先週末図書館で借りてきたイギリスの児童文学作品『トムは真夜中の庭で』を読んだ。『北回帰線』を久しく読んで、小説に久闊を叙した自分がいる。しかも「文学的な」(凝った)文章を書きたいなどという冒険心も頭ををたげてきた。特に、そのとき一緒に借りた、志賀直哉と武者小路実篤みたいにと思ってこれを書いているが、ここまで読み返して、彼らの味はどうも出ていない。
それは置いておいて『トムは真夜中の庭で』。読了後、今まで「児童文学」を侮ってきた自分を戒めなければならないと思った。一昨年『100万回生きた猫』を読んで絵本を見直したが、それに続く、大どんでん返し(古い)である。とにかくスリル満点で一気に読めてしまった。というかこれは本当に児童文学だろうか。テーマが、時間論である。
時間論といえば、『時間の歴史』(ジャック・アタリ)をみつけたときはドキドキして買った。しかし期待していたほど「わかりやすく」なく、その後は滝浦静雄氏の著作でいいことにしてきた。結局時間は、人間の「知覚」よりは「感動」と関係があるという定見に落ち着いた。
『トムは真夜中の庭で』もそうした結論だと大江健三郎さんがいった。正直に言うと、この大江論についての記憶にあまり自信がない。3年ほど前講演で聞いた内容だからだ。そのとき感心してずっと『トムは~』を読みたいと思って先週やっと借りたわけだが、肝心の大江論の細部を忘れてしまっている。そこで大江さんの講演の内容が活字になっていないか、片っ端から本屋で探した。
そしたら、『「話して考える」と「書いて考える」』に「子供の本を大人が読む」とかなんとかいうタイトルのエッセイがそれだとわかった。それをそのまま買ってゆっくり読んで確認すればいいのだが、それができない。トム・ソーヤー的こだわりで大江作品だけは初版でいまだに買うことにしているためである。立ち読みもなんだから、それならいっそのこと今夜は自分で『トムは真夜中の庭で』に展開する時間論をつきとめてやれということになったわけである。
簡単にこの物語の粗筋を提示しておこう。
主人公トムは10歳くらいの少年。あるときおじ夫妻のアパートに数週間ほどあずけられることになる。そのアパートにはトムの好きな庭園がないためそこでの暮らしを退屈に感じていた。しかしそこは好奇心旺盛な少年トム。夜中に置きだして古い時計をみつける。この時計のはりはきちんと動いているのだが、音がめちゃくちゃである。つまり1時なのに5回ボンボンと鳴ったりする。
ある日深夜12時をまわったときなぜか13回なる。彼は時計の置いてあるキッチンからあるドアを開いて外に出てみるとそこにないはずの「庭園」があった。その後彼は毎夜そこに出て行って遊ぶことになり、しかもハティという少女と出会う。トムはハティと遊ぶうちに、また話をするうちに仲良くなるとともにハティの一生をみとどける。つまり始めてあったときのハティは少女だが、最後には、大人になっていた。
トムはどうしてこういう事態が起こりえたのか考え始める。そして時間とは何かという問題にいきつく。しかもその答えがその古時計のなかに記されている黙示録の一節に隠されていることをつきとめる。以下が『トムは真夜中の庭で』で引用されている黙示録の一節である。
わたしはもおうひとりのつよい天使が、雲につつまれて天から降りてくるのをみた。その頭に虹をいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。彼は、ひらかれた小さな本を持っていた。そして右足を海の上に、左足を地の上に踏み下ろして、獅子が吠えるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発したとき、私はそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書き留めるな。」というのを聞いた。それから生み土地の上に立っているのをわたしがみたの天使は、天に向けて片手をあげ、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものをつくり、世々限りなく生きておられる方をさして誓った。「もう時間がないThere shall be no time no longer 。」(10、1-6)
黙示録の性格から考えると「もはや時間(猶予)はない」と解釈する方が普通である。しかしその解釈だとトムが追い続けた時間の意味を説明することにならないし、また上述の引用句のなかでも違和感を覚える。そこで大江さんは、「もはや時間がない」という切羽詰った状況ではなくて、「時間というもの自体がない」と解釈したはずだが、説明の細かなところがわからないから自分で辻褄あわせをしなくてはならない。
取り敢えず Hasting の聖書辞典で「Time」を確認するところから始めた。
アタリや滝浦さんが紹介していたように、時間は、もともと我々が変わりゆくために知覚されるから、という考え方は同じ。ということは、時間がなくなるということは、我々に変化がなくなるということである。助動詞はshallがついているから今は時間があるが、否応なしにもうすぐ変化がなくなる作中人物は、老齢のハティである。
ハティは、トムが日常を暮らす現在ではアパートの最上階に暮らす老婆で、トムも老婆ハティもお互いの存在に気づかない(ハティは気難しい老婆で通っているため会う機会がない)。あとでわかることだが、トムが毎夜出くわしていたのはこの老婆ハティの夢の中に出てくるハティ自身の人生の各段階にいるハティだった。
明らかにされたこうした事柄から、トムはどんどん思索を深め、よくわからないといいつつ以下のような結論を導く。「人間は、それぞれべつべつな時間をもっている。ほんとうはだれの時間もみんなおなじ大きな時間のなかの小さな部分だけど。。。」
なるほど、と思った。トムのいう「大きな時間」とは、みなが社会生活をするために共有している時間である。例えば僕の今日の一日は、2月10日の朝から9時、10時、・・・23時と過ぎた。しかし僕の心の中では明日は京都旅行だからといろいろな過去や未来の出来事に飛んでいる。しかし社会的な時間で12時や18時半になると、社会的な自分になって食事をするが、それが終わると、明日はまた曼殊院にいってそれから・・・などと未来に飛んだり、以前はこうだったとまた過去に飛んだりする。
しかし老婆ハティは余生を送っているだけである。だからこんなことをいう、「トム、あんたがわたしぐらいの年になればね、昔の中に生きるようになるものさ。昔を思い出し、昔の夢をみてね。」ハティには旦那さんはいないし、最低限の社会生活があるだけで、ほとんどは個人的な生活を送っている。そのためトムのいう大きな時間を持つ必要がない。別々の小さな時間を中心に生きている。
そしてトムもそう。自分の時間だけしか考えずにそこで暮らしている。そんなふたりが「庭園」という共有物を介して時を経験した。そしてハティの過去への飛行が「庭園」に関係なくなると、トムとハティは接点をなくして、ハティにとってトムは半透明にみえるようになる。
なんかすっきりした。大江さんの著作を確認したらまた書きます(たぶん)。
それは置いておいて『トムは真夜中の庭で』。読了後、今まで「児童文学」を侮ってきた自分を戒めなければならないと思った。一昨年『100万回生きた猫』を読んで絵本を見直したが、それに続く、大どんでん返し(古い)である。とにかくスリル満点で一気に読めてしまった。というかこれは本当に児童文学だろうか。テーマが、時間論である。
時間論といえば、『時間の歴史』(ジャック・アタリ)をみつけたときはドキドキして買った。しかし期待していたほど「わかりやすく」なく、その後は滝浦静雄氏の著作でいいことにしてきた。結局時間は、人間の「知覚」よりは「感動」と関係があるという定見に落ち着いた。
『トムは真夜中の庭で』もそうした結論だと大江健三郎さんがいった。正直に言うと、この大江論についての記憶にあまり自信がない。3年ほど前講演で聞いた内容だからだ。そのとき感心してずっと『トムは~』を読みたいと思って先週やっと借りたわけだが、肝心の大江論の細部を忘れてしまっている。そこで大江さんの講演の内容が活字になっていないか、片っ端から本屋で探した。
そしたら、『「話して考える」と「書いて考える」』に「子供の本を大人が読む」とかなんとかいうタイトルのエッセイがそれだとわかった。それをそのまま買ってゆっくり読んで確認すればいいのだが、それができない。トム・ソーヤー的こだわりで大江作品だけは初版でいまだに買うことにしているためである。立ち読みもなんだから、それならいっそのこと今夜は自分で『トムは真夜中の庭で』に展開する時間論をつきとめてやれということになったわけである。
簡単にこの物語の粗筋を提示しておこう。
主人公トムは10歳くらいの少年。あるときおじ夫妻のアパートに数週間ほどあずけられることになる。そのアパートにはトムの好きな庭園がないためそこでの暮らしを退屈に感じていた。しかしそこは好奇心旺盛な少年トム。夜中に置きだして古い時計をみつける。この時計のはりはきちんと動いているのだが、音がめちゃくちゃである。つまり1時なのに5回ボンボンと鳴ったりする。
ある日深夜12時をまわったときなぜか13回なる。彼は時計の置いてあるキッチンからあるドアを開いて外に出てみるとそこにないはずの「庭園」があった。その後彼は毎夜そこに出て行って遊ぶことになり、しかもハティという少女と出会う。トムはハティと遊ぶうちに、また話をするうちに仲良くなるとともにハティの一生をみとどける。つまり始めてあったときのハティは少女だが、最後には、大人になっていた。
トムはどうしてこういう事態が起こりえたのか考え始める。そして時間とは何かという問題にいきつく。しかもその答えがその古時計のなかに記されている黙示録の一節に隠されていることをつきとめる。以下が『トムは真夜中の庭で』で引用されている黙示録の一節である。
わたしはもおうひとりのつよい天使が、雲につつまれて天から降りてくるのをみた。その頭に虹をいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。彼は、ひらかれた小さな本を持っていた。そして右足を海の上に、左足を地の上に踏み下ろして、獅子が吠えるように大声で叫んだ。彼が叫ぶと、七つの雷がおのおのその声を発した。七つの雷が声を発したとき、私はそれを書きとめようとした。すると、天から声があって、「七つの雷の語ったことを封印せよ。それを書き留めるな。」というのを聞いた。それから生み土地の上に立っているのをわたしがみたの天使は、天に向けて片手をあげ、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものをつくり、世々限りなく生きておられる方をさして誓った。「もう時間がないThere shall be no time no longer 。」(10、1-6)
黙示録の性格から考えると「もはや時間(猶予)はない」と解釈する方が普通である。しかしその解釈だとトムが追い続けた時間の意味を説明することにならないし、また上述の引用句のなかでも違和感を覚える。そこで大江さんは、「もはや時間がない」という切羽詰った状況ではなくて、「時間というもの自体がない」と解釈したはずだが、説明の細かなところがわからないから自分で辻褄あわせをしなくてはならない。
取り敢えず Hasting の聖書辞典で「Time」を確認するところから始めた。
アタリや滝浦さんが紹介していたように、時間は、もともと我々が変わりゆくために知覚されるから、という考え方は同じ。ということは、時間がなくなるということは、我々に変化がなくなるということである。助動詞はshallがついているから今は時間があるが、否応なしにもうすぐ変化がなくなる作中人物は、老齢のハティである。
ハティは、トムが日常を暮らす現在ではアパートの最上階に暮らす老婆で、トムも老婆ハティもお互いの存在に気づかない(ハティは気難しい老婆で通っているため会う機会がない)。あとでわかることだが、トムが毎夜出くわしていたのはこの老婆ハティの夢の中に出てくるハティ自身の人生の各段階にいるハティだった。
明らかにされたこうした事柄から、トムはどんどん思索を深め、よくわからないといいつつ以下のような結論を導く。「人間は、それぞれべつべつな時間をもっている。ほんとうはだれの時間もみんなおなじ大きな時間のなかの小さな部分だけど。。。」
なるほど、と思った。トムのいう「大きな時間」とは、みなが社会生活をするために共有している時間である。例えば僕の今日の一日は、2月10日の朝から9時、10時、・・・23時と過ぎた。しかし僕の心の中では明日は京都旅行だからといろいろな過去や未来の出来事に飛んでいる。しかし社会的な時間で12時や18時半になると、社会的な自分になって食事をするが、それが終わると、明日はまた曼殊院にいってそれから・・・などと未来に飛んだり、以前はこうだったとまた過去に飛んだりする。
しかし老婆ハティは余生を送っているだけである。だからこんなことをいう、「トム、あんたがわたしぐらいの年になればね、昔の中に生きるようになるものさ。昔を思い出し、昔の夢をみてね。」ハティには旦那さんはいないし、最低限の社会生活があるだけで、ほとんどは個人的な生活を送っている。そのためトムのいう大きな時間を持つ必要がない。別々の小さな時間を中心に生きている。
そしてトムもそう。自分の時間だけしか考えずにそこで暮らしている。そんなふたりが「庭園」という共有物を介して時を経験した。そしてハティの過去への飛行が「庭園」に関係なくなると、トムとハティは接点をなくして、ハティにとってトムは半透明にみえるようになる。
なんかすっきりした。大江さんの著作を確認したらまた書きます(たぶん)。