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託された「命のバトン」

2021年07月26日 | 妙法

〈危機の時代を生きる――創価学会ドクター部編〉第4回 託された「命のバトン」2021年7月21日

  • 訪問診療医 松﨑泰憲さん

 お盆を迎える7月、8月は、多くの友が故人を思い、追善の祈りを捧げる時期であろう。「危機の時代を生きる――創価学会ドクター部編」の第4回のテーマは「託された『命のバトン』」。約40年にわたって1000人以上の臨終に立ち会ってきた、訪問診療医の松﨑泰憲さんの寄稿を紹介する。

故人に追善の祈りを捧げる時期 人生を考えるきっかけに

 「“生まれた者は必ず死ぬ”という道理を、王から民まで、だれ一人知らない者はない。しかし実際に、このことを重大事と受け止め、このことを嘆く人間は、千万人に一人もいない」(御書474ページ、通解)――この日蓮大聖人の御教示は、「死を忘れた文明」といわれる現代において、ますます重みを増していると思います。
 
 新型コロナウイルス感染症の拡大によって、誰もがいや応なく「死」を身近な問題として直視せざるを得なくなりました。ワクチン接種が始まり、先の見えなかったパンデミック(世界的大流行)の収束に光が差してきたのは喜ばしいことですが、それで今回の経験を忘れてしまっては、元も子もありません。
 
 そもそも、死は誰人も逃れられないものであり、いつかは全員が向き合わなければならない人生の根本問題です。
 
 だからこそ、故人の冥福を祈るこの時期をきっかけとして、一人一人が「死」とどう向き合い、どのような人生を歩むべきかを考えていただきたいと思うのです。

故人をしのび、自身の成長と広布の前進を誓う墓参者(2020年8月、富士桜自然墓地公園で)
故人をしのび、自身の成長と広布の前進を誓う墓参者(2020年8月、富士桜自然墓地公園で)

 私はこれまで、「命を守る」外科医、また「命を見送る」在宅医として、「死」の現場に立ち会ってきました。
 
 その中で感じることは、多くの人が、死を忌むべきものとして扱い、考えないようにしているという現実です。
 
 いざ死と向き合わなければならなくなった時に、死を直視できない方、あるいは、うろたえたり、人任せにしてしまったりする方など、さまざまな最期を見てきました。中には、臨終の場で“祖父母の死の姿を見せると子どものトラウマになってしまうから”と、両親が子どもたちを立ち会わせない判断をした場面さえ目にしたこともあります。
 
 昔は、自宅で看取ることが当たり前でした。
 
 旅立つ人にとっては、次第に体の自由がきかなくなり、食べ物が喉を通らなくなり、体もやせ細っていきます。その中で、共に暮らしてきた家族に、自らが生きてきた証しを残すように言葉を掛け、最期は自宅で死を迎えます。
 
 一方、残される家族にとっては、日々衰えゆく姿と向き合いながら、徐々に気持ちを整理していきます。そして最期は手を握り、声を掛け、やがて別れの時を迎えるのです。
 
 その過程は、とてもつらいものですが、死と向き合うための大切なプロセスです。

コロナ対策に当たる医療の最前線。感染を広げないために面会や付き添いには制限がある ©BNBB Studio/Moment/Getty Images
コロナ対策に当たる医療の最前線。感染を広げないために面会や付き添いには制限がある ©BNBB Studio/Moment/Getty Images

 ところが現代は、死の多くが病院内における出来事となり、人々が死を身近なものとして捉えることが少なくなってしまいました。
 
 現代は、そうしたことを踏まえ、在宅医療が進んでいるものの、自宅で亡くなる方は、まだ13・6%にすぎません。
 
 加えて、コロナ禍が、死の実感を失わせている現実もあります。病院や介護施設では、感染対策のため、家族が思うように面会や付き添いがかなわずに亡くなる場面も少なくないからです。
 
 別れの時を共に過ごせないことは、旅立つ側と残された側の両方に大きな悲しみと喪失感をもたらします。面会の方針も施設によって異なるので、最期が近づいてきた時は「立ち会いは、どこまでできるのか」「どうしても会わせておきたい人がいる場合は、どうしたらよいか」など、積極的に相談やお願いをすることが必要だと思います。

なぜ人は死ぬのか

 人間の死は、臨床的に、呼吸停止、心臓停止、脳機能停止(瞳孔散大と対光反射の消失)の三徴候を判定基準としていますが、そもそも私たちは、なぜ死ななければならないのでしょうか。
 
 私たちの身体は、37兆2000億個ともいわれる細胞で構成されていますが、その一つ一つの細胞に「死」の仕組みが備わっているからです。
 
 実は、このプログラムがないと、私たちは生き永らえることができません。
 
 細胞は、さまざまなストレスにさらされ、傷つくことがあります。それを放置してしまえば、ウイルスや細菌などの外敵がそこから侵入し、身体全体に悪影響を及ぼしてしまうので、傷ついた細胞は死んで、新たに生まれた細胞と入れ替わっています。
 
 事実、こうした働きによって、胃腸の内壁細胞は数日、白血球は約3日、皮膚は約28日、赤血球は約120日というサイクルで、細胞が生死を繰り返しながら、私たちの身体は維持されています。
 
 ただ、それにも限界があります。細胞は分裂を繰り返すほど、遺伝子のコピーミスが起こり、がん細胞が生まれてしまうリスクが高まるからです。がん細胞も結果として私たちの身体の調和を壊してしまうことから、そうした細胞になってしまう前に、一つ一つの細胞には、アポトーシスといって、周囲を守るために自ら死を選ぶプログラムがあることが知られています。
 
 細胞レベルで死を免れることができない以上、その細胞で構成される私たちも、死から逃れることはできません。しかし、そうした細胞の“利他的な働き”があるからこそ、私たちの身体の「生」は守られているのです。

命懸けで種を残す

 それは細胞レベルだけでなく、自然界にも見られます。
 
 ほとんどの生物にとっては、生きている以上、死は定められたものです。しかし、その限られた「生」の中で、生物たちは、自分たちの種を残していくために、それこそ命懸けで子孫を守ろうと戦っています。
 
 例えば、サケは産卵後に死に、その体をプランクトンに食べさせて、結果として稚魚の餌にさせます。また卵を産んだら自らの内臓を出し、子どもに食べさせるクモがいることも知られています。これらは過酷な生存競争に勝ち残っていくためですが、このように自らの命をも捧げるという利他的な行動で新しい生を残していく種も存在します。

命懸けで産卵に挑むサケ ©Thomas Kline/Design Pics/Getty Images
命懸けで産卵に挑むサケ ©Thomas Kline/Design Pics/Getty Images

 一方、人間はこのような死を選択しませんが、種を守る、子孫を守るという利他的な行動があったから、ここまで生き残ることができました。
 
 そもそも人間は、子どもを未熟な状態で産み、社会の中で育てますが、そこに利他の心がなければ、新しい命を守っていくことはできません。
 
 また、狩猟生活を中心としていた縄文時代以前の日本人の平均寿命は、13~15歳だったと考えられています。その後、稲作などによる共同作業によって栄養バランスが向上したことなどが寿命を延ばす力となりましたが、そこに互いを守り、支え合う心がなければ、今日のような結果にはなりませんでした。
 
 やはり、人間においても、祖先たちの心の根底に、利他の精神が脈打っていたからこそ、私たち人類の「生」は支えられてきたのです。

利他の心を次の世代へ!

 私はこれまで約40年にわたり、私の両親を含めて1000人以上の臨終に立ち会ってきましたが、その中で、ある意味での法則のようなものを感じています。それは、ベッドの上で亡くなられる方のほとんどが、「生きたように死ぬ」ということです。
 
 最期まで「生」を全うされた方は、本当に晴れやかなお顔で旅立たれます。
 
 いつも笑顔を絶やさない方は、ほぼそのままのお顔で亡くなられます。
 
 そして、亡くなられたのに、まるで生きているように感じさせる方々には、共通点があります。それは生前、自分のことより他人の幸せを優先して考え、常に周囲に対して感謝の心で接しておられた方々であるという点です。
 
 まさに、生命が本然的に持つ利他の生き方を貫いてきた結果であると、私には思えてなりません。
 
 もちろん、人によって状況も違うので、大切な人、身近な人の臨終に立ち会えないこともあるでしょう。しかし、私たちは、こうした亡くなられた方々の生きてきた姿、そして死んでいく姿を通し、自らの生きるべき道を確かめ、死と向き合う力を得ていくのだと思います。
 
 とは言っても、悲哀や切なさといった感情を持つ私たちには、周囲の死を容易に受け入れられるものではありません。しかし、私たちが決して忘れてはならないのは、そうした方々が命懸けで受け継いできた「命のバトン」があったから、今の自分たちがいるという事実です。
 
 そしてまた、その「命のバトン」とは「利他のバトン」であるということです。
 
 だからこそ、残された人たちが、亡くなった方々の分まで、周囲のために尽くし、そのバトンを、さらに次の世代に託していこうとする心が重要だと考えます。

各地で進む在宅医療。住み慣れた環境で治療を受けることができ、その人らしい普段の生活を送ることができる ©Kayoko Hayashi/E+/Getty Images
各地で進む在宅医療。住み慣れた環境で治療を受けることができ、その人らしい普段の生活を送ることができる ©Kayoko Hayashi/E+/Getty Images
永遠に生死を繰り返す生命

 そうした生き方を貫いていくためにも、哲学や宗教が不可欠です。
 
 一般的に、多くの人は、「死」に対して、次の二つの考えを持っています。
 
 一つ目は、死ねば心身ともに一切が滅びるという考え。つまり、生命を「現在世だけのもの」とする考えです。
 
 二つ目は、死んでも肉体とは別の霊魂のようなもので、それが続くという考えです。
 
 しかし、一つ目の考えでは死への恐れを助長するだけで、「今さえよければいい」という刹那的な生き方や「どうなってもいい」という自暴自棄の生き方につながっていく可能性があります。
 
 そして二つ目も、死を受け入れることはできず、かえって今の自分への執着を増し、迷いを深めるだけに終わってしまう恐れがあります。
 
 一方、仏法では、「三世の生命」「三世の因果」を説いています。
 
 生命の因果は現在世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるもので、過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、現在世の行為が因となって未来世の結果をもたらすという思想です。すなわち、生と死は断絶したものではなく、永遠に生と死を繰り返していくという生命観です。
 
 この思想は、旅立つ側、見送る側の双方に力を与えるものだと痛感します。
 
 旅立つ側にとってみれば、現在世の終わり方が未来世の始まりを決めるという意味で、最期まで「生」を全うすることができます。
 
 見送る側にとってみれば、亡くなられた人の「死」は敗北でも悲劇でもなく、次なる「生」への瑞々しい出発であると思うことができます。
 
 まさに仏法は、「生」を最も価値的にする道を指し示すと同時に、「死」の苦しみを乗り越えるためのよりどころとなる希望の哲理ではないでしょうか。
 
 もちろん、この世に生きている人にとって、死は誰も経験したことがありません。しかし、信心を貫いた結果として、ほほ笑んでいるような安祥とした学会員の相を見るたびに、この哲理が単なる観念でなく、現実の上で証明されていることを深く確信せずにはいられないのです。

「臨終只今にあり」

 人は「死」と向き合うことで、自らの命の有限性に気付かされます。しかし、その限りある人生を意識するからこそ、「今」を大切にすることができます。
 
 大聖人は「臨終只今にあり」(御書1337ページ)と仰せです。「今、臨終を迎えても悔いがない」との覚悟で、現実の一日一日、一瞬一瞬に生命を燃焼させていくことが重要だと教えられています。
 
 大聖人は、この仰せの通り、最期まで立正安国の実現のために生き抜かれました。
 
 そして今、全国・全世界の学会員も、多くの方々の死を真正面から受け止め、あの人の分まで、この友の分までと、そうした方々が抱いてきた平和の夢をわが夢とし、力の限りに自他共の幸福のために尽くし抜いています。
 
 こうした学会員の生き方こそ、脈々と受け継がれてきた「命のバトン」「利他のバトン」を永遠ならしめる力となり、ひいては社会に「死」を正しく位置付け、一人一人の「生」をさらに輝かせる力になっていくと確信します。

〈プロフィル〉

 まつざき・やすのり 1955年生まれ。医学博士。胸部外科医。在宅医。宮崎大学医学部外科学の准教授等を歴任。ケアマネジャーの資格を取得し、現在、宮崎市内のクリニックで在宅医療にも取り組む。創価学会宮崎総県ドクター部書記長。本部長。

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師弟が紡ぐ広布史〉第10回 「一瞬」に「永遠」を込めて

2021年07月26日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第10回 「一瞬」に「永遠」を込めて 記念撮影編㊤2021年7月26日

わが友に喜んでもらいたい
宗門の悪僧らが広布破壊の画策を巡らせた1979年(昭和54年)8月、池田先生は長野研修道場を初訪問。26日、駆け付けた約3000人のメンバーとの記念撮影が行われた。謀略の嵐にも、師弟の絆はいささかも揺らぐことはなかった
宗門の悪僧らが広布破壊の画策を巡らせた1979年(昭和54年)8月、池田先生は長野研修道場を初訪問。26日、駆け付けた約3000人のメンバーとの記念撮影が行われた。謀略の嵐にも、師弟の絆はいささかも揺らぐことはなかった

 その日、池田大作先生の手は赤く腫れ上がった。1965年(昭和40年)3月22日、宮城・仙台市で東北第1本部の地区部長会が終わった後のこと。先生は約600人の参加者全員と握手した。
 「勝利の年」と名付けられたこの年、先生は聖教新聞で小説『人間革命』の連載を開始。年頭から九州、関西、中国、中部と全国を駆け巡った。
 行く先々で出会った友に声を掛け、握手も交わす。激励に次ぐ激励は、広布の伸展を加速させていった。
 握手の時、喜びいっぱいに、師の手を力強く握り締める友もいた。東北の地区部長会でも、600人の誓いを込めた握手が、次々と交わされた。
 先生の手に痛みが走った。万年筆を握ることすらできなくなった。8日後の30日には、長野本部の地区部長会が予定されていた。
 生涯の原点となる出会いをつくってあげたい――その一心で握手に代わる激励として考えられたのが、記念撮影だった。
  
 65年3月30日、先生は長野会館(当時)の庭にヒマラヤ杉を記念植樹。地区部長会では、勤行と折伏をたゆまず、繰り返し実践していくところに信仰の本義があると強調し、どこまでも「持続の信心」で進んでいくことを訴えた。
 その後、先生は休む間もなく撮影会に臨んだ。参加した婦人は、「先生と一緒に撮影した写真は、かけがえのない“宝の一枚”です」と語る。
 撮影会から2年が過ぎた67年(同42年)1月、婦人は松代支部の支部婦人部長に。当時、松代地域は群発地震が続き、多くの人が不安を抱えて、生活していた。“今こそ、地域に希望を広げよう”と、支部の同志と共に対話に歩いた。翌2月、松代支部は全国をリードする弘教を成し遂げた。
 82年(同57年)、夫が勤めていた印刷会社が倒産。経済苦の中、池田先生との懇談会があった。先生は、じっと婦人の目を見つめ、語った。
 「決して退いてはいけない」
 たった一言だった。しかし、その一言が婦人から弱気をたたき出した。“悩みがあるから、信心で立ち上がり、前に進む。それが弟子だ”と心を一変させた。その後、夫は新しい仕事に就くことができた。
 翌83年(同58年)、長野県婦人部長に。正役職を離れた後は、長野市女性団体連絡会の会長を務めるなど、地域活動に率先してきた。
 現在、夫と共に長野市の俳句連盟に所属し、地域に対話の花を咲かせる。その心には、励ましを送り続けてくれた師への感謝があふれている。
  
 撮影会の後、先生は別室に移ると、色紙に揮毫し始めた。友が家路に就いてからも、励ましの“戦い”は、寸暇を惜しんで続けられた。

1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で開催された記念撮影会。この時、撮影した高等部のメンバーを、池田先生は「広島高等部グループ」とすることを提案した。同グループの友は互いに触発し合いながら、成長の足跡を刻んできた
1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で開催された記念撮影会。この時、撮影した高等部のメンバーを、池田先生は「広島高等部グループ」とすることを提案した。同グループの友は互いに触発し合いながら、成長の足跡を刻んできた

 前夜から降り続いた雨はやみ、早春の爽やかな風がそよいでいた。1969年(昭和44年)3月9日、広島市内で池田先生と約5700人の友との記念撮影会が行われた。
 3台の撮影台が準備され、14グループに分かれて、撮影が進められた。壮年部、婦人部、女子部と続き、316人の男女高等部の撮影の後、先生は後継の友に万感の思いを語り始めた。
 「私は君たちの成長を待っている。諸君たちは、実質的な学会の跡継ぎだ」
 「一人も残らず、石にかじりついても勉強し抜いてほしい。この中から、やがて大政治家も、大学者も、大科学者も出てほしい」
 撮影会に参加した一人の男子メンバーは、専門学校を卒業後、電気関係の仕事に従事した。38歳で独立。設備関連の会社を立ち上げた。
 売り上げは日ごとに伸びた。事務所を構え、従業員を雇うまでに。だが、“増上慢の命”が顔をのぞかせた。次第に、学会活動から遠ざかる。
 ある日、保証人になっていた知人が行方をくらます。投資話の詐欺被害にも遭った。莫大な負債を抱え、瞬く間にどん底に落ちた。
 会社は倒産。生きる気力すら失いかけた。その時、先輩が一緒に祈ってくれた。撮影の原点を思い返し、宿命転換を懸けて対話に挑んだ。
 当時、壮年は地区部長だった。地区では20世帯の弘教が実った。壮年自身も友人を入会に導いた。その後、新たな設備関連の会社を立ち上げる。誠実な仕事ぶりが評判を呼び、窮地を脱することができた。
 壮年は今、安佐北区可部の地域で活動に励む。「可部から『壁』を破る戦いを」と友好拡大に走っている。
  
 撮影会の時、会場の外に鼓笛隊が集っていた。撮影の予定はなかったが、先生は「鼓笛隊の皆さんとも撮影しよう」と。メンバーから歓声が上がる。
 婦人は「高等部員」「鼓笛隊員」として、1日に2回、師とカメラに納まった。その喜びは今も胸に鮮やかだ。
 後年、先生と岡山文化会館で懇談する機会に恵まれた。婦人は「広島で撮影をしてくださった高等部のメンバーは皆、頑張っています」と報告した。
 ところが、先生は強い語調で、「あなたが頑張ればいいんだよ」と。他の誰かではなく、自分がどうか――厳しい響きに、婦人は「一人立つ信心」の大切さを心の奥深くに刻んだ。
 2012年(平成24年)、広島市は被爆体験の“伝承者”養成の取り組みを開始した。被爆2世の婦人は、母の被爆体験を伝えようと決めた。
 3年の研修課程を修了し、伝承者の1期生に。国内だけではなく、海外でも核兵器の“悪魔性”を訴えてきた。
 忘れられないのは、オランダでのこと。講演終了後、核兵器の存在を容認してきたオランダの与党議員が婦人のもとに歩み寄り、「私は核兵器禁止条約の成立に力を尽くします」と決意を述べてくれた。
 実際、2016年に「核兵器禁止条約」制定への交渉開始を求める決議の採択を巡り、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国が軒並み決議案に反対を示す中、オランダだけが唯一、反対を回避して棄権に回った。
 「被爆体験を草の根で語っていくことが大きな力になる――そのことを確信する出来事でした」
 今年2月にはインドのデリー大学、4月にはオランダのライデン大学で、それぞれオンラインの講演を。撮影会で師が寄せた期待を胸に、婦人は平和のために戦う“ヒロシマの心”を語り続ける。
 撮影会には、入会半年の男子高等部員もいた。「大学者」との師の言葉に、彼は“博士になろう”と決意。大学卒業後、会社で研究を続けながら、工学博士の学位を取得した。

東京のトップを切って行われた板橋の記念撮影会(1971年10月17日、板橋区内で)。池田先生は長編詩で板橋への思いを詠んでいる。「真実の板橋! それは金の橋である。 それは 心が金であるからだ。 板橋! 金橋! 我らの橋は 金の橋だ!」
東京のトップを切って行われた板橋の記念撮影会(1971年10月17日、板橋区内で)。池田先生は長編詩で板橋への思いを詠んでいる。「真実の板橋! それは金の橋である。 それは 心が金であるからだ。 板橋! 金橋! 我らの橋は 金の橋だ!」

 造花で彩られた会場の設営に、「歓喜」の文字が大きく掲げられた。その二字が象徴するように、東京・板橋の友の喜びがはじけた。
 1971年(昭和46年)10月17日。この日、池田先生と板橋の友との記念撮影会が開催された。「板橋の日」の淵源である。
 前年、言論・出版問題が起こった。広布の未来を展望する上で、本陣・東京の強化が急務だった。先生は東京各区の友との記念撮影を開始した。その1番手が板橋であった。
 場内の垂れ幕には、「板橋は仲良く地域社会を開発してまいります」。学会は翌72年(同47年)の年間テーマを「地域の年」と掲げていた。
 撮影は約4000人の同志が、17のグループに分かれて行われた。その合間に、先生は励ましを送った。
 壮年・婦人には、「不動の幸福境涯を築いていく根源の法が信仰であり、皆さん方一人一人が功徳に満ちあふれ、子孫末代まで栄え、幸福であることが最大の喜びである」と。
 青年部には、「現在はどのような境遇であっても、10年、20年と純粋な信仰を全うしていくならば、想像を絶する栄光の人生を切り開いていけることは間違いない」と強調した。
 撮影会では、鼓笛隊の演奏や少年部員のリズム体操、中・高等部の創作舞踊“義経”が披露され、最後に婦人部が「板橋音頭」を踊った。
 “池田先生に喜んでいただける最高の踊りをしよう”との思いで撮影会に臨んだ婦人。1歳の長女を抱えながら練習に駆け付けた。練習を終え、自宅に戻ると御本尊の前に座った。
 長女にはぜんそくがあった。撮影会を終えた頃から快方に向かい始めた。“師匠を心のど真ん中に置いて、信心の戦いに徹する時、必ず変毒為薬することができる”との確信になった。
 以来、婦人はどんな時も、胸中に師を抱いて進んだ。長年にわたり地域行事に関わるなど、地域貢献にも力を注いできた。
 2019年(令和元年)、夫が亡くなった。婦人は「夫の分まで広布に尽くし、師恩に報いてまいります」と。3人の娘も信心を継承している。
  
 壮年は場外で整理・誘導の役員に就いた。師の指導を聞くこともできなかった。だが、板橋の原点となる歴史的な行事で、“陰の戦い”ができることを誇りに感じ、任務に徹した。
 中学を卒業してから働き始めた。17歳の時に参加した座談会で、「人間革命」という言葉を耳にした。“信仰で自分が変われるなら”と入会を決めた。
 先輩から「信心は“片足を突っ込む”ような中途半端ではいけない」と学んだ。撮影会は、信心根本の人生を歩む誓いを深くする原点となった。
 先生は撮影会で、「名実共に『地域の年』の第一歩となるにふさわしい歴史的な行事であり、まさに全東京の模範となる記念撮影であった」と。
 1972年、壮年は町会に入り、防犯・防火活動に尽力。地域に根を張り、地道に信頼を広げた。
 その年の年末、壮年のもとに池田先生から一冊の書籍が届いた。「来る日も 来る年も 共に 智道の道 開道の舞を 逞しく南無し歩もう」と揮毫されていた。
 “来る日、来る年、師と共に進もう”と決めた。その誓いのまま、壮年は板橋広布の最前線を駆けている。
 ――撮影会の折、先生は“きょう、板橋に来させてもらって分かったことがあります”と語り、こう続けた。「板橋は東京で一番いい街であります」
 今年は「板橋の日」50周年。栄光の佳節を荘厳する、東京の模範・板橋の新たな勝利の幕が開く。
  
 1回の記念撮影会で、池田先生は何回もフラッシュを浴び、目を痛めることもあった。撮影会に臨む思いを、先生はこう記している。
 「わが友が少しでも喜んでくれれば、なんでもするのが私の使命である」