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小説「新・人間革命」に学ぶ 名場面編 第18巻  2020年4月8日

2020年04月08日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 名場面編 第18巻  2020年4月8日

  • 連載〈世界広布の大道〉

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第18巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。
  

 イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
配達員への感謝忘れず
配達員への感謝わすれず

 <山本伸一は、1972年(昭和47年)秋から、執務の中心を聖教新聞社に移し、記者をはじめ、職員一人一人の育成に当たる。その成長に大きな期待を寄せ、さまざまな激励を重ねていった>

 山本伸一は、新聞配達をする少年のブロンズ像を聖教新聞社に贈った。
 高さ約一メートル三十センチの、新聞を携えて走る少年の像である。これは、第二回「第三文明展」に「無冠の友」のタイトルで出品された著名な彫刻家・小金丸幾久の作品である。伸一は、この像を、なぜ聖教新聞社に贈ったか、職員に語った。
 「新聞を本当に陰で支えてくださっている力は配達員の方々だ。
 大雨の日はずぶ濡れになり、吹雪の日は寒さに凍えながら、来る日も来る日も、朝早く新聞を配ってくださる。その方々の健気な日々のご努力があるからこそ、聖教新聞が成り立っている。
 私は、その方たちを最大に讃えたい。そのせめてもの思いとして、この像を聖教新聞社に設置したいんです」
 伸一の話を聞いた記者たちは、ハッとした。いつの間にか、新聞が配達されて当然のような感覚になっていたのだ。その心を見透かしたように、伸一は言った。
 「特に記者の諸君は、“陰の力”である配達員の方々への感謝を、絶対に忘れてはならない。
 一般紙の世界では、記者は原稿を書くだけで、購読の推進や配達については無関心であるというのが実情かもしれない。しかし、聖教新聞の記者は、そうであってはならない。原稿を書き、自ら率先して購読推進にあたり、読者の声に耳を傾け、配達員さんを最高に尊敬していくんです。それは、新聞界の改革にもなる」
 この新聞少年の像は、伸一によって「広布使者の像」と名づけられ、聖教本社前の庭に設置が決まった。
 そして、この年(1973年=編集部注)の十二月二十九日、業務総局の職員や配達員、販売店の子弟の代表らと共に、除幕式を行ったのである。
 業務総局の職員には、始業時間より、一時間以上も前に出勤し、配達員や販売店主の無事故を真剣に祈っているメンバーが数多くいた。伸一は、その姿をじっと見ていたのである。(「師子吼」の章、89~90ページ)
  


  

恩を感じ、恩に報いる
 

 <73年(同48年)11月、山本伸一は栃木県幹部総会に、尋常小学校時代の恩師である檜山浩平先生を招待。再会を果たした>

 檜山は、目を細めながら語った。
 「……ご立派になられて。大変なご活躍、嬉しく、誇りに思っておりますよ。先生の本は読ませてもらっています。トインビー博士とも対談をされたんですね」
 伸一は、敬愛する恩師に「先生」と言われ、いたく恐縮して答えた。
 「はい。人類の未来のために、真剣に語り合いました。檜山先生が、私のことを、そこまで知ってくださっていることに感動しました。
 教え子をいつまでも思い、大切にしてくださる先生の優しさに、心打たれます」(中略)
 伸一は、最後に、檜山に言った。
 「檜山先生、本日は、本当にありがとうございました。今日の私があるのも、先生のお陰でございます。
 先生の教え子として、誇りをもって、社会のために尽くし抜いてまいります。先生のご恩は決して忘れません」
 そして、深々と、丁重に頭を下げた。
 檜山は、成長した教え子の姿に、感無量の面持ちで、笑みを浮かべて語った。
 「どうか、体を壊さないように頑張ってください。もっとも、こう言っても、休む暇もないようですが……」
 どこまでも教え子を思いやる檜山の心が、伸一の胸に熱く染みた。
 伸一は、「檜山先生」だけでなく、自分が教わった教師全員に、強い感謝の念をいだき、深い恩義を感じていた。
 いや教師に限らず、自分がこれまでに関わったすべての人に、同じ思いをいだいていた。
 それは、仏法者としての、彼の信念によるものであった。
 仏法の基本には、「縁起」という思想がある。それは「縁りて起こる」ということであり、一切の現象は、さまざまな原因と条件が相互に関連し合って生ずるという意味である。
 つまり、いかなる物事も、たった一つだけで成り立つことはなく、すべては互いに依存し合い、影響し合って成立することを、仏法では説いているのである。
 (「師恩」の章、190~196ページ)
  

 

美しい菊に輝く真心
 

 <73年11月、山本伸一は愛媛へ。地元の同志は、聖教新聞の購読推進に挑むとともに、松山会館を菊の鉢植えで飾り、伸一を迎えた>
 
 販売店主らと話し合って、配達員のメンバーが菊作りを始めたのは、新聞の購読推進に本格的に着手した、五月のことであった。
 菊を育てた経験のある人など、ほとんどいなかった。しかし、美事な大輪の菊で山本会長を迎えようと、水をやり、題目を送り、丹精込めて育てていった。
 なかには、途中で虫がつき、また新たに、苗から育て始めなければならない人もいた。しかし、それでも、決してあきらめなかった。
 メンバーの一念に育まれ、菊は日ごとに伸び、花をつけ始めた。“無冠の友”は菊の成長を励みにし、また、その成長に負けまいと、新聞の購読推進に走った。
 皆、力の限り戦った。菊の花も美事に咲いた。菊は“無冠の友”の大勝利の象徴となった。
 戦い抜いた人には、歓喜がある。生命の躍動があり、充実がある。
 全員が「私の育てた菊を見てください」とばかりに、喜々として、鉢植えを会館に運んだ。
 菊には、それぞれ名前がつけられていた。「開道の花」「仲良しの花」「題目菊」……。
 花の美しさにも増して、皆の真心は、さらに美しく、まぶしかった。
 白、黄、赤、紫……。
 伸一は、一つ一つの菊花を、丹念に鑑賞していった。
 彼は、見えにくい二列目、三列目にあった菊花を指差して言った。
 「いい名前をつけているね」
 そこには「共戦の菊」「広布の菊」と書かれていた。その二つの菊は、花の完成度としては高いものではなかった。(中略)
 伸一は、不揃いの花びらのなかに、菊作りに挑戦した同志の、健気な真心を見ていたのである。
 「みんな、苦労して育ててくれたんだね……。心の花です。勝利の花です。尊い真心が胸に迫ってきます」
 (「前進」の章、207~208ページ)
  


  

どこまでも友の幸せ願う
 

 <74年(同49年)1月、山本伸一は青年部総会に出席。登壇した女子部長の吉川美香子は、幸福を他に求めがちな、若い女性たちの傾向性や悩みについて掘り下げていった>

 能動的な自己をつくり、心を大きく、強くすることが、「人間革命」なのだ。女子部長の吉川美香子は、そのための信仰であることを強く訴えた。
 さらに、真の友を求めながら自らが傷つくことを恐れ、深い関わりを避ける生き方の背後には、根深い人間不信があることを指摘していった。
 「人の尊さも、自分の可能性や強さも信じることができなければ、人間はどうしても臆病になり、閉鎖的になります。
 しかし、仏法では、すべての人が輝かしい個性をもち、その胸中に“仏”の生命があると説きます。この法理のもとに、互いに信じ合い、助け合い、励まし合う、この世で最も美しい宝石のごとき、若き女性の連帯をつくりあげてきたのが、わが女子部であります。(中略)
 友を思う真心は、自ずから仏法対話となっていきます。いわば折伏は、友情の帰結であり、また、それによってさらに強い友情が育まれていきます。不信と猜疑の渦巻く現代社会を蘇生させゆくものは、確たる信条をもった、春風のごとき人間生命の交流です。(中略)
 私たち女子部は、『友の幸せのために、私はいかなる苦労も惜しまない。いな、それこそ私の最高の喜びである』と胸を張って、折伏・弘教の実践に邁進していこうではありませんか!」(中略)
 女子部時代に折伏に挑戦することは、仏法者として、自分の生き方の芯をつくり上げ、福運を積むうえで、極めて重要なことといえよう。
 折伏は、すぐには実らないかもしれない。しかし、仏法を語り、下種をし、末永く友情を育んでいくならば、いつか、その人も信心に目覚める日が来るものだ。決して結果を焦る必要はない。大事なことは、友の幸福を願う心だ。仏法を語る勇気だ。勇気が慈悲にかわるのである。
 また、壮年、婦人は、広宣流布の未来のために青年を大切にし、徹底して応援し、その育成に全力を注がねばならない。
 (「飛躍」の章、308~310ページ)

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