誤りがないことを意味する「無謬(むびゅう)」という言葉をご存じだろうか。「行政の無謬性」という場合には「オカミは間違いを犯す訳がなく、行動や判断は常に正しい、だから謝罪などもっての外である」という官僚機構の行動原理の一つで、時に侮蔑(ぶべつ)も含んで使われる言葉だ。先の大戦では、こうした行動原理に国民は翻弄(ほんろう)され、その結果、多くの尊い命を喪(うしな)った。また最近は「誤解があったら、おわびします」が大臣たちの決まり文句だ。自分たちは正しいと断固譲らない。さらにピンチになると「ご飯論法」を弄(ろう)し、言葉尻でごまかし開き直る。今般のコロナウイルスでは、わずか3カ月ほどの間に、こうした政府の姿勢によって、われわれ市民はどれほど多くの損失や迷惑を被ったことだろうか。もちろん布製マスクの配布などは、その最たるものであろう。
 そうした中、感染症学者らの専門家会議の提言を受ける形で、政府が「新しい生活様式」なるものを発表した。極めて恣意(しい)的で、かつ驚くほど見識を欠いたものだった。中でも食事の場面には仰天する。「対面でなく横並びに座ろう」「料理に集中、おしゃべりは控えめに」とはいったい何ごとであろうか。しかも家庭のことを指すのか、外食についてなのかさえ全く触れていない。文明社会における食の重要な役割に理解がまるでない。食は家族や友人と席を共にし、喜びを分かち合う貴重な時間だ。男女はそこで愛を育み、友とは絆を深め、親子は生き方を教え学ぶ。あるいは、そうありたいと願うことこそ、人々の勤労意欲の源泉であるはずだ。市井の飲食店は、そうした機会を提供すると共に、街ににぎわいと華やかさをつくり出す重要な要素なのだ。(以上、「陸奥新報」2020年5月17日号の論説の一部)