住みたい習志野

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64年オリンピックで流れた「ドイツの兵隊の歌」

2021-08-02 20:12:15 | 歴史

(「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者の方から、オリンピックに寄せた習志野市ドイツ人俘虜収容所のエピソードをご紹介いただきました。)

 コロナ禍の中、強行開催されたオリンピックも後半を迎えました。案の定というか、ウイルス感染者数はふくれ上がってしまいましたが、そのこととアスリートの健闘が与えてくれた感動は、ここでは切り離して考えることにしたいと思います。始まってしまった以上は、残る日程も各選手が少しでも良いコンディションで、納得のいく競技ができるよう祈るばかりです。

 ところで、57年前の東京オリンピックについて、習志野に面白い逸話がありますので、こちらの講演録から
http://jdg-chiba.com/about/pdf/kouennroku_3.pdf

以下に抜粋させてもらいました。
(編集部より:元の文章に小見出しをつけさせていただきました)

ベートーヴェンの曲を聞いて「ドイツの兵隊の歌だね」と言った谷原さんのお母さん

 実籾三叉路にあった中華料理店「実籾飯店」のホールでは、オリンピックのテレビ中継を見ようという人があふれ、店は仕事になりませんでした。昭和34年の皇太子ご成婚パレードでテレビは一気に家庭に普及したと言われていますが、それでも当時、まだ自宅にテレビを持たない人は、こうして食堂や電器店の店頭に集まったものです。

店主の谷原さんもあきらめて調理場を出ると、お母さんと一緒にテレビに見入っていました。国立競技場からの中継は、日本のメダルが期待された女子80メートル・ハードル決勝を映し出しています。ピストルが響きましたが日本の依田の力走は及ばず、ドイツのカリン・バルツァーが金メダルに輝きます。

依田郁子

「ああ、残念!」― 店に集った人々ががっかりした声を上げる中、画面では表彰式が始まりました。ところが、それを見ていた谷原さんのお母さんは、テレビから流れる音楽を聴いて「おや、ドイツの兵隊の歌だね」と言った、というのです。それを聞いて谷原さんは「おふくろ、変なことを言うな」と思ったので、この言葉だけは後々まで忘れることが出来ませんでした。

記録映画「東京オリンピック」(市川崑監督)

59:10から1:04:35の間に女子80メートルハードルと表彰式が収録されています

ドイツ国歌の代りに「歓喜の歌」が演奏されたのは64年東京オリンピックが最後

 当時ドイツは、西ドイツと東ドイツに分裂していましたが、オリンピックにはドイツ統一チームを作って参加していました。ドイツ選手が優勝すると国旗の代りに三色旗に五輪マークを染め抜いた旗を掲げ、国歌の代りにはベートーヴェンの「歓喜の歌」を演奏したのです。バルツァーの表彰式の模様は、記録映画『東京オリンピック』でも見ることができます。

 なお統一チームが編成されたのは東京オリンピックが最後で、その後は、西ドイツは西ドイツ、東ドイツは東ドイツで参加するようになります。ソ連と並ぶ強豪チームとして、表彰台にしばしば流れた東ドイツの国歌を覚えている方も少なくないでしょう。厳然と「鉄のカーテン」が存在した時代でした。

ドイツ兵の洗濯物を請け負いに俘虜収容所に通っていた谷原さんのお母さん

 谷原さんのお母さんは大正時代、東習志野にいたドイツ兵の洗濯物を請け負いに俘虜収容所に通っていました。シーツ一枚いくら、シャツ一枚いくらと、近所の主婦にとっていい稼ぎになったのだそうです。そして、音楽教育を受けたことはありませんでしたが耳のいい方で、収容所の中で歌われていたドイツの民謡を覚えていました。そのお母さんが「おや、ドイツの兵隊の歌だ」と言ったのです。そしてその時、テレビから流れていた曲は、バルツァーの金メダルを称えるベートーヴェンだったはずなのです。

習志野収容所でも「歓喜の歌」が演奏された?あるいは歌われていた?

 「歓喜の歌」は言うまでもなく、ベートーヴェン畢生の大作、交響曲第九番の終楽章を飾る大合唱の主題です。そして、日本で交響曲第九番を初演したのは、習志野にドイツ捕虜がいた頃、徳島県鳴門市の板東収容所に収容されていたドイツ兵だと言います。

残念ながら習志野の捕虜オーケストラが第九交響曲を演奏したという証拠は、今のところ見つかっていません。しかし、当時を知る人が「ドイツの兵隊の歌だ」と言ったということは、習志野でも第九交響曲は演奏されていたのではないか。いや、全曲の演奏に1時間以上を要する第九交響曲として演奏されたことはないとしても、合唱団が2分ほどの唱歌として「歓喜の歌」を歌ったことはあったのではないか。

それが谷原さんのお母さんの耳に残った?

それが谷原さんのお母さんの耳に残ったのではないか―。

お母さんも谷原さんも既に亡くなってしまい、今やこの話はこれ以上、確かめることが出来ません。今後は「東京オリンピック」と言えば令和のオリンピックのことで、昭和39年のオリンピックのことが語られることももはやなくなるのでしょう。ささやかな逸話として書き留めておくこととします。

(投稿終り)

 

唱歌「歓喜の歌」

東ドイツ国歌

1988年ソウル五輪にて東ドイツ国歌

 

 

 

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