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第7回「札幌・夏の陣」

2021年07月23日 | 妙法

第7回「札幌・夏の陣」 「もう一歩」との前進が勝利を呼ぶ2021年7月23日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【短期決戦の要諦】
一、団結
一、スタートダッシュ
一、中心者の鋭き一念
(「随筆 勝利の光」<「札幌・夏の陣」から50年>)
「札幌・夏の陣」35周年を刻む1990年の7月、池田先生は、9日間の北海道指導へ。札幌の北海道文化会館を訪問し、共戦の同志に励ましを送った
「札幌・夏の陣」35周年を刻む1990年の7月、池田先生は、9日間の北海道指導へ。札幌の北海道文化会館を訪問し、共戦の同志に励ましを送った
万端の事前準備

 1955年(昭和30年)8月16日、北海道の札幌駅。青年室長の池田大作先生を中心とする、派遣隊一行が列車で到着した。
 “戦いは勝ったよ!”
 出迎えた同志に対し、先生は高らかに宣言した。
 この夏、全国45カ所で折伏活動が展開された。先生は札幌の派遣隊の主将として指揮を執り、札幌班は、8月16日からの約10日間で、388世帯という“日本一の弘教”を達成。燦然と輝く「札幌・夏の陣」の広布のドラマが刻まれたのである。
 この闘争の勝利の要諦は、そのまま“短期決戦”の指針となっている。
 その一つが、万端の事前準備である。6月末、札幌市担当の責任者として、先生の派遣が決定。先生は、札幌班の班長に手紙を送った。
 「札幌は、全国に先駆け、三百世帯以上の本尊流布を」(7月9日)
 「全員が、何十倍の下種を為して居く必要があると思います」(8月3日)
 手紙の内容は、同志への温かい励ましと共に、目標の共有や、どうすれば目標を達成できるかとの具体的な方法、全体のスケジュールに及んだ。
 札幌班では先生からの手紙を回覧し、着々と手を打っていった。札幌市を東・西・南・北・中央と五つの区域に分けて、幹部の担当を明確にした。詳細な日程表も作られた。
 8月16日、先生に同行した派遣メンバーは、拠点となる会場に着いて目を丸くした。弘教の推進状況を分かりやすく書き込める棒グラフまで、きちんと用意されていたからである。先生の札幌駅での勝利宣言は、単なる“願望”や“決意”ではなかった。誰よりも心を砕いた準備によって、すでに勝っていたのである。
 御聖訓には、「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり」(御書183ページ)とある。この御文を拝して、先生は強調した。「戦いを決するのは全軍の勢いである。それには、戦闘開始と同時に全力疾走できるだけの、万端の事前の準備、緻密な作戦が絶対に不可欠だ」

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)9月25日から】
泥沼に咲く、
蓮華の花とは、
吾々のことである。
雄大な北の大地に咲く菖蒲の花を、池田先生が撮影(1990年7月、札幌・八紘学園「花菖蒲園」で)。「“仏法は勝負”である」――先生は、この2日前に出席した北海道総会で、妙法の勝負の世界に言及。「我が北海道こそ“幸福の王者”なり」と呼び掛けた
雄大な北の大地に咲く菖蒲の花を、池田先生が撮影(1990年7月、札幌・八紘学園「花菖蒲園」で)。「“仏法は勝負”である」――先生は、この2日前に出席した北海道総会で、妙法の勝負の世界に言及。「我が北海道こそ“幸福の王者”なり」と呼び掛けた
自ら友のもとへ

 「札幌・夏の陣」の一日は、早朝の御書講義から始まった。「経王殿御返事」「上野殿御返事」等々――毎朝の勤行が終わると、池田先生が講義を行った。
 「生死一大事血脈抄」の「過去の宿縁追い来って今度日蓮が弟子と成り給うか」(御書1338ページ)の御文を引いて、こう語った。
 「大闘争を展開する、待ち合わせの場所と時間が、昭和三十年八月の札幌だったんです。皆さんは、それぞれが貧乏や病の宿命を断ち切り、妙法の偉大さを証明するために、この法戦に集ってこられた。その強い自覚をもつならば、力が出ないわけがありません」
 先生の講義によって、一人一人が、闘争の意義を心から納得し、意気軒高に対話に打って出ることができた。この“勝利のリズム”は、翌年の「大阪の戦い」の原型となった。
 先生が短期決戦で示したのは、リーダーが、率先垂範で友のもとへ動くことだった。1分1秒も無駄にはできない。人を待つのではなく、自ら打って出て、北の大地を駆け巡った。その姿が、同志を奮い立たせた。
 先生は、分かりやすい言葉で仏法の確信を語ってくれた。同志の対話が実らず、悔しさで身を震わせながら拠点に戻った時、先生が「お帰り」と温かく迎え入れてくれたこともあった。常に同志と同じ目線に立ち、励ましを送ってくれた。
 先生は、移動している時も題目を唱えた。先生を案内した幹部は、事故を心配しているのかと勘違いし、こう言った。
 「運転は確かですから大丈夫ですよ」
 先生は答えた。
 「私は、きょう会場に集まった人が皆、仏法に縁できるように祈っているのです」
 先生の一念は、短期決戦にあって、“いかに仏縁を拡大できるか”“皆が勝利と幸福をつかめるか”にあった。
 「一分一秒が惜しかった」「移動中も、“札幌の同志に勝利を!”と題目を唱え続けた。短期決戦は、一日たりとも空費できない。一日一日が珠玉の時間である。一日一日が渾身の勝負だ」

岩見沢・美唄総合ブロックの合同指導会に出席する池田先生。混迷の社会にあって、信心を貫くことの大切さなどを語った(1969年9月18日、北海道・岩見沢会館<当時>で)
岩見沢・美唄総合ブロックの合同指導会に出席する池田先生。混迷の社会にあって、信心を貫くことの大切さなどを語った(1969年9月18日、北海道・岩見沢会館<当時>で)
これからが肝心

 8月16日に火ぶたを切った「札幌・夏の陣」。一日一日と拡大の勢いを加速させ、20日には、目標としていた300世帯の弘教を達成した。一つの目標を完遂しても、札幌班の拡大の勢いは止まらなかった。
 8月21日早朝、緊急幹部会を開催。夏季折伏の活動も後半戦に入り、先生は、同志の労苦をねぎらいながら語った。
 「これからが肝心で、気を緩めることなく、全力を尽くして悔いのない闘争を展開し、有終の美を飾りたいものです。すべては、御本尊様がご存じです。皆さんが大功徳を受けることは間違いない」
 この時、誰よりも疲労を重ね、体調が悪い中で奮闘していたのは先生自身であった。食欲がなく、水やジュース、ミカンの缶詰を口にする日々だった。
 あるメンバーが、新来者を連れて会場に来たことがあった。先生は疲労のため休憩中だった。しかし、状況を聞いた先生は、さっそうと対話の場に入り、真心あふれる語らいの中、友人は入会を決意した。
 「『一人くらいは』という油断と慢心から、破綻が始まる。一人を大切にし、『もう一歩』と前進し続ける所は、団結もより強固になり、それまでの労苦と困難を、すべて勝利と福徳に変えていくことができる」
 8月24日夜、札幌班大会が行われ、388世帯の弘教が報告されると、歓声に包まれた。くしくも、この日は池田先生の入信記念日。戸田先生が出席した、この総会で札幌班は、晴れて地区に発展したのである。
 恩師の故郷・北海道で師弟勝利の金字塔を打ち立てた翌月、池田先生は、さらなる弟子の決意を記す。「(戸田先生に)生涯、お供することこそ、吾が本望。これで、今世の使命達せられん」(『若き日の日記』、1955年9月27日)。“生涯、師と共に戦い抜く”――師弟の広布旅は、連続闘争である。
 今夏、先生が「築こう難攻不落の三代城」との指針を北海道に贈ってから30年を刻む。三代城の地に、学会創立100周年に先駆ける、新たな師弟共戦の物語が始まる。

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