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第5回「大阪の戦い〈上〉

2021年05月28日 | 妙法

第5回「大阪の戦い〈上〉」 厚い壁を「信心の利剣」で破れ2021年5月28日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【先生が実践した「広布の方程式」】
一、強盛な祈り
一、御書根本
一、一対一の対話
1960年5月3日、関西総支部は18支部の陣容に発展。同月8日、第3代会長に就任したばかりの池田大作先生が支部旗を授与した(関西総支部幹部会で)
1960年5月3日、関西総支部は18支部の陣容に発展。同月8日、第3代会長に就任したばかりの池田大作先生が支部旗を授与した(関西総支部幹部会で)
今度の戦いは勝った!

 1956年(昭和31年)5月、大阪支部は1カ月で1万1111世帯の弘教という不滅の金字塔を打ち立てた。「一が五つ重なっているから、いつでも一番や」――意気軒高な大阪の同志はそう語り合った。
 その2カ月後、今度は大阪地方区の参院選で、「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた勝利を飾る。池田大作先生が指揮を執ったこの「大阪の戦い」には、幾つもの「広布の方程式」が刻まれている。
 55年(同30年)10月、戸田城聖先生は、池田先生に大阪派遣を命じた。恩師の生涯の願業である75万世帯の達成には、関西に広布の一大拠点を建設することが急務だった。
 池田先生は「勝ち戦にせねばならぬ、運命の一戦」(『若き日の日記』、1955年10月14日)と記した。「大阪の戦い」は、広布の命運を決する一戦だった。
 戦いはまず、「深い祈り」から始まった。この時、池田先生は青年部の室長であり、学会の渉外部長であり、文京支部の支部長代理でもあった。仕事では営業部長を務めていた。一瞬の油断もできない緊張が続く。
 ある日、戸田先生は池田先生に語った。
 「人生は悩まねばならぬ。悩んで初めて信心もわかるんだよ。それで偉大な人になるんだ」。弟子の苦悩を師は知り抜いていた。
 御義口伝に「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(御書790ページ)とある。悩みに悩んでこそ、仏の生命(無作の三身)を奮い起こすことができる。池田先生は、“運命の一戦”の勝利のため祈り抜いた。その年の大みそかから翌56年の元日にかけて、吐き気にも襲われている。御書を“身で読む”毎日だった。
 年が明けた1月2日、祈りを重ねる中、脳裏に「法華経とは将軍学なり」と浮かんだ。「勝利の鉄則」を見いだした瞬間だった。
 4日の夕刻、旧関西本部を訪れた先生は、館内を一巡。その後、仏間へ向かい、幹部と共に勤行し、烈々と宣言した。
 「今度の関西の戦いは勝った!」
 「大阪の戦い」の本格的な出発は、先生の「勝利宣言」から始まった。そして翌5日の地区部長会では、こう訴えた。「全員の祈りがそろって、御本尊に向かった時、不可能を可能にする道が、豁然と開けるのは当然です

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)10月31日から】
美名にかくれた言語でなく、
全魂を傾け、全霊を尽くして、
初めて、
仏天の加護を願うことだ。
旧関西本部の建物。池田先生は、ここを拠点に「大阪の戦い」の指揮を執った
旧関西本部の建物。池田先生は、ここを拠点に「大阪の戦い」の指揮を執った
御書を拝する境涯

 二点目は「御書根本」である。
 池田先生は「大阪の戦い」で、朝の勤行を終えると、東京からの派遣幹部や関西のリーダーに御書講義を行った。
 「その朝、その朝、その原動力ともいうべき、時々刻々の焦点を、御書を通して明確にしたのである」
 この早朝の御書講義で、幾度となく拝した御文が「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(御書1192ページ)の一節である。短期決戦で勝利を収める「最高の団結」「最高の勇気」は、浅薄な知恵を働かせた策や方法ではなく、どこまでも信心から生まれることを訴えた。
 また、リーダーたちの一念がぶれている時には、「軍には大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵臆病なり」(同1219ページ)を通して奮起を促した。
 関西の同志が今も深く心に刻んでいる御聖訓が、「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり」(同1132ページ)である。
 先生は、「不可能を可能にする」との確信、一念こそが仏法者の姿勢であることを強調した。御書根本の励ましは、関西の一人一人の心に勇気の炎となって、燎原の火のごとく広がった。先生は述べている。
 「同じ御文であっても、拝する境涯や一念の作用によって深さが変わる。御書根本に戦おう! そう決めて、学び抜く人には、無限の力が涌現するのだ」
 三点目は、「一対一の対話」である。
 「手っ取り早い近道などありえない。遠回りに見えようが、地道な一対一の『対話』しかない。一回一回に魂を注いだ『個人指導』しかなかった」
 半年間の「大阪の戦い」で、先生の訪問・激励は8000人に及んだ。毎日、40人以上に励ましを送ったことになる。しかも、先生は毎日、大阪にいたわけではない。どう動くのか。一人に会い、一人を励ますために智慧を尽くした。

【「若き日の日記」1955年(昭和30年)11月11日から】
未完成の自分を、
自分らしく、
真面目に反省し、猛省して、
生涯生きたいと思う。
“常勝太鼓”を打つ池田先生(2000年12月、関西文化会館で)。同月の関西代表幹部会・女性総会の席上、常勝関西への万感の思いを和歌に託している――「大関西 断固と築けり 常勝の 大城 輝き 三世に不滅と」
“常勝太鼓”を打つ池田先生(2000年12月、関西文化会館で)。同月の関西代表幹部会・女性総会の席上、常勝関西への万感の思いを和歌に託している――「大関西 断固と築けり 常勝の 大城 輝き 三世に不滅と」
「まだ、時間がある」

 時に数分しか滞在できない場所もあった。しかし、わずかの時間でも、池田先生は目の前の「一人」に対し、真剣勝負で臨んだ。
 「行く先々で『まだ、時間がある』『まだ、励ませる』と動くうち、日に二十五、六会場を回ったこともある。全身に汗は流れ、声は嗄れ、足は棒のようになった」
 座談会場にも次々と足を運んだ。「こんばんは! お元気でっか」と、ユーモアたっぷりに、関西弁で会場に入ることも。その場で、20人前後の友人が入会を決めた座談会もあった。先生の姿を通して、関西の友は「リーダー率先」から広布の勢いが生まれることを学んだ。
 先生は「一対一の励まし」において、「聞く」ことの大切さを語っている。「よく話を聞いてあげ、今の悩み深い境涯から、信心によって必ず脱出できることを、真心込めて懇切に話してあげてください」。「大阪の戦い」とは、一面から言えば、同志の苦悩に徹底して寄り添う戦いでもあったのである。
 経済的な苦境に立たされ、涙ながらに悩みを語る婦人の話を、先生はじっと聞き、包み込むように言葉を掛けた。「一緒に祈りましょう。勇気を出して信行学の仏道修行をやりきるのです」
 試練に直面する同志、なかなか広布の陣列に加われない友――先生は、一人として置き去りにせず、励ましを送り続けた。
 その激闘は、時に池田先生の体をさいなみ、発熱することがあった。関西の友が、“お体が壊れてしまうのではないか”と心配するほどだった。
 しかし、先生は同志の前に立つと、何事もなかったかのように、再び全精魂を注いで、激励に次ぐ激励を重ねた。ある時、関西の婦人が、“池田先生の力は、どこから湧いてくるのでしょうか”と質問した。
 先生は答えた。“私はみんなと同じだよ。同じ御本尊を拝んでいるんだから”。そして、こう続けた。
 “もし、違うところがあるとすれば、それは責任感と使命感だよ”

六段円塔が完成する瞬間、金波銀波のスタンドに真っ赤な「関西魂」の人文字が(池田先生撮影。1982年3月、第1回「関西青年平和文化祭」で)
六段円塔が完成する瞬間、金波銀波のスタンドに真っ赤な「関西魂」の人文字が(池田先生撮影。1982年3月、第1回「関西青年平和文化祭」で
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