(ブログ読者の投稿です)
間違っても謝らない行政(役所)の問題点を指摘した去年の新聞の論説
菅首相は記者会見(6日・広島)で、東京オリンピックがコロナの感染の拡大につながっているわけではないと語ったそうです。
菅首相“オリンピック 感染拡大 つながっているわけではない“ | NHKニュース
【NHK】新型コロナウイルス対策をめぐり、菅総理大臣は広島市で記者会見し、東京オリンピックが感染の拡大につながっているわけではない…
NHKニュース
確かに、選手村から外部に感染が拡がったような事実はないにしても、私には、首相が強がって見せているようにしか思えません。そこで思い出したのが、昨年読んだある論説。それは
「無謬の果てに」愚なる、コロナ新生活様式 by 陸奥新報 (mutusinpou.co.jp)
というものです。その一部をご紹介します。
「無謬の果てに」愚なる、コロナ新生活様式
誤りがないことを意味する「無謬(むびゅう)」という言葉をご存じだろうか。「行政の無謬性」という場合には「オカミは間違いを犯す訳がなく、行動や判断は常に正しい、だから謝罪などもっての外である」という官僚機構の行動原理の一つで、時に侮蔑(ぶべつ)も含んで使われる言葉だ。先の大戦では、こうした行動原理に国民は翻弄(ほんろう)され、その結果、多くの尊い命を喪(うしな)った。また最近は「誤解があったら、おわびします」が大臣たちの決まり文句だ。自分たちは正しいと断固譲らない。さらにピンチになると「ご飯論法」を弄(ろう)し、言葉尻でごまかし開き直る。今般のコロナウイルスでは、わずか3カ月ほどの間に、こうした政府の姿勢によって、われわれ市民はどれほど多くの損失や迷惑を被ったことだろうか。もちろん布製マスクの配布などは、その最たるものであろう。
そうした中、感染症学者らの専門家会議の提言を受ける形で、政府が「新しい生活様式」なるものを発表した。極めて恣意(しい)的で、かつ驚くほど見識を欠いたものだった。中でも食事の場面には仰天する。「対面でなく横並びに座ろう」「料理に集中、おしゃべりは控えめに」とはいったい何ごとであろうか。しかも家庭のことを指すのか、外食についてなのかさえ全く触れていない。文明社会における食の重要な役割に理解がまるでない。食は家族や友人と席を共にし、喜びを分かち合う貴重な時間だ。男女はそこで愛を育み、友とは絆を深め、親子は生き方を教え学ぶ。あるいは、そうありたいと願うことこそ、人々の勤労意欲の源泉であるはずだ。市井の飲食店は、そうした機会を提供すると共に、街ににぎわいと華やかさをつくり出す重要な要素なのだ。(以上、「陸奥新報」2020年5月17日号の論説の一部)
役所に間違いなどない、という「無謬性」神話が今のコロナ拡大を招いた
間違っても謝らない、いや、そもそも役所に間違いなどない、という「無謬性」こそ、かつて大日本帝国を滅亡に追い込み、今またコロナ・ウイルスにろくな対応もできない元凶だ、というこの論説、私は心から賛同します。
昨年5月の論説ですが、それから1年3ヶ月経って、いよいよ無謬どころか謬(びゅう)だらけになってしまった。その挙句、重症(=危篤)以外は知らないよ、と逃げを打ち出した。この貴重な1年3ヶ月を無駄にしてしまったものこそ「無謬性」なのではないでしょうか。
「俺は無謬だ」とノボセあがってしまった権力者を一喝して、目を覚まさせるシステムを、残念ながら戦後76年間、何も構築してこなかった。その結果、ウイルスという脅威によって国民の命が危険にさらされることになってしまった。
行政がやったことは「間違っていても有効」とされてしまう「行政行為の公定力」
「無謬性」に取りつかれてしまうと、「もしかして、これは間違いなのではないか」と顧みる謙虚さがなくなってしまいます。「間違っていたときや、失敗したときのことを考えたりしてはいけない。」とか、「失敗を恐れていては、勝てる戦も勝てなくなってしまう」という「必勝の信念」に取りつかれてしまう。東條内閣がその典型ですね。
法的に言うと、「行政行為の公定力」(行政行為がたとえ違法であったとしても、その違法が重大かつ明白な違法で、当該処分を当然無効とする場合を除いては、権限ある行政機関や裁判所によって適法に取り消されない限り、有効なものとして扱われるという効力のこと)という、民・民ならあり得ない特殊な効力によって行政の無謬性が守られています。
謙虚な人格者は政治家にならない
しかし、そのことが理論的にわかっていて、だから刀はより謙虚に振り回さなければならないと思っているような人格者は、なかなか政治家になりたいなどとは思わない。
「権力の無謬性」で「俺は偉いんだ」と勘違いしてノボせる金メダルかじり市長
むしろ、こんな理論も何もない、河村たかし名古屋市長のような連中が「俺は常人よりも偉いんだ」などとノボセて、権力をふり回す。ここに元凶が潜んでいるわけでしょうね(こういう人を面白半分に市長にしてしまう有権者も有権者です)。
習志野市消防職員が救急車を私的に使った事件でも謝罪なし
習志野市の消防職員が救急車を私的に使った事件でも「救急車を使うことを上司に伝えていなかったが、傷口から感染症になるかも知れないので救急車を使った」と強弁し、変な「経緯を説明」しただけ。謝罪を拒否しているので、また同じことを繰り返すんでしょうね。こういう習志野市の体質だから、習志野市の消防職員の不祥事が続いている、という記事がこのブログにも載っていました。素直に「ごめんなさい」が言えない体質、問題ですね。
習志野市の消防職員、今度は私的に救急車を使用?(朝日新聞デジタルの記事) - 住みたい習志野
「無謬性」神話が生み出した戦時中のヘンな歌
「無謬性」という言葉は難しいですが、戦時中の歌を聞けばよくわかります。
「空襲何ぞ恐るべき」
「なんだ空襲」
「爆弾ぐらいは手で受けよ」
濡れムシロと火ハタキ、砂袋で焼夷弾など簡単に消えてしまう。その間に我が高射砲陣地が反撃し、敵爆撃機は遁走せり、というのですが、事実はこの後、東京はどうなったかの動画も一緒に流してもらいたいものですね。政府が言うことを真に受けて、本当に消そうとして命を落とした人も少なくないはずです。
「空襲後、富岡八幡宮に立つ昭和天皇」
空襲に関して、直接にはああいう無差別爆撃をやったアメリカに責任がある話ですが、敵がそういう意図であることを承知していたくせに、銃後の国民には防空演習などで適当にお茶を濁し、結局壊滅的被害を出してしまった日本政府・軍部の責任も大きなものがあります。
「コロナ何ぞ恐るべき」とか「中等症ぐらいは自宅で直せ」という歌を作って首相官邸に持ち込むと、菅総理、喜んで買ってくれるかも知れません(苦笑)。
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