(毎日新聞「習志野原今昔物語 8」からの抜粋です。
第一次大戦で収容、ドイツ兵捕虜
1914年7月、第一次世界大戦が勃発する。英仏露中心の連合国陣営と、ドイツ・オーストリアなど同盟国陣営が戦い、日本も日英同盟を理由に連合国側として参戦した。日本軍は主に中国や太平洋のドイツ領地で戦い、習志野原には、ドイツ兵の俘虜(ふりょ)(捕虜)収容所が設置される。
日本陸軍は中国・山東半島青島のドイツ領租借地を攻撃し、14年11月に占領する。約5000人のドイツ兵が捕虜となり、日本各地12カ所の収容所に送られた。最終的には習志野原や徳島県鳴門市の板東収容所など規模の大きな6カ所に集約された。
習志野原に捕虜が着いたのは15年9月で、最大で約1000人が収容された。収容所は10年前の日露戦争でのロシア兵俘虜収容所があった場所の一部で、現在の習志野市東習志野にあたる。
収容所長には、明治の元勲、西郷隆盛の長男でドイツ留学経験のある西郷寅太郎陸軍中佐(当時)が就任した。隆盛は西南戦争で敗北して自刃するが、明治天皇は子どもたちの将来を心配し、庇護(ひご)を指示していた。そのため寅太郎は国費でドイツ陸軍士官学校に留学できたという経緯がある。
多数の行事 頻繁に
楽器や体育具 希望かなえ
当時の日本は欧米の先進国に比べれば「二流、三流国」とされ、ドイツ兵への畏敬の思いも強く、捕虜への取り扱いには最新の注意を払ったようだ。
赤十字社を通じた母国の家族との手紙の往来を許可し、収容所には劇場舞台やパン焼きの窯(かま)などを整備した。バイオリンなどの楽器や、鉄棒や跳び箱、平行棒などの体育具を用意するなどの希望もかなえた。収容所内では歌劇の発表や演奏会、詩歌発表会、サッカーやテニスなどのスポーツ大会など多数の行事が頻繁に開催された。捕虜たちが遠足として船橋市の御滝不動尊や、千葉市の稲毛海岸へ出かけたこともあったという。
地元住民からは日常的に野菜や肉、米など食料が収容所に納められ、主婦らは捕虜の衣類の洗濯も請け負った。捕虜からは、瓶の中に帆船などの模型を入れた「ボトルシップ」が住民に贈られた。
(編集部より)
この記事に関連した投稿が「住みたい習志野」にもありますので、そちらもご参照ください。
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陸軍習志野学校のルポ「化兵のとりで」
話しは変わりますが、前回の「習志野今昔物語 7」の記事
習志野原今昔物語 7 日露から第一次世界大戦 「騎兵の街」に戦車連隊 鉄道敷設や運転訓練も - 住みたい習志野
について、ブログ読者の方から
「毎日」はかつて、陸軍習志野学校について「化兵のとりで」という立派なルポを連載(平成7年5月・6月、夕刊)したのだが、この記者は読んでいるのだろうか。
というごコメントをいただきました。有り難うございます。
この「化兵のとりで」、とてもすぐれたルポだと思います。機会があれば図書館の新聞縮刷版などでお読みください。
(「化兵のとりで」記事の一部)
なお、「住みたい習志野」でも陸軍習志野学校のことを取り上げています。併せてご覧ください。
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