 いく。そんな教師が、未来の主権者を作っているのである。世も末。

④多忙化を、もっとアピールしていくこと。

 都教委は、「多忙感」だという。すりかえ、ペテンである。
 感じ、ではなく、実際に忙しいのだ。
 
 まだまだ書きたいことは、山ほどあるのに、眠くなってきた。
 続きは明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人面談

2012年11月28日 22時22分20秒 | 教育を考える
5日間の個人面談。
1日だけ出張が入ってしまい、4日間でこなすことに。
1日平均9人。
かなりしんどい日程になってしまいました。
15分で、子どもの成長と課題、さらに成長させるための、親と学校との連携作品提示する。
できれば家庭での過ごし方、親と子の上手な「つきあい方」、なかなか重くて大変な時間です。

昨日、とりあえず10人。そのうち、1人はうっかり「忘れ」。
2時40分からスタートして、終わったころには、廊下はすっかりと暗くなっていました。
待合の場所に、展覧会の個々の作品(子どもが抱いている)を撮ったフォトブックを置いておきましたが、
よく見えなかったかもしれません。

明日から、また「戦い」が始まります。

この2日、東京はかなりの冷え込みです。
手袋がほしくなりました。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする