雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

方外

2009-05-03 09:56:19 | 歴史
司馬さんと誰かの対談で、日本人は犯罪を犯して捕まると、ほとんど例外なく「申し訳ない」ということが話題になっていたことがあった。

欧米では捕まるとまず否認し、裁判に備えるのだが、日本では裁判があっても、すでに犯罪を認めているのだから対決がない、と。そして対決がないのは確かに日本的だと。

しかし昨今では多くの被疑者はまず否認するか、責任能力の有無を焦点に、いずれにせよ、罪はなかったことにしようという全面的な対決姿勢になる。

こういうのをみると、司馬さんが生きていた頃の日本ではもうないし、司馬さん自体が過去のひとになってしまったことの寂寥感さえ漂う。

こういう寂しさを諦観することを「さび」というらしい。

司馬さんに話を戻そう。

明治維新のとき多くの人間がさびを経験したらしい。

ひとつの生き方が変わることに伴うわけだから、年配と文系の人間の方が感じるサビがでかい。

そんなひとりが司馬さんの祖父だった。

司馬さんの祖父は、近代国家成立に伴う西洋からのものはすべて認めなかった。

関孝和の和算で、娘たちが学校で習う数学の回答に対抗していたというし、学校自体も否定した。

娘たちは女だから学校に行くことを許したが、息子は学校にいれず、それぞれの分野で家庭教師なり息子の師とすべき人間を探して、そこに通わせたらしい。

祖父がなぜそうしたものを全部否定したかという理由は書いていなかったように思うが、おそらく近代国家は組織に組織が連なりそのなかで生きていくように飼いならすものだから、本能的に、組織で生きることは生きること自体に対して間接的になると考えたからだろう。

そしてその対談のなかで今も忘れられない言葉がある。

江戸から明治にかけて一番の変化は、字句はそのままではないが、尊敬していないひとをほめたり、ひとをだませないひとは生きていかれなくなった、という謂いだった。

これを20代なかばで読んだ僕は、まさに僕がそうしたことができない人間ですでにうまくいっていなかったから(指導教官のひとりにこいつは変われないといわれた)、そうした人間がそうした社会でいくにはどうしたらいいかを模索して残りの20代をすごした。

そしてやれると結論して(というか自分は変えられないと思ったからだが)、今にいたるが、そのとき予想した通り、組織からあぶれている。

もちろんそんなことは覚悟のうえだからいいのだが、問題は娘のこと。

司馬さんの父親はその結果小学校に行かなかったから、小学校の卒業証明書がなくてえらく苦労したらしいが、それを知っていながら、今僕は娘に、司馬さんの祖父同様の仕方でやらずにいられない自分を見出しているからだ。

つくづく娘の寝顔をみながら、不憫な娘だと思い、少なくとも小学校は通わせようと思った。


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