MUSIC MAGAZINE 8月号にスカーレット ヨハンセンが音楽CDをリリースしたとして、5ページほどの紹介記事を掲載していた。他の一誌にも全身のポートレイと写真を載せた紹介記事があった。彼女はよほどハリウッド女優として有名になっていたのだなと驚いた。さらにショックだったのは、今はセックスシンボルとして注目をあつめる女優ということであった。
どうかんがえても、彼女とセックス・シンボルが結びつかないのだ。だんだん思いをめぐらしていくうちに、セクシャルというイメージが、アメリカでは日本とは根本から違うのだということに気づかされている。
宮崎映画祭で、彼女の「野良猫の日記」が上映されたのは、1996年、彼女は12歳のときであった。妊娠を隠して、妹を連れて面白くない家を家出、万引き、窃盗で放浪しながら、看護師を誘拐、無事出産を果たすという強烈な10代の少女を演じた。独立自尊、目端の利いた行動力と強烈な少女を演じていた。どこか、彼女自身の性格をも反映しているようにも感じられた。
今回の上映作品ウッディ アレン監督の「タロットカード殺人事件」のヒロインにも彼女の世間離れしたキャラクターを感じるのであった。
どうも彼女にとってはセクシャルというのは、肉体であるまえに、キャラクターであり、その知性で、男たちを開放することであるようだ。その容姿はブロンドのグラマーであるが、フィットネスで鍛えられた体でなく自然にふっくらした姿態である。だからずんぐりむっくり野暮ったい普段着とパーティのおしゃれとの落差が面白い。庶民とセレブが同居し、どちらも彼女である。そんなことはどうでもいいような自然派的な意識があるのだ。いはば、DIYライフスタイルである。
そのキャラクターは、自己を恃む、機敏な知性を感じさせるのだ。歌手として歌った曲がトムウエイツのカバーというのも、並の23歳の女性ではなさそうだ。ジム ジャーミっシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」で主演した俳優・歌手の曲のどこに魅惑されたのだろうか。しぇがれ声の酔っ払ったようなあの60歳をまじかにしたウエイツに共感するとは、知性なしにはありえない。そういえば野良猫の日記のリサ・クルガー監督は、ジム・ジャームッシュの助監督を務めたこともある女性だった。
日本では、セクシャルともてはやされるのは、エロい乳房と尻だけでセクシュアルとして消費化された女優、タレント、テレビ女子アナたちであろうか。彼女らはと週刊紙の素材品とされている。その商品化にも気づかないほど知性がない。だからセクシュアルになれるのだ。だが、さすがにハリウッドでのセクシャル・シンボルとはもっと深い存在なわけだ。もちろん、ここも消費経済の商品化されるのであるが、スカーレット・ヨハンセンは、彼女らしい自然派、自分本位のライフスタイルを貫いていくだろう。このDIYの自分らしさと映画産業の女優としての自分とをどう平行させていくのか、これはきわめて興味を引かれだした。
自分自身であることの愉快さがある。そして、映画から感じられるのは、スカーレットはセックスをモーニングコーヒのように扱う。それはコーヒーであり、自分を縛るものではありえないという、反フロイドの性的存在を示して興味深い。演歌や、多くのJポップの女性歌手には望むべくも無い個性である。ここに開放感を覚える。
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