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河原井さんが勝訴―「君が代」不起立損害賠償裁判

2012年11月17日 06時10分45秒 | 教育を考える
自分の信念に従って、体を張って生きていく、そんな勇気を持ちたいと思う。
こんな歳になっても、まだ間に合うのだとしたら、そんな「生き様」で日々を送ってみたいものだ。


「既に報道されていますが、昨日(11月7日)、東京高裁で、元都立特区別支援学校の河原井純子さんの差し戻し控訴審判決がありました。それによると<停職1月の処分>に対し、 
・「裁量範囲を超えるものとして違法」、 
・「処分により・・被った精神的苦痛に対する慰謝料は、30万円とするのが相当」、とする判決を下しました。
判決文を読むと、大きく以下のような特徴があったと思います。 ①基本的には昨年6月と今年1月に出された  最高裁判決を土台にして書かれていること、 ②しかし、今回の判決では、「日の丸・君が代」法制化時(1999年)  の政府答弁がかなり大きな判断材料とされていること、 ③教育実践との関係で損害賠償を認めたこと、などです。①についての判決文紹介は省略します。②については、次のような組立で 当時の政府答弁が紹介されています。 
(ア)国旗・国歌の法制化の意義について 
(イ)法制化による、今後の学校における指導について 
(ウ)児童・生徒の内心の自由との関係について 
(エ)指導に係る教職員の職務と内心の自由との関係について 
(オ)教職員への職務命令や処分について以下順番に、それぞれの資料を紹介します。
(ア)「政府としては、今回の法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務付けを行うことは考えておらず、したがって、国民の生活に何らの影響や   変化が生ずることとはならないと考えている」(1999,6,29 内閣総理大臣)
(イ)「法制化に伴い、学校教育における国旗・国歌の指導に関する取り扱いを変えるものではないと考えており、今後とも、   各学校における適切な指導を期待するものであります。」(同日 内閣総理大臣 同旨文部大臣)
(ウ)二つありますが、内閣総理大臣の答弁(1999,7,21)は省略。「単に従わなかった、あるいは単に起立をしなかった、あるいは歌わなかったといったようなことのみをもって、何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導が行われるということはあってはならない。」(同日 政府委員)
(エ)「教員は、関係の法令や上司の職務上の命令に従いまして教育指導を行わなければならないものでございまして、各学校においては、法規としての性質を有する学習指導要領を基準といたしまして、校長が教育課程を編成し、これに基づいて教員は国旗・国歌に関する指導を含め教育指導を実施するという職務上の責務を負うものでございます。・・・これ(本法案)によって国旗・国歌の指導にかかわる教員の職務上の責務について変更を加えるものではございません。」(1999,8,2 文部大臣)
(オ)ここには四つの資料が紹介されています。「(前半略)・・校長は、学校運営の責任者として学習指導要領の趣旨を実現するために、必要に応じ教員に対し職務命令を発することもあり得るものでございます。」(同日 政府委員)「職務命令というのは最後のことでありまして、その前に、さまざまな努力ということはしていかなきゃならないと思っています。」(同月6日 文部大臣)「(前半略)・・実際の処分を行うかどうか、処分を行う場合にどの程度の処分にするかにつきましては,基本的には任命権者でございます都道府県教育委員会の裁量にゆだねられているものでございまして、任命権者である都道府県におきまして、個々の事案に応じ、問題となる行為の性質、対応、結果、影響等を総合的に考慮して適切に判断すべきものでございます。・・・なお、処分につきましては、その裁量権が乱用されることがあってはならない」(同日 政府委員)「教育の現場というのは信頼関係でございますので、・・・処分であるとかそういうものはもう本当に最終段階、万やむを得ないとき   というふうに考えております。このことは、国旗・国歌が法制化された時にも全く同じ考えでございます。」(同日 文部大臣)                               
その上で判決文では以下のように述べています。  
「国会では、教員の職務上の責務については変更は加えられないこと、 処分は、問題となる行為の性質、対応、結果、影響等を総合的に考慮し 適切に判断すべきこと、処分は、万やむを得ないときに行われるべきことが 答弁されていたのであるから、機械的、一律的な加重は慎重であることが 要請されていたということができる。・・不起立行為に対して戒告、減給から 停職処分へと機械的、一律的に加重していくことは、教員が2,3年間不起立を することにより、それだけで停職処分を受けることとなるのであり、 その結果、自己の歴史観ないし世界観に忠実な教員にとっては、 不利益の増大を受忍するか、自らの信条を捨てるかの選択を 迫られる状況に追いやられることも考慮すべきである。」こうした判断から、判決文では次のように述べています。(ここでは、「国家賠償法上も違法」ということが付け加えられてます。) 「停職処分を選択した都教委の判断は、停職期間の長短にかかわらず、処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当性を欠き、 上記停職処分は懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法である。この違法は、停職処分を取り消すべき違法であるのみならず、不起立行為の性質、実質的影響、停職処分の不利益に対する考慮が尽くされていないという意味で職務上通常尽くすべき注意義務に 違反しているというべきであり、国家賠償法上も違法である。」③については、「国家賠償法」とも関わり、次のような記述があります。 「減給は、戒告と異なり給与上の不利益があり、 停職は、減給とは異なり単に給与上の不利益があるのみならず、一定の期間職務が停止されるという職務上の不利益が存する。 ・・・特に、養護学校では、教諭と児童生徒との人格的触れ合いが 教育活動に欠かすことのできないものであると考えられるところ、証拠(・・)によれば、控訴人(河原井さんのこと)は、児童生徒との触れ合いを特に重視していたと認めされることを考慮すると、財産的損害の回復のみによっては、控訴人の精神的損害が 慰謝されるものでないことは明らかである。」以上のように、今回の判決はまだ最高裁判決の枠<不起立での戒告処分と、根津さんの停職3か月処分についても認めている>を出ていないものの、「日の丸・君が代」法制化時まで戻ったということでは、この間の東京都の多くの仲間たちの闘いの成果であったと言えるでしょう。尖閣諸島購入問題で日中関係を破壊し、戦争の危険性さえもたらした挙句、無責任に都政を投げ出した石原は「暴走老人」と呼ばれ、ようやくその責任追及の声が上がりはじめていますが、今回の判決により、彼と彼の取り巻きに対する批判はさらに強まっていくでしょう。また、今回の判決は「日本維新の会」の橋下大阪市長やそのいいなりになって「日の丸・君が代」を強制する大阪府・市教育委員会に対しても大きな打撃となっていくでしょう。」(レイバー日本・渡部さんのレポート)


「南敏文裁判長が主文・判決理由を読み終わると、満員の傍聴席から期せずして大きな拍手が起きた。今年1月最高裁で1ヶ月の停職処分が取り消され、東京高裁に差し戻されていた河原井純子さん(東京都立特別支援学校元教諭)の損害賠償請求裁判の判決が11月7日出た。南裁判長は、「不起立への処分は、思想・良心の自由に影響を与えるもので、機械的、一律的に行うべきではない」として都教委の過失を認めた。また、「養護学校では、教諭と児童生徒の人格的触れ合いが教育活動には欠かすことができず」、河原井さんは特にこのことを重視していた。停職処分による精神的苦痛は、未払い給与の支払いだけではすまされないとして30万円の賠償を都に命じた。「君が代」裁判で損害賠償が認められたのは初めて。思想・良心の自由、また教育実践への影響に踏み込んだ判決は、注目すべきだ。
判決後、河原井さんは、「35年間、おかしいことはおかしいと言おうとこどもたちに言ってきた。だから起立の強制には服従できなかった。いま教育の現場ではものを言う自由がなくなっている。今日の判決が、教員たちの背中を押すきっかけになればといい」と語った。」(レイバー日本・佐々木有美)

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期限付採用とはいったい何なのか

2012年10月21日 00時01分49秒 | 教育を考える
去年、産休代替として一緒に組んでいた同僚が、来年度の教員採用試験で、「期限付採用」として
「合格」(?)しました。

その名の通り、正式採用ではありません。
来年度、産休、育休などのピンチヒッターとして、名簿に登載され、需要があれば「雇われる」、
そんな身分での採用形態です。

都は、他県と異なり、「臨採」(埼玉の「助教諭」のような)はなかったのですが、ここ数年、
この「期限付採用」が、正式採用と、ほぼ同じ人数でプールされるようになっています。

もちろん、正式採用ではありませんから、また次の年度の採用試験を受けなければなりません。
1年後の自分の見通しがたたない、しかも働きながら試験の準備もしなければならない。
とても不安な彼ら、彼女らです。

「お前は正式採用ではないのだ」と判定しながら、現場では、正式採用の教員と同じ仕事をさせる。
子供の前では、「期限付」も「正式」も差異はないのですから、このギャップに矛盾を感じながら
働いている人も多いことでしょう。

おそらく、この採用方式をとった主な理由は「金」なのでしょう。

都の基本的な姿勢が、ここに現れています。

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どんな未来が見えてくるのか

2012年10月14日 08時32分17秒 | 教育を考える
すでに「点」の存在となった、「闘う教師」。
卒業式について、「君が代」「日の丸」について、話し合いの議題にも、いや、ふだんの「おしゃべりの話題」にもならなくなった
教育現場。
恐ろしいのは、私たちからあとの世代である、若い教員の「塊」が、「些細なことでも糺す」空気を引き継いでいないこと。
人権と言いながらも、実際に行政によって蹂躙される人権を、まったく気づきもせずに、日々子供達と接すること。
そんな、まともな感覚を失った教師に指導を受けて、「主体的な」「主権者としての自覚を持った」「社会を変革する」子供達が生まれる
わけがない。


「10月9日、近藤順一さん(元八王子市夜間中学教員)の「君が代」処分取消裁判の高裁審理が始まった。冒頭の意見陳述で近藤さんは「「日の丸・君が代」は大いに論議すべき問題。生徒にも自由な論議を通して公正な判断力を養い、自らどう対処すべきかを考えさせる必要がある」「自分の不起立は、(「日の丸・君が代」への考え方の)多様性を示し生徒が考えるきっかけを示した行動」と述べた。近藤さんは、「強制された教員が多様性を否定し一律起立・斉唱を受忍すれば正しい教育はできない」とも語り、強制が教育現場の自由を侵し、教育自体を歪めている実態を告発、裁判所に教育の自由について憲法判断を求めた。4月の地裁判決は、戒告処分については容認、減給・停職処分については取消とした。次回裁判は11月20日10:30~825法廷 (佐々木有美)」(レイパーネット日本)
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再び運動会について

2012年09月18日 21時55分50秒 | 教育を考える
小学校、中学校ともに、運動会の練習する季節が始まると、いつも私は憂鬱になった。
当時は「嫌い」という表現しかなかったのだが、運動神経も並で、華奢な体つきの私にとっては、ほとんど「楽しんだ」
という記憶のない、苦痛の日々だったように思える。

とりわけダンスや組み体操が嫌だった。
今も「表現活動の1つ」「創造性を高める」といった「ねらい」があって、それにそって練習がされているのだろうが、
私の知る限り、表現力、創造性を高めるといった指導をしている場面は、ほとんどない。
練習はあくまで「集団行動」がねらいであり、一糸乱れずに、みんなと同じ動きしか求めていないと思えるのだ。
体育の苦手な子に対しても、「がんばりが足りない!」「やる気があるのか!」といった罵声が飛び交うこともざらである。

子ども達と一緒になって、「表現」を考え、それを積み上げていくなどということは、最近とんとない。
組み体操も、あらかじめ教師が作ったシナリオにそって練習が行われる。

そんな指導であるからして、できばえ自体は見事である。
両手両足、顔の向き、動作のめりはりが、小気味よくそろったものとなる。
「達成感」 それだけが子ども達の唯一の救いかもしれない。

いつも私はむなしくなる。
この運動会で、子ども達は、いったい何を習得したのだろう。

「本気」「達成感」「できない体操の技ができた」「みんなで協力してやりとげた」

うちの学校でも、運動会の係活動がある。
応援、開会式、閉会式、会場、アナウンス・・・
いずれも担当が、パソコンから昨年度のファイルを「手直し」し、プリントアウトし、子ども達がそれを読み上げる。
これも、「例年やってきたこと」をなぞる作業である。

私たち教師は、あまりにも時間の余裕がないために、そうせざるを得ない面もあるだろう。
しかし、しかし、それがはたしていいのだろうか、それで満足しているのだろうか。

残念ながら、現任校の教師の様子を見ると、「そうすることが当たり前」とばかりに、何も疑問すら感じることなく行っている
ものがほとんどである。
教師の創造性の欠如。

本当に「創造性」「表現力」を目指すのなら、もっともっと子ども達との時間を確保すべきだ。
時間がないのなら、いくばくか、「昨年と違った」ものを、子どもと供に作り上げるべきだ。

小学生は、「こんなの無意味だ」「だから僕はやらない」などとは言えない。
こちらも、当然のごとく、「やらなくてはならない」と決め込んで練習を繰り返しているのだ。

いつも、そんなことを思いつつ、嘆きつつ、悩みつつ、退職してしまう私が情けない。
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見た目に騙されるな ヴェニスの商人にこんな台詞があった

2012年08月25日 01時09分04秒 | 教育を考える
聞こえは良いが、これは建前でしかない。要は「管理」なのだ。
いかに従順な教師を作るか。

問題点は2つ。
1つは、生徒、保護者のアンケートが、そのまま反映しないとしても、テストの点数の伸びとも加味して成績をつけるのであれば、「問題児のいるクラス」「学力の低い生徒を抱えたクラス」を誰も持とうとは思わないだろう。
教育は、そんな生徒、クラスをどうしていくか、それが「やりがい」なのだ。そして、これは個人プレーではなく、職場のチームワークが土台となるのだから、個々の教員の資質は、学力向上の要因の何割かに過ぎない。

2つ目は、土日すら学校に来て、たまった仕事をしなくてはならない過酷な勤務条件の改善を正視することなく、ただ「しっかり働け」「ちゃんと見ているのだぞ」と、脅されても、ボロボロと落ちこぼれていく、やる気をなくしていく、利己的に立ち振る舞う教師が、激増するに違いないということ。そうなれば、学校はおしまいである。プロとして働けというのなら、プロとして働ける、働きがいのある労働条件をしっかりと整備してもらいたい。

一見正論。しかし、中身は現実無視の、むごい提案である。

「大阪府教委は24日、教育委員会議を開き、すべての公立学校で生徒や保護者を対象にした授業アンケートを実施し、その結果を「授業力」として教師の人事評価に反映させる方針を了承した。文部科学省によると、授業の質向上を目的として同様のアンケートを実施しているケースはあるが、人事評価に反映するアンケートは「聞いたことがない」としている。

 アンケートは高校では生徒、中学では生徒と保護者、小学校では保護者を対象に実施。「児童・生徒が授業に興味を持つことができているか」や、授業の雰囲気、改善点に関する設問の回答を求める。高校は試行期間を経て来年度から本格実施し、小中学校は今年度中に実施する。

 教員の人事評価に児童・生徒や保護者の意見を反映させることは、4月施行の大阪府の教育関連条例で定められていた。

 教師の人事評価を最終的に校長が行う仕組みは変わらないが、アンケート結果を反映させる方針を示すことで「閉鎖的」とも批判される学校現場の風通しを良くし、指導力のない不適格教員をあぶり出すねらいもある。

 一方、この日の教育委員会議では、児童や生徒から高い評価を得るために教員が人気取りに走ることで授業の質が下がったり「モンスターペアレント」の主観的な意見で、教員の評価が左右されたりすることへの懸念の声もあがっていた。

 そのため、人事評価にあたっては、アンケート結果だけにとらわれず、子供たちの学力の変化など、客観的なデータと照らし合わせることなども確認された。」(産経)

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遅ればせながらの朗報 木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判

2012年07月28日 01時37分14秒 | 教育を考える
木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判。
7月19日に東京高裁での判決が出された。
地裁を上回る内容での勝利。
執拗に「個人的な弱さ」を主張して、公務災害を認めようとしない地方公務員災害補償基金(なんのための基金なのだろう)。

とにかくホッとした。

内容は、静岡市教組の説明をお借りすることにする。

「2012年7月19日東京高裁は、磐田市の新採教諭であった木村百合子さんが、着任後わずか6ヶ月で自死した事件において、百合子さんの死は公務が原因であるとして、地方公務員災害補償基金(基金)の公務外認定を取り消した一審判決を支持する判決を下しました。
 本件は、新採教諭の百合子さんが、学校による有効な支援体制がない中で、担任学級に在籍する多動性・衝動性が顕著で発達障害が疑われる児童を適切に指導し、学級がうまく機能しない状況にも対処することを強いられてうつ病を発症し、保護者からも抗議の手紙が寄せられるなどして更に精神的に追い込まれ、その手紙を受け取った翌日、自家用車の中で灯油を被って焼身自殺したという痛ましい事件です。
 基金静岡県支部長(静岡県知事)は、百合子さんのうつ病・自殺と公務との間に因果関係はないとして、公務外の認定をしましたが、2011年12月15日、静岡地裁は、この公務外認定処分を取り消す判決を下しました。
ところが、地方公務員災害補償基金は、これを不服として控訴。その理由は、「同等の職種、立場にある者が一般的にどう受け止めるかが基準であり、性格傾向が最も脆弱である者を基準とするのはおかしい(平均人基準説)。」「うつ病を発症した者は、性格傾向が最も脆弱な者よりも更に脆弱な状態となっているから、相当因果関係の判断基準の対象者から除外されるべき。」「うつ病発症の1ヵ月半の間、うつ病を発症するほどの過重な心理的負荷を受けるような深刻な問題行動が次々と起こったわけではなく、通常の支援体制も特別な配慮もとられていた。」などというものです。基金は、これと正反対の判決を出した静岡地裁の判決に噛み付いたのです。酷いと思いませんか。
基金には、多少の勝算があったのでしょうか。
実は、支援する側としても、東京高裁の判決が早い、これは勝てそうだ、と思っても、どこか不安がありました。何しろ、東京高裁ですから。最近の大阪や名古屋とも違い、不当な判決も多かったことが、頭にちらつきました。担当弁護士の小笠原さんもちょっと不安です、と。勝利報告集会の弁護士会館の504室で、法廷、記者会見を経て入って来られたその小笠原さんが、「懺悔します。」と。えっ、なぜ?「東京高裁は、 予想以上の判決を出してくれました。静岡地裁判決に太鼓判を押してくれました。いや、それ以上に、今まで認めなかった東京高裁が、脆弱な人基準に立った判決を出したのです。」と。そうなのです。基金は、控訴して、逆に藪から蛇を引っ張り出したのです。
 東京高裁判決は、基金の平均人基準説に対して、「公務から感じるストレスに対して抵抗力の強い者とそうでない者が存し、抵抗力の程度も様々であることが当然の前提となるから、特異な例は別として、社会通念上一般的に想定ないし容認される通常の範囲内の性格等の持ち主であれば、基準となる同種労働者の範ちゅうに入れるべきである。」と基金を批判。基金の言う「平均の人」ではなく、「普通に働いている人」が基準なんだよ、ということです。現場にいれば、当たり前のことなんですがね。
 うつ病発症については、基金は前述のように、この裁判のはじめから、うつ病発症後の百合子さんの負荷については無視していました。ところが、東京高裁はこれについても、「うつ病に発症した後の業務内容をしん酌することは、公務と本件自殺との因果関係を考察するに当たって、意義があるといえる」と、はっきりと言いました。
 基金は、しつように百合子さんが弱かったことを強調してきました。しかしこれについても、高裁判決は、次のように言っています。「真面目、几帳面、熱心、周囲に気遣いをする努力家ともいえる性格は、うつ病を誘発しやすいといわれている。しかし、若年の新規採用教員として、社会適応の未熟さがあるのは、むしろ当然であるといえることも併せると、このような性格傾向は、百合子と立場や経験等が類似した同種教員において、社会通念上想定される範囲内にとどまる性格傾向であるというべき」と。この部分は、尾崎裁判の東京高裁判決を思い出します。
 また、基金は「新採教員として通常のこと」「支援もあった」と主張していました。しかし、高裁判決は、「わずか1か月半という短い期間に児童による数々の問題行動が起こり、その対処を余儀なくされていたのであって」「若年の新規採用教員が置かれた執務状況としては、強度の心理的負荷を伴うものであった」とし、さらに突っ込んで、「控訴人(基金)主張するように、幼い児童のクラスにおいて当然に予定された範囲内の出来事であるなどと、軽くみることはできないものである。」とまで言っています。そのとおりです!
 基金が支援体制があったと言うことについても、静岡地裁の事実認定に、「手紙(注・親からの非難)を受け取って、端から見てもショックを受け意気消沈している様子であった。また、百合子は、そのころの指導週案の生活指導その他欄に、校長先生にいろいろ御相談したいです、お忙しい時期とは思いますが、時間を作っていただけないでしょうか、よろしくお願いしますと記載したが、これに対し、鈴木校長は、いつでも声をかけてください、都合を付けますよと指導週案に記載する方法で返答しただけであり、それ以上の積極的な働きかけを行うことをしなかった。」ということを、わざわざ付け加えて(つまり、暗に校長を批判している。)「明らかに深刻な状況に陥っている新規採用教員に対する支援としては、結果的には不十分なものであったといわざるを得ず」と、言明しています。
 尚、高裁判決は、地裁判決にいくつか付け加えをしていますが、ほとんどが百合子さんの大変さをさらに裏付けるものでした。
 傍聴、報告集会に100人以上が集まりました。その中では、「全国の裁判官の注目の的。意義は大きい。」「百合子さんは弱かったわけではない。もっと弱い人にも助けをと言う判決。みなさんも弱い人を助けましょう。」「これが当たり前と諦めている現場の環境の中で、百合子さんはおかしいと感じていて、みんなに問題提起したんだ。」などの声があがっていました。
 ご遺族からは、支援への感謝の言葉と共に、「これで、学校が変われば、と願います。」と。
 支援する会、弁護団の『声明』で、管理者・学校関係者への「抗議」、支援を拒んだ当時百合子さん在籍の静岡県教職員組合役員への「強い遺憾の意」の表明がありました。」(静岡市教組ブログより)
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当たり前が当たり前でない学校現場

2012年07月21日 10時53分25秒 | 教育を考える
昨日は、子どもが下校した後で、「服務研修」とやらが行われた。
東京の全ての学校で行われていることだろう。

飲酒について、個人情報の漏洩について・・・事例をもとに、「なにがいけないのか」「どう対処したらいいのか」
「未然に防ぐにはどうすぼきか」「主任、主幹として、どう指導すべきか」など、副校長が、職員を指名しながら
すすめていく。必要かもしれないが、紋切り型で、かなり退屈で、眠い研修だ。
最後には、どの事例でも「まっさきに、管理職に連絡を入れる」とある。
組織の代表であるからには、情報をだれよりも多く、そして早く集約しておく必要はあるとしても、こう何度も「校長に
連絡」「管理職に真っ先に知らせる」とあっては。

適切・迅速な対処のため、とあるが、以下の木村さんの裁判の記録のように、適切に現場について隠蔽する、管理職の保身、
市の責任逃れのための「報告」であるなら意味がない。

木村さんの自死は、典型的な「公務災害」である。
「殺された」にも等しい事例だ。


「7月19日、東京高裁は、8年前の木村百合子さん(享年24歳・当時新人教員)の自死が公務災害であると認定した静岡地裁判決を不服とした公務員災害補償基金の控訴請求を棄却した。(東京高裁第24民事部、三輪和雄裁判長)

 2004年9月静岡市磐田市で新人教師、木村百合子さんは通勤途中に自ら命を絶った(享年24歳)。地方公務員災害補償基金静岡支部(以下「基金」)は3年後に「公務外」と認定、再審査請求も棄却された。ご両親は、「公務外処分取消」を求め2008年に静岡地裁に提訴した。

 裁判は3年余に及び昨年12月15日「公務外災害認定処分取消」の勝利判決が出された。判決は、経験の浅い百合子さんがクラス運営に「苦悩しながらもできる限りの努力や責任感を持って対応した」ことを認め、困難を極めた児童への指導では「新規採用教諭に対し高度の指導能力を求めること自体酷」と認定し、新採教師に対して「十分な支援が行われていたとは到底認められない」断じた。

 東京高裁には、木村さんの地元の静岡県磐田市からの支援者も含め100名が集まった。今回の裁判には、以下二つの意義があったと弁護団の塩沢忠和弁護士は語った。

 ひとつは労働職場では、「最も脆弱なもの」を基準にすべきであるという原判決を再度認めたこと。(判決文13~14ページ)

 ふたつめは、「うつ病に発症した後の業務内容をしん酌することは、公務と本件自殺との因果関係を考察するにあたって、意義がある」と認めたことである。(判決14~15ページ)この点については、厚生労働省がこれまでうつ病の発症以降の過重労働を、労災や公務災害の審査対象としてこなかった経緯があることから重要である。

 学校現場の過重労働の背景には、東京をはじめとする「もの言えぬ職場環境」がある。今回の判決は、学校現場の過酷な労働環境の原因究明に向けた大きな一歩になりうる。百合子さんの母、和子さんは語った。「今回の判決を受けて、職場で何があったのかを語ってほしい」と。(レイバーネット)(湯本雅典)

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通知表にうんざり

2012年07月15日 00時10分49秒 | 教育を考える
学期末の通知表作業週間が、ようやく一段落した。
この時期になると、正直、やる気が失せてしまって、なかなか体が動いてくれない。

みな黙々と作業をして、早く終わってしまう教員が大半なのだが、私は、いつも締切ぎりぎり、または期日を過ぎてからの
提出となってしまう。

やる気がないのは、たくさん理由がある。

①現在、ほとんどの学校の通知表は、絶対評価、観点別である。
 絶対評価は、あらかじめ設定された目標に到達しているかどうかが評価、評定されるものである。しかし、現実は、そんな
 厳密な目標については、深く話し合い、確認しあうのとはほど遠く、たいがいは担任の「考え」により付けられていること
 がほとんどである。そんな話し合う時間などないからだ。
 だから、クラスによって、例えばABCなどの評定の人数は、かなり違う。
 だからといって、では評価の基準について確認し直そう、などといった声は聞かれない。
 その代わり、「じゃ、クラスの人数を揃えましょう」などといった話し合いとなる。
 挙げ句の果ては、「大変よいは、人数が多いから、基準を90点平均から、95点に上げましょう」となる。
 本末転倒の通知表の話し合いである。
 
 観点別も、「関心・態度」「思考力」「技能」「知識・理解」といったものを、ただやさしく言い換えた文章で書かれた
 ものだ。
 私たちが、カルテのように保管している「指導要録」という帳簿と、ほとんど同じ観点である。
 「コンパスで、正確に円が描ける」「花のしくみがわかり、めしべ、おしべ、花粉などの言葉と、それらのはたらきがわかる」
 といったものではなく。とても抽象的な文章である。そのために、どこをどう具体的に伸ばしていいのか、改めていったらいい のかが、とんと分からない通知表となっている。

 したがって、親も子どもも、まっさきに観るのは、Aがいくつ、最低のCがいくつある? そんなところが第一の関心事とな
 っている。

②例えば、4月に「九九」を学習して、7月に通知表を出すとする。
 最初につまずいた九九ができたとしても、あるいは3学期にできたとしても、書き改められることはない。
 せめて、同じ担任が受け持っているうちは、訂正自由となればいいのに、そんな余裕も、意思もない。

かなりの家で、「大変良いが1個につき千円」とか「10個以上なら、好きなものを買ってあげる」約束が、大手を振っている様子。

こんな環境で、本当の勉強の面白さが浸透するはずもない。


 
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学校の現場はなかなか伝わらないのをいいことに

2012年07月01日 08時57分52秒 | 教育を考える
悔しいけれども、学校の現場、職員室の実態、私たちの過酷な労働条件、酷い管理職の言動など、なかなか伝える機会も、手段もないものです。
私の受け持っている子ども達の親にしても、ほとんど知らないだろうと思います。

この木村さんの裁判にしても同様です。
これが、少しでも、理不尽な教育現場が洗い出されることを願います。


「6月23日、明治大学(東京都・御茶ノ水)で「木村百合子さん公務災害認定裁判 勝利をめざして」が開催された。(共催:「故木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判を支援する会・東京」「学びをつくる会」)

2004年9月静岡市磐田市で新人教師、木村百合子さんは通勤途中に自ら命を絶った(享年24歳)。地方公務員災害補償基金静岡支部(以下「基金」)は3年後に「公務外」と認定、再審査請求も棄却された。ご両親は、「公務外処分取消」を求め2008年に静岡地裁に提訴した。

裁判は3年余に及び昨年12月15日「公務外災害認定処分取消」の勝利判決が出された。判決は、経験の浅い百合子さんがクラス運営に「苦悩しながらもできる限りの努力や責任感を持って対応した」ことを認め、困難を極めた児童への指導では「新規採用教諭に対し高度の指導能力を求めること自体酷」と認定し、新採教師に対して「十分な支援が行われていたとは到底認められない」断じた。

 しかし、これを前例としたくないと念じた被告「基金」は控訴、裁判は舞台を東京高裁に移した。そして5月10日に東京高裁で弁論、即日結審。7月19日に高裁判決がくだされることとなった。 23日の集会は判決を前に再度静岡地裁の意義を確認し、勝利判決をめざすことを目的に開催された。

集会で「故木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判を支援する会・東京」代表の久冨善之さん(一橋大学名誉教授・写真上)は、静岡地裁判決の意義を以下のようにまとめた。

 静岡地裁判決は、時間外労働の不当性に触れていないという不十分性はありつつも

1.木村百合子さんが置かれていた学級の状況が、きわめて困難であったことを認めている。
2.百合子さんが自死に至るまでの学校内での支援体制が、不十分であったことを指摘している。
3.木村百合子さん個人に責任の所在を求めるという方法論を一蹴している。
点で、今日の全国の学校で多かれ少なかれ見られる「課題」を指摘する重要な判断を下した。

 集会には多くの若手教員が参加していた。それというのも、この間「学びをつくる会」の学習会で若手教員が職場の悩みを出し合い、交流する機会を積み重ねる中で木村裁判の学習を進めてきたからである。

集会で発言した小学校教員は、「自分の教育実践の『失敗』に対して、管理職は『学級担任からはずす』ということで対処し、今でも恫喝まがいのことを続けている。でも、自分のやったことを、職場の先輩や仲間、そして組合と振り返る中で、『自分もなかなかやる』と思えるようになってきた」と発言した。

また故百合子さんの母、和子さん(写真上)は、「ぜひ高裁で勝利し、学校を変えていかなければと思います」と語った。

 高裁判決は、現在の学校現場の問題点を掘り下げる極めて重要な意味を持つ。前回控訴審では傍聴席の倍の参加であったが、判決ではそれ以上の参加で裁判所を圧倒したい。(湯本雅典)

*次回故木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判 東京高裁判決

7月19日(木)午後1時15分 東京高裁(地下鉄霞ヶ関駅 A1 出口からすぐ)717法廷(予定)
 連絡先:03-3931-8753(佐藤)


*「故木村百合子さんの公務災害認定を求める裁判を支援する会・東京」へ入会(会費:1000円)を!
 事務局 佐藤博 sato1507@gmail.com *木村裁判の実際を事細かく報告した本が出ました。
「新採教師の死が遺したもの 法廷で問われた教育現場の過酷」久冨善之・佐藤博編著
高文研 1500円+税 http://www.koubunken.co.jp/0500/0478.html」(レイバーネット日本)

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首相官邸 45000人の輪

2012年06月24日 06時59分56秒 | 教育を考える
毎週金曜日のデモの数が、どんどん増えている。

公約をかなぐり捨てて、国民に背を向けて突っ走る野田政権に、やっと国民が立ち上がりつつあるといった
ところか。

選挙のときだけ主権者

こんな「政治的三流」日本人も、なんとかしないといけないと覚醒しつつあるならば嬉しいかぎり。

現在、学校教育では、あたりさわりのない「政治教育」しか教えられていないものだから、私自身絶望的に
なっていた矢先のこと。

喫茶店で、居酒屋で、家庭で、デートのときも、遠慮することなく政治談義ができる日本に。

http://www.youtube.com/watch?v=dTuHOAW0DVM
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「先生、うち、新聞とってません」

2012年06月17日 09時51分03秒 | 教育を考える
習字(毛筆)の授業が始まった。
ああそうか、以前、図工で準備をすることを話した際に、
「先生、うちは新聞がありません。とってないから」
と言っていた子が、何人もいたことに気づく。

長引く不況の産物なのか。
時代の流れで、テレビとネットでニュースを見ればよいといったことからなのか。
活字離れから来ているのか。

おそらくは、それらのどれもが絡んでいるにちがいない。

しかたなく、
「持っている子は、新聞紙を持ってくるように」という指示になる。
足りない分は、私が補うことになる。

活字を通して情報を得る利点は、考えに「ため」ができることだと思う。
読書にせよ、新聞にせよ、読みながら、
「いや待てよ」「ここは少し自分で考えてみよう」「これは調べてみる価値があるな」など、立ち止まって考え、整理、まとめが
できること。

一方的な情報に流されないトレーニングができることにあると思う。

「ええ~、それひどーい!」
そこで思考停止に陥らることがない、「担保」としての役割を持つ。

うちの息子達も、活字から、かなり離れた生活を送っているように見える。

騙されない、流されない、そんな人間になってほしいのだが・・・



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教師を目指すみなさんへ

2012年06月12日 01時09分41秒 | 教育を考える
先週で、我が校の実習生の4週間が終えました。
今年は、諸般の事情で、あまり関われずに終わったため、最終日に「ラブレター」を書いて、手渡しました。
思いはたくさんあって、とても書ききれるものではありません。

その時に感じたままのエールです。

「長丁場の(しかし、あっという間の)実習、お疲れさまでした。
 今日の壮行会(と言うのかな?)に、あいにく出席できず、また、普段もほとんど関わりを持つことができなかったので、お詫びかたがた、励ましのラブレターを贈ることにしました。
 
 実習はいかがでしたか? きっと思った以上に子どもたちが喜んでくれた、と思っていたら、今度は、なんとなくみんな乗ってこない・・・そんなことを繰り返しながら今日まで来てしまったのではないでしょうか。
 成功からも、もちろん失敗からも、「学べないことはひとつもない」のですから、ひとつでもふたつでも、貪欲に会得してほしいと思います。

みなさんに、ぜひ心がけてほしいことは、「自分を磨く」ことに精を出してほしいことです。
 実際に教職に就いてしまうと、教員の生活は、「超多忙」です。
 勤務時間内では、絶対に終わらないほどの仕事量です。まず、目の前の自分に与えられた仕事が最優先。明日の授業の準備もしなくてはならない。教養を身につけよう、ゆとりを持って何かに打ち込もうなどということは、かなりの決意や工夫や割り切りが必要です。

 今のうちに、たくさん本を読んでください。たくさんの体験・経験をしてください。たくさん恋愛をしてください。友だちと議論してください。たくさん、あれこれ悩んでください。
みなさんにとって、無駄なことなど、ひとつもありません。すべてが血肉になるのだと思います。

人の喜びや哀しみを共有できる力、公正でないものに憤ることができる意気・勇気、人をまるごと愛せる心、学問・真理に対して真摯に追究しようとする意気、機微を理解できるセンス、広く、深いユーモアの精神、ものごとをまっすぐに見ることのできる誠実さ・・・

たくさんの美徳が要求される教師なのですが、こどもたちと一緒になって、成長を遂げていけるなんて、すばらしい職業です。合格ののち、ぜひ私たちの職場にいらしてください。待っています!」
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過労死予備軍 悉皆研修 木村さんの裁判

2012年05月13日 08時01分56秒 | 教育を考える
 私の勤務する自治体の「教科等研究会」が、今年から、全員が必ず参加しなければならない「悉皆」の研修となりました。
 ただでさえ勤務時間内では仕事を済ませることができない現状にあって、私はずっと「不参加」を続け、月に1回のこの日の
時間帯は「教務と教材研究の時間」とて、たまりにたまった仕事の「穴埋め」としてきたのですが、それも吹き飛んでしまいました。
 先日は、その全体会が行われ、小学校の体育館に集合。全体での会のあと、それぞれの教科に分かれて、「部会」が行われました。私は道徳部会に所属。
 全体会では、「新しい学習指導要領のもと、ますます私たちの責任は大きくなっています。・・・ですから、ここで大いに研鑽を重ね・・・」といった、教育委員会や会長の言葉が続き、私たちの勤務条件については、まったく言及なしです。
 部会では、すぐに、研究授業の割り当ての話し合いです。年に5回の会合のうち4回が、部員が授業を行って、みんなで話し合うのだそうです。部長である校長からは、「小手先の研修ではありません。研究ですので・・・」という素敵な言葉もありましたが、年に5回の、しかも午後だけの会合で、いったいどんな研究ができるのだろうと、素朴な疑問も残ります)
 重苦しい雰囲気の中で授業者が決まりました。(だれもやりたくはないのです)
 授業は授業者のやりたいようにとのこと。しかし、事前研とやらで、放課後に何回か、部員で検討する日を設けるのだそうです。やはり5回ではすみません。

 この5回を、「みなさんが、それぞれ教材研究の時間にあててください」などといった大盤振る舞いは、どうも期待することはできず、過労死寸前の教員の勤務を、ますます増やしていくことになるのでしょう。
 
 ここ数年のうちに、元来真面目である教員は、ますます「真面目」になってきています。(というよりは、個々の仕事で、精一杯こなすしかない。愚痴さえこぼす時間と同僚がいない)職場も「物言わぬ」雰囲気がより強くなってきています。(気持ち悪いくらい、若い教員は職員会議で質問すらしません)

 追い立てられ、孤立し、自分を守ることに汲々ととしている職場。
 愚痴だけ書いていてもしかたないですね。

 下の記事は、新採の木村百合子さんの自死について、公務災害を求める裁判の現状についてのものです。
 控訴した基金側の無神経さにはあきれかえますが、ふたたび認定の判決が出されることを、切に切に願っています。
 

 「5月10日、故木村百合子さんの公務災害を求める裁判、控訴審第1回が東京高裁で開かれ、傍聴席44名に80名以上の支援者が集まった(東京高裁第24民事部、三輪和雄裁判長)。
 2004年9月静岡市磐田市で新人教師、木村百合子さんは通勤途中に自ら命を絶った(享年24歳)。地方公務員災害補償基金静岡支部(以下「基金」)は3年後に「公務外」と認定、再審査請求も棄却された。ご両親は、「公務外処分取消」を求め2008年に静岡地裁に提訴した。
 裁判は3年余に及び昨年12月15日「公務外災害認定処分取消」の勝利判決が出された。判決は、経験の浅い百合子さんがクラス運営に「苦悩しながらもできる限りの努力や責任感を持って対応した」ことを認め、困難を極めた児童への指導では「新規採用教諭に対し高度の指導能力を求めること自体酷」と認定し、新採教師に対して「十分な支援が行われていたとは到底認められない」断じた。
 この裁判は、百合子さんの置かれた状態が決して「特別」ではないこと、全国各地で特に弱い立場にある教員が窮地に追い込まれていること(毎年5000人を越える精神疾患による休職教職員の存在に端的)を示した。また、一たん下された新人教師自死への公務外認定を地裁で覆した初めてのケースであるということから、まさに快挙であった。
 しかし、これを前例としたくないと念じた被告「基金」は不当にも控訴、裁判は舞台を東京に移し東京高裁で引き続き争われることとなった。
 この日、法廷の廊下は支援者であふれかえった。裁判は、書面を取り交わしたあと、一審原告側から要請した証人(百合子さんが自死された当時の学校長)の採用について、裁判官3人が協議。結局証人は認められなかったが、裁判官の協議中に「基金」側弁護士から「なぜ校長先生を証人申請するのか」と個別に質問、木村弁護団の塩沢弁護士が「必要だからです」と答えるシーンがあった。実は「基金」側は、控訴しても新たに証人を立てるわけではなく、また新たな主張をするのでもなく、控訴状でもこれまでとまったく同じ主張をくりかえしたのみであったのだ。
 これまでと同じ主張とは、「学校側には、これといった落ち度はなかった」ということだ。つまり、一審判決の「反論」ができないことが明らかになった裁判でもあった。
 裁判は早くもこの日結審し、次回は判決である。以下 略」(レイバーネットジャパンより)
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労働条件と事故 そしてわれわれ教員

2012年05月01日 22時49分56秒 | 教育を考える
事故の原因は、労働条件の劣悪さに求める論調の記事が増えている。
内容を読んでみると、なるほど事故も起きて当然といったものだ。

私たち、教員はどうなんだろう。
授業中に居眠りをしても、子どもが命を落とすことはない。
が、確実に学力は低下するだろう。

安く、しかも効率的に教員を酷使しよう。
手持ちの予算を、格差をつけて再分配しよう。競争原理によって、教員の質は上がるだろう。
しかし、この考えは、現場にいる私たちには虚しい「仮説」である。


「群馬県藤岡市の関越自動車道で7人が死亡した高速ツアーバス事故で、河野化山(こうの・かざん)容疑者が事故原因を「居眠りと疲れ」と供述したことから、群馬県警は今後、バスを運行した「陸援隊」(針生裕美秀=はりう・ゆみひで=社長)=千葉県印西市=の労務管理の実態に焦点を合わせて捜査を進める方針だ。道路交通法違反(過労運転下命または容認)容疑での立件も視野に入れている。

 県警によると、河野容疑者はサービスエリアでの休憩中、ハンドルに突っ伏して寝ていたとの乗客の証言がある。また、運行経路に不慣れなためか、カーナビを頻繁に見ていたとの証言も得られている。実際、運行計画とは異なる遠回りのルートを走っていた。

 針生社長は事故直後、同社の主な業務内容について「つい最近まで(成田空港-東京都内間などの)インバウンド(外国人旅行者の受け入れ)の仕事をしていた」と報道陣に述べた。普段、近距離の輸送にあたっていた河野容疑者が、片道500キロ以上に及ぶ今回の走行で疲労を蓄積させた可能性もある。

 労働実態については千葉労働局も調査に乗り出しており、労働基準法が定めた労働時間を超える勤務実態がなかったか、同社の勤務日報などを入手して調べている。」【毎日新聞 喜屋武真之介、黒川晋史】
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PTAとはなんなのか 存在意義は? 学校をよりよく変える原動力に?

2012年04月28日 00時37分53秒 | 教育を考える
総会があり、それに出席してきました。

これまでの学校では体育館での開催でしたが、今度の学校では、教室よりやや大きめのホール。
つまり、あまり参加が見込まれない総会のようです。
そういえば、子供達が持ってきた「委任状」が、やけに多かった覚えあり。

さて、ふたを開けると案の定。保護者、いや母親が約50人。
なんのことはない、ほとんどがすべて新旧役員さんなのです。

①父親不在のPTA。こんなに偏りのある集団・組織が健全な活動をすることができるのか。
②役員以外、出席ほぼ0の総会。なにも関心を持たれることのない総会。総会こそ、年間活動の大枠を決める
 大会ではないのか。

ここまでで、ふたつの疑問。

さて、総会が始まりました。
議長団選出。もちろん、立候補者などあるはずもなく、あらかじめ決められた二人が本部の推薦を受け、シャンシャンと
決まります。

昨年度の活動報告。本年度の活動方針。
台本を読んでいるのでしょう、朗読を聞いているような報告があり、その後、質疑応答。
だれも挙手することなく、拍手により採択。

おそろしく早く進み、終わる気配。

昨年度の会計報告、監査報告。今年度の予算案。
そして、質疑応答。

思わず挙手。みなさん、驚きの表情。緊張する本部役員さん。同様の管理職。

「あ、困らせるような質問ではありませんから・・・」と、私も気を遣います。

「繰越金についての要望です。毎年、年会費の30-40%の繰越金が出ていて、しかも年々数万円ずつ増えていっています。
余裕を持って収入を作っておくということもわからないわけではありませんが、その年に集めたお金は、できるだけその年度に
クリアすることが理想です。今年度はしかたないにせよ、次年度からは、会費を下げるとか、余りを還元するとか、なんとか工夫できるように検討していただきたいと思います。」

こんなPTA総会が当たり前だと、若手に刷り込みをさせたくないとの思いから、あえての発言でした。

③なにも、問題意識のわかない総会。したがって終わることだけが目的となっている総会。発言は皆無。

これで。PTAは発展するのだろうか。

うちの学校は、入学=入会の、入会強制の組織です。入る、入らないの選択肢のない学校です。

しかも、役員経験、本部経験、◎◎長経験にポイントがつき、それに応じて次の役員選出を回避できるしくみとなっています。
ですから、
「ここで、広報をやれば、あとは逃れられる」「大変な6年ではなく、3,4年のときにやったほうが、仕事量を減らせる」
など、お母さんたちは、えらく計算高くなっています。

④保護者の自由意思はなく、即入会となってしまう。

⑤ポイント制による役員選出。計算高くなる親。

「そつなく、昨年度の活動を繰り返し模写して、1年を過ごす」

つまり冒険しません。だれも言えません。

つづく







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