住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

オスプレイ動きだす!木更津から館山や茨城・百里に

2021-08-27 09:13:08 | オスプレイ、安保、平和

昨年木更津市に暫定配備されたオスプレイが館山や茨城の百里に飛来。「オスプレイ来るな」「オスプレイはいらない」の声が高まっています。

陸自オスプレイが館山基地に初飛来

(房日新聞の記事より)

陸自オスプレイが館山基地に初飛来(千葉県)(房日新聞) - Yahoo!ニュース


城山公園の山頂には、オスプレイを収めようと訪れた写真愛好家の姿も見られた。同市沼の元海上自衛官の男性(72)は「館山に初めて来たオスプレイを見ることができて良かった。3時間近く待ったかいがあった。海自のヘリと違って、音が独特でしたね」と話していた。

集まった市民らは、「オスプレイくるな」などと書かれたプラカードや横断幕を掲げ、反対姿勢を示した。

オスプレイ、百里基地まで飛行 暫定配備の木更津から

(共同通信の記事より)

オスプレイ、百里基地まで飛行 暫定配備の木更津から(共同通信) - Yahoo!ニュース

 陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備されている輸送機V22オスプレイのうち1機が26日、訓練で茨城県小美玉市の航空自衛隊百里...

Yahoo!ニュース

 

 陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備されている輸送機V22オスプレイのうち1機が26日、訓練で茨城県小美玉市の航空自衛隊百里基地上空まで飛行した。木更津市などによると、昨年7月の暫定配備開始後、陸自オスプレイが千葉県外を飛行するのは初めて。  午前11時ごろ、茨城空港と滑走路を共用する百里基地にオスプレイが飛来。着陸はせず、滑走路上空を通過して飛び去った。空港の展望デッキには多くの人が訪れ、様子を見守った。  機体はその後、千葉県館山市の海上自衛隊館山航空基地の上空も飛行した。

オスプレイ訓練中止を 百里基地周辺住民ら 24日、防衛省申し入れ

(茨城新聞の記事より抜粋)

https://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=16296280694852

航空自衛隊百里基地(茨城県小美玉市百里)で、陸上自衛隊のオスプレイが飛行訓練する計画について、基地周辺の26行政区長でつくる百里飛行場周辺整備協議会(長島洋治会長)が、訓練の中止を求めることを決めた。24日に防衛省北関東防衛局百里防衛事務所(同市小川)と県庁、小美玉市役所を訪れ、防衛大臣や同防衛局長、知事、市長らに宛てて申し入れ書を手渡す。

21日夜に開いた協議会の合同会議で、申し入れの文案を審議。採決の結果、賛成25、反対1で議決された。文面では「危険性が極めて高いオスプレイの百里基地での訓練計画に強く抗議し、飛行訓練の中止を求める」と、機体の安全性に懸念を示した上で訓練反対を打ち出した。

また、今回の訓練計画が、新聞報道に出るまで何の説明もなく「基地周辺住民を無視するもの」と市などの情報提供姿勢を批判。さらに、これまで「オスプレイの訓練参加は容認できない」「訓練計画に位置付けない」と、市から同防衛局に対し再三陳情してきたと指摘しながら、今回の訓練計画は「住民を蔑(ないがし)ろにすること」と防衛省側の姿勢に強い不満も表している。


 

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習志野原今昔物語 8 第一次大戦で収容 ドイツ兵捕虜 

2021-08-27 02:06:15 | 歴史

(毎日新聞「習志野原今昔物語 8」からの抜粋です。

第一次大戦で収容、ドイツ兵捕虜

 1914年7月、第一次世界大戦が勃発する。英仏露中心の連合国陣営と、ドイツ・オーストリアなど同盟国陣営が戦い、日本も日英同盟を理由に連合国側として参戦した。日本軍は主に中国や太平洋のドイツ領地で戦い、習志野原には、ドイツ兵の俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所が設置される。

 日本陸軍は中国・山東半島青島のドイツ領租借地を攻撃し、14年11月に占領する。約5000人のドイツ兵が捕虜となり、日本各地12カ所の収容所に送られた。最終的には習志野原や徳島県鳴門市の板東収容所など規模の大きな6カ所に集約された。

 習志野原に捕虜が着いたのは15年9月で、最大で約1000人が収容された。収容所は10年前の日露戦争でのロシア兵俘虜収容所があった場所の一部で、現在の習志野市東習志野にあたる。

 収容所長には、明治の元勲、西郷隆盛の長男でドイツ留学経験のある西郷寅太郎陸軍中佐(当時)が就任した。隆盛は西南戦争で敗北して自刃するが、明治天皇は子どもたちの将来を心配し、庇護(ひご)を指示していた。そのため寅太郎は国費でドイツ陸軍士官学校に留学できたという経緯がある。

多数の行事 頻繁に

楽器や体育具 希望かなえ

 当時の日本は欧米の先進国に比べれば「二流、三流国」とされ、ドイツ兵への畏敬の思いも強く、捕虜への取り扱いには最新の注意を払ったようだ。

 赤十字社を通じた母国の家族との手紙の往来を許可し、収容所には劇場舞台やパン焼きの窯(かま)などを整備した。バイオリンなどの楽器や、鉄棒や跳び箱、平行棒などの体育具を用意するなどの希望もかなえた。収容所内では歌劇の発表や演奏会、詩歌発表会、サッカーやテニスなどのスポーツ大会など多数の行事が頻繁に開催された。捕虜たちが遠足として船橋市の御滝不動尊や、千葉市の稲毛海岸へ出かけたこともあったという。

 地元住民からは日常的に野菜や肉、米など食料が収容所に納められ、主婦らは捕虜の衣類の洗濯も請け負った。捕虜からは、瓶の中に帆船などの模型を入れた「ボトルシップ」が住民に贈られた。

 

(編集部より)

この記事に関連した投稿が「住みたい習志野」にもありますので、そちらもご参照ください。

習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野

習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史(菩提樹、聞き書き民話、西郷寅太郎) - 住みたい習志野

ドイツ人捕虜の料理について「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者に聞きました - 住みたい習志野

習志野ソーセージの恩人、西郷寅太郎と飯田技師 - 住みたい習志野

64年オリンピックで流れた「ドイツの兵隊の歌」 - 住みたい習志野

 陸軍習志野学校のルポ「化兵のとりで」

話しは変わりますが、前回の「習志野今昔物語 7」の記事

習志野原今昔物語 7 日露から第一次世界大戦 「騎兵の街」に戦車連隊 鉄道敷設や運転訓練も - 住みたい習志野

について、ブログ読者の方から

「毎日」はかつて、陸軍習志野学校について「化兵のとりで」という立派なルポを連載(平成7年5月・6月、夕刊)したのだが、この記者は読んでいるのだろうか。

というごコメントをいただきました。有り難うございます。
この「化兵のとりで」、とてもすぐれたルポだと思います。機会があれば図書館の新聞縮刷版などでお読みください。

(「化兵のとりで」記事の一部)


なお、「住みたい習志野」でも陸軍習志野学校のことを取り上げています。併せてご覧ください。

習志野歴史散歩:「習志野の森」と毒ガス - 住みたい習志野

 

 

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