〈誓いをつなぐ〉 大阪・常勝大阪総県2021年5月21日
- 「今」を勝て 師弟の旗を掲げて
大関西が誉れとする「常勝」の名を冠した総県――それが常勝大阪総県(笹森総県長、浅井女性部長)だ。広布の舞台は、大阪市北東部の2区と隣接する2市。常勝守口県、門真王者県、旭総区、鶴見総区から成る。
同総県の友が心に刻むのは1979年(昭和54年)4月24日。池田先生が第3代会長を辞任した日である。第1次宗門事件の嵐がすさび、師弟を離間させようとする悪侶や反逆者らの謀略が渦巻いていた。
この夜、急きょ、大阪本部長会が守口門真文化会館(現・守口文化会館)で開かれた。“なんで、先生が辞めんとあかんのや!”――悔しさと苦しさの中で、関西の同志は誓った。
“たとえ会長を辞められようと、関西の私たちにとって、師匠は永遠に池田先生だ!”
会長辞任のその日に、どこよりも先生と苦楽を共にしてきた関西は、巌窟王のごとく、反転攻勢の闘争を開始した。「4・24」は今、「常勝大阪・師弟誓願の日」として刻まれている。
「あの4月24日のことは忘れられません。ただただ、池田先生に付いていくぞという思いだけでした」
そう語る岡林幹男さん(総県副総合長)は当時、門真で男子部の本部長。紛動された退転者も出る中、同志と励まし合い、必死に広布を前に進めた。
3カ月後の同年7月、守口と一緒だった組織が「門真圏」として出発。12月に圏の総会が決定する。
しかし、池田先生は大勢が集まる会合で指導することを制限され、聖教新聞にも、指導や動向がほとんど報じられない。
岡林さんらは必死に祈る中、“自分たちから先生にぶつかるしかない”と思い至る。同志の決意を記したアルバムを学会本部に届けることに決めた。地域の農家にお願いし、男子部の有志で門真名産のレンコンを収穫。12月、アルバムとともに携え、男子部の代表7人で東京へ向かった。
学会本部に集うと、先生から思わぬ伝言が届いた。
「聖教本社で会おう」
先生は聖教新聞本社(当時)で、「よく来たね!」と、一人一人、力強い握手を交わしたのである。
この出来事は門真全体に喜びの波動となり、「先生と共に!」の関西魂を点火した。直後に関西戸田記念講堂で開かれた圏総会は、3200人の友が集まる、驚くほどの盛会となった。
池田先生の励ましは、これだけで終わらなかった。
翌80年(同55年)3月9日、門真の同志600人余が学会本部に集った。全員が折伏を完遂していた。
勤行会の途中、先生が会場に現れた。「門真の皆さんがいらっしゃると聞いたので」。ピアノで3曲を演奏。全員で万歳を叫んだ。この日が永遠に輝く「門真の日」となった。
岡林さんらが、あのレンコンを収穫した畑の上には今、門真文化会館が立つ。
岡林さんは言う。
「師匠を求める心と行動があれば、どんな困難も打ち破っていけます。これからも生涯、師弟共戦で進みます!」
「守口の日」の淵源は、81年(同56年)9月20日に行われた守口圏の家族祭。この日、池田先生は「守口の尊くして、大切な方々が、ついに自分は、勝てりという凱歌の人生を飾ることを請い希って、御祝いの言葉とさせて頂きます」と万感のメッセージを贈った。
限りない師の励ましを胸に、広布と人生の坂を越えてきた守口の同志。田坪己代子さん(守口本陣圏副女性部長)もその一人だ。
61年(同36年)11月に母と入会。地道に歩み続けてきた広布の道に、子や孫たちも続いていることが何よりの喜びだ。
孫の安蔵香菜さんは今、圏女子部長を務めている。
19歳で白蓮グループに。悩みに親身に耳を傾けてくれる先輩に囲まれ、陰の会員奉仕に徹する任務の中で、学会の強さは先生と同志の絆にあることを学んだ。祖父母や両親が信心に励む理由の一端を知ることができた。以来、仏法対話にも率先。入会を決意する友人も現れてきた。
大学を卒業後、念願だったアパレル関係の会社に就職。多忙を極め、思うように学会活動ができないことに悩んだが、女子部の先輩と共に“活動ができる部署に”と祈りを合わせる中、希望した部署への異動を勝ち取る。社のSDGsを推進する業務も兼任し、職場で信頼を集める。
「祈った通りの結果に、信心の確信を深めることができました」
何があっても題目根本に、今度は自分が人を励ます存在にと、報恩感謝の思いで激励に奔走している。
大阪には、どこを訪ねても池田先生との歴史があり、ドラマがある。
56年(同31年)の“大阪の戦い”で先生が訪問した家は、8000軒といわれる。友の励みになるならと書をしたため、寸暇を割いてハガキにペンを走らせた。祈って動いて書いて話して、友の心に勇気の炎を燃やし、広布の錦州城の礎を築いていった。
先生は当時、旭総区の友にも、「大勝」「勇戦」と揮毫して贈った。
83年(同58年)3月、それを関西の宝として大切に保管していた友が、“池田先生のもとにお返ししたい”と、来阪中の先生に届けた。先生は再び筆を執り、新たに「大勝」「勇戦」と大書し贈呈。「勇戦」が記された同18日は「旭総区の日」である。
「勇戦」ありてこそ「大勝」あり――これが、総区全体の合言葉となった。
81年(同56年)3月17日に先生は、鶴見区を訪問。喫茶店で友と懇談した後、近くの「板原会館」で行われていた鶴見本部女子部の勤行会に足を運んだ。
「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」と呼び掛け、居合わせた友と勤行。この日が後に「鶴見総区の日」となった。
――門真にも守口にも旭にも鶴見にも、あの地この地に、語り尽くせぬ先生との原点が輝く。師弟の祈りと行動に徹した時、どんな困難も勝ち越える無限の力が湧き上がる。それを、常勝大阪の同志は命に刻んでいる。
常勝とは何か――。かつて先生は関西の友に呼び掛けた。それは「断固として『今を勝つ』ことだ。『今日を勝つ』ことだ」と。
「常勝」の名に懸けて、いかなる逆風にも、師弟の旗を掲げ、完勝の突破口を切り開く! 常勝大阪の揺るがぬ決意である。
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