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師弟が紡ぐ広布史〉第10回 「一瞬」に「永遠」を込めて

2021年07月26日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第10回 「一瞬」に「永遠」を込めて 記念撮影編㊤2021年7月26日

わが友に喜んでもらいたい
宗門の悪僧らが広布破壊の画策を巡らせた1979年(昭和54年)8月、池田先生は長野研修道場を初訪問。26日、駆け付けた約3000人のメンバーとの記念撮影が行われた。謀略の嵐にも、師弟の絆はいささかも揺らぐことはなかった
宗門の悪僧らが広布破壊の画策を巡らせた1979年(昭和54年)8月、池田先生は長野研修道場を初訪問。26日、駆け付けた約3000人のメンバーとの記念撮影が行われた。謀略の嵐にも、師弟の絆はいささかも揺らぐことはなかった

 その日、池田大作先生の手は赤く腫れ上がった。1965年(昭和40年)3月22日、宮城・仙台市で東北第1本部の地区部長会が終わった後のこと。先生は約600人の参加者全員と握手した。
 「勝利の年」と名付けられたこの年、先生は聖教新聞で小説『人間革命』の連載を開始。年頭から九州、関西、中国、中部と全国を駆け巡った。
 行く先々で出会った友に声を掛け、握手も交わす。激励に次ぐ激励は、広布の伸展を加速させていった。
 握手の時、喜びいっぱいに、師の手を力強く握り締める友もいた。東北の地区部長会でも、600人の誓いを込めた握手が、次々と交わされた。
 先生の手に痛みが走った。万年筆を握ることすらできなくなった。8日後の30日には、長野本部の地区部長会が予定されていた。
 生涯の原点となる出会いをつくってあげたい――その一心で握手に代わる激励として考えられたのが、記念撮影だった。
  
 65年3月30日、先生は長野会館(当時)の庭にヒマラヤ杉を記念植樹。地区部長会では、勤行と折伏をたゆまず、繰り返し実践していくところに信仰の本義があると強調し、どこまでも「持続の信心」で進んでいくことを訴えた。
 その後、先生は休む間もなく撮影会に臨んだ。参加した婦人は、「先生と一緒に撮影した写真は、かけがえのない“宝の一枚”です」と語る。
 撮影会から2年が過ぎた67年(同42年)1月、婦人は松代支部の支部婦人部長に。当時、松代地域は群発地震が続き、多くの人が不安を抱えて、生活していた。“今こそ、地域に希望を広げよう”と、支部の同志と共に対話に歩いた。翌2月、松代支部は全国をリードする弘教を成し遂げた。
 82年(同57年)、夫が勤めていた印刷会社が倒産。経済苦の中、池田先生との懇談会があった。先生は、じっと婦人の目を見つめ、語った。
 「決して退いてはいけない」
 たった一言だった。しかし、その一言が婦人から弱気をたたき出した。“悩みがあるから、信心で立ち上がり、前に進む。それが弟子だ”と心を一変させた。その後、夫は新しい仕事に就くことができた。
 翌83年(同58年)、長野県婦人部長に。正役職を離れた後は、長野市女性団体連絡会の会長を務めるなど、地域活動に率先してきた。
 現在、夫と共に長野市の俳句連盟に所属し、地域に対話の花を咲かせる。その心には、励ましを送り続けてくれた師への感謝があふれている。
  
 撮影会の後、先生は別室に移ると、色紙に揮毫し始めた。友が家路に就いてからも、励ましの“戦い”は、寸暇を惜しんで続けられた。

1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で開催された記念撮影会。この時、撮影した高等部のメンバーを、池田先生は「広島高等部グループ」とすることを提案した。同グループの友は互いに触発し合いながら、成長の足跡を刻んできた
1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で開催された記念撮影会。この時、撮影した高等部のメンバーを、池田先生は「広島高等部グループ」とすることを提案した。同グループの友は互いに触発し合いながら、成長の足跡を刻んできた

 前夜から降り続いた雨はやみ、早春の爽やかな風がそよいでいた。1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で池田先生と約5700人の友との記念撮影会が行われた。
 3台の撮影台が準備され、14グループに分かれて、撮影が進められた。壮年部、婦人部、女子部と続き、316人の男女高等部の撮影の後、先生は後継の友に万感の思いを語り始めた。
 「私は君たちの成長を待っている。諸君たちは、実質的な学会の跡継ぎだ」
 「一人も残らず、石にかじりついても勉強し抜いてほしい。この中から、やがて大政治家も、大学者も、大科学者も出てほしい」
 撮影会に参加した一人の男子メンバーは、専門学校を卒業後、電気関係の仕事に従事した。38歳で独立。設備関連の会社を立ち上げた。
 売り上げは日ごとに伸びた。事務所を構え、従業員を雇うまでに。だが、“増上慢の命”が顔をのぞかせた。次第に、学会活動から遠ざかる。
 ある日、保証人になっていた知人が行方をくらます。投資話の詐欺被害にも遭った。莫大な負債を抱え、瞬く間にどん底に落ちた。
 会社は倒産。生きる気力すら失いかけた。その時、先輩が一緒に祈ってくれた。撮影の原点を思い返し、宿命転換を懸けて対話に挑んだ。
 当時、壮年は地区部長だった。地区では20世帯の弘教が実った。壮年自身も友人を入会に導いた。その後、新たな設備関連の会社を立ち上げる。誠実な仕事ぶりが評判を呼び、窮地を脱することができた。
 壮年は今、安佐北区可部の地域で活動に励む。「可部から『壁』を破る戦いを」と友好拡大に走っている。
  
 撮影会の時、会場の外に鼓笛隊が集っていた。撮影の予定はなかったが、先生は「鼓笛隊の皆さんとも撮影しよう」と。メンバーから歓声が上がる。
 婦人は「高等部員」「鼓笛隊員」として、1日に2回、師とカメラに納まった。その喜びは今も胸に鮮やかだ。
 後年、先生と岡山文化会館で懇談する機会に恵まれた。婦人は「広島で撮影をしてくださった高等部のメンバーは皆、頑張っています」と報告した。
 ところが、先生は強い語調で、「あなたが頑張ればいいんだよ」と。他の誰かではなく、自分がどうか――厳しい響きに、婦人は「一人立つ信心」の大切さを心の奥深くに刻んだ。
 2012年(平成24年)、広島市は被爆体験の“伝承者”養成の取り組みを開始した。被爆2世の婦人は、母の被爆体験を伝えようと決めた。
 3年の研修課程を修了し、伝承者の1期生に。国内だけではなく、海外でも核兵器の“悪魔性”を訴えてきた。
 忘れられないのは、オランダでのこと。講演終了後、核兵器の存在を容認してきたオランダの与党議員が婦人のもとに歩み寄り、「私は核兵器禁止条約の成立に力を尽くします」と決意を述べてくれた。
 実際、2016年に「核兵器禁止条約」制定への交渉開始を求める決議の採択を巡り、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国が軒並み決議案に反対を示す中、オランダだけが唯一、反対を回避して棄権に回った。
 「被爆体験を草の根で語っていくことが大きな力になる――そのことを確信する出来事でした」
 今年2月にはインドのデリー大学、4月にはオランダのライデン大学で、それぞれオンラインの講演を。撮影会で師が寄せた期待を胸に、婦人は平和のために戦う“ヒロシマの心”を語り続ける。
 撮影会には、入会半年の男子高等部員もいた。「大学者」との師の言葉に、彼は“博士になろう”と決意。大学卒業後、会社で研究を続けながら、工学博士の学位を取得した。

東京のトップを切って行われた板橋の記念撮影会(1971年10月17日、板橋区内で)。池田先生は長編詩で板橋への思いを詠んでいる。「真実の板橋! それは金の橋である。 それは 心が金であるからだ。 板橋! 金橋! 我らの橋は 金の橋だ!」
東京のトップを切って行われた板橋の記念撮影会(1971年10月17日、板橋区内で)。池田先生は長編詩で板橋への思いを詠んでいる。「真実の板橋! それは金の橋である。 それは 心が金であるからだ。 板橋! 金橋! 我らの橋は 金の橋だ!」

 造花で彩られた会場の設営に、「歓喜」の文字が大きく掲げられた。その二字が象徴するように、東京・板橋の友の喜びがはじけた。
 1971年(昭和46年)10月17日。この日、池田先生と板橋の友との記念撮影会が開催された。「板橋の日」の淵源である。
 前年、言論・出版問題が起こった。広布の未来を展望する上で、本陣・東京の強化が急務だった。先生は東京各区の友との記念撮影を開始した。その1番手が板橋であった。
 場内の垂れ幕には、「板橋は仲良く地域社会を開発してまいります」。学会は翌72年(同47年)の年間テーマを「地域の年」と掲げていた。
 撮影は約4000人の同志が、17のグループに分かれて行われた。その合間に、先生は励ましを送った。
 壮年・婦人には、「不動の幸福境涯を築いていく根源の法が信仰であり、皆さん方一人一人が功徳に満ちあふれ、子孫末代まで栄え、幸福であることが最大の喜びである」と。
 青年部には、「現在はどのような境遇であっても、10年、20年と純粋な信仰を全うしていくならば、想像を絶する栄光の人生を切り開いていけることは間違いない」と強調した。
 撮影会では、鼓笛隊の演奏や少年部員のリズム体操、中・高等部の創作舞踊“義経”が披露され、最後に婦人部が「板橋音頭」を踊った。
 “池田先生に喜んでいただける最高の踊りをしよう”との思いで撮影会に臨んだ婦人。1歳の長女を抱えながら練習に駆け付けた。練習を終え、自宅に戻ると御本尊の前に座った。
 長女にはぜんそくがあった。撮影会を終えた頃から快方に向かい始めた。“師匠を心のど真ん中に置いて、信心の戦いに徹する時、必ず変毒為薬することができる”との確信になった。
 以来、婦人はどんな時も、胸中に師を抱いて進んだ。長年にわたり地域行事に関わるなど、地域貢献にも力を注いできた。
 2019年(令和元年)、夫が亡くなった。婦人は「夫の分まで広布に尽くし、師恩に報いてまいります」と。3人の娘も信心を継承している。
  
 壮年は場外で整理・誘導の役員に就いた。師の指導を聞くこともできなかった。だが、板橋の原点となる歴史的な行事で、“陰の戦い”ができることを誇りに感じ、任務に徹した。
 中学を卒業してから働き始めた。17歳の時に参加した座談会で、「人間革命」という言葉を耳にした。“信仰で自分が変われるなら”と入会を決めた。
 先輩から「信心は“片足を突っ込む”ような中途半端ではいけない」と学んだ。撮影会は、信心根本の人生を歩む誓いを深くする原点となった。
 先生は撮影会で、「名実共に『地域の年』の第一歩となるにふさわしい歴史的な行事であり、まさに全東京の模範となる記念撮影であった」と。
 1972年、壮年は町会に入り、防犯・防火活動に尽力。地域に根を張り、地道に信頼を広げた。
 その年の年末、壮年のもとに池田先生から一冊の書籍が届いた。「来る日も 来る年も 共に 智道の道 開道の舞を 逞しく南無し歩もう」と揮毫されていた。
 “来る日、来る年、師と共に進もう”と決めた。その誓いのまま、壮年は板橋広布の最前線を駆けている。
 ――撮影会の折、先生は“きょう、板橋に来させてもらって分かったことがあります”と語り、こう続けた。「板橋は東京で一番いい街であります」
 今年は「板橋の日」50周年。栄光の佳節を荘厳する、東京の模範・板橋の新たな勝利の幕が開く。
  
 1回の記念撮影会で、池田先生は何回もフラッシュを浴び、目を痛めることもあった。撮影会に臨む思いを、先生はこう記している。
 「わが友が少しでも喜んでくれれば、なんでもするのが私の使命である」

  


青年よ! 青空へ伸びゆけ

2021年07月25日 | 妙法

青年よ! 青空へ伸びゆけ 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」 2021年7月25日

 【写真説明】抜けるような青空に、クレヨンで描いたような鮮やかな白雲。1996年(平成8年)6月、池田大作先生がアメリカ・デンバーを初訪問した折、カメラに収めた一葉である。
 先生は6月8日、名門デンバー大学から「名誉教育学博士号」を授与された。その後、ニューヨークで、キッシンジャー元国務長官ら要人と会見。カーネギーホールでの世界青年平和文化祭に出席し、寸暇を惜しんで青年を励ました。
 男女青年部は今月、結成70周年を迎えた。「青年の月」7月から勝利を結実する秋へ――。後継の若き勇者と共に、広布の大空へ羽ばたこう。
 

池田先生の言葉

 青年は、希望の旭日だ。
 いかなる暗闇も
 鮮烈に打ち払う。
 青年は、正義の宝剣だ。
 いかなる邪悪も
 厳然と断ち切る。
 青年は、勝利の旗印だ。
 いかなる激戦も
 断固と勝ち開く。
 わが創価学会には、
 この若き熱と力が
 沸騰している。
  
 青春時代は、
 失敗も財産だ。
 苦労が宝になる。
 うまくいかなくても、
 くよくよせず、
 また挑戦すればいい。
 「当たって砕けろ」の心意気で、
 勇気を持って、
 臆さずに挑むのだ。
 限界の壁を破るのが、
 青年の特権だ。
  
 若さとは、
 「動く」ことである。
 知恵を振り絞り、心を働かせ、
 何かを為すことだ。
 どんな境遇にあっても、
 何とかしようという
 挑戦の心を忘れないことだ。
 その人の生命は若い。
  
 妙法は、永遠の若さだ。
 若さとは、
 何ものにも屈せざる力だ。
 雨が降ろうが、風が吹こうが、
 晴れ渡る青空をめざして
 伸びゆく力だ。
 若さとは、
 何ものも恐れぬ魂だ。
 いかなる壁にも怯まず、
 雄々しく突き破り、
 乗り越える大闘争心だ。
  
 キーワードは「友情」である。
 主役は「青年」である。
 「仲良くしよう」という
 心を広げ、
 新たな“時”を創るのだ。
 青年が自らの行動で、
 青年を糾合するのだ。
 目の前の友と語らい、
 友情を結ぶ。
 最も地道で
 最も確実な平和の王道が、
 ここにある。


第7回「札幌・夏の陣」

2021年07月23日 | 妙法

第7回「札幌・夏の陣」 「もう一歩」との前進が勝利を呼ぶ2021年7月23日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【短期決戦の要諦】
一、団結
一、スタートダッシュ
一、中心者の鋭き一念
(「随筆 勝利の光」<「札幌・夏の陣」から50年>)
「札幌・夏の陣」35周年を刻む1990年の7月、池田先生は、9日間の北海道指導へ。札幌の北海道文化会館を訪問し、共戦の同志に励ましを送った
「札幌・夏の陣」35周年を刻む1990年の7月、池田先生は、9日間の北海道指導へ。札幌の北海道文化会館を訪問し、共戦の同志に励ましを送った
万端の事前準備

 1955年(昭和30年)8月16日、北海道の札幌駅。青年室長の池田大作先生を中心とする、派遣隊一行が列車で到着した。
 “戦いは勝ったよ!”
 出迎えた同志に対し、先生は高らかに宣言した。
 この夏、全国45カ所で折伏活動が展開された。先生は札幌の派遣隊の主将として指揮を執り、札幌班は、8月16日からの約10日間で、388世帯という“日本一の弘教”を達成。燦然と輝く「札幌・夏の陣」の広布のドラマが刻まれたのである。
 この闘争の勝利の要諦は、そのまま“短期決戦”の指針となっている。
 その一つが、万端の事前準備である。6月末、札幌市担当の責任者として、先生の派遣が決定。先生は、札幌班の班長に手紙を送った。
 「札幌は、全国に先駆け、三百世帯以上の本尊流布を」(7月9日)
 「全員が、何十倍の下種を為して居く必要があると思います」(8月3日)
 手紙の内容は、同志への温かい励ましと共に、目標の共有や、どうすれば目標を達成できるかとの具体的な方法、全体のスケジュールに及んだ。
 札幌班では先生からの手紙を回覧し、着々と手を打っていった。札幌市を東・西・南・北・中央と五つの区域に分けて、幹部の担当を明確にした。詳細な日程表も作られた。
 8月16日、先生に同行した派遣メンバーは、拠点となる会場に着いて目を丸くした。弘教の推進状況を分かりやすく書き込める棒グラフまで、きちんと用意されていたからである。先生の札幌駅での勝利宣言は、単なる“願望”や“決意”ではなかった。誰よりも心を砕いた準備によって、すでに勝っていたのである。
 御聖訓には、「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」(御書183ページ)とある。この御文を拝して、先生は強調した。「戦いを決するのは全軍の勢いである。それには、戦闘開始と同時に全力疾走できるだけの、万端の事前の準備、緻密な作戦が絶対に不可欠だ」

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)9月25日から】
泥沼に咲く、
蓮華の花とは、
吾々のことである。
雄大な北の大地に咲く菖蒲の花を、池田先生が撮影(1990年7月、札幌・八紘学園「花菖蒲園」で)。「“仏法は勝負”である」――先生は、この2日前に出席した北海道総会で、妙法の勝負の世界に言及。「我が北海道こそ“幸福の王者”なり」と呼び掛けた
雄大な北の大地に咲く菖蒲の花を、池田先生が撮影(1990年7月、札幌・八紘学園「花菖蒲園」で)。「“仏法は勝負”である」――先生は、この2日前に出席した北海道総会で、妙法の勝負の世界に言及。「我が北海道こそ“幸福の王者”なり」と呼び掛けた
自ら友のもとへ

 「札幌・夏の陣」の一日は、早朝の御書講義から始まった。「経王殿御返事」「上野殿御返事」等々――毎朝の勤行が終わると、池田先生が講義を行った。
 「生死一大事血脈抄」の「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか」(御書1338ページ)の御文を引いて、こう語った。
 「大闘争を展開する、待ち合わせの場所と時間が、昭和三十年八月の札幌だったんです。皆さんは、それぞれが貧乏や病の宿命を断ち切り、妙法の偉大さを証明するために、この法戦に集ってこられた。その強い自覚をもつならば、力が出ないわけがありません」
 先生の講義によって、一人一人が、闘争の意義を心から納得し、意気軒高に対話に打って出ることができた。この“勝利のリズム”は、翌年の「大阪の戦い」の原型となった。
 先生が短期決戦で示したのは、リーダーが、率先垂範で友のもとへ動くことだった。1分1秒も無駄にはできない。人を待つのではなく、自ら打って出て、北の大地を駆け巡った。その姿が、同志を奮い立たせた。
 先生は、分かりやすい言葉で仏法の確信を語ってくれた。同志の対話が実らず、悔しさで身を震わせながら拠点に戻った時、先生が「お帰り」と温かく迎え入れてくれたこともあった。常に同志と同じ目線に立ち、励ましを送ってくれた。
 先生は、移動している時も題目を唱えた。先生を案内した幹部は、事故を心配しているのかと勘違いし、こう言った。
 「運転は確かですから大丈夫ですよ」
 先生は答えた。
 「私は、きょう会場に集まった人が皆、仏法に縁できるように祈っているのです」
 先生の一念は、短期決戦にあって、“いかに仏縁を拡大できるか”“皆が勝利と幸福をつかめるか”にあった。
 「一分一秒が惜しかった」「移動中も、“札幌の同志に勝利を!”と題目を唱え続けた。短期決戦は、一日たりとも空費できない。一日一日が珠玉の時間である。一日一日が渾身の勝負だ」

岩見沢・美唄総合ブロックの合同指導会に出席する池田先生。混迷の社会にあって、信心を貫くことの大切さなどを語った(1969年9月18日、北海道・岩見沢会館<当時>で)
岩見沢・美唄総合ブロックの合同指導会に出席する池田先生。混迷の社会にあって、信心を貫くことの大切さなどを語った(1969年9月18日、北海道・岩見沢会館<当時>で)
これからが肝心

 8月16日に火ぶたを切った「札幌・夏の陣」。一日一日と拡大の勢いを加速させ、20日には、目標としていた300世帯の弘教を達成した。一つの目標を完遂しても、札幌班の拡大の勢いは止まらなかった。
 8月21日早朝、緊急幹部会を開催。夏季折伏の活動も後半戦に入り、先生は、同志の労苦をねぎらいながら語った。
 「これからが肝心で、気を緩めることなく、全力を尽くして悔いのない闘争を展開し、有終の美を飾りたいものです。すべては、御本尊様がご存じです。皆さんが大功徳を受けることは間違いない」
 この時、誰よりも疲労を重ね、体調が悪い中で奮闘していたのは先生自身であった。食欲がなく、水やジュース、ミカンの缶詰を口にする日々だった。
 あるメンバーが、新来者を連れて会場に来たことがあった。先生は疲労のため休憩中だった。しかし、状況を聞いた先生は、さっそうと対話の場に入り、真心あふれる語らいの中、友人は入会を決意した。
 「『一人くらいは』という油断と慢心から、破綻が始まる。一人を大切にし、『もう一歩』と前進し続ける所は、団結もより強固になり、それまでの労苦と困難を、すべて勝利と福徳に変えていくことができる」
 8月24日夜、札幌班大会が行われ、388世帯の弘教が報告されると、歓声に包まれた。くしくも、この日は池田先生の入信記念日。戸田先生が出席した、この総会で札幌班は、晴れて地区に発展したのである。
 恩師の故郷・北海道で師弟勝利の金字塔を打ち立てた翌月、池田先生は、さらなる弟子の決意を記す。「(戸田先生に)生涯、お供することこそ、吾が本望。これで、今世の使命達せられん」(『若き日の日記』、1955年9月27日)。“生涯、師と共に戦い抜く”――師弟の広布旅は、連続闘争である。
 今夏、先生が「築こう難攻不落の三代城」との指針を北海道に贈ってから30年を刻む。三代城の地に、学会創立100周年に先駆ける、新たな師弟共戦の物語が始まる。


結成70周年記念青年部総会から 活動体験(要旨)

2021年07月22日 | 妙法

第4回本部幹部会 結成70周年記念青年部総会から 活動体験(要旨)2021年7月22日

北海道 大平久美子さん(十勝県女子部長)
職場で信頼広げ同僚が入会

 私は短期大学卒業後、国内の大手銀行に入りました。函館に配属され、希望に燃えて出発したものの、空回りし、ミスばかり。上司からも怒鳴られ続け、味方は誰もいませんでした。
 
 「もう辞めたい」と泣きながら題目を唱える日々。そんな時、池田先生のご指導が目に留まりました。「何ごとも、最初から完璧な人などいません。つまずいたら、『よし、頑張ろう』『さあ、これからだ』と立ちあがればいいのです」との言葉に、“諦めるのは早い。職場で、なくてはならない人に成長しよう”と奮起しました。
 
 次の日から、苦手な営業にも挑戦。一人、残業し、めげずに働く私の姿を見た上司は、次第に態度を和らげ、仕事を応援してくれるようになりました。
 
 職場の雰囲気も一変し、活気にあふれ、2012年5月には、若者向けカード商品の営業で店舗が日本一に。個人でも全国1位の成績を収めることができました。
 
 その実績が認められ、2カ月後に札幌へ異動。そこでも、日本一を取ることができました。28歳の時には、最年少の課長代理となり、営業インストラクターとして全道を飛び回りました。
 
 何よりうれしかったのは、育成を担当した後輩10人全員が優秀な成績を収め、表彰されたことです。思い出すと、今でも胸が熱くなります。
 
 これを機に、次は生まれ育ったふるさとに尽くしたいと思うようになり、転職を決意。3年前に円満退職し、現在は地元の役場で水道事業に携わっています。
 
 懸命に仕事に取り組む中、上司からは「あなたがうちの町で働いてくれてうれしい」と言っていただきました。
 
 さらに、仏法対話を続けてきた職場の同僚が「どんなに自分がつらい状況でも、他人の幸せを祈るなんてすごい」と学会員の生き方に感銘。2年前から勤行を実践し、日蓮大聖人御聖誕800年となる本年2月16日、入会することができました。
 
 十勝県女子部は今、本物の姉妹のように仲良く楽しく、勇気の拡大に挑んでいます。私も芦別市や深川市出身の友人をはじめ、多くの友に対話を広げてきました。
 
 “いかなる戦いにも連戦連勝し、三世に輝く幸福の連帯を築こう”との誓いに燃え、どこまでも朗らかに、そして熱く、広布の道を歩んでいきます。

大阪 北村幸大さん(福島区男子部長)
苦難越え新たに美容室開業

 私は大阪市西淀川区で生まれました。両親が区内で美容室を営んでいたこともあり、高校卒業後は働きながら学び、美容師免許を取得。しかし両親が離婚し、父が家を出ていきました。私は、残された母と妹を支えるため、24歳で美容室のオーナーになりました。
 
 慣れない経営に加え、新規顧客の開拓、格安サロンとの競争など、苦難の連続でした。男子部の先輩の励ましを胸に、懸命に仕事に励む中、徐々に売り上げが向上。5年前には、西淀川区内の好立地にリニューアルオープンすることができました。
 
 しかし昨年、大きな試練が。新型コロナウイルスの感染拡大により、仕事が激減したのです。4月の予約は、ほぼキャンセル。売り上げがゼロの日もありました。“こんな状況で、4人の子と妻を食べさせていけるのか”と、不安が募っていきました。
 
 私には、行き詰まった時に開くノートがあります。それは、「聖教新聞」や「大白蓮華」などに掲載された、池田先生の指導を書きとどめたものです。16年前から書きため、現在、17冊目になりました。
 
 ノートを読み返す中で「状況がどうあれ、怯まない。自ら決めた道を断じて進む。この強き一念の信心に立つとき、無限の智慧と勇気がわき、一切の勝利が切り開かれていく」との先生の言葉に出合いました。
 
 「負けたらあかん」と決意し、1日3時間の唱題に挑戦。手紙や電話、SNSを活用し、同志や友人たちへの励ましの対話を重ねました。
 
 その中、運送業を営む常連客の男性が、経済苦で悩んでいることを打ち明けてくれました。
 
 私は自らの体験を通し、「この信心で一緒に乗り越えましょう」と語り抜きました。その思いが通じ、昨年7月11日の男子部結成記念日に、個人10世帯目となる御本尊流布を実らせることができました。入会した彼は今、男子部大学校4期生として前進しています。
 
 対話拡大に励むと、不思議にも美容室の客足が伸びていきました。そして昨年、最終的には過去最高の売り上げを記録することができたのです。本年4月には、西淀川区内に新たな美容室も開業することができました。
 
 また福島区男子部長として、地道に激励に励む中、関西一となる“部3”の大学校生を輩出することができました。これからも新たな人材と共に、異体同心の団結固く、常勝の金字塔を築いてまいります。

広島 笹原義昭さん(安佐北区・男子部本部長)
障がい者に寄り添う相談員

 高校卒業後、私は壁材製造の会社に就職。20歳の時、作業現場で大事故に遭いました。100キロを超える鉄板が落下し、下敷きに。命は助かったものの、右脚骨折と裂傷の大けがを負い、入院しました。
 
 病室から男子部の先輩に「このまま、働き続けられるか不安です」とメールを送りました。すると先輩は毎日、見舞いに来てくれ、真心の激励を。その温かさに触れ、不安は和らいでいきました。
 
 その後、けがは順調に回復し、無事に退院。リハビリに耐え、足は元通りに動くようになりました。
 
 題目を重ねる中、先輩のように人に希望を与える仕事に就きたいと思うように。コミュニケーションは得意ではありませんでしたが、離職し、福祉の道を志して大学へ進学。猛勉強の末、社会福祉士と精神保健福祉士の資格を取得することができました。
 
 その後、地元の山口から広島に移り、2009年にNPO法人に就職し、障がいのある方やご家族を支える相談員になりました。相談内容は、健康面や仕事の悩みなど、さまざま。その人が生き生きと生活できるよう、一人一人の声に耳を傾けてきました。
 
 すぐに解決できることばかりではありません。そのたびに自分の力のなさを痛感。唱題しては、池田先生の指導を求めました。
 
 「仏法は三世を貫く究極の楽観主義だ。絶対に行き詰まらない」との言葉に励まされ、さらに力をつけようと決意しました。
 
 働きながら大学院に通い、修士号を取得することができました。そして現在は、相談支援センターのセンター長として奔走しています。
 
 広島市を襲った7年前の土砂災害では、自宅の被災は免れたものの、周囲には家を失った方もいました。自分に何ができるのか模索しながら、避難所を回り、支援し続けました。
 
 仕事は多忙を極めましたが、時間をこじあけ、学会活動にも挑戦。広島市内に住む青年に仏法対話し、弘教を実らせることができました。
 
 2年前の10月には、男子部本部長の任命を受けました。
 
 まずは部員一人一人とつながっていこうと、訪問・激励に全力。コロナ禍でも広布の歩みを止めないと、懸命に励ましを送る中、本年、前回の3倍となる男子部大学校生を誕生させることができました。
 
 安佐北区男子部は、どこまでも師弟共戦の心を燃やし、不屈の楽観主義で、いかなる波浪も乗り越えていきます。


小説「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈下

2021年07月21日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈下〉 御書編2021年7月21日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第30巻〈下〉の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の声を紹介する。挿絵は内田健一郎。

広布の苦難は永遠の福運に
【御文】

 大難なくば法華経の行者にはあらじ(御書1448ページ、椎地四郎殿御書)

【通解】

 大難がなければ、法華経の行者であるはずがない。

【小説の場面から】

 <1981年(昭和56年)11月13日、山本伸一は高知支部結成25周年記念勤行会に出席。席上、広宣流布の道に、大難が競い起こることを訴え、信心の姿勢を語った>
 
 「苦難の時にこそ、その人の信心の真髄がわかるものです。臆病の心をさらけ出し、逃げ去り、同志を裏切る人もいる。また、“今こそ、まことの時である”と心を定め、敢然と奮い立つ人もいる。
 
 その違いは、日ごろから、どれだけ信心を磨き、鍛えてきたかによって決まる。一朝一夕で強盛な信心が確立できるわけではありません。
 
 いわば、日々、学会活動に励み、持続していくのは、苦難の時に、勇敢に不動の信心を貫いていくためであるともいえる。
 
 私たちは凡夫であり、民衆の一人にすぎない。ゆえに、軽視され、迫害にさらされる。しかし、私たちが弘めているのは、妙法という尊極無上の大法であるがゆえに、必ずや広宣流布していくことができます。
 
 また、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』(御書856ページ)です。したがって、最高の大法を流布する“弘教の人”は、最極の人生を歩むことができる。
 
 広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」
 
 (「勝ち鬨」の章、86~87ページ)
 

国民のために国家がある!
【御文】

 王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず(御書287ページ、撰時抄

【通解】

 王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようであっても、心まで従えられているのではない。

【小説の場面から】

 この御文は、ユネスコが編纂した『語録 人間の権利』にも収録されている。
 
 つまり、“人間は、国家や社会体制に隷属した存在ではない。人間の精神を権力の鉄鎖につなぐことなどできない”との御言葉である。
 
 (中略)
 
 もちろん、国家の役割は大きい。国家への貢献も大切である。国の在り方のいかんが、国民の幸・不幸に、大きな影響を及ぼすからである。大事なことは、国家や一部の支配者のために国民がいるのではなく、国民のために国家があるということだ。
 
 日蓮大聖人がめざされたのは、苦悩にあえいできた民衆の幸せであった。そして、日本一国の広宣流布にとどまらず、「一閻浮提広宣流布」すなわち世界広布という、全人類の幸福と平和を目的とされた。この御精神に立ち返るならば、おのずから人類の共存共栄や、人類益の追求という思想が生まれる。
 
 世界が米ソによって二分され、東西両陣営の対立が激化していた一九五二年(昭和二十七年)二月、戸田城聖が放った「地球民族主義」の叫びも、仏法思想の発露である。
 
 仏法を実践する創価の同志には、誰の生命も尊く、平等であり、皆が幸せになる権利があるとの生き方の哲学がある。友の不幸を見れば同苦し、幸せになってほしいと願い、励ます、慈悲の行動がある。この考え方、生き方への共感の広がりこそが、世界を結ぶ、確たる草の根の平和運動となる。
 
 (「誓願」の章、241~242ページ)
 

ここにフォーカス 人類の将来への確かな希望

 創価学会は1981年(昭和56年)、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と国連広報局のNGO(非政府組織)として登録されました。これまで、国連と協力して「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを世界各地で開催してきました。
 
 「勝ち鬨」の章に、「世界の平和を実現していくには、国連が力をもち、国連を中心に各国が平等の立場で話し合いを重ね、進んでいかなければならない」との池田先生の一貫した国連への思いが記されています。
 
 複雑な利害が絡む国際社会にあって、国連の無力論が叫ばれたこともありました。しかし、貧困や紛争など、地球的な諸問題を恒常的に話し合える場が国連にほかなりません。だからこそ、池田先生は、国連を「人類の議会」と位置付け、“国連中心主義”を繰り返し訴えてきたのです。
 
 国際社会では近年、自然災害への対応や難民問題などにおいて、「信仰を基盤とした団体(FBO)」の人道支援での貢献に大きな期待が寄せられています。
 
 国連のチョウドリ元事務次長は、「SGIの皆さんが着実な草の根運動を通して『平和の文化』の建設に立ち上がり、積極的にその輪を広げていく姿に、人類の将来への確かな希望を見出しました」と述べています。地球を包むSGIのネットワークが持つ使命は、限りなく大きいのです。