御本尊様、大聖人様。一体、人は、いつ、なんどきにあっても、どれ程、人と別れなければならないのでしょうか?
私は、いつも、なんどきも、何人もの人々と、別れてゆく、別れてしまう宿命に遭い、苦しみの絶頂をも味わいました。
何度、この、人々との、際限が無い、別れを経験しなければいけないのでしょうか?
それを、仏さまは「愛別離苦」と申して、親しくしたかつての付き合いのあった方々との、愛する者たちとの別れの苦しみを、そういった言葉で顕されましたね。
しかし、私は、現世において、この原則が納得できないのであります。一人、孤独に打ち沈み、こんな事があるならば、最初から出会わなければ良かったのに、とさえ思いに沈みます。
こんな事を思う方が、女々しく、余りにみっともない、只の蒙昧、愚痴、と仰られるのが落ちではありましょう。
しかし、そこでも尚、そこから一段立ち入って、私は納得がいかない。これはおかしいと、今も思う、出会いから別れ目への、悲しい思い出ばかりが去年から今年にかけて、立て続きに続き、起こりました。
私は、出来れば、出会った人々と、別れたくはない、永遠に絶対に。それも許されないのならば、私はどうしたら良いのか。全く、私には、別れへの心の準備、覚悟の程が出来てはいないのです。今現在も。
永遠、永久という言葉も、仏法仏教の諸行無常の諦観からすると、極めてもろく、崩れ去る。しかし、三世永遠の生命からすると、別れは別れではない、別の意味を持って我らに真実を確信をもって迫って来る。
大船に乗った如くの安心感の全くない、私の御題目不足が、きっとこんなペシミスティック、悲観的、悲観論に打ちひしがれる原因なのでしょう。
御題目だ!御題目こそが、人生の暗雲を打ち払う唯一のカギであると強く思い、信じる。これだ。これこそが、私の生きる道。希望。夢へと続く、一本の、限りない道。これをやり切るしか、私の生きてゆく義理と情けは果たせない。
問答無用で、何を差し置いても、必ず、自行化他行の、まずは、自行の、勤行、これに、唱題行。これに真面目に取り組むんだ、おのれよ。
とにかく、これから、夕べの勤行唱題に真剣になって、取り組みたいと思います。後は野となれ山となれ!後の事は知りません、全く。それ位で、ちょうど良いのです。
以上。よしなに。wainai