解説では激賞されながら、ぼくにはおもしろくない映画がつづいた。次に「果てなき路」について述べてみる。2010年のアメリカ映画、プログラム解説には『ー「断絶」のモンテ・ヘルマン21年ぶりの新作。伝説の映画監督と呼ぶにふさわしい堂々の復帰凱旋作品で、傑作という呼び名も色あせて見える現代アメリカ映画の最高峰。なんとこの宮崎映画祭が九州唯一の上映!-』とあった。これほどの監督が何故21年も新作を製作しなったのか、モンテ・ヘルマンとは聞いたこともない監督であるが、興味を引かれて調べてみると、ハリウッド映画の娯楽性には、背を向けた映画表現を試行する監督である。さして筋もなければ、ドラマもなく、ひたすら暗示的なイメージが核となり、観衆はそれによって現実を知ることが可能になる。いわゆるニューシネマと称される映画を志した監督である。この監督を知っている人はかなりの映画好き、また通であると思える。映画で考える習慣をもたぬぼくには、監督ばかりか、俳優も、どの映画にどんな役で出演したかに関心もないし、またその点は知らないし記憶にものこらない。通人とは、映画の見方はかなり異なろう。評価を論じるには、基本的情報がないのかもしれない。しかし、ぼくは、おもしろくないかを問題とする限り、この映画についても語らざるをえない、そんな思いをだまっているわけにはいかないのである。
ぼくはこの映画をみて、なにがなにやら初めから終わりまでわからなかったのである。なせわからないのか、ノースカロライナで起きた飛行機墜落事故を映画で再現するという主人公の映画製作の動機もつかめない。なぜ、その映画制作が、傑作になると前評判があるのか、もちろん理解できない。この製作のためのヒロインを探し求め、どこがヒロインたる資質があるのか、それがわからない。たぶん、南米風のエキゾチックな表情が要素ではあるようだ。かれは、この女性と恋に落ちていく。監督と女優の恋など、それがどうしたというしかぼくにはうけとれないのだ。監督は女性に恋したのか、映画のヒロインに恋したのか、どちらとも受け取れる。かくして、よく分らぬ事件と、この事件の映画化にともなう進行が、ダブって、シーンが、現実なのか、映画制作なのか、現実としても今か、過去の事件なのかと、重なり合ってわからない。女優と監督の恋の進展が重要なのか、事件の解明はどうなるのか、現実世界は、現実と虚がかさなり、過去と現在が錯綜して、見るぼくの位置がきめられない。サスペンスは、だから、ぼくにはかんじられない。現実感がないものにサスペンスがあろうはずがないのだ。ないがなんだかわからない迷路のような「果てなき路」がつづくのである。
こんな映画は、もしかしたらDVDで、前後を確かめながら見るならば、わからないというところがわかるのかもしれない。しかし、そうしたとして、わかったことになんの意味をみいだせるのであろうか。事件とはなにか。ヒロインとはなにか、監督の意図はなんであったのか。これらが、迷路のなかでつかめたとしても、それは、今を日本で生きているぼくには、おそらくなんの示唆も与えぬだろうと思う。なぜなら、こんな複雑な手続きをしなければならぬほど、社会はややこしいものではなくなってきているからである。3.11以後、もやもやしていた日本の現実は、実に明確な姿を見せてきだした。それは単純で明晰な構造をあらわしだした。それは、原発に依存しないエネルギー社会の実現であり、格差の克服を可能にする経済社会への革新であり、グローバリゼーションを可能にする世界の連帯である。それなしにライフラインは保障されない。そのための考える個人の出現であり、その連帯による政治機能の快復であろう。目標はきわめて明確に示されだした。そんな文化状況で、こんなややこしい表現に立ち寄りしている必要は無いといえるのだ。この意識が、ぼくをして、「果てしない路」をちっともお、おもしろい内容にかんじさせなかったのである。
つまりかんたんに言えば、今を生きる意識と、はなれてしまっているということである。
ぼくはこの映画をみて、なにがなにやら初めから終わりまでわからなかったのである。なせわからないのか、ノースカロライナで起きた飛行機墜落事故を映画で再現するという主人公の映画製作の動機もつかめない。なぜ、その映画制作が、傑作になると前評判があるのか、もちろん理解できない。この製作のためのヒロインを探し求め、どこがヒロインたる資質があるのか、それがわからない。たぶん、南米風のエキゾチックな表情が要素ではあるようだ。かれは、この女性と恋に落ちていく。監督と女優の恋など、それがどうしたというしかぼくにはうけとれないのだ。監督は女性に恋したのか、映画のヒロインに恋したのか、どちらとも受け取れる。かくして、よく分らぬ事件と、この事件の映画化にともなう進行が、ダブって、シーンが、現実なのか、映画制作なのか、現実としても今か、過去の事件なのかと、重なり合ってわからない。女優と監督の恋の進展が重要なのか、事件の解明はどうなるのか、現実世界は、現実と虚がかさなり、過去と現在が錯綜して、見るぼくの位置がきめられない。サスペンスは、だから、ぼくにはかんじられない。現実感がないものにサスペンスがあろうはずがないのだ。ないがなんだかわからない迷路のような「果てなき路」がつづくのである。
こんな映画は、もしかしたらDVDで、前後を確かめながら見るならば、わからないというところがわかるのかもしれない。しかし、そうしたとして、わかったことになんの意味をみいだせるのであろうか。事件とはなにか。ヒロインとはなにか、監督の意図はなんであったのか。これらが、迷路のなかでつかめたとしても、それは、今を日本で生きているぼくには、おそらくなんの示唆も与えぬだろうと思う。なぜなら、こんな複雑な手続きをしなければならぬほど、社会はややこしいものではなくなってきているからである。3.11以後、もやもやしていた日本の現実は、実に明確な姿を見せてきだした。それは単純で明晰な構造をあらわしだした。それは、原発に依存しないエネルギー社会の実現であり、格差の克服を可能にする経済社会への革新であり、グローバリゼーションを可能にする世界の連帯である。それなしにライフラインは保障されない。そのための考える個人の出現であり、その連帯による政治機能の快復であろう。目標はきわめて明確に示されだした。そんな文化状況で、こんなややこしい表現に立ち寄りしている必要は無いといえるのだ。この意識が、ぼくをして、「果てしない路」をちっともお、おもしろい内容にかんじさせなかったのである。
つまりかんたんに言えば、今を生きる意識と、はなれてしまっているということである。
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