絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

県展入選結果

2010-05-19 | 2010年県展入選作品
今回、私が県展制作を指導した人は、12人です。

入選者は、以下の11人でした。1人だけまだ連絡を受けてないので、その人が入っていれば、全員入選ですが、今夜分かった人だけ紹介します。

           

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デッサンの必要性2

2010-05-19 | 絵のこと
デッサンの必要性というテーマで、考えているといろいろなことが思いつく。

例えば、子供の絵である。

子供の絵と言うと、それだけで、純粋でいいという人がいる。
プロの画家でも、子供のように描けたらいいと言う人がいる。

無邪気に純粋に、何も考えずということか?

ーーーーー
果たして、どうなのだろう。
自分のことを思い出すと、私は絵をどう描いていいか分からなかった。
先生が「お母さんを描いてみましょう」と言った言葉にうながされて、
私たちは描きだした。しかし、私は描けなかった。
そして周りの子が描くのを見ていた。すると、女の子が描きだした。
頭をクルクルと描いて、それはパーマだと言った。顔は細く顎は棘のように尖った。
目の横辺りまで来ると、急に外に開いた。おそらく耳の形につながるからなのだろう。
そんな様子を見ていて、ああ、あのように描けばいいのかと思って、真似をした。
他の子も、私のようにやり方が分からずに、だれかが描くのを見て真似しているように思えた。
じゃあ、最初に描ける子は、どうして描けるのかというと、おそらく、兄か姉がいてその兄弟が描いたものを見た経験があるのだろうと思った。そうでなければ、兄弟とは限らないが、誰かが描いたものを見た経験があるのだろうと思う。
早々と、自分から描き出せる子は、結構得意な顔をしていた。

その体験が、「私は小学校の頃は絵が得意だったのよ」という言葉になるのだろうと思う。

しかし、それが、子供は純粋で自由でいいという言葉になるのだろうか。

ーーーーー
私は、子供の絵を純粋でいいとは思わない。果たして純粋なのかという点も疑問である。

描き方を学んでないという点では、白紙である。それを純粋というだろうか。
ピアノのことで考えると、何も教えないで、でたらめを弾いている子供がいて、それを純粋でいいと言うだろうか。(おそらく、弾かないと思うが)

ーーーーー
私は、なぜ、子供の絵はみんな同じなんだろうかと思うことがある。
大人のように描く子がいない。それは、教えないからだろうと思う。
ピカソは5歳から父親に教え込まれた。だから、子供らしい絵を描いたことがないという。
そういう絵があってもいいのではないかと思ったりする。

ーーーー
ただ、全員に学校教育で、ピカソのようにデッサンを教えることがいいかというと、それは、私にもわからない。しかし、教えることがあってもいいと考える。
また、私は、そういう意味では、子供に抽象画を教えてもいいと思っている。
なせ、小学校で抽象画をやらせないのかと思う。やらせていたらごめんなさい。
私が知らないだけかもしれないので、私は見たことがないと断っておきます。
勿論、そう言うのは、私の経験では抽象画はやらなかったからです。

しかし、どうして、小学校では、思い出し絵画ばかりやらせるのだろうと思います。
遠足に行って来たので、思いだして描きましょう。という絵がありますね。
思い出を記憶に留めるためにでしょうか。
難しくて、とても描けません。今の私でも描けません。

この絵画訓練は、とことんやれば、美術としてではなく、モンタージュ写真を作ることには、役立つでしょう。それから、見たことがない人に、説明してやるときに、大体の感じがこんな感じだよと絵に描いて示してやるには役立つでしょう。しかし、そのために図画教育をやっている訳ではないでしょう。

ーーーーーー
話をデッサンの必要性ということに戻すと、デッサンとは何かということにも行きつきます。

私が考えるデッサンとは、形を正確に写し取るということや、光の方向を考えて明暗を正確に写し取るということだけでなく、構図を考えることや、バランス、ハーモニー、リズム、アクセントなどの、造形要素を養うという意味なのです。

だから、それは、抽象画にも当てはまることです。

また、デッサン力という場合、それは、物を見る力ということでもあります。
絵を見ただけで、これは狂っているということがわかるのです。私は絵を高校生に教えていて、なんで先生はわかるんだと不思議に思われたようです。見たこともないのに、見て描いた自分より先生の方が見る目が正しいと思ったそうです。

デッサンとは、そういう意味で言えば、必要か否かなどということは、意味のない議論になります。造形である限り、それはデッサンそのものだからです。






コメント (5)
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