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「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈上〉

2021年06月02日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈上〉 基礎資料編2021年6月2日

  • 連載〈世界広布の大道〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第30巻<上>の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。

【物語の時期】1979年(昭和54年)2月16日~81年6月
「大山」の章

 1979年(昭和54年)2月16日、インドを発った山本伸一は香港に到着。東南アジア代表者懇談会や香港文化祭に出席し、20日に帰国する。
 3月上旬、一人の副会長の宗門に対する無責任な発言が格好の攻撃材料となり、責任追及の矛先が会長の伸一に向けられる。伸一は学会首脳との会議で、会員を守るために、一切の責任を負って総講頭を辞任し、さらに、世界広布の新しい流れを開くために会長の辞任を決断する。
 4月24日、県長会で伸一の会長辞任が発表される。引き続き行われた総務会で、伸一は名誉会長となり、十条潔が会長になることが決まる。会長を辞任した伸一は、宗門僧らの画策によって、会合で指導することも、その指導を機関紙に掲載することも禁じられた。
 5月3日、「七つの鐘」総仕上げ記念となる本部総会が、多数の宗門僧が出席し、重苦しい雰囲気のなかで行われた。終了後、伸一は、場外で待っていた婦人たちを励ます。さらに「大山」等と揮毫し、神奈川文化会館へ。5日、後継の弟子への思いを筆に込め、「正義」と認め、広宣流布の大道を進み抜くことを誓う。

「雌伏」の章

 名誉会長になった山本伸一は、同志への励ましに徹し、さらに、世界平和への流れを開くために、各国の大使や識者らとの語らいに努める。8月には、世界41カ国・3地域のSGIメンバーが来日。伸一は、SGI会長として、神奈川文化会館での国際親善友好の集いなどに出席し、メンバーを激励する。
 20日、長野研修道場を初訪問。伸一は宗門の圧力がかかるなか、家庭訪問、個人指導の流れを起こし、佐久や小諸にも足を延ばした。また、記念撮影を行うなど、知恵を絞り、全精魂を注いで仏子たる同志を励まし続ける。
 1980年(昭和55年)1月、四国の同志が、大型客船「さんふらわあ7」号をチャーターし、伸一が待つ神奈川文化会館へ。2月には、鹿児島県の奄美大島地域本部の女子部員たちが、東京・立川文化会館にいた伸一を訪ねてくる。師弟の魂の絆は、いかなる試練の烈風にも、決して断たれることはなかった。
 伸一は、魔の暗雲を突き破り、再び学会が、広布の師弟の道を驀進するために、「雌伏」の時を経て、遂に反転攻勢への決意を固める。

「雄飛」の章

 4月21日午後、山本伸一は、第5次訪中を果たす。29日、中国から九州の長崎に向かい、同志の輪の中へ。反転攻勢の助走を開始し、広布の空へ「雄飛」していく。30日には福岡に移り、5月3日を関西で迎える。さらに中部、静岡も訪問し、何度となく勤行会を行う。長崎到着以来、計15万人を超える同志の激励となった。7月には、聖教新聞紙上で「忘れ得ぬ同志」の連載を開始。8月には休載中の小説『人間革命』の連載を再開する。
 9月末、伸一は、北米指導に出発。ハワイ、サンフランシスコ、ワシントンDC、シカゴと、激励に奔走。10月17日、ロサンゼルスで「第1回SGI総会」に出席する。
 1981年(昭和56年)1月、北・中米指導に赴く。2月19日にはパナマ、26日にはメキシコを歴訪。さらに5月、ソ連、欧州、北米訪問へ。この頃、ソ連はアフガニスタン侵攻によって、国際的に厳しい状況にあった。伸一は、そんな時だからこそ、文化・教育交流に最大の力を注ごうと、チーホノフ首相との会見をはじめ、文化人と語らいを重ね、次の訪問地である欧州へ向かう。

「暁鐘」の章(前半)

 5月16日、山本伸一は、ソ連から西ドイツに到着。18日、フランクフルト会館でドイツ広布20周年の記念勤行会に臨み、同志を激励する。
 20日、伸一はブルガリアを初訪問。翌日、国立ソフィア大学から、名誉教育学・社会学博士の学術称号を贈られ、講演を行う。23日、「平和の旗」の集いに出席する。
 25日には、オーストリアに。20年前には、メンバーは誰もいなかったが、26日に開かれた信心懇談会で、オーストリア本部が結成される。
 イタリアに舞台を移した伸一は、フィレンツェで、イタリアの創価学会の目覚ましい発展を祝福しながら、その担い手である青年たちと懇談を重ねる。さらにミラノに移動し、6月3日、スカラ座のカルロ・マリア・バディーニ総裁を訪ねる。
 5日には、フランスのマルセイユへ。翌日、トレッツ市の欧州研修道場で、ヨーロッパ広布20周年を記念する夏季研修会などに出席。
 10日、パリに向かい、ここでも要人や識者と対話を重ねる一方、寸暇を惜しんでメンバーと語らい、地下鉄のホームや車中で口述を重ねて詩を作り、フランスの青年たちに贈る。

【第1次宗門事件と師弟の絆】
<四つの揮毫>

 1979年(昭和54年)5月3日、池田先生は筆を執り、「大山」「大桜」と揮毫する。「わが誓いと、弟子たちへの思いを、書として認めておきたかった」(116ページ)。同日夜には神奈川文化会館で「共戦」、そして5日には「正義」と認めた。

「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」(脇書)
「わが友よ 嵐に不動の信心たれと祈りつつ」(脇書)
「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」(脇書)
「わが友の功徳満開たれと祈りつつ」(脇書)
「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」(脇書)
「生涯にわたり われ広布を 不動の心にて 決意あり 真実の同志あるを 信じつつ 合掌」(脇書)
「われ一人正義の旗持つ也」(脇書)
「われ一人正義の旗持つ也」(脇書)
<われは立つ>

 「この同志と共に、この同志のために、われは立つ!」(236ページ)――師弟離間の工作が進む中、池田先生は自ら同志との絆を強めていった。

長野研修道場を初訪問し、同志と記念のカメラに(1979年8月26日)
長野研修道場を初訪問し、同志と記念のカメラに(1979年8月26日)
出港する愛媛の友を見送る(1980年5月20日、神奈川・横浜港で)
出港する愛媛の友を見送る(1980年5月20日、神奈川・横浜港で)
<反転攻勢へ>

 「さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」(266ページ)。1980年(昭和55年)春、反転攻勢の助走が始まる。池田先生は、長崎から開始した激励行で15万人を超える友を励ました。

長崎駅まで見送りに来た同志と語らう(1980年4月30日)
長崎駅まで見送りに来た同志と語らう(1980年4月30日)
駆け付けたメンバーを励ます(1980年5月1日、九州文化会館〈当時〉で)
駆け付けたメンバーを励ます(1980年5月1日、九州文化会館〈当時〉で)
関西文化会館での女子部部長会に出席し、激励(1980年5月5日)
関西文化会館での女子部部長会に出席し、激励(1980年5月5日)
ピアノを弾き、皆に勇気を送る(1980年5月11日、岐阜文化会館〈当時〉で)
ピアノを弾き、皆に勇気を送る(1980年5月11日、岐阜文化会館〈当時〉で)
【第5次訪中】1980年4月21日~29日
中国・北京大学で講演(1980年4月22日)        
中国・北京大学で講演(1980年4月22日)  
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