毎日新聞「習志野原今昔物語 6」からの抜粋です。
ロシア兵捕虜の収容所建設
1904年に始まった日露戦争は、秋山好古(よしふる)率いる習志野騎兵第一旅団の活躍などもあり、翌年に日本の勝利で終結した。この戦争で日本は、各戦闘で負傷や降伏したロシア兵の取り扱い、つまり捕虜(当時は「俘虜(ふりょ)」と呼ばれた)をどう収容するかという新たな問題に直面した。
1899年にオランダで開かれたハーグ平和会議で、戦時国際法「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦条約)」が制定され、捕虜を人道的に扱うことが明記され、日本も批准していた。
両軍に多数の戦死負傷者が出た遼東半島の旅順攻略戦では、激戦となった二○三高地を日本軍が占領した後、ロシア軍の旅順要塞守備司令官ステッセルが降伏を申し出た。これに先立つ蓋平、南山の戦いでも多くのロシア兵が捕虜となっている中、さらに4万3000人以上が捕虜に加わった。
最大1万5000人が生活
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