第3回「第1部隊長」 私は誰よりも青年部を愛する2021年3月27日
- 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
池田先生が第1部隊長の任を受けたのは、1953年(昭和28年)1月2日、25歳の誕生日のことだった。「会長(戸田城聖先生)より、第一部隊長に就任の発表あり」「健男子として、何ものにも恐れず、青年を率いて起とう」――その日の日記には、ほとばしる青年の決意がとどめられている。
4日後の就任式。戸田先生は、若き池田先生に部隊旗を託した。第1部隊の“勝利のドラマ”が本格的に始動した瞬間だった。
就任時、第1部隊のメンバーは、東京の墨田、江東、江戸川を中心に点在していた。部隊は六つの班で構成され、337人が所属。戸田先生は男子部に対し、年末までに「部隊千人」の目標を示した。それは、第1部隊にとって3倍の拡大を意味していた。
1月27日、墨田区の男子部員宅で開催された第1部隊の最初の班長会。ここで池田先生は、班を10に増やし、10人の班長を「部隊十傑」と名付ける。さらに各班で10人の分隊長を登用して「部隊百傑」とし、各分隊で10人の精鋭をそろえることを目標に掲げた。
理論を現実のものとする要諦こそ、目の前の一人を立たせることだった。
「大きい数字などに浮き足立つ必要は何もない。一人また一人と、新たな青年を大切に糾合していくのだ! その先に、必ず勝利があることを確信し、一致団結して、出陣した」
東京の大田区に住んでいた池田先生は、墨田区内の会員宅で自転車を借りては、一軒一軒、メンバーと共に家庭訪問に回った。会合に参加できなかった同志のもとへは、会合終わりに足を運んだ。
「人を動かすのではない。まず自分が動くのだ!」
「御書に『二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし』(1360ページ)と仰せである。地涌の人材は、必ず現れる。見つけ出し、育てることだ」
一人を大切にすることから広布の伸展は始まる――この不変の方程式を、先生は第1部隊の戦いで示したのである。
第1部隊の、ある分隊長宅の電話が鳴った。受話器の向こうで、池田先生の声が響く。「元気ですか」「何かあったら何でも相談してください」。先生は一人一人の状況をよく知り、電話でも激励した。
第1部隊長に就いた年の4月から文京支部長代理も兼任。「昼は社に勤務しながら、夜は学会の青年部の中核として活動しつつ、大阪、仙台など地方にも本格的な行動を開始したのである」
多忙な中、第1部隊のリーダーたちに手紙も使って激励を続けた。1年余りで二十数通のはがきを受け取った班長もいた。
「疲れて、ペンを握ることさえ辛い夜もあった」――その時の心境をつづっている。「だが、必死に書いた激励の手紙ほど、同志は奮い立ってくれた。勝利は突然やってくるものではない。日々の、懸命な『小勝利』の積み重ねの上に『大勝利』があるのだ」
まだ学会活動の経験が浅いリーダーも多かった。池田先生は御書を一緒に研さんし、人材育成の方法など、信心の基本を一つ一つ丁寧に教えていった。前任の分隊長が引っ越し、活動者が少なかった隊があった。弱気になっていた後任の分隊長に、先生は語った。
「御書には『須弥山に近づく鳥は金色となる』(1536ページ)とある。あなたが須弥山になればいいのです。福運がつけば人は皆ついてきます。人は題目についてくるのです。御本尊に祈れば大勢の人に慕われるのです」
彼は、池田先生に言われた通り、翌日から真剣な唱題を重ねた。すると、やがてその組織の雰囲気は変わっていく。会合に来る人がどんどん増え始めた。先生は、広布の根幹は、どこまでも「リーダーの一念」と「祈り」にあることを示したのである。
池田第1部隊長の指揮のもと、第1部隊に人材拡大の大波が起こった。その陣列は、年末の総会で千人を超えた。総会に出席した戸田先生は、満面の笑みで喝采を送った。「じつに諸君の意気さかんなので、私も20代によみがえった。初代会長もおったなら、さぞ喜ばれたと思う」
「夜、部隊員、二、三人が、指導を受けに来る。可愛い。実に可愛い」(『若き日の日記』、1953年10月12日)。第1部隊長として指揮を執る池田先生の心は、同志への慈愛に満ちあふれていた。
東京・江戸川の小岩で行われた部隊会に約100人のメンバーが参加した日、日記にこうつづっている。「この百人を、千人に、万人にしてゆくことを、胸深く決意する。後輩を大事にしよう。後輩を、吾れより偉くせねばならぬ」(同、同年6月17日)
後輩を“自分以上の人材に”――青年に温かい励ましを送る学会の人材育成のルーツは、池田先生の実践そのものにあった。
1954年(同29年)4月11日、池田先生はつづった。「最後の第一部隊会。皆、別れるのが、淋しそう。良く戦ってくれた。感謝する。良くついて来てくれた。有難う」
この前月、26歳の池田先生は新たに、学会の企画・運営を担う青年部の室長に就任する。先生は以前から、青年が次代の広布の全責任を担うことを深く自覚し、“青年の成長”にも焦点を当てていた。
青年の成長のポイントは何か――。その一つの結論は、“自身の成長”だった。
「自分の成長は、青年部の成長である」(同、54年2月23日)、「勉強せねばならぬ。撓まず。向学心に燃えねばならぬ。青年らしく」(同、同年2月11日)
先生は、たとえ多忙であっても、求道の挑戦を止めなかった。「人間革命の舞台は、どこにあるのか? 『今ここ』である。目の前の課題に勇んで挑戦するなかに、常に青年の成長はある」と強調する。
青年室長時代、池田先生は、青年部へのあふれんばかりの思いをつづった。「学会青年部は、誰よりも私が一番愛している」「日本はおろか、世界の檜舞台で活躍させてあげねばならぬ」(同、同年6月9日)
時を経て、師匠の慈愛の眼差しは今、学会創立100周年の峰を登る青年一人一人に注がれている。
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