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フランス語版「御書」

2021年05月08日 | 妙法

〈日蓮大聖人御聖誕800年 記念インタビュー〉 フランス語版「御書」総合監修者 デニス・ジラ博士 民衆のために戦う大願と勇気 大聖人の心は御書と共に永遠2021年5月8日

 
 

 本年は、日蓮大聖人の御聖誕から数えで800年。日蓮仏法の現代的意義などを巡って、フランスの著名な神学者、仏教の専門家であり、フランス語版「御書」の総合監修を務めたデニス・ジラ博士(パリ・カトリック大学「宗教科学神学研究所」元副所長)に、昨年12月に続いて聞いた。(聞き手=萩本秀樹)

 ――日蓮大聖人が御書を御執筆された時代背景や意義について、どのような印象をお持ちですか。
  
 日蓮が生まれた末法の時代は、あらゆる恐怖がはびこる悪世でした。日蓮出生のその年にも地震が鎌倉を襲うなど、彼の生涯は大地震、大火、疫病、非時風雨(注=季節外れの風雨)、飢渇等、あらゆる災害の連続でした。
 こうした異変に加えて、国の舵取りを担うはずの政治が混乱し(自界叛逆)、国を滅ぼす脅威として、蒙古が襲来しました(他国侵逼)。
 日蓮は、こうした末法の時代に生きていることを深く自覚し、民衆を絶望の淵に沈める世の争乱に心を痛めました。当時の人々は、神仏にすがるほかなく、加持祈禱などで仏法に望みを託したにもかかわらず、その効果を感じられずにいたのです。恐怖によって人生を諦め、仏の真実の教えである法華経を信じることができないほどに、無明に覆われていました。
 このような時代にあって日蓮は、民衆の心に巣くう「恐れ」「諦め」と戦ったのだと考えます。御書を通して、「恐れるな!」とのメッセージを伝えようとしたのではないでしょうか。それは「師子王の心」であるともいえます。
 日蓮は、法華経を持ちさえすれば、何も恐れることはないのだと覚りました。そして、正法を退け、「法華経の行者」を誹謗する高僧や為政者たちとは、一歩も引かずに戦ったのです。

熱烈たる気迫

 ――フランス語版「御書」の総合監修などを通して、印象に残った大聖人の思想や人柄について教えてください。
  
 まず感銘を受けたのは、日蓮の述作の圧倒的な「多彩さ」です。膨大な経典や釈などを縦横無尽に駆使しながら、自身の思想の「一貫性」を、峻厳かつ厳密に展開していることに驚きました。
 また、カトリック教徒の言葉でいう「司牧的」にも通じますが、相手との社会的な立場の違いを超越して、一人一人に寄り添う、友愛に満ちた「率直さ」も印象に残りました。この姿そのものが、苦悩する民衆に「同苦する心」を、端的に表していると思います。
 日蓮の願いは、法華経の真理に人々の目を開かせ、苦しみを抜き、法華経への強い「信心」を確立させることでした。御書を読むと、法華経の思想を全ての人と分かち合いたいとの日蓮の執念が迫ってきます。
 また、国主諫暁の書である「立正安国論」を拝すると、日蓮の「勇気の心」とその並々ならぬ「大願」がよく分かります。身命に及ぶ危険をものともせず、為政者や他宗の高僧たちに向かって、自らの信念を戸惑うことなく訴え抜き、法華経を根本とした「南無妙法蓮華経の題目」を唱えることが、亡国から救う道であると説いたのです。
 こうした熱烈な気迫あふれる人柄の半面、私は、日蓮の温かい「人間らしさ」にも深い感銘を受けました。特に「三沢抄」を拝読すると、大変によく分かります。
 「何があろうとも、どうして私があなた方を見捨てるようなことがあるだろうか。決して、決して、あなた方をおろそかにすることはない」(御書1489ページ、通解)
 フランス語版「御書」に寄せた序文でも、私は、この部分を引用し、日蓮を理解する上で大切な一節であると訴えました。

 

〈日蓮大聖人御聖誕800年 記念インタビュー〉 フランス語版「御書」総合監修者 デニス・ジラ博士(1面から続く)2021年5月8日

日蓮仏法に輝く世界宗教の普遍性
慈悲と希望の哲学で社会を照らす
現代の危機を打ち破り 世界を結ぶ創価の青年
フランス・パリ郊外にあるシャルトレット創価仏教センター。気品漂う“歴史と伝統の城”として、市民からも愛される
フランス・パリ郊外にあるシャルトレット創価仏教センター。気品漂う“歴史と伝統の城”として、市民からも愛される
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 ――本年は、日蓮大聖人の御聖誕から数えで800年です。日蓮仏法の哲学を現代に紹介する意義について、どうお考えですか。
  
 先ほど申し上げた日蓮の人物像――率直さや同苦する心、大願を貫く強さ、そして弟子への温かな慈愛と励ましは、800年の時を超えて永遠であり、色あせることはありません。当時、直接の励ましを送った弟子たちにも、また今日、御書を通じて日蓮の精神に触れる皆さんにも、日蓮は、師匠と同じ道を歩むよう呼び掛けています。
 一方で、世界的な感染症や気候変動などの危機に直面する現代において、その実践の方途は異なることにも留意しなくてはなりません。日蓮の教えに忠実であろうとすることとは、時代に即した方途をもって答えを見いだそうとする皆さん方の、努力の中にこそ見いだされなければならないと考えます。弟子の姿勢次第であるということです。
 では、今も変わらずに、人々の心を覆う恐れを見抜き、人々を解放することはできるでしょうか。一人一人が、信仰を大事にする気持ちを持ち続けることができるでしょうか。そして、日蓮のように断固として、法華経に説かれる真理を究めようとの、深き決意に立つことは可能でしょうか。
 私は、全ての問いに対して、確信を持って「ウィ!(然り!)」と答えます。なぜならば、私は昨年9月27日の「世界青年部総会」を視聴し、創価の青年たちの深き誓願と、世界を結ぶ団結と連帯を目の当たりにしたからです。それは現代を覆う恐れを見事に打ち破り、涌現した青年群像でした。私はその証言者の一人となったのです。
 800年前、日蓮が、このような世界の青年の連帯の姿を、果たして想像しえたでしょうか。しかし、日蓮なくしては、この集いは現代に涌出しえなかったのも事実です。

神学者として

 ――博士はカトリックの神学者でもあり、仏教の専門家でもあられます。日蓮仏法の教義や大聖人の御生涯は、博士の信仰や生き方にどのような影響を与えたのでしょうか。
  
 あらゆる仏教を学んできたので、その中から日蓮仏法だけを取り出して、私のキリスト教信仰への影響を特定することは容易ではありませんが、あえて一つだけ申し上げるのであれば、「信」「行」「学」の密接な結びつきです。
 神学者の中には学ぶことだけを重視する人がいて、「祈ることは必要ない」などと説く人もいます。一方で、実践や祈りが、学ぶことよりも重要だと考える人もいます。その上で「信じること」は、全ての神学者が重要と考えています。
 こうした状況であるからこそ、「諸法実相抄」の内容に、強い関心を抱きました。「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)との一節です。
 私たちキリスト教徒と創価学会の皆さんとでは、「学」の中身は同じではありません。また、「行」の内容も、その信仰の「対境」も異なっています。
 しかし、それらの違いを超えて、私たちの信心が「内なる心の力」から起こるという、その「経験」は同じです。だからこそ、「行学は信心よりをこるべく候」と、「行」と「学」の実践の一致を、「信」を根源のエネルギーとして位置付け、浮かび上がらせてくれた日蓮に、私は心から感謝しているのです。

相手を敬う対話

 ――宗教が世界的に発展を遂げるための要因は、何であるとお考えですか。キリスト教の歴史を踏まえて教えてください。
  
 私の考えでは、宗教は誕生の段階から、普遍的であるか、そうでないかのどちらかです。この「普遍性」は、必ずしも、世界各地に存在しているという事実に依拠するものではありません。全ての人に語り掛ける「言葉」を、持っているかどうかによるのです。
 キリスト教は、キリストから託されたメッセージを長い時間をかけて伝え続けました。ちなみに、カトリックは「普遍」を意味する言葉でもあります。
 エキュメニズム(キリスト教の諸教会一致運動)でも、運動の第1段階としての「対話」が、異なる教会の間で取り組まれていきました。博愛の対話なくしては、キリスト教徒の言葉は「一貫性」を失ってしまうからです。こうした挑戦を通じて、「普遍」という言葉は、その本来の意味を取り戻していきました。
 一方、釈尊の「転法輪」(教えを転じ伝える)という言葉は、仏教が最初から「普遍宗教」であったことを雄弁に物語っています。普遍宗教だからこそ、世界宗教になったのです。
 転法輪の精神は、日蓮仏法に継承され、192カ国・地域に広がる創価学会の連帯によって顕現されています。創価学会は、世界各地にメンバーがいるから普遍的なのではありません。普遍的なメッセージを持つがゆえに、これほど多くの国にメンバーが誕生したというのが真実でしょう。
 世界宗教がその普遍性を表現し、機能させるために大切なのが対話です。カトリック教会は第2バチカン公会議(1962~65年)の折に、この対話の重要性を強く自覚しました。
 創価学会も、これからさらに、宗教間対話を重要視されると確信しています。
 その点、池田SGI会長がフランス語版「御書」の序文でつづられた言葉に、私は感銘を受けました。
 「この対話と相互錬磨の道をどこまでも歩み続けて、人類の宗教がそれぞれの固有の価値を発揮しつつ、『人間のための宗教』として結びつき、世界平和実現への最大の力となっていくことを、私は念願している一人である」
  
 ――対話に臨む上で、心掛けるべき点は何ですか。
  
 どのような宗教・宗派を信じている人でも、あるいは無信仰の人であっても、心掛けるべき「内面的な態度」があります。
 第一に、他者への「好奇心」「関心」です。
 第二に、相手のことをすでに理解しているといった慢心を退ける「謙虚さ」です。自分のことすらも十分に分かっているとは考えず、ましてや他人については、知るべき多くのことがあると受け入れるのです。
 そして第三に、信仰に対する他者の真摯な取り組みを、たたえることのできる「広い心」です。
 これらに加えて、信仰者は、自分が畏敬の念をもって大切にしているものがあるように、他者にも大切にしているものがあるという心構えで、宗教間対話に取り組むべきだと考えます。
 キリスト教徒がもつ畏敬の念とは、“人間は、神が創り給うた存在である”ということへの確信を持つことに通じます。この点に、全ての人間の尊厳が基礎づけられているからです。
 私たちは宗教間対話の中で、こうした発見をすることが可能です。信仰の異なる他者こそが、自身の信仰の真の意味に目覚め、感謝を深める機会を与えてくれるのです。

コロナ禍に応戦

 ――コロナ禍という地球規模の危機に立ち向かう一人一人に、日蓮仏法の哲学は、どのような価値をもたらすでしょうか。
  
 パンデミック(世界的大流行)は、人の生命のはかなさを浮き彫りにし、総力戦で応戦しなければ、抜け出すことはできないという緊急性を自覚させました。
 それにもかかわらず、その緊急性を認めることを拒否し、協調性を欠く行動を取り続ける人たちが世界中にいます。私は、この「現実の否認」もまた、人類の深い苦悩と不満の反映であると考えます。
 こうした苦悩を前に、日蓮仏法は重要な役割を果たしうるでしょう。具体的な行為を促すだけでなく、人々の「連帯の心」「他者を思いやる想像力と真摯さ」を涵養し、また、そうした行動の基盤となる「慈悲」の思いを育むからです。
 日蓮仏法は、地球規模の危機にある社会を照らす、希望の哲学であると思います。その希望とは、「SGI憲章」に端的に示されています。「SGIは生命尊厳の仏法を基調に、全人類の平和・文化・教育に貢献する」と。
 創価学会の皆さんが、この一文を具現化する行動の連帯を、さらに広げていかれるよう期待しています。

 デニス・ジラ パリ・カトリック大学「宗教科学神学研究所」元副所長。フランスの著名な神学者であり、仏教の専門家。2011年に発刊されたフランス語版「御書」の総合監修者。

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